理系のゼミに比べると泊まり込みで作業をすることはほとんどないが、磐田ゼミの奥にも簡易的なミニキッチンが設置されている。IHのコンロなども一応あるが譲はこの二ヶ月一度も使ったことがない。小さな冷蔵庫に入っているのも食材というよりせいぜい茶請けの菓子ぐらいだ。冷蔵庫にあるものやコーヒーなどは基本磐田が補充していて、ゼミ生は自由に消費することが許されている。

 ペーパーフィルターの上にコーヒーの粉を三杯入れて、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。軽い振動音を響かせながらお湯が注がれ、蒸気と共にほろ苦い香りが広がる。

「磐田先生、戻ってこないですね」

 自分用と神崎用にコーヒーをカップに注いで、神崎のいるテーブルまで運ぶ。

「昔から何かに熱中し出したら時間を忘れる奴だからなぁ。松本先生と昔話でも始めちゃったんじゃないか?」

「ああ、磐田先生そういうところあります。研究とかでも没頭し始めたら周りが見えなくなるとか」

「そうだろ? ほんとそういうところは変わらないな」

 譲の返事に大げさに同意する神崎の言葉には磐田に対する負の感情は見られず、むしろ「しかたない奴だな」という愛情すら感じられた。

「高校時代の磐田先生ってどんな人だったんですか?」

 今の磐田を見る限り自分が同級生だったら絶対友だちになれないタイプだと思うが、こうしてなんだかんだ愛情を持っている神崎を見ていると高校時代の磐田に少し興味が湧いてきた。

「え? 高校時代? そうだな、今と変わらないと言えば変わらないな」

 突然の質問に神崎は少し驚いていたが当時を懐かしむように嬉しそうに答えた。

「見ての通りああいう気難しいやつだから、高校のころも友だちがいなくて教室の隅で本を読んでいるようなやつだったよ。俺が話しかけても迷惑そうにするんだ。まあ、それにめげずに話しかけた俺も偉かったと思うよ」

 しつこく話しかける神崎とそれを無視する磐田が思い浮かぶようだった。基本的に今の二人の関係と変わっていないようだ。

「クラスでほとんどしゃべらないくせに変に存在感だけはあったんだよな。そうそう週に一回の松本先生の授業のときだけは急に能弁になってまわりを驚かせてたな」

「松本先生?」

 譲が不思議そうに聞き返したのを「おいおい、聞いてなかったのかよ」と神崎が意外そうにつぶやく。

「あの松本先生だよ。ここの教授の」

「ええっ⁉」

「松本先生は若いころは高校で倫理の授業してたんだよ。俺らが教えてもらったのは一年だけで、その後、大学の先生になっちまったけど」

 完全に初耳だった。松本はずっと大学にこもって研究職をしていたものとばかり思っていたが、まさか教職の現場にいたとは知らなかった。そういえばあの磐田が松本に対してだけは礼儀正しくふるまう。それに松本の方も何かと磐田を気にかけているようだった。

「徹のやつ、松本先生の授業がえらく気に入ってそのまま哲学者にまでなっちまった。あの人がいなけりゃ今の徹はなかったと思うぜ。だから何だかんだいって恩義は感じてるし、松本先生のゼミ生のことだから力になりたいとも思ってるんじゃないかな」

 意外なつながりでまた磐田の三角形の成立条件の言葉を思い出した。恩義という言葉は磐田のイメージと全くつながらない。

「全くイメージ湧かないです」

 素直に神崎にそう伝えると神崎も笑っていた。

「それで普通だと思うよ。ただ思ってるほど悪い奴でもないってことだ……いい奴でもないんだけどな」

 二人して笑っているところに大きなくしゃみが聞こえた。タイミングよく扉を開けて磐田が入ってくる。二人で顔を見合わせてもう一度笑いあう。

「なんだ? 二人して。少しは有力な情報が集まったのか?」

「いやいや、その前に遅れてきたこと謝れよ……ほんと少し褒めて損したよ」

 ぶつぶつと神崎がつぶやく。別に先ほどの話も磐田を褒めるほどの内容ではなかった気がするが譲はそれを言葉にしない。だまってもう一度台所に行って、磐田の分のコーヒーを注いで磐田に差しだす。

 カップを受け取りながら磐田は譲の顔をまじまじと見た。

「俺のヒントも少しは役立ったみたいだな」

「……そうですね。南さんと荒川先輩、それから久保田先輩は直線上に集まってきました」

 できるだけ動揺が伝わらないよう平静を装って答えた。譲はときどき磐田のことが怖くなる。いったい自分のどこを見て磐田のヒントを解き明かしたと判断したのだろう。

 人の心を見て真実にたどり着くのが哲学者と磐田は言っていたが本当にそんなことができるのだろうか。

「ちょっと待て、まったく意味がわからないから二人でやりあってなくてちゃんと説明しろ!」

 二人のやり取りに神崎が待ったをかける。手帳を取り出し、それぞれが集めてきた情報を共有することになった。もう夕方の四時を回っている。今日中にできることも限られているし、ある程度有力な情報が出てこないと明日以降に神崎が警察を動かすことも難しくなる。

「さて誰から持ち駒を発表する? じゃんけんでもするか?」

 神崎が左手に手帳とペンを挟みながら、右手を突き出す。

「しょうもないことする暇があればお前から言え」

 磐田に冷たくあしらわれた神崎は「何だよ、つまんねえ奴」と譲の方を見て助け舟を求める。

「……俺もできれば警察の動きから教えてもらいたいです」

 珍しく磐田に同調した譲に神崎はがっくりと首を落とし「はいはい、わかりましたよ」とメモを書いた手帳を繰りはじめる。

「まず南の方だけど荒川の証言通りアルコールの反応は出てきた。少し時間は経過していたが当日飲酒していたことは間違いなさそうだ。それとやはり特に争った跡などは見つからなかった。ただ……」

「ただ?」

「男性の体液が検出されている」

 少しためらった神崎の言葉に譲もとまどう。これまで南の周辺からは男性の影は見られなかった。周囲による南の様子を聞いていなければそこまでの引っ掛かりを覚えなかったかもしれないが、これまでの情報から導き出される南の人物像とは大きな隔たりがある。

 譲の表情から自分と同じ引っ掛かりを感じていると読み取った神崎がさらに捜査状況を話す。

「当然、変だと思うよな? アルコール反応も出てきたから事故として処理して捜査を打ち切ろうという動きもあったんだけど、何とか南の当日の行動だけもう少し洗ってもらうことになった。南は免許を持っていないようだったので出かけていたのなら電車の可能性が高い。そこで大学前駅の防犯カメラから逆にたどっていった。するとばっちりビンゴ! 南の姿を確認できた」

 興奮気味に話していた神崎がここからは細かな時間もあるので手帳のメモを見ながら南の当日の行動について話を進める。

「南の遺体が発見されたのが二十三時四十五分、その一時間十五分ほど前の二十二時半に駅のカメラに南が写っていた。駅から女子寮まで徒歩で約二十分。つまり、まっすぐ女子寮に戻ったとすれば約一時間の時間があったことになる」

 磐田と譲がうなずいて話について来ているのを確認しながら神崎がさらに続ける。

「スマホの通信記録を見ると南が荒川と電話で話をしていたのは二十三時二十八分から三十四分の六分間。荒川と電話するまでの時間が空白の時間となる」

「荒川さんとの電話が途切れてから遺体発見までの時間もな。十分あれば犯行に及んで逃亡まで可能だ」

 磐田が神崎の説明に付け足す。ゼミ室に重苦しい空気が流れる。荒川が南を発見して警察に電話したのが四十五分なら、南の転落は三十四分からの間に確実にあったことになる。

「それについてはもう一つ新たな情報が入っている。女子寮の学生の証言でちょうどその時刻のころに現場近くを走り去っていく男を見たということだ。ただ部屋の窓からで暗かったので詳しいことはわかっていないが」

「男の特徴は?」

「……いや、暗くてそこまでは。それに時間も正確ではないのであくまで参考程度だ」

「荒川先輩は見てないですかね?」

 譲が神崎に尋ねた。

「もし本当にそのあたりの時刻に現場近くにいたのなら鉢合わせはしないまでも、不審な姿とか物音を聞いた可能性はあるんじゃないですか?」

「そうだな。あとでもう一度確認してみよう」

 譲の発言を神崎は少し考えてうなずいた。

「転落時刻の前後はそれとして駅のカメラからたどっていく話はどうなった?」

 時刻の整理をしていくうちに話が前後して、別の不審者の話にまでなってしまったので磐田が話を戻す。譲も不審者の話は気になったが荒川に確認しないことにはどうにもならないし、そもそも全く関係ない可能性もある。

「ああ、そっちの方も少し進展があった」

「そんな一、二時間で防犯カメラを調べられるものなんですか?」

 神崎が防犯カメラを調べると言い出したのはバラバラに活動した一時半以降のことだ。そこからたった数時間で南の行動を特定する警察の調査能力に改めて驚いた。

大学前から伸びている関西鉄道の駅だけに限っても、大阪方面、奈良方面それぞれかなりの数の駅がある。さらに休日の大阪中心部の駅になるととんでもない数の人であふれかえるだろう。そこから特定の南だけを探し出すのは途方もない作業に感じる。

「あたりをつけたのがうまくはまったということだな」

 磐田の言葉に神崎が無言でうなずく。譲は説明を求めるように磐田の方を見た。磐田はやれやれといった表情をしている。また「自分で考えたらどうなんだ?」と言われる気がしたので、磐田が口を開こうとした瞬間に手で制して「自分で考えます」と伝えた。

 先ほども考えた通りすべての駅を調べようとすると時間も人員も足りない。アルコールが検出されて事故との見方が強まったならなおさら人は割いてくれないだろう。だとするとローラー作戦のようなことは無理だ。あたりをつけるというなら可能性の高い駅から集中して調べるだろう。

 ならば可能性の高い駅とはどこだ? 譲は自問自答する。磐田も簡単に答えを言わずに譲の思考が追いつくのを待っている。

 南とつながっていたのが今までの捜査上に出てきていない全くの無関係の男であれば簡単に推測はできないはずだ。そう考えるとおのずと答えは限られてくる。

「……久保田先輩」

 だとしたら話はややこしくなる。安岡から得た情報が譲の脳裏に浮かんだ。

「ご名答!」

 譲のとまどいの表情に神崎は気づかない。

「今のところ南と関係のありそうなやつが久保田ぐらいだったので久保田の住んでいる場所の最寄り駅からあたってみた。もちろん一発目から見つかるとは思っていなかったけどな。柳瀬くんの懇親会の日に南と久保田が会う約束をしていた話も久保田をマークする決め手となった」

 こういった防犯カメラをつかった被害者の割り出しは相当時間がかかることなのだろう。最初の映像から当たりを引いた満足感からか神崎はいつも以上に雄弁に語る。だが、その言葉以上に南と久保田のつながりが譲の心に重くのしかかった。

「久保田の最寄りの鷹安駅に南が現れたのが二十二時五分、そこから普通電車で大学前に戻ったとするとさっきの時刻と一致する」

「鷹安駅周辺はうちの学生も下宿している数が多いエリアだ。必ずしも久保田くんが関係あるとは限らないぞ」

「わかっている。それでもやみくもに探すよりはよっぽど可能性が高いだろ? どちらにしろ久保田は重要参考人だ」

 あらゆる可能性という意味で釘は差したが、磐田も完全に久保田に話を聞く必要がないと思っているわけではない。

「つーことで俺の持ってる情報はだいたい披露したわけだけど、徹の見解を聞きたいな。お前はいったいどこまで掴んでいるんだ?」

 譲も磐田を注目する。思い返せば屋上での現場検証のあたりから何かしらの手がかりをつかんでいるようだった。磐田は腕を組んで難しい顔をしている。

 実は譲の頭の中にも二つのシナリオが浮かんでいた。譲が聞いてきた情報と神崎の話を合わせるとある程度筋立てられたものだ。ただその二つともが譲の初めの想いから外れた救いのないものだった。特に譲の中で最初に浮かんだシナリオは譲にとって、哲倫ゼミにとって最悪なものだ。できれば磐田の口からそれを否定するような言葉が出てきてほしいと願う。

「前も言っただろ? 仮説の段階で人に伝えるつもりはない。それより柳瀬くんはどうだった? 倉内ゼミの面々から何か有力な情報は聞けたのか?」

 予想はしていたが磐田の口からは何も出てこない。だが、考えようによっては何らかの仮説はあるということだ。譲の持っている情報で岩田の仮説も証明されるかもしれない。

「有力かどうかはわかりませんが倉内ゼミの全員と接触はできました」

「おっ、それはお手柄! あの時間で全員のところをまわったのか?」

「いえ、同学年の日高に電話したらちょうど全員で昼食に向かうところだったので、そこに混ぜてもらえたんです」

「なるほどね。それなら手間が省けていいな。確か南の仲良かった女の子と四回生もいたっけ?」

 神崎からすると一人ずつ事情聴取する手間が省けてありがたかった。もちろん荒川や久保田のような重要人物は自ら情報を得たいと思うが、ある程度中心から離れた者への聞きこみは効率を重視したい。

「ええ、三回生が日高晴太と斎藤さん、四回生の安岡先輩の三人が倉内ゼミです。倉内先生はその場にはいませんでしたが……」

「倉内教授は朝に散々話を聞いたから大丈夫だ。まあ、参考になりそうな話はなかったんだけど。俺が言うのも何だがさすが教授、ぺらぺらとよくしゃべるな」

 神崎も負けていないという言葉を飲み込んで譲は苦笑いをする。

「それでどんな話をしたんだ?」

「さっきの話とは矛盾しますが、齋藤さんたちの知る限り南さんにつきあっている男性はいなかったみたいです。それに斎藤さんが言うにはたぶん南さんは久保田先輩のことをあまりよく思っていなかったようです」

「本当か?」

「ええ、前に話した南さんと久保田先輩が言い争ってたって話を覚えていますか?」

 神崎はうなずく。南の事件前の特徴的な行動は当然頭の中に入っている。正確にはまだ事件と断定はされていないが。

「あのこともみんなに話したんです。そしたら普段から温厚な南さんが誰か、それも同じゼミの先輩と言い争うなんて信じられないって反応でした」

 譲はそこで一度言葉を止めて神崎と磐田の反応を見る。それまであまり興味がなさそうに聞いていた磐田の目に興味の色が浮かんだのがわかった。

「しばらくしてから斎藤さんが荒川先輩関連じゃないかって言いだしたんです。南さんにとって荒川先輩は絶対的な存在だって。もしかしたら荒川先輩と久保田先輩の間で先に何かもめごとがあって、それに対して南さんが抗議をしていたんじゃないか……それが斎藤さんの推理でした」

「なるほど……推理としてはなくはないかもな」

 神崎は隣の磐田の方に目を移す。磐田は特に表情を変えない。

「みんなと話しているときに思い出したんですけど俺、南さんが『先輩は今でも』って言葉を聞きました。その『先輩』ってのが荒川先輩じゃないかと思うんです」

「南が久保田に対して使ったのならその可能性が高い……か」

 南が部活などにも入っていなくて、普段関わる上級生が限定されていたことはすでに警察の調べでもわかっている。

「もう一ついいですか? 荒川先輩とつきあっていたのは久保田先輩です。直接は聞いていませんが安岡先輩の言葉と態度から推測できました」

「推測?」

「安岡先輩も荒川先輩のことが好きだったんです。安岡先輩は久保田先輩のことをあまりよく思っていなかったようです」

 あまりに一気に人間関係の相関図が増えたので神崎は驚く。ただこのあたりはしっかり聞きこまないとわからない情報だ。神崎は少し譲のことを見直した。横で岩田は涼しい顔をしているが、この学生がここまでできることを見越していたのだろうかと疑問に思う。

「ありがとう、柳瀬くん。君のおかげでずいぶんと捜査が進展しそうだよ。それにしても徹の言ってた三角形の話じゃないがかなり人間関係がこじれてきたな。徹はそこまで知っていたのか?」

「何を?」

「荒川と久保田がつきあっていることだよ。三角形の成立条件とかも本当は荒川の関係を知っていて言ったんだろ?」

 二人の関係を知ってから磐田の行動を思い返すと荒川自身に久保田に電話をさせた行動なども別の視点が見えてくる。残念ながら電話はつながらなかったが、もしつながっていたら会話の仕方で二人の関係やもし隠していることがあるなら不自然な点が出てきたかもしれない。

「学生の恋愛事情などいちいち教官が知るべきことじゃない」

 元から荒川と久保田の関係を知っていたという神崎の説を磐田は否定した。返す刀で神崎のことを馬鹿にする。

「それより違和感に気づかなかったというならお前の洞察力の問題だな」

「へ? 何のことだよ」

「柳瀬くんが南さんと久保田くんの言い合いの話をしたときだよ。あのときの荒川さんの表情を見ていなかったのか?」

 譲は荒川の表情よりその時の鋭い磐田の眼光を思い出した。

「あの話を聞いた時の荒川さんの表情には驚きと悲しみ、そして怒りがブレンドされたような表情をしていた。それで疑ったんだ。久保田くんとつきあっている、もしくは惚れているのではないかと。かわいい後輩にちょっかいをかけられてというだけでは怒りは説明できても、あの悲しそうな表情の説明にはならない」

 表情に多少の違和感があっても、そこからこれほど複雑な感情を読み取ることは普通無理だ。この磐田の説明が本当のことなのかどうかも譲にはわからなくなる。

「よりいろんな感情を引き出せるかもしれないと久保田くんに電話させたんだ。ただ彼女もこちらの意図に気づいたのか、ポーカーフェイスを装っていたがね。さすが松本先生の秘蔵っ子なかなかたいした人物だ。たぶん、彼女は久保田くんにも電話していない」

「‼ ……どういうことだ!」

 さらっと磐田はとんでもないことを言う。

「久保田くんにつながると、もしくはつながらなくても俺たちのいる間に折り返しがあるとまずいと思ったんだろうな。あのときのことを思い出してみろ、ずいぶんと久保田くんの番号を探すのに手間取っていたな? あれだけ時間があれば、その時間につながらない別の番号に発信することは可能だ」

 あのときのことを思い出すと確かに時間はかかっていた。だからといって本当にそんなことが可能なのだろうか? 譲は神崎と顏を見合わせる。

「でも、それを立証することはできるのか?」

「証拠で固めるのは警察の仕事だと言っただろ? ただあの時の荒川くんの指の動きを追っていたが普通に連絡先を探すにしては不審な点があった。それにもう一つ」

「もう一つ?」

「俺たちが訪れるより先に荒川さんが久保田くんに電話をしている可能性が高い」

「どういうことだ⁉」

 次から次へと磐田の言葉は神崎と譲を驚かせる。

「それが気になって松本先生にも確認した。久保田くんにも連絡がいっていると荒川さんが言っていたが誰がそれをしたのかと。よく考えてみろ、第一発見者は荒川さんだ。警察に連絡した後、松本先生だけじゃなく久保田くんにも連絡をすると考えられないか? 事実、事情聴取の時に松本先生は荒川さんと話しているがその中で『久保田くんに連絡は?』と聞いたときに『私からしておきます』と言ったそうだ」

「荒川が久保田に電話を入れていたとしたら履歴からすぐ折り返しができるはずということか。ますます荒川が怪しくなったな」

 神崎の言葉が譲の胸に突き刺さる。譲もそれが薄々わかっていたが、神崎は荒川を容疑者の線で捜査を進めていきたいようだ。第一発見者であり、その時間のアリバイもない荒川に容疑がかかることはおかしいことではない。ただ今まで荒川には動機が見つからなかった。

 それが、譲が聞きだしてきた話で潮目が変わった。まだ少し不可解な点もあるが一応のストーリーのようなものが譲にも描けている。そう考えると安岡の不自然さも合点がいく。

「さて、少し状況を整理しておこうか。まず四回生の三人。荒川と久保田は交際している、または交際していた。安岡は荒川に好意を持っている」

 神崎は立ち上がって、ゼミ室に備え付けられているホワイトボードに三人の名前を書いた。荒川と久保田のところにはイコール、安岡から荒川へは矢印が引かれている。

 さらに三人の名前の真ん中に南の名前が付け加えられる。南と荒川の間には矢印それぞれに対して引かれ「尊敬」と「目をかける」文字が加えられる。久保田とは一本線つながれ、「口論・関係を持った?」と書かれる。

 久保田と南の間の「関係を持った?」はあくまで推測だ。久保田から話を聞いてみないとわからないことだし、司法解剖と久保田の下宿先の最寄り駅に南がいたという情報からのものだ。

「南をめぐる周囲の重要人物の関係はこうだ。斎藤は情報をくれたけど今回の件にはあまり深くかかわっていなさそうなのであえて省いた。その上で荒川は警察に対していくつか情報を隠している可能性がある」

 神崎が荒川の名前の近くに「情報を隠す?」と記入した。ここまでは大丈夫かというように神崎が磐田と譲のそれぞれに視線を送る。譲はそれに静かにうなずいた。

「ここから俺の想像の話をしていいか? つってもたぶんお前らも思いつきそうな話だけど」

 神崎は磐田を見るが特に否定の言葉が出てこなかったのでそのまま話を続ける。

「荒川と久保田はつきあっていたがゼミの発表会の前に久保田の方から別れ話を切り出した。ショックを受けていた荒川を見て、自分の尊敬する荒川を傷つけた久保田を南が問い詰める。だが、久保田は改めて南と話し合いをもったときに南に真剣に交際を申し込む。そして、正式に南と久保田はつきあいだした。自分が目をかけてきた後輩に彼氏を奪われる形になった荒川は逆上して南を殺害した。動機としてはベタだけど矛盾はないんじゃないか?」

 大筋のストーリーは譲が考えていたことと大差はない。だからこそそのストーリーの不透明な個所も見えている。

「南さんが久保田先輩とつきあうようになったところだけが飛躍があるような気がしないですか? 斎藤さん曰く、南さんは久保田先輩を嫌っていたんですよ?」

「嫌ってまではいなかっただろ? むしろ荒川の彼氏と知っていたから気のないふりをしていただけかもしれないぞ。それを荒川と別れて向こうから言い寄ってきたからその気になったとか」

「だからって先輩が別れてすぐにOKしますかね? 僕だったらいったん保留して少し時間をとるけど」

「だったら他にどんな可能性があるんだよ?」

 他のストーリーも考えなかったわけではない。でも、こちらは荒川犯人説よりもさらに飛躍があるように譲は感じる。わかっていながらも可能性の一つとして提案だけはしてみる。

「たとえば久保田先輩が南さんを無理やり襲った。それを南さんが警察なりに訴えようとするのを恐れた久保田先輩が南さんを殺害した。現場から近くから立ち去った男の人というのが久保田先輩……どうでしょうか?」

 首をひねる神崎の姿を見るまでもなく、苦しい説だということは譲もわかっていた。

「ちょっと無理がありそうだな。だいたいそれならわざわざ女子寮の屋上から突き落とさなくても他の方法がありそうじゃないか?」

「……そうですよね。他の殺害方法の痕跡もないんですもんね」

「だいたいそれなら荒川が久保田への電話をごまかす必要がないだろ?」

「そこは久保田先輩への愛がまだ残っていて……」

 二人の会話を今までだまって聞いていた磐田が「……アイか」とぼそっとつぶやく。その横顔をどこか寂し気だった。

「何かわかったんですか?」

「いや、まだこれからだ。新たな視点に気づいただけだ。今まではベクトルで考えていたが、複素数の視点が必要なようだ」

 ぼそぼそと独り言のように磐田は話す。横で神崎は磐田から見えないように手を広げて首をかしげている。譲から見るとこれが磐田の平常運転だ。高校で一応、数Ⅱ・Bまではとったので辛うじてベクトルという言葉には覚えがある。残念ながら譲にはここからヒントになりそうなことは見つけられない。

「そろそろ徹の見解が聞きたいな。徹は荒川が犯人だと思っているのか?」

 神崎のストレートな問いかけに磐田は少し考え込む。神崎は完全に荒川が容疑者だと思っているらしい。譲は荒川が犯人でない理由を探していた。それはできれば荒川に犯人でいてほしくないという気持ちからだった。

「状況から考えると……」

「考えると?」

 もったいつけて磐田が間をあける。

「南さんは事故死したように思える」

「だからそれは誰かがそう偽装して……」

「そう、偽装した。何のために?」

「何のためって殺したのがばれないように以外にあるんですか?」

 譲には磐田の問いかけが堂々巡りのような気がする。同じような場所を行ったり来たり、複雑な迷宮の中に思考が迷い込んだようだ。磐田にはこの複雑な迷宮を照らす光が見えているのだろうか? 

「ばれないようにするためなら他の方法だってある。アリバイの偽装工作、殺害方法の工夫などなど。そもそも一番疑われる可能性の高い第一発見者になる必要などない」

「つまり荒川先輩は犯人じゃないってことですか?」

「それはまだわからない。そもそもこの事件に犯人なんてものがいるのかすらな」

「どういうことですか⁉」

 磐田は一人で納得したようにうなずくと急に立ち上がった。

「神崎、久保田くんのところに行く前に一度南さんの部屋を見られるか?」

「えっ? ああ、許可をとれば大丈夫だ。幸い相部屋じゃなかったから、そのままの状態で保全されている」

「それは好都合だ」

 神崎の言葉を聞き終えるや否やもう歩き始めている。慌ててその濃紺のジャケットの背中を追う。ゼミ室から出た廊下の窓から差し込む光はすでに夕方のものになっていた。女子寮に向かうということは荒川とまた遭遇することになるかもしれない。南の部屋に向かう足取りは一層重たいものに感じた。