「すみません、俺まで混ぜていただいて」
車を降りて中華料理屋に入るところで改めて安岡に礼を言う。
「いやいや、食堂が休みで僕らもちょうどお昼にいくところだったから。それにこないだは僕の方こそ迷惑かけちゃったみたいだしね」
安岡が言っているのは懇親会の時の話だろう。もともと酒に弱いのか疲れていたのか、安岡はそうそうに酔いつぶれてしまっていた。
昼のピークの時間が過ぎたからか店内は客もまばらだ。好きなところをつかっていいとのことなので奥のテーブルに四人で座った。
譲が日高に連絡を取ると倉内ゼミのメンバーで昼食を取るというタイミングだった。本来ならゼミの授業がある日だったのでみんな集まっていたが臨時休講になり、食堂の方もやっていなかったので、安岡の車でどこかに食べに行く話になっていた。
安岡も大学寮に住んでいたが中古の軽自動車を持っていた。少し買い物に出るにしても電車を使わないといけないこの大学では寮生でも自動車を所有しているものが多かった。幸い大学内に土地や駐車場はあり余っているので寮生が駐車場を使うことを大学側も認めていた。
突然の譲からの電話に日高は乗り気ではなかったが、南の死について磐田が警察に協力していて倉内ゼミのメンバーの話を聞きたい旨を伝えると、四回生の安岡に事情を話し承諾を得ることができた。
午後二時を回っていたのでさすがにお腹もすいた。店内に立ち込めるニンニクの匂いが食欲をそそる。決してきれいとは言えない店内だが、この「青龍」は学生御用達の中華料理屋だ。特にランチのセットは安いだけでなく、大盛無料のサービスが人気だ。基本は夫婦で経営している昔ながらの個人店になる。
座席は譲の隣に日高、向かいに安岡と斎藤が座った。メニュー表を見て安岡から順に注文していく。十五時までランチセットが受け付けてもらえるのがありがたい。譲と安岡はラーメンとミニ餃子、炒飯のついたランチセット、齋藤は冷やし中華、日高は単品でラーメンを注文した。
「晴太はラーメンだけで足りるのか?」
いつもなら一番大食いの日高を安岡が心配する。
「……さすがに今は食欲がそこまでないっす」
日高は視線をテーブルに落とす。いつもなら一番元気なムードメーカーがこれでは場の雰囲気も重たくなる。
「気持ちはわかるけどしっかり食べないと体に毒だよ」
「……それにしてもまさか朋子がなんて」
信じられないといった思いは譲も斎藤と同じだ。ただ譲の場合、現場を直接見ただけに無理やりその事実を突きつけられたような気がした。
「倉内先生も朝から事情聴取だなんだってばたばたしていたよ。倉内先生はどうやら事故のようだと言っていたけど、柳瀬くんは何か聞いているのかい?」
譲の方に三人の視線が集まる。どうやら南さんが亡くなったという一報以外の詳しい事実は聞いていないようだ。どこまで話していいものかと譲も悩む。
「お酒に酔っていて落としたスマホを拾おうと際に誤って転落したというのが警察の見解みたいですね」
「でも、それじゃあ何で私らの聞きこみまでやってるの? 疑ってるってこと?」
斎藤の疑問が出てくるのももっともだが、このあたりは変にいろんな噂が立つのもいけないと思い、譲はうまくオブラートして話す。
「いや、一応不審な点がないか確認したいみたいで。何でも担当の人が磐田先生の知りあいらしくて。でも、僕らの報告で片付けるくらいだからあくまで事故ってのが基本ラインみたいだな」
「……警察は本当に疑ってないんだな?」
安岡が譲に念を押す。
「ええ、齋藤さんが南さんと仲良かったみたいだから確認しといてくれって磐田先生に丸投げされちゃって」
譲の言葉に安岡は「……そうか」と言ってしばらく考えこんだ。
「南さんのことは本当に残念だけど事件性がなさそうなのはせめてもの救いだな。それにしても、君も大変な仕事を与えられたな」
安岡の言葉に譲は苦笑する。その横で日高は辛そうな表情で絞り出すようにつぶやいた。
「……事件性があろうとなかろうと、南さんが亡くなったことには変わりないっす」
「……晴太」
そこから場が重くなってみなが黙り込む。日高の発言は的を得ていた。どのような背景があったにしろ大切な仲間が亡くなったことには変わらない。しばらく無言の時間が続いたがそこに注文したラーメンたちが運ばれてきたのが沈黙を破るきっかけになった。
安岡が「とりあえず食べよう! 人は食べるために生きるのではないが、食べないことには元気もでない」と空元気をつくる。安岡の気づかいに呼応するように「そうすっね」「うん、食べよう」と皆が応じる。
荒川のようにいかにもお姉さんのようなリーダーシップではないが、安岡も暖かい湯たんぽのような包容力で後輩をまとめていた。四回生のいない磐田ゼミに所属する譲からすればこういった先輩のいる他のゼミの人間関係は羨ましかった。
「柳瀬くんもまだやることがあるんだからしっかり食べて栄養取らなきゃだめだよ」
安岡に勧められて譲も目の前のラーメンに箸をつける。豚骨ベースに焦がしニンニクを加えたスープが麺にからみあい、空きっ腹をダイレクトに刺激する。ラーメンの熱気が体中をめぐるようだった。腹が減っては、戦はできぬという言葉があるがそのとおりだと思った。
落ち込みかけた元気を補充するように舌鼓を打ちながらそれぞれ食事を堪能する。あれだけ落ち込んでいた日高も少し元気が出てきたように見えるから食べ物の力は不思議だ。食事の途中から少しずつ会話も戻ってきた。
「由香も同じように聞き込みしてるの?」
譲がレンゲにすくった炒飯を口に運んだところで斎藤が聞いてきた。慌てて口を手で押えながらモグモグした後に返事をする。
「いや、あいつは今日学校に来てないんだ。電話とラインも入れてみたけど既読すらつかなくて」
「ええっ⁉ 柳瀬くんも? 実は私も昨日の夜に送ったラインがまだ返ってきてなくて! 大丈夫だよね?」
「由香のことだからスマホをどっかに置いたまま爆睡してしまっているか、どっかに落としちゃたか」
斎藤も連絡がつかないとなると何かしらのトラブルがあった可能性もある。
「由香ならありえるね」
「うん、また後でもう一度連絡してみるよ。斎藤さんはわかるけど、由香も南さんと仲が良かったんだね」
「まあ、女子は学部に少ないからわりと一、二回のころからみんな仲良かったよ。もともとは私が由香と朋子と仲が良くて、三回になって哲倫ゼミになってから由香と朋子も仲良くなった感じ。朋子はわりと引っ込み思案なんだけど、由香は誰とでもすぐしゃべるでしょ?」
「あいつはそれだけが取り柄だからな」
まだそこまで仲良くないのにがつがつと話しかける由香の姿が想像できる。あの磐田とさえコミュニケーションをとれる由香の能力は相当なものだ。
「そうだね、でもそんな感じで仲良くなってからはたまに三人で女子会とかもしてたんだよ」
「そうだったのかよ! 俺も呼んでくれりゃよかったのに」
「晴太を読んだら女子会じゃなくなるでしょ!」
斎藤のツッコミに「そりゃそうか」と日高が笑う。その日高の様子を安岡が暖かく見守る。
「しゃあねえな、譲。ここは二人でさみしく野郎会だな」
「いやいや、晴太と二人はご遠慮させてもらうよ」
「しかたない、ここは先輩も混ぜてもらおう!」
安岡がその流れに乗ってくる。
「それなら、先輩の全部おごりっすよ!」
安岡が「それはないよー」と返すのをみんなで笑いあう。だいぶ場もほぐれてきたので譲はもう少し話を振ってみる。
「女子会ってどんな話をするの? 恋バナとか?」
変にセクハラ的にとられないか心配はしたが、南の人間関係をつかむことは大切だ。特に斎藤からは荒川も知らない南の一面を探れるかもしれない。踏み込み方には気を付ける必要はあるが、あくまで自然に話題を振るぐらいなら何とかなるだろう。
「そうねー、しないこともないけど。由香はあんなだし、朋子は控えめだしあんまりしなかったかな。哲倫女子なんて男っ気ないのよねー」
「ほのかが男っ気ないのは哲倫のせいじゃ……」
言いかけた日高のすねに斎藤の強烈なトゥーキックがさく裂した。日高は目に涙を浮かべ言葉をなくすが、斎藤は何事もなかったかのように話を続ける。
「朋子なんて二言目には荒川先輩が……だったもん。もしかしてそういう趣味があるのか疑ったぐらいだし」
「それじゃあ、南さんには彼氏とかいなかったんだ?」
「うん、だからそれを教えたらこの馬鹿が調子に乗って『朋ちゃんを狙う!』とか言い出して……」
「そうだったんだ」
まだ悶絶している日高に視線を移す。この前の懇親会の南を狙ってる発言にはちゃんと前段階があったということはわかった。ただやはり南には特定の親密な異性はいなかったということだ。
「柳瀬くんはどうなの? わりと男前だから浮いた話の一つや二つありそうだけど?」
「俺は全然だよ。いい人いたら紹介してほしいくらいだ」
「その時は僕も便乗させてもらうよ」
安岡もスープをすすりながら加わる。湯気で眼鏡が白く曇っている。
「先輩はだめですよー。荒川先輩のことが好きなくせにー」
「……⁉」
いたずらっぽく安岡を指さす斎藤に対して、慌てて安岡が「僕は別に……」と否定する。眼鏡が曇っていて表情はわからないが耳が真っ赤になっている。
「先輩、バレバレですよ。こないだの発表会の時だって荒川先輩のことばっかり見つめていたじゃないですか」
斎藤に便乗して日高もとどめを刺す。譲も思わずニヤニヤしながら見てしまう。安岡と荒川なら確かに相性ばっちりかもしれない。三人の妄想は膨らむばかりだったが、安岡が先に自らこれ以上つっこまれないように予防線を張る。
「……確かに荒川さんは素敵だなって思うけどちゃんと彼氏がいるから」
「ええっ⁉ そうなんですか!」
斎藤と日高の驚きようを見ると二人も初耳らしい。確かに荒川なら普通に彼氏がいてもなんらおかしいことではない。
「ああ、同期だしそりゃたまにプライベートなことを話すことだってあるよ」
「へえー、意外だなぁ。俺らが言えたことじゃないけど先輩らの代も三人とも個性的だから三人で仲良くしてるイメージあんまりなかったっす」
日高の言う通り譲も三人で飲んだり、ご飯に行ったりしているところは想像できなかった。まだ安岡と荒川だけならわかるが久保田はそもそも哲倫っぽくない。
「まあ、三人でってのはあんまりないかもな。久保田は哲倫以外にも顔が広いからあんまり僕らといることがなかったし、そもそも大学で見かけることも少ないしね」
「私、あの人ちょっと苦手。なんかチャラすぎるっていうか、女癖悪そう。朋子もたぶん好きじゃなかったと思う」
斎藤の言いように安岡は苦笑する。一応は同期としてフォローの言葉はかけるが、安岡自身が久保田のことをあまりよく思っていないことがうかがえた。久保田の話の流れで懇親会のときのできごとを思い出した日高がさらに言葉を重ねる。
「そういや久保田先輩、懇親会のときにも南さんにちょっかいかけてたな。話も大企業の内定でたって自分の自慢話ばっかりだったし」
「それにへらへら話合わせてたのはどこのどいつだよ」
肘で横にいる日高をつつくとバツが悪そうにペロッと舌を出す。久保田のことを言えないぐらい日高も十分調子がいいが、日高のつくったこの流れは南と久保田の関係について聞くチャンスだと譲は思った。
「……でも、実は俺も懇親会の日の最後にトイレの近くで久保田さんと南さんがもめているのを見たんだ。ちょうど話の終わりのとこだったし、南さんに聞いたら『大丈夫』って言ってたんで、内容はよくわからないんだけど」
話を聞いた三人は驚いた顔をする。どうやら初めて聞いた様子だ。
「朋子からそういう話は聞いたことないから、もめたとしたら最近のことかな? でも、朋子が人ともめるなんてあんまり考えられない」
斎藤はそこまで言って、思い出したように言葉をつなぐ。
「……もしあるとしたら荒川先輩関係かも! 朋子にとって荒川先輩って絶対的な存在だから、荒川先輩と久保田先輩に何かあってそれに朋子が怒ったとか」
それはありえるかもしれないと譲は思った。あのときの二人の会話を思い出そうとしてみる。そういえば「先輩は今でも」や「あいつのことは関係ない」などの発言があったような気もする。
「荒川先輩と久保田先輩がぶつかるようなことって何かありましたか?」
譲の質問に対して安岡はハンカチで曇った眼鏡をふきながら答える。
「……いや、心当たりはないな。いい加減な久保田に対して荒川さんが注意するようなことはあったが、それはまあ、お母さんが息子を注意するようなものだったし……ほら、荒川さんってまわりをほっとけない性格だから」
「そっかあ」
自分の予想が外れたと思ったのか残念そうに斎藤が言う。
「久保田は内定取れてから今まで以上に大学に寄り付かなくなったし、いろいろ遊びまわっていたからあんまり接点なかったんじゃないかな。まあ、ここにいない久保田の悪口を言っててもしょうがない。それより荒川さんが気落ちしてないか心配だよ。女子寮だし、当然警察の聞き込みもあっただろうし。柳瀬くんは荒川さんのところにも行ったの?」
「えっ、ああ、はい。行きました」
久保田についての話からいきなり矛先が変わってとまどう。安岡は変わらずにこやかな表情を浮かべている。
譲は荒川の部屋に行ったときの様子を話しながらも安岡の表情を注意深く観察した。さきほどの斎藤の話で譲の中で荒川、久保田、南が一つの線でつながった。もし荒川と久保田が何かしらトラブっていたとして安岡が知らないということはあるだろうか。
もちろん本当に安岡が何も知らないということもあり得るが、先ほどの不自然な話題の切り替えに譲はどこか違和感を覚えてしまった。それはお人好しで素直な性格の安岡ゆえに本人は隠そうとしたはずのその不自然さが目立ってしまった。
一度そういう目で見てしまうと安岡の一つ一つの言葉や表情が気になってしまう。人を疑ってかかるのは美徳ではないが、あらゆる事象に批判的考察を与えるのも哲学や倫理学だ。その後は何気ない会話を続けながらも注意深く安岡を観察するがそれ以上は有力な情報が出てこない。
食事の後、今日はもう家に帰るという日高と斎藤を駅で下ろして、譲は大学まで送ってもらった。腕時計を見ると三時二十分を指している。約束の時間まではもう少しあるが、寮の方に戻るという安岡としばらく連れ添ってゼミ室に向かって歩き始める。
「今日はありがとうございました。結局、ご飯までおごってもらっちゃって」
「いえいえ、磐田ゼミには四回生いないしね。哲倫ゼミの後輩って意味では日高くんや斎藤さんと同じだよ」
安岡のその言葉には裏表は感じられず、譲を一後輩としてかわいがってくれているのが伝わった。それだけに安岡に対して疑念を持っていることが心苦しい。
「それじゃあ、僕は寮の方だから。また何かわかったらさっき教えた番号にでも連絡してくれ」
軽く手を挙げて寮の入口の方へ向かいかけた安岡を「先輩!」と譲が呼び止める。安岡は立ち止まって少し考えるように間をおいて振り返った。
これはあくまで譲の推測でしかない。懇親会での南と久保田の会話、さきほどの中華料理屋での会話、安岡の態度、それらから導き出された一つの答えを当たり前のように口にする。カマをかけようという訳ではなかった。それはごくごく自然と譲の口から出てきた。
「……久保田先輩が荒川先輩の彼氏なんですね」
安岡は何も答えない。話し声一つ聞こえない午後の空間にゆるやかな空気の流れが感じられた。安岡は口の端だけをわずかに上げた。譲は深々と頭を下げた。やっぱりこの人は嘘をつけない人だと譲は思った。
譲の胸に磐田が残した二つの言葉がよみがえる。
直線上にない三つの点のからしか三角形は成立しない……この場合の三角形は南と荒川と久保田だろうか、それとも安岡と荒川と久保田だろうか。どちらを表すにしても一見深くつながるようには見えない組み合わせだ。
そしてもう一つの言葉。中学校のときに習った証明を思い出してみる。三角形の一つの辺に平行な線をその選んだ一つの辺の含まれていない三角形を構成する頂点を通るように引く。平行線の錯角を使って三角形の内角はその頂点の周りに集まってくる。最終的にできる角度は百八十度、つまり一直線上になる。
南と荒川の関係の延長線上に久保田も位置している。磐田は最初からそうにらんでいたのかもしれない。わざわざ荒川自身に久保田に電話させたのは荒川の反応を確かめるため、荒川と久保田がグルのケースも考えてのことだったのだろう。
もちろんこれは複数の可能性の一つだ。久保田と荒川が全く独立して動いている場合もあるし、安岡がどちらかとつながっている場合もある。磐田もきっとこのあたりは絞り切れていない。ただ磐田の反応を見る限りただの事故死として見ていないことは確かだ。
ゼミ室のある二号棟に向かって歩きながら譲は思考を整理していた。この数時間で見てきたこと、ゼミ発表会の日のこと。時刻は三時半をまわり、一日の中で最も暑い時間帯となる。駐車場からほんの少しの距離を歩いただけなのに額には汗が浮かぶ。
哲倫ゼミに入ってからこれだけ頭を動かしたことはあっただろうかと自問自答して苦笑した。順を追って話を聞いていっても答えはどこか霞のようにつかめない。そう言えば由香はどうなったんだろうかとスマホを見るが相変わらず既読もつかない。
ふいに由香と磐田がしていた虚数の話を思い出した。
便宜上設定するがこの世には存在しない虚数。譲にとって南朋子の事件は虚数のような存在だった。譲はあれほど批判的に見ていた磐田のようにいつの間にか数式になぞらえた思考をしていることに気づく。まわりには誰もいないが急に恥ずかしくなり、少し早歩きでゼミ室のある二号棟を目指した。
頭上から差し込む日差しは本格的な夏の始まりを予感させるものだった。
車を降りて中華料理屋に入るところで改めて安岡に礼を言う。
「いやいや、食堂が休みで僕らもちょうどお昼にいくところだったから。それにこないだは僕の方こそ迷惑かけちゃったみたいだしね」
安岡が言っているのは懇親会の時の話だろう。もともと酒に弱いのか疲れていたのか、安岡はそうそうに酔いつぶれてしまっていた。
昼のピークの時間が過ぎたからか店内は客もまばらだ。好きなところをつかっていいとのことなので奥のテーブルに四人で座った。
譲が日高に連絡を取ると倉内ゼミのメンバーで昼食を取るというタイミングだった。本来ならゼミの授業がある日だったのでみんな集まっていたが臨時休講になり、食堂の方もやっていなかったので、安岡の車でどこかに食べに行く話になっていた。
安岡も大学寮に住んでいたが中古の軽自動車を持っていた。少し買い物に出るにしても電車を使わないといけないこの大学では寮生でも自動車を所有しているものが多かった。幸い大学内に土地や駐車場はあり余っているので寮生が駐車場を使うことを大学側も認めていた。
突然の譲からの電話に日高は乗り気ではなかったが、南の死について磐田が警察に協力していて倉内ゼミのメンバーの話を聞きたい旨を伝えると、四回生の安岡に事情を話し承諾を得ることができた。
午後二時を回っていたのでさすがにお腹もすいた。店内に立ち込めるニンニクの匂いが食欲をそそる。決してきれいとは言えない店内だが、この「青龍」は学生御用達の中華料理屋だ。特にランチのセットは安いだけでなく、大盛無料のサービスが人気だ。基本は夫婦で経営している昔ながらの個人店になる。
座席は譲の隣に日高、向かいに安岡と斎藤が座った。メニュー表を見て安岡から順に注文していく。十五時までランチセットが受け付けてもらえるのがありがたい。譲と安岡はラーメンとミニ餃子、炒飯のついたランチセット、齋藤は冷やし中華、日高は単品でラーメンを注文した。
「晴太はラーメンだけで足りるのか?」
いつもなら一番大食いの日高を安岡が心配する。
「……さすがに今は食欲がそこまでないっす」
日高は視線をテーブルに落とす。いつもなら一番元気なムードメーカーがこれでは場の雰囲気も重たくなる。
「気持ちはわかるけどしっかり食べないと体に毒だよ」
「……それにしてもまさか朋子がなんて」
信じられないといった思いは譲も斎藤と同じだ。ただ譲の場合、現場を直接見ただけに無理やりその事実を突きつけられたような気がした。
「倉内先生も朝から事情聴取だなんだってばたばたしていたよ。倉内先生はどうやら事故のようだと言っていたけど、柳瀬くんは何か聞いているのかい?」
譲の方に三人の視線が集まる。どうやら南さんが亡くなったという一報以外の詳しい事実は聞いていないようだ。どこまで話していいものかと譲も悩む。
「お酒に酔っていて落としたスマホを拾おうと際に誤って転落したというのが警察の見解みたいですね」
「でも、それじゃあ何で私らの聞きこみまでやってるの? 疑ってるってこと?」
斎藤の疑問が出てくるのももっともだが、このあたりは変にいろんな噂が立つのもいけないと思い、譲はうまくオブラートして話す。
「いや、一応不審な点がないか確認したいみたいで。何でも担当の人が磐田先生の知りあいらしくて。でも、僕らの報告で片付けるくらいだからあくまで事故ってのが基本ラインみたいだな」
「……警察は本当に疑ってないんだな?」
安岡が譲に念を押す。
「ええ、齋藤さんが南さんと仲良かったみたいだから確認しといてくれって磐田先生に丸投げされちゃって」
譲の言葉に安岡は「……そうか」と言ってしばらく考えこんだ。
「南さんのことは本当に残念だけど事件性がなさそうなのはせめてもの救いだな。それにしても、君も大変な仕事を与えられたな」
安岡の言葉に譲は苦笑する。その横で日高は辛そうな表情で絞り出すようにつぶやいた。
「……事件性があろうとなかろうと、南さんが亡くなったことには変わりないっす」
「……晴太」
そこから場が重くなってみなが黙り込む。日高の発言は的を得ていた。どのような背景があったにしろ大切な仲間が亡くなったことには変わらない。しばらく無言の時間が続いたがそこに注文したラーメンたちが運ばれてきたのが沈黙を破るきっかけになった。
安岡が「とりあえず食べよう! 人は食べるために生きるのではないが、食べないことには元気もでない」と空元気をつくる。安岡の気づかいに呼応するように「そうすっね」「うん、食べよう」と皆が応じる。
荒川のようにいかにもお姉さんのようなリーダーシップではないが、安岡も暖かい湯たんぽのような包容力で後輩をまとめていた。四回生のいない磐田ゼミに所属する譲からすればこういった先輩のいる他のゼミの人間関係は羨ましかった。
「柳瀬くんもまだやることがあるんだからしっかり食べて栄養取らなきゃだめだよ」
安岡に勧められて譲も目の前のラーメンに箸をつける。豚骨ベースに焦がしニンニクを加えたスープが麺にからみあい、空きっ腹をダイレクトに刺激する。ラーメンの熱気が体中をめぐるようだった。腹が減っては、戦はできぬという言葉があるがそのとおりだと思った。
落ち込みかけた元気を補充するように舌鼓を打ちながらそれぞれ食事を堪能する。あれだけ落ち込んでいた日高も少し元気が出てきたように見えるから食べ物の力は不思議だ。食事の途中から少しずつ会話も戻ってきた。
「由香も同じように聞き込みしてるの?」
譲がレンゲにすくった炒飯を口に運んだところで斎藤が聞いてきた。慌てて口を手で押えながらモグモグした後に返事をする。
「いや、あいつは今日学校に来てないんだ。電話とラインも入れてみたけど既読すらつかなくて」
「ええっ⁉ 柳瀬くんも? 実は私も昨日の夜に送ったラインがまだ返ってきてなくて! 大丈夫だよね?」
「由香のことだからスマホをどっかに置いたまま爆睡してしまっているか、どっかに落としちゃたか」
斎藤も連絡がつかないとなると何かしらのトラブルがあった可能性もある。
「由香ならありえるね」
「うん、また後でもう一度連絡してみるよ。斎藤さんはわかるけど、由香も南さんと仲が良かったんだね」
「まあ、女子は学部に少ないからわりと一、二回のころからみんな仲良かったよ。もともとは私が由香と朋子と仲が良くて、三回になって哲倫ゼミになってから由香と朋子も仲良くなった感じ。朋子はわりと引っ込み思案なんだけど、由香は誰とでもすぐしゃべるでしょ?」
「あいつはそれだけが取り柄だからな」
まだそこまで仲良くないのにがつがつと話しかける由香の姿が想像できる。あの磐田とさえコミュニケーションをとれる由香の能力は相当なものだ。
「そうだね、でもそんな感じで仲良くなってからはたまに三人で女子会とかもしてたんだよ」
「そうだったのかよ! 俺も呼んでくれりゃよかったのに」
「晴太を読んだら女子会じゃなくなるでしょ!」
斎藤のツッコミに「そりゃそうか」と日高が笑う。その日高の様子を安岡が暖かく見守る。
「しゃあねえな、譲。ここは二人でさみしく野郎会だな」
「いやいや、晴太と二人はご遠慮させてもらうよ」
「しかたない、ここは先輩も混ぜてもらおう!」
安岡がその流れに乗ってくる。
「それなら、先輩の全部おごりっすよ!」
安岡が「それはないよー」と返すのをみんなで笑いあう。だいぶ場もほぐれてきたので譲はもう少し話を振ってみる。
「女子会ってどんな話をするの? 恋バナとか?」
変にセクハラ的にとられないか心配はしたが、南の人間関係をつかむことは大切だ。特に斎藤からは荒川も知らない南の一面を探れるかもしれない。踏み込み方には気を付ける必要はあるが、あくまで自然に話題を振るぐらいなら何とかなるだろう。
「そうねー、しないこともないけど。由香はあんなだし、朋子は控えめだしあんまりしなかったかな。哲倫女子なんて男っ気ないのよねー」
「ほのかが男っ気ないのは哲倫のせいじゃ……」
言いかけた日高のすねに斎藤の強烈なトゥーキックがさく裂した。日高は目に涙を浮かべ言葉をなくすが、斎藤は何事もなかったかのように話を続ける。
「朋子なんて二言目には荒川先輩が……だったもん。もしかしてそういう趣味があるのか疑ったぐらいだし」
「それじゃあ、南さんには彼氏とかいなかったんだ?」
「うん、だからそれを教えたらこの馬鹿が調子に乗って『朋ちゃんを狙う!』とか言い出して……」
「そうだったんだ」
まだ悶絶している日高に視線を移す。この前の懇親会の南を狙ってる発言にはちゃんと前段階があったということはわかった。ただやはり南には特定の親密な異性はいなかったということだ。
「柳瀬くんはどうなの? わりと男前だから浮いた話の一つや二つありそうだけど?」
「俺は全然だよ。いい人いたら紹介してほしいくらいだ」
「その時は僕も便乗させてもらうよ」
安岡もスープをすすりながら加わる。湯気で眼鏡が白く曇っている。
「先輩はだめですよー。荒川先輩のことが好きなくせにー」
「……⁉」
いたずらっぽく安岡を指さす斎藤に対して、慌てて安岡が「僕は別に……」と否定する。眼鏡が曇っていて表情はわからないが耳が真っ赤になっている。
「先輩、バレバレですよ。こないだの発表会の時だって荒川先輩のことばっかり見つめていたじゃないですか」
斎藤に便乗して日高もとどめを刺す。譲も思わずニヤニヤしながら見てしまう。安岡と荒川なら確かに相性ばっちりかもしれない。三人の妄想は膨らむばかりだったが、安岡が先に自らこれ以上つっこまれないように予防線を張る。
「……確かに荒川さんは素敵だなって思うけどちゃんと彼氏がいるから」
「ええっ⁉ そうなんですか!」
斎藤と日高の驚きようを見ると二人も初耳らしい。確かに荒川なら普通に彼氏がいてもなんらおかしいことではない。
「ああ、同期だしそりゃたまにプライベートなことを話すことだってあるよ」
「へえー、意外だなぁ。俺らが言えたことじゃないけど先輩らの代も三人とも個性的だから三人で仲良くしてるイメージあんまりなかったっす」
日高の言う通り譲も三人で飲んだり、ご飯に行ったりしているところは想像できなかった。まだ安岡と荒川だけならわかるが久保田はそもそも哲倫っぽくない。
「まあ、三人でってのはあんまりないかもな。久保田は哲倫以外にも顔が広いからあんまり僕らといることがなかったし、そもそも大学で見かけることも少ないしね」
「私、あの人ちょっと苦手。なんかチャラすぎるっていうか、女癖悪そう。朋子もたぶん好きじゃなかったと思う」
斎藤の言いように安岡は苦笑する。一応は同期としてフォローの言葉はかけるが、安岡自身が久保田のことをあまりよく思っていないことがうかがえた。久保田の話の流れで懇親会のときのできごとを思い出した日高がさらに言葉を重ねる。
「そういや久保田先輩、懇親会のときにも南さんにちょっかいかけてたな。話も大企業の内定でたって自分の自慢話ばっかりだったし」
「それにへらへら話合わせてたのはどこのどいつだよ」
肘で横にいる日高をつつくとバツが悪そうにペロッと舌を出す。久保田のことを言えないぐらい日高も十分調子がいいが、日高のつくったこの流れは南と久保田の関係について聞くチャンスだと譲は思った。
「……でも、実は俺も懇親会の日の最後にトイレの近くで久保田さんと南さんがもめているのを見たんだ。ちょうど話の終わりのとこだったし、南さんに聞いたら『大丈夫』って言ってたんで、内容はよくわからないんだけど」
話を聞いた三人は驚いた顔をする。どうやら初めて聞いた様子だ。
「朋子からそういう話は聞いたことないから、もめたとしたら最近のことかな? でも、朋子が人ともめるなんてあんまり考えられない」
斎藤はそこまで言って、思い出したように言葉をつなぐ。
「……もしあるとしたら荒川先輩関係かも! 朋子にとって荒川先輩って絶対的な存在だから、荒川先輩と久保田先輩に何かあってそれに朋子が怒ったとか」
それはありえるかもしれないと譲は思った。あのときの二人の会話を思い出そうとしてみる。そういえば「先輩は今でも」や「あいつのことは関係ない」などの発言があったような気もする。
「荒川先輩と久保田先輩がぶつかるようなことって何かありましたか?」
譲の質問に対して安岡はハンカチで曇った眼鏡をふきながら答える。
「……いや、心当たりはないな。いい加減な久保田に対して荒川さんが注意するようなことはあったが、それはまあ、お母さんが息子を注意するようなものだったし……ほら、荒川さんってまわりをほっとけない性格だから」
「そっかあ」
自分の予想が外れたと思ったのか残念そうに斎藤が言う。
「久保田は内定取れてから今まで以上に大学に寄り付かなくなったし、いろいろ遊びまわっていたからあんまり接点なかったんじゃないかな。まあ、ここにいない久保田の悪口を言っててもしょうがない。それより荒川さんが気落ちしてないか心配だよ。女子寮だし、当然警察の聞き込みもあっただろうし。柳瀬くんは荒川さんのところにも行ったの?」
「えっ、ああ、はい。行きました」
久保田についての話からいきなり矛先が変わってとまどう。安岡は変わらずにこやかな表情を浮かべている。
譲は荒川の部屋に行ったときの様子を話しながらも安岡の表情を注意深く観察した。さきほどの斎藤の話で譲の中で荒川、久保田、南が一つの線でつながった。もし荒川と久保田が何かしらトラブっていたとして安岡が知らないということはあるだろうか。
もちろん本当に安岡が何も知らないということもあり得るが、先ほどの不自然な話題の切り替えに譲はどこか違和感を覚えてしまった。それはお人好しで素直な性格の安岡ゆえに本人は隠そうとしたはずのその不自然さが目立ってしまった。
一度そういう目で見てしまうと安岡の一つ一つの言葉や表情が気になってしまう。人を疑ってかかるのは美徳ではないが、あらゆる事象に批判的考察を与えるのも哲学や倫理学だ。その後は何気ない会話を続けながらも注意深く安岡を観察するがそれ以上は有力な情報が出てこない。
食事の後、今日はもう家に帰るという日高と斎藤を駅で下ろして、譲は大学まで送ってもらった。腕時計を見ると三時二十分を指している。約束の時間まではもう少しあるが、寮の方に戻るという安岡としばらく連れ添ってゼミ室に向かって歩き始める。
「今日はありがとうございました。結局、ご飯までおごってもらっちゃって」
「いえいえ、磐田ゼミには四回生いないしね。哲倫ゼミの後輩って意味では日高くんや斎藤さんと同じだよ」
安岡のその言葉には裏表は感じられず、譲を一後輩としてかわいがってくれているのが伝わった。それだけに安岡に対して疑念を持っていることが心苦しい。
「それじゃあ、僕は寮の方だから。また何かわかったらさっき教えた番号にでも連絡してくれ」
軽く手を挙げて寮の入口の方へ向かいかけた安岡を「先輩!」と譲が呼び止める。安岡は立ち止まって少し考えるように間をおいて振り返った。
これはあくまで譲の推測でしかない。懇親会での南と久保田の会話、さきほどの中華料理屋での会話、安岡の態度、それらから導き出された一つの答えを当たり前のように口にする。カマをかけようという訳ではなかった。それはごくごく自然と譲の口から出てきた。
「……久保田先輩が荒川先輩の彼氏なんですね」
安岡は何も答えない。話し声一つ聞こえない午後の空間にゆるやかな空気の流れが感じられた。安岡は口の端だけをわずかに上げた。譲は深々と頭を下げた。やっぱりこの人は嘘をつけない人だと譲は思った。
譲の胸に磐田が残した二つの言葉がよみがえる。
直線上にない三つの点のからしか三角形は成立しない……この場合の三角形は南と荒川と久保田だろうか、それとも安岡と荒川と久保田だろうか。どちらを表すにしても一見深くつながるようには見えない組み合わせだ。
そしてもう一つの言葉。中学校のときに習った証明を思い出してみる。三角形の一つの辺に平行な線をその選んだ一つの辺の含まれていない三角形を構成する頂点を通るように引く。平行線の錯角を使って三角形の内角はその頂点の周りに集まってくる。最終的にできる角度は百八十度、つまり一直線上になる。
南と荒川の関係の延長線上に久保田も位置している。磐田は最初からそうにらんでいたのかもしれない。わざわざ荒川自身に久保田に電話させたのは荒川の反応を確かめるため、荒川と久保田がグルのケースも考えてのことだったのだろう。
もちろんこれは複数の可能性の一つだ。久保田と荒川が全く独立して動いている場合もあるし、安岡がどちらかとつながっている場合もある。磐田もきっとこのあたりは絞り切れていない。ただ磐田の反応を見る限りただの事故死として見ていないことは確かだ。
ゼミ室のある二号棟に向かって歩きながら譲は思考を整理していた。この数時間で見てきたこと、ゼミ発表会の日のこと。時刻は三時半をまわり、一日の中で最も暑い時間帯となる。駐車場からほんの少しの距離を歩いただけなのに額には汗が浮かぶ。
哲倫ゼミに入ってからこれだけ頭を動かしたことはあっただろうかと自問自答して苦笑した。順を追って話を聞いていっても答えはどこか霞のようにつかめない。そう言えば由香はどうなったんだろうかとスマホを見るが相変わらず既読もつかない。
ふいに由香と磐田がしていた虚数の話を思い出した。
便宜上設定するがこの世には存在しない虚数。譲にとって南朋子の事件は虚数のような存在だった。譲はあれほど批判的に見ていた磐田のようにいつの間にか数式になぞらえた思考をしていることに気づく。まわりには誰もいないが急に恥ずかしくなり、少し早歩きでゼミ室のある二号棟を目指した。
頭上から差し込む日差しは本格的な夏の始まりを予感させるものだった。



