哲倫ゼミのアルキメデス

 三階の廊下の一番突き当り西側の部屋をノックする。しばらく待つと中から返事が聞こえてきてドアのカギを開ける音が聞こえる。半開きのドアから顔を出した荒川は警察の後ろに控える二人の人物を見て驚いた顔をした。

「先ほど連絡をした神崎です」

 神崎が荒川に警察手帳を見せた。荒川は軽く頭を下げる。視線は手帳より奥の二人の方に動いている。

「南さんのことをいろいろ尋ねるのに後ろの二人に協力してもらっているんです。彼らも一緒にかまいませんか?」

 一瞬、とまどった表情を見せたがすぐに「ここでは何なので、中にお入りください」とドアを全開にした。荒川が用意しておいてくれたスリッパに履き替え「失礼します」と言って奥に進む。

「三人で来るとは聞いていたけどまさか磐田先生と柳瀬くんが来るとは思っていなかったわ。わかっていたらもう少し部屋を片付けといたのに」

 座卓の周りに案内しながら荒川がこぼす。あらかじめ三人で訪れるとは伝えていたが誰が来るかまでは伝えていなかった。

荒川に促されて腰をおろして、思わず周りを見てしまう。荒川はああ言ったが十分きれいに片づけられている。普段からこの座卓で作業をしているのか、座卓にはクマちゃんのキーホルダーのついたUSBメモリーが差しっぱなしのノートパソコンが置かれていた。本棚には哲学書がきれいに並べられている。

女の子っぽいものがあふれているわけではないが、ちょっとした小物に上品さが感じられる。以前、オンラインでの打ち合わせをした時に由香の部屋を見たことがあるが、ピンクピンクした由香の部屋とは大違いだ。

「コーヒーでよろしいですか?」

 荒川がキッチンの方から三人に尋ねる。神崎は「いえ、お構いなく」と返すが荒川は「苦手でなければ遠慮なさらず」と押し切った。個装されたドリップ式のインスタントコーヒーに順にお湯を注ぐとたちまちほろ苦い香りが立ち込める。

 お盆に載せた四つのカップを座卓まで運んで「どうぞ遠慮なさらずに」と三人に差し出し、四人で座卓を囲んだ。

「こんな時に気をつかわせてしまって申し訳ありません」

 代表して神崎がお礼を述べる。ここに来るまでの打ち合わせで、あくまで磐田と譲は警察に協力している立場なので、まずは神崎が主導して話を聞くことになっている。

「いえ、一人でいるといろいろ考えこんじゃって。話し相手がいる方がいくらか気持ちも紛れます」

「そういってもらえると助かります」

 神崎の言葉に荒川は静かにうなずき、磐田の方に視線を移す。

「磐田先生とも一度ゆっくりお話ししてみたいと思っていたんですが、まさかこんなかたちでお部屋に来ていただくことになるとは……」

 そこまで話してハッとした表情を荒川が見せる。

「すみません、余計な話をしてしまって。それで聞きたいこととは何でしょうか? 私にできることなら何でも協力したいと思っています」

「ありがとうございます。南さんのことについてもう少しいろいろ教えていただければと思いまして。最近の様子におかしなところや、誰とトラブルになっていたなど気にかかることはありませんでしたか?」

 荒川の表情がわずかに曇る。

「……警察は朋子が殺されたと疑っているということでしょうか?」

 神崎はできるだけ荒川に不審に思われないようできるだけ温和な表情で言葉を返す。

「いえ、当事者の情報をできるかぎり集めるのは事件、事故に関わらず行っていることです。いろんな角度から集めた情報を警察は総合的に判断します」

 神崎の説明に荒川は完全には納得していない様子だったが「そういうことなら」と渋々承諾した。岩田は黙って神崎と荒川のやりとりを見ている。岩田の表情はゼミ室で数式に向かっている時のように薄っすらと笑みを浮かべているが、わずかな綻びも見逃さないという雰囲気が譲には伝わってきた。

「……朋子の気にかかるところですよね? 正直、あまりなかったです。ゼミの発表会前にも二人で一緒にご飯に行ったりなんかもしたけど、そのときもいつもと変わりませんでした」

「人間関係のトラブルとかは?」

 荒川は少し考えた首を横に振った。

「私の知る限りは全く。朋子は頑張り屋さんで人から恨まれるような性格ではなかったです。高校から朋子を知っていますけど誰かと揉めているとかケンカしているなんてのも聞いたことがないです」

 南のことを思いだしたのか荒川の目に涙がにじみ始める。荒川は「……すみません」と涙を拭う。

「やっぱり朋子に限ってトラブルや自殺なんてことは考えられません。私は事故だったんだと思っています」

 神崎はそれには一切反論せず黙って聞いていた。声を詰まらせて訴える姿から嘘や偽りの色が見えなかった。荒川の姿は見ているだけで痛々しいものだった。その様子に普通の感覚の持ち主ならそれ以上のつっこんだ話はできなかっただろう。警察の神崎でさえ少し時間を置こうかと思ったが、磐田はお構いなしに言葉をぶつける。

「あの人に限って……なんてことはほとんどの事件の関係者がいうことだよ」

 あまりに不躾な発言に一瞬その場の空気が凍る。

「そうだろ? 神崎」

 話を振られた神崎も苦笑するしかない。実際のところそうなのかもしれないが荒川の気持ちを考えたら今言うことではない。

「人間なんてのは自分自身ですらままならないんだ。他人から見た姿なんてほんの一部でしかない。確か『世界そのもの』と『人間に見えているもの』を分けて考えるのがカントの考え方ではなかったかな?」

「磐田先生!」

 譲が磐田をたしなめようとしたのを荒川が「いいの」と制する。涙の筋の後はまだ消えていないが磐田に向かって精一杯の微笑みを見せる。

「変に気を使われるよりこれぐらいストレートに言ってもらった方が、私ももやもやしないわ。それに確かに私の知っている朋子は一部でしかない。それでも私にとって朋子はただの後輩じゃなくて大事な妹のような存在だった。彼女の方も私のことをそんな風に思ってくれていた……そう願いたいわ」

「なるほど、私にはつくってこられなかった素敵な関係だ」

 少しぬるくなったコーヒーを口に含んだ磐田が荒川に微笑み返す。

「神崎、彼女が言うんだ怨恨の線は薄そうだ。一応、他の親しかった人物からも裏が取れたらそれ以上の捜査は無駄かもしれないな」

 磐田が神崎の目を見てそう告げる。荒川もどこかホッとしたような表情を見せた。少し間を置いて神崎が「そうだな」と返事する。この二人のやり取りが譲には引っかかった。

「あらゆる可能性を」と言っていた二人にしてはやけに聞き分けが良すぎる。自分の指導教官に対しての言葉ではないかもしれないが対応が普通すぎる。

「もう少し南さんの周りの人にも聞き込みを行ってみます。荒川さん、何度もご協力ありがとうございました」

「いえ、もし何かまた新たなことがわかったら教えていただけると嬉しいです」

「ええ、必ずお伝えします。ちなみに大学の中で他に南さんが親しくしていた人に心当たりありませんか?」

 神崎の質問に少し考え込んでから返事をする。

「寮生のみんなは仲良かったし、あとは同じ三回生で言うと斎藤さんとか、川本さんとかも仲良かったはずです。何度か三人でご飯にいった話も聞いているし」

「斎藤さんに、川本さん」

 神崎は手帳にメモを取りながら説明を求めるように譲の方をチラッと見た。

「斎藤さんは倉内ゼミの三回生です。川本はうちのゼミ生、今日は休んでますけど……あんまり由香が南さんと仲良かったイメージないな」

 まさかの由香の名前が出てきて驚いた。そう言えばあれから着信も返ってこない。

「そうですね、どちらかというと斎藤さんの方が仲良かったと思います」

「男は?」

 磐田が横から口を挟む。

「男?」

「ああ、友人ではなく恋人なんかはいなかったのか?」

「ちょっと、磐田先生」

 さっきからデリケートな質問もぐいぐいと聞いてくので譲の立場からするとハラハラする。磐田の方は何が悪いという顔をしている。

「ストレートに聞いた方がいいとさっきも言われただろう? それに南さんのまわりの人間関係ということなら避けては通れない質問だ」

 それはそうだが、聞き方というものがある。このあたりの機微は磐田に一番欠けている部分だと思う。

「……今はいなかったと思います」

 捜査の参考になるならと半分あきらめたように荒川が話し出す。できるだけ感情が表に出ないように努めているようにも見える。

「高校時代にお付き合いしていた人がいたという話は聞いたことがありますが、ここ最近はいなかったはずです。恋愛話をすることもあったので彼女が隠していない限りはそうだと思います」
「なるほど、そちらの線も薄いと」

「どちらかと言うと彼女は奥手だったので……すごくいい子だし、好意を持たれることはあったと思います」

 話を聞いていて日高のことを思い出した。南の死を聞いてどう思っているのだろう。

神崎が手帳のメモを繰りながら他に聞いておくべきことを確認する。

「ええっと、ゼミの松本先生やもう一人の久保田くんとの関係はどうかな? プライベートでの交流とかは」

「あっ‼」

 譲は思わず声を上げた。まわりが驚いて譲の方を見たが「いえ、あとで話すので先に荒川さんを」と言って両手に口をあてる。神崎も視線を荒川の方に戻す。

「基本的にプライベートでの交流はほとんどなかったです。朋子は……私もなんですが松本先生をとても尊敬していました。先に私がいたこともありますが、朋子は松本先生の講義やゼミをとても楽しみにしていて、一日の中でゼミ室にいる時間も長かったです。松本先生も勉強熱心な朋子のことを買っていたと思いますが、指導とプライベートを厳格に線引きされる方なので……発表会の後の懇親会なんかでも一次会が終わったら必ず先に帰られます」

 確かに懇親会の日もいつの間にか松本はいなくなっていた。授業でも倉内のように雄弁というよりは一言一言諭すように重みのある話し方をする。哲倫ゼミの主任教授だけあってその指導や学生への評価には一定の厳しさもあったが松本のことを悪くいう学生はあまり聞いたことがない。

「久保田くんの方はどうかな?」

「彼との接触はそれほどなかったと思います。正直、朋子は久保田くんを避けていたところがあって」

「避けていた?」

 メモを取っていた神崎の手が止まる。

「久保田くん、根は悪い人じゃないんだけど軽くて調子のりなところがあるので、そこが朋子には合わなかったみたいです」

「トラブルになったりとかは?」

「それはなかったと思います。朋子もなるべく接触を避けていたし、久保田くんはそんなにゼミに思い入れがないというか、必要最低限しかゼミ室に来ないので一緒になることはそれほど多くはありませんでした。特に内定をもらってからは大学自体にもほとんどよりつかなくなって……」

 神崎がなるほどとうなずいているところに「ちょっといいですか?」と譲が手を挙げる。

「すみません、実はさっき思い出したんですが……」

 譲が何を言い出すのか三人の注目が集まる。本当は荒川の話がすべて終わってからと思っていたが、久保田の話が出たのでちょうどいい。

「懇親会の夜に最後、トイレの近くで南さんが久保田さんと言い争っているのを見ました」

「何だって⁉」

 アルコールが入っていたので鮮明にはすべてをはっきりと覚えているわけはないが、できる限りその時の様子を思い出す。確かにあれは言い争いと言ってよかった。

「詳しい内容はわからないですが久保田さんと誰かの関係について南さんが非難している感じでした。『訳を話して!』とか言っていたので」

「それで?」

「確か『あとでもう一度話そう』といったような内容を話していました。そのあと、少しだけ南さんと話して『危ないから一人で行かない方がいい』とは忠告しました。けど結局そのあとどうなったかまでは……俺らは二次会に行ってしまったので」

 譲の言葉の語尾が力なく消える。あの後、南は先に帰ってしまったのでどうなったかは知らない。それどころかついさっき久保田の話題が出てくるまで、譲は完全に忘れてしまっていた。

 譲の話を聞いて荒川は何やら考え込んでいる様子だ。南の行動で心当たりがないか考えているのかも知れない。どうするのか神崎に尋ねようかと視線を移す時に、磐田はコーヒーを口に含みながら荒川の様子を注意深く見ている視線に気がついた。

「……どちらにしろその久保田くんにも話を聞いてみる必要があるな。荒川さんは今の柳瀬くんの話に心当たりは?」

 荒川はゆっくりと首を左右に振る。荒川も知らないとなると久保田と南に何らか別のつながりがあったのかもしれない。

「そうか。今日は大学にまだ来ていないんだね?」

「はい。月曜日は来ないことが多いです。朋子のことの連絡はいってるはずですけど」

「連絡先とかはわかりますか?」

「携帯番号はわかりますが……あの、私から教えた方がいいですか?」

 荒川が躊躇ったそぶりを見せる。それを見て横から磐田が助け舟を出す。

「警察とは言え勝手に個人情報を教えるのにためらいがあるのだろう。荒川さんから一度、電話してみてくれないか?」

 磐田の提案に神崎は一瞬驚いた顔をしたがすぐにそれに同意した。神崎にもお願いされてしかたなく荒川は自分のスマホを取り出した。スマホの画面をスクロールしながら住所録に入っている久保田の名前を探す。やっと発見したのか、画面をタップしてから耳にあてた。呼び出し音が鳴るが反応がない。荒川の視線は電話口の先をうかがうように宙をさまよう。

「ダメです。電話にでません。留守電にもなる気配がないし」

 スマホを耳から離し申し訳なさそうに言う。

「しかたがない。学生課か松本先生に問い合わせをしたら住所もわかるだろう」

 磐田は隣の神崎にそう話しかける。

「すみません。お役に立てなくて」

「いやいや大変な中、捜査に協力ありがとう。神崎、学生課にあたってみよう」

 磐田は気が済んだのか神崎を促し、部屋から退散しようとする。もう少し粘ってもよさそうなものなのにその切り替えの早さに驚く。結局、これといった収穫はなかった。やはり当初の想像通り南は事故死なのではないだろうかと譲は思う。

 入り口まで見送ってくれた荒川に礼を言って部屋を出ていく。譲と神崎に続いて磐田が扉を出ようとするときに思い出したようにスマホを取り出す。

「最近は手帳のようなタイプのスマホケースが流行っているな」

「……えっ?」

 予期せぬ言葉に思わず荒川は聞き返す。

「柳瀬くんも南さんもそうだった。俺はすぐに画面を見られる方が好きでね。ひと手間をとてもわずらわしく思うよ」

 そう言って磐田は笑った。見送る荒川の口元からは笑みが消えていた。

 女子寮出てしばらくしてから磐田の隣を歩いていた神崎が磐田に問いかける。

「さっきのあれ、どういう意味があるんだ?」

「あれというのは?」

 岩田は神崎の方に視線も移さない。

「荒川に最後にいったセリフだよ。それに荒川から電話させる必要があったのか?」

 神崎と同じ疑問を譲も抱いていた。第一、磐田が個人情報を気にするようなたまではない。神崎もなにがしかの意図を感じたのでそれを促したのだろう。

「一つには荒川さんが久保田くんに電話をかける様子を見たかった」

「なんで?」

「南さんと久保田くんのつながりを本当に荒川さんが知らなかったのか反応を見極めるためだ。電話はつながってもつながらなくてもよかった。もちろんつながった方が都合はよかったがな」

 猫背で普段は気づかないが磐田はなかなか長身で歩調も速い。少し早歩きに近い感じで神崎は磐田についていく。

「スマホケースの方は?」

「基本的には一緒だよ。心当たりがあれば何かしら反応が見られるだろうし、なければなかったときだ」

「それで肝心の荒川の反応は?」

「いや、そもそもスマホケースの心当たりって?」

 矢継ぎ早に神崎と譲が質問するが、磐田はめんどくさそうにため息をつく。

「さっきも言っただろ? 少しは自分の頭を使って考えることだ」

 そのまま磐田はそっぽを向いてしまう。神崎は「ケチくせえなー」と言って、両手を首の後ろのあたりにまわす。そのまま少し後ろを歩く譲のとこまで来て、小声で話す。

「あいつ、いつもそうなんだ。何かわかっても簡単には教えてくれない。おまけに訳の分からない公式とかで説明しようとするだろ? また訳のわからないこと言い出したら柳瀬くん、処理頼むよ」

「ちょっと、押しつけないでくださいよ。神崎さんこそつきあいが長いんでしょ?」

 二人でひそひそ話をしているところに前を歩く磐田が振り向かずに「さっきから聞こえてるぞ」と釘を刺す。慌てて譲と神崎は顔を見合わせるがそこで「あれ?」と譲が声をあげる。

「磐田先生、学生課に行くんじゃないんですか?」

 右手に学生課の入る三号棟が見えるが磐田はそのまま直進しようとしている。このまま進むとゼミ室のある二号棟と一般教養の一号棟だ。本来なら食堂のある三号棟のあたりは学生であふれている。警察が学内に入っていることもあって大学職員の姿は時々見かけるが、さすがに学生の姿はほとんど見かけない。

「先に松本先生に会いに行く。ゼミ生三人の関係についてもう少し情報を入れたい」

「久保田は先におさえなくていいのか?」

「ああ、少し泳がせておくさ。外堀を埋めてから会いに行こう」

「それなら俺は一度本部の方に戻っていいか? 司法解剖やスマホのデータについてもう少しわかるかもしれない」

「時間はどれくらいかかる?」

 神崎は腕時計を見る。時計の針は十三時半を過ぎていた。

「そうだな……一時間半、いや余裕持って二時間ぐらいはみておきたいから四時に徹の研究室に集まろう。それまでに徹たちはもう少し人間関係を探ってもらえるか?」

「わかった。どうせなら三つに分かれよう。柳瀬くんは倉内ゼミのメンバーから話を聞いてもらおう。あそこには南さんと仲が良かった斎藤さんや久保田くん、荒川さんと同期の安岡くんもいる」

 急に大切な役割を与えられて譲はとまどう。確かに松本先生との話なら学生とは違い間に譲が入る必要はない。かといって自分に情報収集などできるのかと不安になる。

「あの……俺はどういうことを探ればいいですか?」

 自信なさげに発せられた譲の発言に磐田はため息をつきながら「……またか」とつぶやく。

「自分の頭で考えろ。生きてるってのはそういうことだ」

「でも、磐田先生、何かわかっているならヒントぐらいくださいよ」

 譲が磐田に何とかすがりつく。それを見て磐田は薄っすらと笑みを浮かべる。神崎はいつものあれだと思った。

「いいだろう。俺がいつもやっていることだ。迷った時には一度数式のような真理に照らし合わせて考えていく」

 しまった! 逆効果だったと譲が思った時にはもう磐田はゼミ室でパソコンに前に向かうような狂気を帯びた表情になっている。

「柳瀬くんは図形の中で何が好きかね? 俺は三角形こそ最も美しい図形だと思っている。構造学的にも強固なあのフォルムもそうだが、一つの図形の中に相反する命題を抱えている様子もまるで人間の生き方のようで気に入っている」

 神崎はやれやれといった表情をしているが、譲はヒントを要求した手前いい加減に聞き流すことはできない。

「さっきも言ったよな? 直線上にない三つの点からしか三角形は成立しない。それなのにどうだ? 三角形の内角の和は百八十度になる。それにまたその証明も美しい。つまりはそういうことだ」

 つまりどういうことなのか? あるいはそれが本当にヒントだったのかすらわからないが譲は一応「ありがとうございます」と礼を言った。数式がヒントになるとは思っていないが「自分の頭で考えろ」と言われれば、それにたいしてはぐうの音も出ない。

 日高あたりに連絡をとってつないでもらうしかないとスマホを取り出した。岩田はそんな譲に対して片手を上げて無言でその場から立ち去った。