大学構内の寮で死体が見つかった……それを聞いたときには驚いたが、それが南朋子だとわかったときには驚きよりも信じられないという気持ちのほうが強かった。

 つい二日前の土曜日の夜に話をしていたのだ。まったく実感がわかない。

 大学内には警察が入り、今日の一般の授業は休講となった。ゼミなどが中心の三、四回生は登校しているものもいたが、一般教養など全体授業が中心の一、二回生などはほとんどきていない。そのためか学内にいつもの活気はない。

 南の死を知ってか知らないでか由香は登校してきていない。ラインをして見ようかと思ったが文章を打ちかけてやっぱりやめた。

 ゼミ室で哲学の本を読んでいるが内容が全く頭に入ってこない。南のことで気が滅入っていることもあるが、磐田と二人きりというのも一層気が重い。こんな日にも磐田はいつもと変わらず数学の教科書を広げながらパソコンに向かってよくわからない研究を続けている。

 南のゼミの教授ということで朝から松本は警察に事情聴取などを受けていたらしい。一般の事件や事故なら家族などからの聞き込みが中心だが、今回は大学の敷地内のできごとだ。しかも南朋子は地方出身で一人暮らし、最後に実家に戻ったのも二カ月前の春休みのことだというので、最近の様子を聞くには松本が適任だと判断されたようだ。

 南の最近の様子について他の哲倫ゼミの学生にも聞き込みを行う可能性があるという連絡が松本から大学内の内線を使って回ってきた。ちょうど譲が電話を取って磐田につないだので、どんな内容だったか尋ねると答えてくれた。

 同級生といっても南とちゃんと話をしたのは土曜日の懇親会ぐらいだったが、自分と同じ年の知りあいが亡くなるという経験は譲にとっては初めてだったので何とも言えないやりきれなさがする。

 このままゼミ室にいても全く集中できないので、今日はもう帰ろうと席を立った時、磐田ゼミの扉をノックする音が聞こえた。磐田はちらりとも扉の方を見ず、応じる気配もなかったので仕方なく譲が応対する。

「ああ、柳瀬君、磐田先生はいるかい?」

 扉を開けると倉内とその後ろに長袖シャツをまくった肩幅の広い男が立っていた。見たことない顔だが倉内の様子を見ると警察の関係者といったところだろうか。背はあまり高くないが筋肉質の体はひょろっとした倉内と対照的だった。

 譲が招き入れた倉内ともう一人の男がすぐ側まで来ても磐田はパソコンから目を離さず、一心不乱に文字を打ちこんでいる。

「まったくこんな大変な時に自分の研究か? 私も松本先生も朝からばたばただったんだよ」

 磐田の態度に倉内は嫌味を言うが、磐田は倉内とその後ろの男を一瞥するとまたパソコンの画面に視線を戻す。

「私の仕事はこれなので。事件だか事故だかわからないがそれを解決するのは後ろの警察の人の仕事でしょ」

「学生が亡くなっているのに何て言い草だ! まったく君という人は……」

「それと研究は別の話でしょ? それで私にいったい何のようです?」

 倉内が言い切るよりも早く磐田が言葉を返す。磐田の失礼な態度に倉内は鼻息を荒くしてしばらく磐田を睨みつける。やがてこれ以上この男に関わっても無駄だと思ったのか要件を話し出した。

「……警察の方々が一応、南朋子の知りあいにも話を聞きたいらしくてな。勝手に学内をうろつかれても困るので一人案内人をつけて差し上げろと松本先生に言われたんだよ。別に私がしてもよかったんだが、この方がどうしても君に頼みたいとご指名でね」

 磐田が後ろの男を睨みつける。

「君の言うとおり警察の方もお仕事で来ているので協力してくれたまえ、いつまでも警察にうろつかれても迷惑なのでね」

 内容だけ伝えると「それでは私はこれで失礼する」と言って大股で肩を怒らせながら部屋から出ていった。その後ろ姿は譲から見ても小物に映ったが「いいんですか? あのままで」と一応聞いておく。

「……構わんだろ、別に」

 開いたままのドアを眺めながら磐田が言った。

 譲はそのまま磐田の近くに立つ警察の男に視線を移す。その男が恭しく敬礼のポーズを取って「捜査にご協力お願いします!」と叫ぶ。磐田はため息をつきながらノートパソコンを畳んだ。

「いつまでその他人行儀を続けるつもりだ、めんどくさい」

 磐田が捨て放つように言うのを聞いて、その男は笑いながら敬礼を解く。

「そういうなよ、徹。お前の言うようにこれも仕事なんだ。協力してくれよ」

「……俺にとっては仕事でも何でもない」

 譲は二人のやりとりに驚いて二人の顔を交互に見る。

「お二人は知り合いなんですか⁉」

 譲の反応に気をよくして男は胸を張って見せる。

「ああ、徹とは高校時代からの友人だ」

「勝手に友人にされては困る。ただの知りあいだ」

「まあ、そういうなよ。俺は神崎弘道(ひろみち)、よろしく」

 警察とは思えない社交的な態度で神崎は手を差し出してきた。一瞬戸惑いながらも握手に応じて譲も自己紹介をする。

「柳瀬譲です。磐田先生のゼミで学ばせてもらってます」

「徹が教授ならいろいろ苦労しているだろ? こいつは偏屈だからな」

 思わず「ええ、とっても」と返事しそうになるのをこらえる。磐田は指でトントン机をたたきながら不機嫌そうに神崎をにらみつける。

「雑談をしに来たのなら帰ってもらおうか。俺は忙しいので。学内の案内ならそこの柳瀬君でもできる」

 磐田が視線を譲に移すが、急にそんなことを振られても対応できない。そもそも磐田はいつもの様子で特別忙しそうに見えなかった。だいたい元から知り合いだったにしろ、こんな面倒な人物を指名することは不可解だ。二人の様子から見てこれが初めてのことではなさそうだが……。

「ちょっと待ってくれよ。本部の見立てでは今回の出来事はすでに事故として処理されそうなんだ。もちろんきちんと調べた結果、事故ならそれでいい。現在のところ正直、事故の可能性が一番高いし、それを裏付けるような証言も出てきている。でも事件の可能性もまだゼロじゃない。可能性で言うとかなり低いとも思う。それでももしそこに見えない真相があって、それを効率よく処理するために見えないままにしておくことは、俺は許されないことだと思っている」

「……損な性格だな。出世しないぞ」

「それは自覚しているよ。でも……」

 神崎が磐田をぐっと見据える。そのまなざしには真っすぐな力強さがあった。

「真実を追求するのは哲学者も同じだろう?」

 神崎の言葉を聞いて、磐田は腕を組みしばらく考え込む。譲も神崎も磐田が次に口にする言葉を待っている。磐田は譲の方に視線を移し、ニヤリと不気味な笑みを見せた。

「警察と哲学者の違いがわかるか?」

「えっ⁉ 俺ですか?」

 磐田は譲を見てうなずく。

「急に言われても……」

「哲学とは何かを自分の中で問いかければ答えは出るはずだ」

 哲倫ゼミにいるといっても譲はもとから哲学をしたくてこの大学に入ったわけではない。それに磐田から今までも指導らしい指導を受けたこともない。微かな反発心を覚えたがそんなことはお構いなしに磐田は話を続ける。

「警察は状況や証拠から真実にたどりつく。哲学者はあくまで人の心を追及して真実にたどりつく」

 その答えを聞いて神崎は腕をまくって、机に左手を置いた。

「……つまり俺らとは違うアプローチだが真実を追求する手伝いをしてくれるってことでオーケー?」

 さすがに偏屈だとわかったうえで磐田を指名した同級生というだけある。磐田のよくわからない理屈をうまく解釈して自分の都合のいい方向に持っていく。

「一つ条件がある」

 磐田が人差し指を立てて神崎を見る。

「何だ?」

「この学生も助手として一緒に捜査に協力させてもらう」

 意外な提案に神崎の驚いた顔をしたが、それ以上に譲が驚いてしまう。磐田は真面目な顔をしているが、この教授が何を考えているのか全く分からなかった。

「それはなぜだ? 正直、俺の捜査も本来の権限を越えたことをしようとしている。徹に協力してもらうだけでもぎりぎりのラインなんだ」

「そうですよ! 俺なんて何の役にも立たないですよ」

 譲も磐田に訴える。

「それはどうかな? 学生に聞き込みするのに俺たちでは余計な警戒をされてしまうんじゃないかな。その点、柳瀬くんならより自然に深いところまで聞き込みをすることができる」

 神崎は磐田の言葉に迷いを見せている。神崎は譲がどう思っているのか確かめるように表情をうかがう。

「無理ですよ! 俺はそんなに顔も広くないし、社交的じゃない。今日は来てないけど助手なら由香とかの方が向いてないですか?」

「でも、君は南さんの死に『……何で?』という思いを抱えているのだろう?」

「えっ⁉」

 磐田の言葉に息が止まる。

「柳瀬くんがどの程度、南さんと仲が良かったのかは知らないが、今日の君の心はずっとさまよっていた。『なぜ?』『どうして?』とな」

 譲が自分自身でも気づききれていないモヤモヤを見透かされていたことに驚く。それが数式に向かって一日訳の分からないことをつぶやいていた磐田だからなおさらだ。思わず磐田から視線をずらしてうつむいてしまう。

「とにかく彼の協力がないのならこの話はなしだ」

 譲から視線を外し、神崎に向かって言い放つ。神崎は困った顔をしながら譲を見た。どういう訳かはわからないが神崎は磐田の協力を欲している。

 なんで俺が……その思いは拭いきれないが、同時に譲の脳裏に土曜日の南朋子の姿も思い浮かぶ。別に南に対して特別な思い入れがあったわけではない。それでもこんなことがなければもっと仲良くなれたかもしれない。

 うつむいたままの譲は拳にぐっと力を込める。

「……やります。俺も協力させてください」

「柳瀬くん、いいのか?」

 心配そうに尋ねる神崎の横で、譲がうなずくより先に磐田は「決まりだな」とつぶやいて立ち上がる。そのままゼミ室の奥に据え付けられている小さな台所のコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

 磐田が席に立った後、改めて神崎の念押しがあったが譲はそれにもうなずいた。自分がどれだけ力になれるかはわからないが、せめて南のためにも自分にできる範囲は協力しようとする思いだった。

 しばらくして磐田がカップにコーヒーを淹れて戻ってきた。挽きたてのコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐる。席についた磐田はさっそく一口含む。

「お前、普通三人分淹れてこないか?」

 自分一人コーヒーを楽しむ磐田を神崎が非難する。磐田自身はそれを何も気にしない。

「欲しかったら奥にコーヒーメーカーも豆もある。自分で淹れたらどうだ?」

「俺、淹れて来ましょうか?」

 譲が気を利かせて尋ねが神崎は片手でそれを制して「柳瀬くん、大丈夫。コーヒーが飲みたかったというより徹の気遣いの問題」と言った。

 神崎の言うことはわかるがそれを磐田に要求するのは少し無理がある。普段のゼミの時から磐田は傍若無人、よく言えばマイペースを崩さない。人間の心を深く追求するくせに自分が他人からどう思われようとも気にしない。

 譲は完全にこういう人だと変人扱いしてあきらめているが、神崎はそうでないらしい。やはり同級生の立場だと少し見え方も違うのだろうかと思う。

「それより早く現在の捜査の状況を話してもらおうか」

 磐田が神崎に席に着くよう促す。まだぶつくさ言いながら神崎が席に座ったので、譲もそれにならって席に着く。

「今回のことについてどこまで聞いているんだ?」

「ほとんど何も。松本先生からの第一報を聞いただけだ」

「柳瀬くんも同じか?」

「ええ、大学に来たらもう警察の規制がかけられていたし、大学からの休講のメールと岩田先生から伝え聞いた話が全部です」

「わかった。とりあえず今回のできごとのあらましをまず話そう。いったん全部話すから何かひっかかることがあれば質問してくれ」

 譲はこくんとうなずく。隣の磐田も手にしていたコーヒーカップを机に置き、真剣な表情を浮かべる。

「南朋子の遺体が発見されたのは六月十三日、つまり昨日の二十三時四十五分。死因は大学寮屋上からの転落死。地面に敷かれていたタイルに頭部を強く打ちつけていて即死だったようだ。細かいことは司法解剖してみないとわからないが、他に争ったあとなどは見つかっていないので今のところは屋上からの転落が直接の死因とみて間違いはなさそうだ。一応、毒物などの検査もしているがそういった場合は何らかの反応が死体に表出することが多いからな」

「……転落死」

「そこまで驚くことではない。日本人の死因としてはわりと上位だ。もちろん事故、自殺いろいろなケースがあるし、転落といっても様々な場所が考えられるが」

 さもよくあることのように磐田が語るのを聞いて、疑り深く神崎の方を見るが神崎も無言でうなずき返す。神崎の「続けていいか?」の言葉に磐田はどうぞとばかりに掌を差し出した。

「第一発見者は同じゼミの荒川綾菜」

「荒川先輩⁉」

 思わず声をあげてしまう。

「ああ、彼女は南朋子と同じく大学寮に住んでいる。実は彼女が言うには直前まで南朋子と電話で話している。だが突然電話が切れてしまい、彼女の方から電話を掛け直しても呼び出し音はなっているが一向に出る気配がない。不審に思っていると外で何かが落下するような音が鳴って、気になって窓から外を見ると暗闇の中に人間らしきものが横たわっているのが見えた。慌てて下りて外に出てみるとすでに即死していた南朋子を見つけた。そこまでが今回の件の発覚に至るまでの経緯だ。その後すぐ荒川の手によって警察に連絡が行っている。警察が来る頃にはあたりは騒然となっていたが、時間も時間だしな、地面に落下した音を聞いたという人物は複数いたが、現場周辺にいた人物は今のところ他には見つかっていない」

「これって警察では今のところ事故として考えられているんですよね? でも神崎さんは事件だと考えているってことですか?」

「……いや、まだそこまでは考えていない」

「あくまで可能性の問題だろ?」

 磐田が譲の質問に横やりを入れてくる。

「可能性?」

「さっきも神崎が言っていたが警察の仕事にも効率ってもんがある。たとえば自殺の疑いが残っている場合でも動機が最後まで不明のときには事故として処理されることもある。たとえ事故にしてもできる限り他の可能性もつぶしておきたいってことだろう」

「ああ、時間も時間で目撃者も少ない。第一発見者の荒川綾菜の証言も今のところ矛盾はないがそれを裏付ける完全な証拠はない。荒川のスマホには南のスマホからの発信と通話記録があったが、それだってごまかそうと思えばいくらでもやりようがある。平たく言えばアリバイがないってやつだ」

 両手を広げる大げさなリアクションを神崎が見せる。

「もしかして荒川先輩を疑っているんですか⁉」

「いや、そういうわけではなくていろんな可能性があると言いたかっただけだ」

 荒川が南を殺害するなんて考えられない。驚いて聞き返した譲を神崎がなだめる。磐田は無言でカップのコーヒーを口に運んだ。

「少なくとも南朋子のまわりの人間関係を丁寧に洗ってみる必要はある」

「現在のところ警察の見立てでは南朋子は大学寮の屋上から転落事故によりなくなった。他の可能性は少なくとも二つある」

 磐田が指を人差し指と中指を立てた。

「一つは自殺。この場合、南朋子の人間関係や部屋を捜索する中で何らかの情報が出てくる可能性がある。もう一つは他殺。今のところ可能性はかなり低いようだが、南が落下するところが目撃されたわけではないので零ではない」

「何かそれを聞いていたら不謹慎だけど事故であることを願ってしまうな……」

 うんざりした表情で譲が言った。捜査のうえでいろんな可能性を追求する必要があることはわかるが、これ以上の不幸が広がることがないように願った。南が亡くなったという事実だけですでに辛い。譲ですらこんな気持ちになるのだから同じゼミの荒川などはなおさらだろう。ましてや荒川は第一発見者だ。懇親会でほぼ初対面の譲にも気遣いを見せていた荒川の姿を思い出した。聞き込みどうこうよりも少しでも荒川の心を軽くしてやりたいと思った。

「荒川さんへの事情聴取はもう済んでいるのか?」

「ああ、すでに寮の自分の部屋に戻っているはずだ。他にも聞きたいことが出てきた時には協力してもらうよう依頼はしているし、彼女自身も何かわかれば教えてほしいと願っていたので聞き込みをすることは可能だ。この後、当たってみるか?」

 神崎の提案に磐田は首を振る。

「いや、司法解剖の結果が出るまでに先に現場を見ておきたい」

 磐田は立ち上がって、椅子の背にかけていたジャケットに袖を通した。警察の規制線が張られた現場に赴くことはためらわれたが、この状況ではそうも言っていられない。ゼミ室を出て先々と進んでいく磐田を見失わないよう追いかけた。