あれから二日が経った。

事故ということでほぼ処理が終わりかけた警察の本部は神崎の連れてきた荒川の証言でもう一度処理のやり直しとなったが、不思議とそれに文句を言うものはいなかった。神崎の話では他の者もどこか不自然さを感じていただけに真相がわかり、すっきりとした様子だったという。ただし、単独行動で好き勝手にやっていた神崎は上司から相当な嫌味を言われたが、当の神崎はどこ吹く風だ。嫌味や皮肉はすでに磐田で十分に免疫ができている。

荒川の取り調べもあらかた終わったので今日は神崎が磐田のゼミ室に事後処理の様子を伝えに来ていた。直接的な意味で南の死に荒川が関与していた訳ではないし、情状酌量の余地も十分にあるので起訴はされる方向だが、実刑の判決が出る可能性は低いという見通しとのことである。

「よかった……って言っていいのかはわからないけど、南さんも荒川さんに罰を与えることなんてのぞんでいなかったと思うので……やっぱりよかったです」

 今回の事件全体を通して様々なやりきれない気持ちがあるのは譲も神崎も同じだが、少しでも早く荒川には立ち直ってほしいと譲は思っていた。

「南さん自身の言葉にもそういう趣旨があったのも大きかったな。あの後の捜索で荒川さんの部屋から南さんが書いた手紙が出てきたんだ」

「証拠隠滅……というわけにはいかなかったわけだ」

 南の自殺と久保田の暴行を隠す目的なら燃やすなりして処分してしまったほうがよい。

「まあ、もしかしたら最初はそのつもりだったかもしれないけどな。内容読んだらそういう気持ちもなくなったのかもしれないな」

「何が書かれていたんですか?」

「ん? そうだな、簡単に言うと荒川さんに対する感謝と幸せになってほしいということだな。もちろん久保田への恨みも書いていないわけではなかったけど、ほとんどは荒川さんと出会えて本当によかったという感謝や今回のことは、荒川さんは悪くないっていう南さんの慮る言葉がびっしりと書かれていたよ」

 飲み会の時に荒川のことを語る南の様子が思い出された。南にとって荒川は本当に大切な存在だったんだろう。

「正直、俺でも心が動かされるような言葉がつらつらと記されていたからな、荒川さんも捨てるに捨てられなくなったんじゃないか」

「……あるいは荒川さんが、自分が罪を被ろうとした時のための予防線だったかもしれないな」

 腕を組みながら話を聞いていた磐田が横から付け足す。

「うわっ! お前って本当にうがったものの見方するよな」

「可能性の一つとしてはありえるって話だ」

 南さんがそこまで見通していたのかはわからないが結果的にこの手紙が荒川さんの立場を守ることになるであろうことは確かだ。

「ほんと、徹ってその性格を本気で直した方がいいぞ」

「なら、これからは捜査が進まないからって俺に泣きついてこないことだな」

 売り言葉に買い言葉だが、これもある程度の信頼関係があるからできることだろう。磐田も神崎とのやりとりはどこか楽しそうに見える。

「それはこれからも頼みます! まあ、これからはマネージャーの柳瀬くんを通して依頼するよ」

「俺はマネージャーじゃないです」

 まあまあと神崎が両手を広げて譲の方にジェスチャーする。

「そういや、思い出したけど、ずっと連絡が取れなくなっていたって子の件はどうなったんだ?」

 思い出したかの用に神崎が付け足したのは由香のことだ。いつまでたっても連絡がとれなかったので譲もあの時は万が一のこともあると焦りの気持ちもあったが、今となってはため息が出る。由香からは昨日になってやっと返信が来た。

「……食べ物があたったらしいです」

「あたった?」

「ええ、飲み会の次の朝に急激な腹痛に襲われたらしくて、救急車で病院に運ばれたらしいです。そのまま入院で昨日やっと連絡が取れました」

 あきれた表情で話す譲に、神崎はまあまあと諭す。

「無事で何よりじゃないか。事件の後に連絡が取れなくなったってことだからいろんな可能性を考えていたんだけど、とりあえずそれならよかった」

 神崎の言葉に譲もうなづく。何はともあれ無事だったのはよかった。入院していたので無事と言っていいのかはわからないが……。

「これにて一件落着! って言うには悲しすぎる事件だったけど、徹と柳瀬くんがいてくれて助かったよ。本当にありがとう」

 神崎は改まって二人に頭を下げる。譲にとって二度とないような体験だったが一緒に捜査を行ったのが神崎でよかったと思う。警察という組織に正直よい印象はなかったが、公的に進めながらも人情があふれる神崎のおかげで救われた部分もある。

 磐田は相変わらずの態度だが、譲は神崎に深々と頭を下げ返した。ゼミ室のドアを半分開けながら「また何かわかれば連絡するよ。あと松本先生のこともよろしく頼むな!」と言って磐田のゼミ室を後にした。

 表向きには普段通りのふるまいをしているが松本ずいぶん心を痛めているだろうことは譲にも容易に推察できた。ただどんな声かけをすればよいのかと問われるとそれはわからない。

「一件落着……か」

 ぼそっと磐田がつぶやいた。


 日暮れから少し時間が経ったのにまだ蒸し暑い。大学構内の駐車場とメインストリートを結ぶ通りは街灯もまばらで少し薄暗い。この時間になると部活帰りの車で通勤する学生ぐらいしかこの通りを歩かないので人通りもほとんどない。

 一段下がった駐車場から階段をのぼって少しのところに置かれているベンチに磐田と譲は座っていた。

 神崎の報告があったあとしばらく考え込んでいた磐田は譲に今日の授業が終わったらゼミ室に戻ってくるように伝えられた。そのあと訳もわからないままこの場所に連れてこられて、もう十五分ほどこのベンチで待機している。磐田のことだから何かしら意味はあるのだろうがせめて理由を教えてほしいと譲は思う。

「……そろそろ理由を教えてもらえませんか?」

 しびれを切らして譲が問いかけたところに磐田は駐車場の方を睨みながら「来た!」と小声でつぶやいた。

「あれ? 磐田先生……と柳瀬くん」

 階段を上がって来た安岡が驚いた表情を見せる。

「どうしたんですか? 二人そろってこんな場所で?」

「別に夕涼みをしていただけだ。君は見たところバイトから帰ってきたってとこか?」

「ええ、家庭教師のバイトから帰って来たところです……で、僕に何の用ですか?」

 不審そうに安岡が尋ねる。どうやら磐田が安岡を待ち伏せしていたことはわかっているようだ。

「こんなとこで夕涼みな訳ないでしょ。それにもうあたりも真っ暗で夕涼みなんて時間じゃないですよ」

 安岡の言葉に磐田は不敵な笑みを見せている。譲の経験上、こういうときの磐田が一番恐ろしい。いったい何が狙いなのかがまだわからない。

「いや、荒川さんの実刑判決の可能性は低そうだと警察から聞いてね、君には伝えておいた方がいいかと待っていたんだ」

 磐田の言葉に「そうですか」と頷く安岡の表情が明るくなる。

「それはよかったです。南さんのことは本当に残念だったけど、荒川さんはもう十分傷ついた……これ以上の傷を彼女が負う必要はない。磐田先生、教えてくれてありがとうございます。せめて、彼女が戻ってきたら精一杯支えていきたいと思います」

 安岡は何度も頭を下げて感謝の言葉を述べた。荒川が警察に出頭して以来、ほとんど何の情報も入ってこなくて、安岡も気が気でなかったのだろう。荒川のことを大切に思う、こういう人と結ばれればよいのにと譲は安岡の姿を見て思った。

 安岡は譲にまで「世話になった」と感謝の言葉を伝えて、その場を立ち去ろうとした。背中を見せて安岡が安心した瞬間を狙って、「そう言えば……」と独り言のように放った磐田の言葉が安岡を突き刺す。

「因果関係をどこに置くか……という議論を荒川さんと屋上で話したことがあってね」

 立ち止まって振り返った安岡が不思議そうな顔をしている。確かにそういった話題はあったが、譲にも磐田の言葉の意図がわからない。

「南さんの死を荒川さんは自分のせいだと考え、そこの柳瀬くんは久保田くんが原因だと思っていたんだが君はどう思う?」

 安岡の表情が一気に曇る。その変化に譲まで不安になる。もうこれ以上何か新たな真実が出てきて誰かが傷つくのはやめてほしいというのが正直な気持ちだった。だが、真実を歪めることを磐田は許さない。

「どう……というのは?」

 安岡は一度呼吸を止めてから、絞り出すように聞き返した。

「君が南さんの死を自分のせいだと自分を責めていないかと思ってね」

「……」

「君に非がないとは言わない。荒川さんにも同じ話をしたんだが、仮に罪を犯したのならそれをきちんと償うといい。南さんが亡くなった原因が君なのなら南さんがきちんと許してくれるやり方で償うしかない。君がただ自分を責めることを南さんは、喜びはしないと思うよ」

 磐田の言葉を安岡は一言も言い返さず黙って聞いている。あの時も聞いた言葉に、数日前の荒川さんとのやりとりが脳裏によみがえる。

「……なぜ?」

 思わず譲の口からこぼれ出る。磐田の言葉の真意はわからないが磐田が言うからには何かしらの根拠があるのだろう。

 譲にとって荒川も安岡も「いい人」だ。先輩として、人間として好きな部類に入る。そんな人が次から次にどうしてというやりきれない思いが譲の心に重くのしかかる。誰にだって心も裏表があるのはわかる。裏表どころか、その時々にいろんな色が表に出てくることも理解しているつもりだった。それでもどうしてもやりきれない。譲の知っている安岡は一途でお人好しな優しい先輩だったから。

「なぜ……か。そう言いたいのは安岡くんも同じだろうな。なぜ、南さんは死を選んでしまった。なぜ荒川さんが罪を被ろうとした」

 そこで磐田は一呼吸置く。

「……なぜ、荒川さんは久保田くんを選んだ」

 生身の心をえぐり取られたかのような辛そうな安岡は思わず磐田から視線をそらす。

「別に君の荒川さんへの想いを否定したいわけではない。実際、俺から見ても久保田くんは最低の部類の男だ。荒川さんの幸せを想った時、自分でないにしろせめてもう少し別の男とくっついてくれればと思うのはある意味当たり前のことだ」

「……」

「そんな君にとって荒川さんと久保田くんが別れたという情報は自分のこと以上に朗報だったのだろう。ただ君は荒川さんの相談に乗る中で、まだ荒川さんの中に久保田くんへの気持ちが残っていることに気づいた。これではいけない! 荒川さんの幸せのためには、きっちりとこの機会に荒川さんの気持ちを久保田くんから離しておかなければならない。そう考えた君は一つ策をうってみることにした」

 安岡が反論しないところを見るとほぼ事実なのだろう。この話の終着点がどこに落ち着くのか譲には全く見えてこない。

「それが久保田くんに南さんにちょっかいをかけさせること」

「なっ⁉」

 思いもよらない言葉にさすがの譲も驚く。

「同じゼミの一番かわいがっている後輩に手を出したのなら、あるいは実際にそこまでいかなくてもそういう気配があったのなら、さすがの荒川さんでも愛想を尽かすだろう。そう考えた安岡くんは、久保田くんに南さんのことを意識させるようにふるまい、一方の南さんにはいかに久保田くんが南さんを傷つけたかを話した。そうすれば南さんは怒って久保田くんと話をしようとするだろうし、久保田くんはその機会をねらって南さんと二人きりになろうとする。安岡くんの狙い通り飲み会の日に久保田くんと南さんは話し合いを持つことになった。柳瀬くんが目撃したのはその場面だ」

 急に話を振られて譲はどぎまぎしながらも、とりあえずうなずいた。それは「気を抜くなよ」という磐田からの合図のように譲は感じた。磐田はうつむいたままの安岡に視線を戻すとさらに言葉を続ける。

「君は酔っぱらってつぶれたふりをしながら場をうまくコントロールしていた。南さんのスマホも実際は落としたんじゃなくて、介抱されているときに隙を見て抜き取ったんだろ?」

 その磐田の言葉にも驚くが、あの時の場面を思い出すと確かに安岡なら不可能ではない。ベンチでつぶれていた安岡を譲と南で介抱していた時に、南が荷物を置いたまま安岡一人になる瞬間があった。南が安岡のために水を取りに行き、譲がトイレのチェックに行った時だ。

 磐田の質問を肯定も否定もしないことに安岡の真実が現れていた。その様子を磐田は注意深く見つめながら話を続ける。

「荒川さんが南さんと連絡を取れない状態を作りつつ、荒川さんに南さんのスマホを渡す時に久保田くんと南さんが二人でどこかへ消えたと伝える。久保田くんに対しての疑念を持たせるためには、荒川さんが簡単に南さんと連絡が取れては困るからな。安岡くんの読みでは久保田くんがそこまで強硬手段に出るとは思わなかったし、南さんがしっかりと事情を伝えれば荒川さんとの仲が完全に崩れることまではないと思っていた。あるとすれば見境なく手を出そうとする久保田くんへの気持ちが醒めることぐらい……のはずだった」

 そこまで一気に話した磐田の口が止まる。

 磐田の考察が合っているのかどうかはわからない。いや、安岡の様子を見る限りそれは正しいのだろう。だとしても今回の事件を安岡のせいにできるだろうか? 安岡による誘導はあったかもしれないが久保田が南に手を出したことも、久保田の荒川に対する態度に南が腹を立てたことも自分自身で決めたことだ。まさか南が死を選ぶことまで予見することはできない。

 それでも安岡がそれを自分のせいだと感じていることは伝わってくる。好意を寄せていた荒川が南の死の責任を感じていることさえも自分のせいだと思っているかもしれない。

「アイを二乗するとマイナスになる……皮肉なものだな。君も荒川さんも、そして南さんももしかするとアイが深すぎたのかもしれない」

「……磐田先生。今となってはどうしようもないことです」

 安岡はうつろな目でそうこぼした。磐田と譲に一礼して、とぼとぼと男子寮の方に歩いていく。

 譲はその背中に死神の気配を感じた。

因果関係をどこに置くか……磐田が話した言葉だ。安岡は確かにそれを自分自身に置いていた。磐田に指摘されるまでは何とか取り繕っていたが、安岡は自責の念に今にもつぶされそうになっていた。荒川の処遇を見届けることだけが安岡が現世に留まる理由だった。

 それが終わったとき安岡は自らの手ですべてを終わりにするかもしれない。そんな不安が譲の脳裏によぎったが何と声をかけていいのかわからない。

「安岡くん‼」

 譲の靄がかかった気持ちを振り払うかのような大きな声が辺りに響く。それは譲が今まで聞いた磐田の声の中で一番の大きな声だった。

「……生きろ‼」

 その端的に伝えられた磐田の主張に安岡も思わず歩みを止めた。

 譲の心もなぜか大きく振るわされる。

「勝手に自分で人生の結論を決めるな! 自分が何のために生き、何をつぐない、何を残していくのかなんて簡単には見つからない。私も真実の先にある真理をまだ探している途中だ。だから……生きろ」

背中で聞いていた安岡が再び歩みを進める。だが、その背中から感じる雰囲気はさっきまでとは違っていた。自分の気持ちを相手に伝えるのが下手糞な男の真心から出た言葉は、安岡の背中にとりついた死神の気配までも吹き飛ばす。

 安岡が動きだしても、しばらく磐田はその場所で安岡の背中が小さくなるまで見送っていた。

 独り言のように「……戻るか」とつぶやいて、磐田はゼミ室に向かって歩き出した。その斜め後ろを譲は無言でついていく。

 大柄のくせに少し猫背の前を歩く男を見て、譲はやっぱりこの人とは合わないと思っていた。ひねくれ者の皮肉屋で、自分の興味のないことには関わろうとしない。それでいて尊大な態度でいつも上から目線、正直言って苦手な部類の人間だ。

 それでも以前ほど磐田徹という人間を嫌っていないことに気づく。どうしようもないところもたくさんあるのに神崎と同じように不思議とそばにいても嫌な気持ちはしなくなった。

 ……磐田先生、そんなこともわからないんですか?

 いつしか磐田に対してマウントを取る自分の姿を想像してみた。

「さっきから何をニヤニヤしている?」

 磐田に聞かれて譲はシャキッと体勢を立て直す。後ろ目でもあるのか油断も隙も無い。

連れだって歩く二人の傍らには「愛の訪れ」を花言葉に持つ花が、夕闇の中で力強く咲いていた。

                                       了