屋上に吹く生温い風がシャツの隙間から入り、汗ばんだ背中をひんやりとさせた。さすがの神崎もすぐには言葉が出てこなかった。

「自殺……南朋子が……」

 確かに可能性としては十分高いものだ。警察も当初は事故と自殺と二つの側面から捜査を行ったが、これと言って動機のようなものが出てこなかったことで捜査は事故の方に偏っていった。

「屋上にスマホを置いたのは捜査が自殺の方から外れていくように……だろ?」

 磐田は荒川の方に水を向けるが荒川は口を閉じたままだ。ただその表情からそれが見当外れのものではないことがうかがえる。

「うまく事故として処理してくれれば最善だ。だが、仮にそれを疑うものが出てきても殺人事件の方に捜査の目が行くように仕向けた」

「でもよ……ちょっと待ってくれよ。どうしてそこまで南の自殺を隠す必要があるんだよ? 結果的に荒川さんは嘘の自白までして罪を被ろうとしてるんだぜ。誰かをかばうためとは言え、そこまでする必要あるのか?」

 荒川が庇っているのはおそらく久保田であることは神崎もわかっている。だがいくら何でも自分自身を犯人に仕立て上げてまでそれを誤魔化すことは神崎には理解できなかった。

「それは俺たちがわかることじゃない……荒川さんに聞いてみないとな」

 磐田はうつむいたままの荒川に諭すように声をかける。譲や神崎も荒川の方を見るが荒川は黙ったまま何も語ろうとしない。しばらく様子を見るが事態は進展しそうにない。神崎が磐田に目配せをする。磐田はゆっくりと息を吐き、頑なな荒川の姿を見据えながら言葉を足していく。

「なるほど……どうやら俺の見立ては間違っていたようだな。今の君の姿を見てやっと解が出た。荒川さんは久保田くんをかばっているつもりなどなかったのだね?」

「どういうことですか?」

 その言葉は譲の想定とも違ったものだったので、思わず聞き返した。

「久保田くんは合意の元だと言っていたが、彼は無理やり、あるいはかなり強引に南さんを手籠めにした。そして、南さんは無理やりとは言え、久保田くんと関係を持ったことに後ろめたさを持って自ら命を絶った。南さんと荒川さんの会話の内容がどのようなものだったかは聞いてみないとわからないが、南さんは久保田くんのしたことを何らかの形で記録していたのだろう。そして、それが明るみに出ると久保田くんのせいで南さんが自殺したことになる。別れたとは言え、まだ想いの残っている荒川さんは事故に見せかけ、最悪自分が罪を被ることで久保田くんを守ろうとした。もしかしたらすでに就職の決まった久保田くんの将来まで案じてのことだったかもしれない……それが俺の見立てだった」

「……俺も同じように考えていました」

 譲も荒川が罪を被ろうとしているのは久保田を守るためだと考えていた。昨日の久保田の話を譲は信じていなかった。どれだけ口説かれたとしてもあの南が荒川の元カレである久保田に簡単になびくとは考えられない。久保田がかなり強引な手法を使ったと考えるのが普通だ。そうだとしたら南が久保田への恨みつらみを書き記した可能性は十分にありえる。

「もちろんそういった面もあったのかもしれない。事実、久保田くんは荒川さんが自分を庇ってくれていると思っているだろう。そう思っていながら事実を話さない久保田くんは最低だがな……」

 吐き捨てるように磐田が言った。感情の起伏自体はいつもどおり平坦だが磐田も久保田のことをよくは思っていないのだろう。

「因果関係をどこに置くか、考え方の相違だな。南さんの死という結果に対して原因をどこに見るのか……たぶん、荒川さんは南さんを責めてしまうようなことがあったのだろう。もちろん、無理やりとはいえ元恋人が関係を持ったのが妹のように目をかけていた後輩だ、気持ちはわからなくもない」

 譲はその状況を想像してみる。譲の中で悪いのは久保田だ。たとえ荒川が南に対してきつく当たったとしてもそれは仕方がないことだと思うし、その原因を作ったのは久保田だと思っている。

「だが、南さんの死という事実に直面した時、荒川さんはそれを自分のせいだと考えた。自分が南さんを責めさえしなければこんなことにならなかったと」

「……でもよ、それを言うなら久保田がちょっかいをかけなければこんなことにならなかったわけだろ? 久保田をかばうのは違うんじゃないか?」

 横から神崎が口挟む。

「世間一般には話が全て明るみに出たら久保田くんが非難されるだろうな。だが、それすらも自分のせいでここまで大事になったと思っている荒川さんにとっては自分の責任で防ぐべきものとなった」

「……そんな」

「因果関係をどこに置くか、考え方の相違と言ったはずだ。それが久保田くんなのか、荒川さんなのか、それとも……」

 磐田は少し含みのある言い方を行ったが、横から譲が大きな声でそれを否定した。

「それは違う! 荒川先輩のせいじゃない! それに荒川先輩が罪を被るなんてことを南さんが望んでいるはずがない」

 今まで見せたことがないほどの譲の迫力にうつむいていた荒川も顔を上げた。その瞳は微かにうるんでいる。

「俺は南さんとそこまで深いつながりあったわけではないけど、それでもどれだけ南さんが荒川先輩のことを大切に思っていたかはわかっている。あの飲み会の日も荒川先輩のことを自分のことのように話した南さんが今の先輩の姿を望んでいるはずがない。今回のことは不幸な事件だ。俺はやっぱり久保田先輩を許せないけど、久保田先輩にこのことをつきつけたところで南さんは返ってこない……だったらせめて南さんが大切に思っていた荒川先輩にこれ以上辛い思いをしてほしくはない」

 堰を切ったように感情があふれ出す。担当教官は違ったといえ哲倫ゼミの仲間として南朋子に対して今の譲がしてやれることは、すべてを抱え込もうとしている荒川を止めることだけだった。自殺を偽装して捜査をかく乱した荒川の罪がどれほどのものになるかわからない。でもその抱え込んだ重荷を解いてやることが自分に与えられた役割のような気がした。

「だからもう先輩がすべて抱え込まなくていい。間違ったのならもう一度やり直しましょう。南さんがちゃんと笑ってくれるやり方で」

 荒川の瞳に浮かんだ滴がこぼれ出して筋となる。決して似ている訳ではないのに譲の言葉に南朋子が重なった。限界まで張り詰めていた心は一度弾けるともう戻らない。梅雨入りが宣言されものの、もう一週間も雨が降っていない空を見上げた荒川が屋上のタイルを濡らし続けた。

 譲はもちろん、岩田も神崎も荒川を急かすようなことはしなかった。ある意味では荒川は被害者の一面も持っていた。せめて一人で抱え込んでいた感情をすべて流しきるぐらいの時間は与えてあげてもいい。

 地面に落ちた涙もすぐに乾いてしまう。午前中は暑さが増しだったが、また少し気温が上がってきたようだ。

「やっぱり……」

 空を見上げたまま荒川は小さな声で話だした。胸の奥から絞り出すような声は少しかすれている。

「朋子を殺したのは私です」

 苦しそうな表情を浮かべる荒川に磐田はいつもどおり淡々と言葉を返す。その抑揚のない平坦さが荒川にとって何よりの優しさだった。

「君がそう思うのは自由だ。俺は荒川さんが原因だと思っていないが、原因をどこに求めるかはそれぞれの考えがあっていい。それこそ世界そのものと俺たちの見る世界は違うのかもしれない」

 磐田は荒川がさっき述べたカントの純粋理性批判になぞらえる。

「だが、仮に罪を犯したのならそれをきちんと償うといい。南朋子が亡くなった原因が君なのなら南朋子がきちんと許してくれるやり方で償うしかない」

 一見厳しい言い方だが根本の想いは譲と何一つ変わらない。それに松本がこの場所にいても同じことを言っただろう。

「……話してくれないか? 荒川さん。あの夜君と南さんの間で何があったか」

 荒川が考え込む間、一瞬の静寂が屋上を包む。一度逸らした荒川の瞳が再び磐田と譲をしっかりととらえると荒川はゆっくりとあの日の事を話だした。


 ベッドサイドに置いたスマホが大きく音を立てて震えている。ベッドにうつぶせで伏せていた荒川はそれに手を伸ばした。初めは無視をしようとしたがマナーモードにしているのが意味のないぐらいの音を立てるスマホに根負けした。

 液晶の表示には「南朋子」と出ている。

 ついさっき一方的に話を切って自分の部屋に戻ってきた相手だ。しばらく液晶の画面を眺めてどうするか考えたが、最後は根負けする形で通話のボタンを押した。

 こんなことになるとは思っていなかった。自分はもっと冷静な女だと荒川は自分で思っていた。南が寮に帰ってきたさっきもそうだ。自分は安岡が拾ったというスマホを返したらそれ以上は余計な詮索をしないつもりだった。

 恋人だった久保田と南が一緒に消えたと聞いた時も、夕方になっても南が寮に戻ってこないことにも荒川自身は動揺していないつもりだった。久保田のふらふらする性格はわかったうえでつきあっていたし、南に対しては妹のようにかわいがってきた後輩だったので信頼をしていた。

 だからこそ女子寮に戻ってきた南がいきなり目の前で泣き出したことや、その南からアルコールの匂いと共に自分のよく知る香水の匂いがしてきたことにひどく動揺した。

 南が泣きながら事情を話す。だが、それは一つも荒川の頭に入らなかった。南が言い訳めいた事を言わなかった気持ちも、本当はすべて久保田が悪いことも少し冷静になった今ならわかる。

 でも、その時はだめだった。目の前の南と久保田のつける香水の匂い、視覚と嗅覚の不一致は荒川を混乱させた。心の奥では違うとわかっているのに口から出たのは南を非難する言葉だった。

たぶん人に対してあれだけ厳しい言葉を投げたのは初めてかもしれない。久保田の浮気に気づいた時も、別れ話をされた時も冷静な女を演じ続けていた。

荒川自身、南には甘えていたのかもしれない。厳しい言葉をぶつけて、そのまま一歩的に会話を切ると南を置いて部屋に戻ってしまった。

 時間が経つにつれ、激しい自己嫌悪が荒川を襲う。南の話にもう少し耳を傾ければよかったと後悔した。動揺しながら聞いた南の言葉を無理やり思い出す。南は謝っていたが本来、南は被害者だ。

 朋子に謝らないと……頭ではわかっているがやはり気持ちの整理がつかない。頭の奥が鈍い色のクレヨンで塗りつぶされたようだ。ベッドにうつぶせになったまま、ただ時間が流れるのを待っていた。南からの電話が荒川にかかってきたのは南と別れて十分ほどしてからだった。

「……さっきはごめん。朋子の方が辛かったはずなのに」

 胸の奥から絞り出した荒川の言葉を受けとめる南の声はもう泣いていなかった。淡淡と昨夜から今日にかけての事実を改めて話す。南の様子に若干の違和感を覚えつつも今度は南の言葉をしっかりと受け止める。

 一方的に荒川との関係に終わりをつげた久保田が許せなかったこと、その抗議のため久保田と話をしに久保田の部屋にいったこと、久保田はあまり強くない南を酔わせたうえで無理に襲ってきたこと、一度関係を持つとそれを荒川に話すと脅してさらに関係を強要してきたこと。まるで他人のできごとのように南は話す。

 淡淡と語る南に感情の色が戻ったのは改めて久保田が許せない、そして、何より結果的に荒川を傷つけた自分が許せないというくだりだった。そのころには荒川の気持ちはもう融けていた。南に対して過度な負担を与えてしまったことを後悔し、これ以上自分を責めないように伝えた。

 南こそ荒川以上に傷ついている。今すぐ南を抱きしめてあげたいと思った荒川は今から部屋に行っていいかと尋ねた。

 荒川の質問を聞いていなかったかのように南は荒川に謝罪の言葉を壊れたレコードのように繰り返している。南の異変に気づいた荒川は今どこにいるのか問いただした。スマホの奥から風の音が聞こえる。室内にはいないようだ。

 不吉な予感がして荒川は必死に南に呼びかける。しばらく無言が続いた。何度も何度も呼びかけて南からやっと帰ってきた言葉は部屋に久保田の行いを記した手紙を置いてあること、それをどうするかは荒川に任せるということ、そして最後に荒川に感謝の言葉だった。

 そこで突然切れた通信。

 背中に冷たいものを感じてすぐにかけ直す。呼び出し音は聞こえるがつながる気配がない。耳元で鳴り続ける呼び出し音の外で鈍い音が聞こえた。不吉な予感と共に窓の外をのぞく。

 あたりの暗闇と同じように荒川の心にも闇の帳が下りてきた。


 譲は目の前で起こったことのように荒川の話を想像して言葉を失くしていた。他の道はなかったのかと南のことを想い強く拳を握り締める。

「急いで私が下りた時にはもう朋子はこと切れていた……朋子を殺したのは私、私が朋子を責めなければ朋子が死ぬなんてなかった。いや、そもそも久保田くんに執着していたところからが私のだめなところだったのかも」

「いや……違うな」

 うつむいて言葉を詰まらす荒川に磐田が言い放つ。譲は何を言い出すんだと気が気でなかった。きっと磐田なら荒川にとどめを刺すような一言を言いかねない。

「君の一番の間違いはそうやって自分だけで抱え込んで真実を曲げようとするところだ」

 磐田のするどい指摘に自嘲気味に語っていた荒川は思わず小さく笑みを浮かべる。

「……厳しいんですね。こんな時でも」

 荒川の返しに珍しく磐田もニッと笑みを返した。

「ああ、真実に対してはね」

 変な慰めの言葉よりも荒川にとってはこの厳しさが何よりの救いだった。目の前の哲倫ゼミのアルキメデスに荒川は無言で一度うなずいた。

「南さんの部屋に行ったのも間違いないのか? 手紙とやらの内容は?」

 一応、事実確認はしておかないといけない。これ以上荒川に語らせるのは酷だとは思ったが、それを他の者にさせるわけにはいかないと神崎が荒川に尋ねる。

「はい、朋子のスマホを回収してから部屋に行きました。間違いありません」

 神崎の方に向き直し、はっきりとした口調で述べた。

「一応確認するが動機は?」

「……私のせいで朋子が死んで、さらに久保田くんの一生まで台無しにしてはいけないと思い、朋子の手紙を破棄しようと思いました」

「だけど、南さんを実際襲ったのは久保田くんだろ? 一定の責任は取るべきでは?」

「彼に一切の責任がないとは言いません。でも、私が朋子を責めることがなければこうはならなかった。実際、久保田くんは大変なことになったと後悔しています」

 後悔をしていたとしてもそれを正直に話さないのは、やはり身勝手な保身からだ。普通は元恋人がかばってくれていると知ったらそのまま甘えるなどありえないだろう。だが、そんな久保田のことを非難してもいまさらどうにもならない。譲が思っている以上に荒川は強情なところがあるようだ。

「暗かったので手紙だけ回収してそのまま屋上に向かいました。まさか朋子のスマホで灯りを取った時に花びらを落としているなんて思いもしなかったけど……その後はだいたい磐田先生の考えている通りです。屋上に朋子のスマホを落として事故に見せかけた。仮にそれに疑いをかけられることがあれば最後は自分が責任を負うつもりで」

「なるほどな。確かに容疑をかけられるとしたら女子寮、それに時間が時間だけに第一発見者の荒川さんだ。恋愛感情のもつれの動機もあるし、その荒川さんが犯行を認めたらそこで捜査は打ち切りになる。南さんの自殺と久保田くんの強要は闇の中って訳か」

 磐田と譲がいなかったらそうなっていたかもしれない。神崎は自分が発した言葉に背筋が冷たくなった。もともと自殺と事故の境目は難しい。明らかに自殺が疑われる場面でも何かそれを証明されるものがなければ警察の処理としては事件性のない事故として処理されてしまうこともある。

 神崎としてはホッとした部分がないわけではなかったが、荒川のことを思うとすっきり解決という気持ちにもなれなかった。

 神崎は磐田にまだ聞くことはあるのか? と目でうったえる。磐田は無言で右手を屋上の出入り口の方に向けて差し出した。

「……荒川綾菜、正式な罪名の方はどうなるか微妙なところだが被疑者として署まで同行願おうか」

 けじめとして神崎は改まった形で荒川に呼びかけた。荒川は静かにうなずき、岩田と譲に深く頭を下げてから神崎と並んで歩き出した。

 ……本当にこれでよかったのか?

 事件の真相は明らかになったが、去り行く荒川の背中を見つめる譲の心の靄は晴れない。どうすれば荒川の心を救えるのかわからないまま、気づけば荒川の背中に声をかけていた。

「……荒川先輩‼」

 譲の呼びかけに荒川は歩みを止めたが振り返らない。背中越しで荒川が今どういった表情でいるのかはわからないが、もう一度呼びかける。

「荒川先輩……自分のことを責めすぎないであげてください。きっと南さんもそう思っています。誰よりもあなたのことを大切に思っていたから……」

 屋上にすっと風が通り抜けた。優しい風が荒川の髪を揺らす。

「……朋子にも同じこと言われた」

 独り言のようにボソッとつぶやいてから荒川が再び歩き始めた。

 あまりにも深く相手を想う気持ちが思わぬすれ違いを招いた。二乗することでマイナスになるアイ……だが、目に見えないその存在によって世界は彩られている。

 磐田ではないが、人の知ることのできる世界のその先にある真実……もしそういったものが本当にあるのならそれを求めてみたい。屋上から去っていく荒川の背中を見ながらそんなことを譲は思っていた。