寮の前を通るメインストリートに出てからも磐田は無言のままだった。二時間目の講義が始まったばかりの時間なので学生の姿はまばらだ。少し後ろをついて歩く譲は磐田の背中を見ながら、磐田が不機嫌だった理由が何となくわかった気がした。荒川が部屋にいた
かどうか、荒川が現場で何をしていたかはすでに磐田の中では解決した問題だったのだ。

 磐田が本当に聞きたかったのはたぶん……。

「安岡先輩が南さんのスマホを拾った、磐田先生が本当に確認したかったのはそこなんですね?」

 磐田の歩みが一瞬止まった。だが、振り返りもせずにもう一度歩き出す。

「なぜそう思う?」

「さすがに昨日からずっと一緒なんで先生のやり方は覚えました。荒川先輩の時も久保田先輩の時もそうでした。磐田先生が本当に聞きたいことは他の質問が一段落して相手が気を抜いたところでぶつけることが多い」

 譲は歩みを少し早歩きにして磐田のすぐ横に並ぶ。磐田の口元が微かにほころんでいるのが見えた。

「それに安岡先輩の部屋に行く前に話してくれた仮説と先輩の話はほぼ一致していた。たぶん先生はすでに荒川さんが何をしていたのかまで想像がついている。だから安岡先輩からその先までの確認ができないのならそれ以上話を聞く必要がないと思った。どうですか?」

「……松本先生のところに戻る前にもう一度現場に寄るか」

 磐田は視線を隣の譲に移す。

「自分で確かめてみるといい」

 これは磐田からの挑戦状だ。先ほど磐田が不機嫌になっていたのは十分なヒントがそろっていたのに譲が磐田の考える「答え」にたどり着かなかったからだ。これまでもそうだ。磐田は譲に答えを与えるのではなく、時折支援しながらも、譲が自分で答えを導き出すように仕向けていた。

 哲学とはもともと「知を愛する」という言葉からなる。真実を求めるまでの過程そのものが、磐田が譲に課した講義のようなものかもしれない。

 女子寮の手前で左に折れて、南が落下した地点にたどり着く。三角のコーンで立ち入り禁止になっているが、昨日は張られていたような規制線や目隠しのようなものはすでに取り除かれている。昨日の時点では血液の飛び散っていたタイルもきれいにされていた。

 譲は腕を組み、地面を睨む。それでもよく目を凝らすと血痕は完全には消えていないので、ここが事故現場であったことは間違いない。昨日は生々しい血の跡にえづきそうになったが、慣れたのか感覚が鈍ったのか今日は大丈夫だ。

 地面に落としていた視線を女子寮の屋上のあたりに移す。昨日確認した南のスマホが落ちていたのはちょうど視線の先あたりだ。磐田は南が突き落とされたとは考えていないと久保田の部屋に行く前に言っていたが、南の死因が転落死であろうことは間違いない。だとしたら荒川はここで何をしていたのだろうか? 何かを探していた? 証拠の隠滅という言葉がすぐに浮かんできたが、荒川が犯人であるなら殺害後に現場に近づくべきではないし、そもそも抱きかかえて生存確認をするのもおかしい。

 では荒川が犯人でない場合どのようなケースがありえるか。考えられるのは同じく証拠の隠滅……それに犯行の偽装だ。荒川が真犯人を知っていてその人物をかばっている場合、その方が可能性としては高い。真犯人につながる何かに気づいた、あるいは捜査を混乱させるために荒川が何か細工をした、それならば荒川の不審な行動もありえる。譲は安岡の話を注意深く思い出した。

 その様子を少し離れて磐田は見ている。別に何かの指示を与えるでもなく腕を組みただ譲の様子を眺めている。

 しばらく屋上を眺めていた譲は視線を再び周囲に移す。安岡の話では近くの茂みのあたりにも入り込んで何かを探していたという。タイルで舗装された女子寮前の道と女子寮の間にある植え込みに目を移したとき、譲の目に昨日は気にならなかった鮮やかな紫が飛び込んできた。

 その視界に飛び込んできた紫がフラッシュバックのように譲の脳裏に浮かんだ映像を結びつける。屋上に転がっていたスマホ、現場で何かを探す荒川、南の部屋。断片的だった映像が途端に意味を持ちだした。

『愛の訪れ』……磐田が皮肉なものだなといった花言葉を思い出した。磐田はいったいどの時点から気づいていたのだろう。二乗するとマイナスになる虚数iは世の中を説明するうえでは大切だが実在はしないものである。

 植え込みの中で咲き誇るアガパンサスは真実にたどり着いた譲の心をえぐるかのように鮮やかな紫をしていた。