「アイを二乗するとマイナスになる」
濃紺のジャケットに身を包んだ磐田がペンを走らせながらつぶやく。
また始まった……と譲はため息をつく。別に乗らなくてもいいのに由香が言葉を返す。
「虚数の話ですか?」
確か高校数学でそんな言葉が出てきた。iであらわされる二乗するとマイナスになる数字だ。定義ぐらいは覚えているが文系の譲にとっては大学に入って以来無縁の存在だ。
「ああ、このアイが実際には存在しないというところがまた深いと思わないか?」
「考えたこともなかったです」
由香の反応に気をよくして磐田がさらに言葉を続ける。
「目に見えない、実在もしないものを仮定することで、現実を説明するのにずいぶんと都合がいい。これは数学の話だけでなく、人間という存在を考える上でも大切なことかもしれない」
磐田と由香の会話を聞き流しながら、そんなことないと心の中で舌打ちする。
もともと譲が入りたかったゼミではない。むしろ譲にとってはこの磐田ゼミが哲倫ゼミの中でも最も避けたいゼミだった。二回生に時に授業を受けたことがあったが、この磐田徹という准教授とはそりが合わない。
譲の通う関西教育大学の社会教育コースでは一、二回生の間は一般教養と社会科に関わる専門教養の授業を全般的に受ける。しかし、三回生になると専門教養のうちさらに細かく分野を選びいずれかのゼミに所属しなければならない。
日本史や世界史、あるいは法学などのゼミが学生には人気があったが、譲は何となく興味があったのと卒論の判定が緩く、研究の自由度も高いという理由から哲学・倫理学ゼミを選んだ。
そもそも近しい部分があるとは言え、哲学と倫理学を一つにまとめてしまうこともどうかと思うが、それもゼミ間のパワーバランスによるものだろう。
哲倫ゼミには磐田ゼミ以外に松本教授の松本ゼミ、倉内准教授の倉内ゼミがある。今年度は五人の三回生が哲倫ゼミに希望を出した。教授の希望も一応出せたが結果的に松本ゼミが一人、倉内ゼミと磐田ゼミに二人ずつという割り振りがされた。
『哲倫ゼミのアルキメデス』これが磐田徹に周囲がつけたあだ名だ。他の学部の学生からも譲が磐田ゼミだと伝えると「ああ、あのアルキメデスの!」という反応が返ってくることがある。
譲から言わせると「何がアルキメデスだ!」である。実際のアルキメデスは様々な発明や定理で人々の役にたったかもしれないが、こちらのアルキメデスは全くだ。磐田の研究は数学の定理から人生の真理を導き出すという何とも怪しげなものだった。カントについて学ぶ松本ゼミやデスエデュケーションの倉内ゼミと比べると人気がないのも仕方がない。
磐田は学生に何かを教えるというよりは自分の研究に没頭しているタイプだ。学生の研究テーマについて、とやかく口出しすることもなく、基本的に自由度が高い。その点は譲にとってもありがたかったが、少しは指導らしいこともしてほしい。ゼミとは名ばかりのゼミ室にそれぞれが集まり好きなことをしているというのが磐田ゼミの実態だった。
磐田ゼミに四回生はいない。譲たちの一つ上の学年もいたが三回生の途中で退学してしまった。原因は自由すぎる磐田ゼミの方針のもと、遊び惚けてそのままドロップアウトしたと噂されるが真相は定かではない。
三回生は譲以外にもう一人。譲のように選考もれではなく、自ら磐田ゼミを希望した川本由香はかなりの変わり者だと言えるだろう。ゼミが一緒になるまではあまり話したことはなかったが、明るい性格の由香は沈黙が支配しがちの磐田ゼミの潤滑油となっている。ただ磐田の独り言にもいちいち反応するので、その後のやりとりがめんどうくさい。
先日のゼミでのできごとも狂気じみていた。譲がゼミ室に入ると作業机の上に大量の計算ドリルが置かれていた。小学生が宿題で行うようなものだ。磐田がその計算ドリルを次々と一心不乱に解いている。譲もどういう意味があるのか気にはなったが、変にからんでややこしくなるのも嫌なので、本を出して読書を始めた。
そこに由香が遅れて入ってきた。入ってくるなり目の前の計算ドリルを見て、由香は「何これ? 計算ドリル?」と一冊持ち上げ、中身をパラパラとめくる。問題の内容から小学校三、四年生ぐらいの計算だ。
由香がパラパラと中身を覗いていたドリルを磐田は視線を手元に残したままひったくるように取り上げる。磐田は無言のまま筆算で書かれた二けたの割り算の問題をすごいスピードで解いていく。
「磐田先生、何をしているんですか?」
こらえきれず由香が尋ねる。相変わらず磐田の視線は動かず、ペンは次々と計算を解いていくがどこかその質問を待っていたかのようにも見える。
「見てわからないのか? 割り算をしている」
「割り算?」
「ああ、それもただの割り算じゃない。余りの出る割り算だ。分数の概念を習う前にはやっていただろ」
確かに分数で物事を考えるようになってからいつの間にか忘れていたが、小学校の計算では割り切れない割り算は商と余りの形で答えを表していた。
「でも、何で余りのある割り算をしているんですか?」
譲が浮かべたのと同じ質問を由香が磐田にぶつける。磐田はやれやれといった感じでゆっくりと説明を始める。それがまた譲には癇に障る。
「割り切れない割り算を行いながら、人生はなぜ割り切れないことばかりなのかを考えていたんだ。人生の真理というのは意外とこういうところに隠れているのかもしれない」
人生の真理を探究するのにわざわざ計算ドリルを行う必要はないと思うが、磐田については一事が万事この様子、「アルキメデス」のあだ名もそれを揶揄するものだ。このゼミに入って二ヶ月が経過していたが、譲は未だに磐田の性格をつかむことができていなかった。
二乗するとマイナスになる虚数の話がまだ磐田と由香の間で続いている。二人の会話を完全にシャットアウトして譲は本を読んでいた。周りの雑音をシャットアウトして読書する能力を身につけたことがこの二カ月の一番の成長かもしれない。
やりたいテーマはまだ何も決まっていないので、この二カ月は哲学、倫理学に関する本を手あたり次第読んでいる。譲はその中で何かテーマになりそうな物が見つかればいいと思っていたが今のところそこまで心惹かれる題材がない。
卒論を書きだすにはまだまだ時間があるが今年中にはテーマを決めたいところだ。四回生になると二カ月に一回、哲倫ゼミが集まっての卒論の中間発表会がある。三回生も来年のためにオブザーバーとして参加することになっている。今日も午後からがちょうどその日だ。哲倫ゼミではその発表会の後、懇親会という名の合同飲み会が開かれる。
四回生のいない磐田ゼミでもこの会のおかげで先輩や同級生とのつながりを持つことができる。譲や由香も哲倫ゼミ全体のオリエンテーションで四回生と顏を合わせたことはあるが飲み会は初めてだ。
昼からの中間発表会に向けて早めに昼食を取ろうと譲が席を立ったところで、ドアがノックされる。近くに立っていた譲が自然とドアを開けた。
「磐田先生はいるかい?」
ドアの外にいたのは准教授の倉内だった。
譲が中にいることを伝えると「失礼するよ」と言って、倉内は研究室内に歩みを進める。横を通り過ぎるとき独特な整髪剤の匂いがした。磐田ほどではないがこの倉内も譲は好きにはなれなかった。
磐田より少し年上なので四十代前半ぐらいだろうか? ジャケットの中はいつも少し派手目な色のシャツを着て、グリスで髪の毛をオールバックにしている。人当たりが悪いわけではないが長いものには巻かれろといった性格が透けて見え、教授の松本の顔色をうかがっている印象が強い。
由香と話を続けている磐田の前までやってくると「磐田先生」と声をかけた。
「昨日までに発表会の後の懇親会の参加人数を伝えてくれるよう頼んでいたはずだが?」
口調は丁寧だが倉内が磐田のことをよく思っていないことは見て取れる。
「一応、三人で店には連絡しているが当然君も来られるんだろうね?」
磐田は少し考え込んだそぶりを見せるが倉内とは視線を合わせない。落としていた視線を目の前の由香の方に移すとゆっくりと口を開く。
「参加はこの二人だ。悪いけど一人キャンセルしておいてくれ」
「おいおい、君は参加しないのかい?」
「うちは四回生がいないんだ十分だろ」
磐田の態度も態度だが倉内もそこにしつこくからんでいく。
「今回は三回生の顔合わせも兼ねているんだ。他のゼミの生徒も君と会うことを楽しみしているよ。たまには参加したらどうなんだ」
「……本当に楽しみならいつでもうちのゼミに遊びに来るように伝えておいてくれ。数学の問題を用意して歓迎するよ」
磐田の言葉に倉内はやれやれといったジェスチャーを見せて、「発表会には遅れず来てくれよ」と声をかけて踵を返した。ドアから出るとき譲に向かって小声で「君たちも大変だな」と声をかける。譲は軽く会釈して黙って見送るしかなかった。
三人の四回生の発表は譲からみると見事なものだった。その中でも松本ゼミの荒川綾菜のカントの「純粋理性批判」に関する松本教授とのやりとりは譲も含めて他の三回生も内容のほとんどが理解できなかった。
発表の間の休憩時に松本ゼミの三回生南朋子から聞いた情報によると荒川綾菜は松本も認める熱心さで、普段からかなり深い議論を松本と交わしているらしい。高校でも生徒会長をしていたという荒川を南はかなり慕っている様子だ。
一方、もう一人の松本ゼミの四回生久保田則明についてはあまりよく思っていないらしい。確かに久保田については人によって評価が分かれる。久保田の軽いノリを由香などは人当たりがいいと捉えていたが、この南は軽率で調子がいいとみているようだった。
実際、いち早く就職活動を終え、卒論もそれなりにこなす世渡りの上手さのようなものは雰囲気として出ていた。結局はこういった人間が得をするのだろう。
倉内ゼミ唯一の四回生は安岡拓真といった。久保田と対照的に朴訥なイメージの安岡は、言葉数は少なかったが好感が持てる。ゼミ室が同じ棟の並びにあるので哲倫ゼミの四回生三人の顔ぐらいは知っていたが、こうして話を聞くのは譲も初めてだった。
発表会の間は四回生のいない磐田ゼミはアウェー感もあって譲も緊張していたが、懇親会が始まって、各ゼミのメンバーが入り混じると多少その緊張もほぐれてきた。三回生は授業で一緒になることもあるので今までも話したことがある。
雑居ビルに入った居酒屋の奥座敷を貸し切って行われている懇親会で譲は松本ゼミの久保田、南と倉内ゼミの三回生日高と同じテーブルになった。日高は一回生のころから授業で一緒になることも多く、少しは話せる。
「先輩らの発表すごかったですね。俺、ほとんど意味不明だったっす」
日高が発表会の様子を振り返りながら言った。譲も同じ思いだったが日高が言うと少し軽い雰囲気になる。どちらかと言えば久保田に対してのよいしょにも聞こえる。
「全然あんなの大したことねえよ。俺はもう内定もらったしな。卒論なんて片手間でちょちょいとやっちゃって残りの学生生活をエンジョイするんだよ」
隣のテーブルにいる松本に聞こえないよう少し声を落としながら久保田が言う。
「先輩、もう就活終わってるんですか⁉」
「ああ、しかも伍星商事のな」
久保田が口にしたのは一部上場の有名総合商社の名前だった。アルコールが進んでいるうえに日高の驚きように気をよくしている様子だ。
「文系の学科、しかも哲倫なんてなかなか内定もらえないから早めに就活しといたほうがいいぜ」
「荒川先輩ももう就活終わってんすか?」
「綾菜先輩は大学院に進学予定だから」
今までほとんどしゃべっていなかった南が荒川の話になったとたん口を開く。
「哲学の研究を続けたいんだって」
「確かに松本先生との討論すごかったよな。あの松本先生の厳しい質問に負けてなかったからな」
譲はさっきの発表会での荒川の姿を思い出した。譲の言葉に南は嬉しそうにさらに続ける。
「綾菜先輩は本当に努力家で尊敬できるの。私にとっては昔からあこがれね」
「南は荒川先輩と高校同じだっけ?」
「ええ、高校時代からよくしてもらってる。この大学選んだのも実は綾菜先輩がいることが決め手だったし」
日高と話している南を見て譲は「こんなによく話す子だったか?」と思う。よっぽど荒川に心酔しているのだろう、荒川の話題になるといつになく饒舌になっている。話題の中心が荒川になったのが面白くないのか、久保田が無理やり会話に横入りしてきた。
「綾菜なんてただのガリ勉でおもしろくないやつだよ。それより……」
久保田が隣の南の肩に手を回す。
「俺の方がよっぽど将来性あっていいと思わねーか?」
強引に引き寄せようとした久保田の手を南が「やめてください」といって振り払う。一瞬、場に変な間ができたが日高が「先輩、セクハラはだめっすよ」と冗談に変えてごまかしてしまう。その場はそれで収まったが南を見る久保田の目が譲は少し気になった。
こじんまりした居酒屋の貸し切りにした二階の部屋ではテーブルが三つのグループに分かれていたが、酒が進むにつれていつの間にかメンバーが入り乱れていた。空いているビール瓶を見るだけでもかなりの量を全員が飲んでいる。松本教授はすでにウイスキーになっているし、安岡は発表準備での寝不足のせいか机に突っ伏して眠っている。
かくいう譲ももともと強くないのに久保田らに注がれてかなり酔いが回っていた。何度かトイレに立っては元の場所が他の誰かに奪われているといったことを繰り返し、気づけば松本、倉内、荒川が会話しているところに混ざらざるを得なくなってしまった。
恐る恐る荒川の横に座ると「大丈夫?」と声をかけてくれた。心配そうに顔をのぞき込む荒川に「大丈夫です。ありがとうございます」と返す。ふわふわとした感覚はあるが思考はまだはっきりしている。
「君は確か磐田先生のゼミだったな?」
「はい。柳瀬です」
「そうそう、昨年『哲学基礎講座』を受講していてくれたよね?」
松本が自分のことを認知してくれていたことに譲は驚いた。いつも前の方で受講していたが、受講生は五十人近くいたはずだ。
「今日の四回生の発表を聞いてどうだった?」
「……正直少し自信をなくしました。荒川先輩の発表なんてレベルが高すぎて。来年、俺が同じようにできるかなって」
「荒川さんは特に優秀だからね。ずいぶん前からテーマを決めていたし勉強熱心だ。ぜひとも見習ってほしい先輩だね」
二人の会話を聞いていた荒川がグラスを傾けながら手を振って謙遜している。
「松本先生が学生をこれだけ褒めることなんて珍しいぞ」
倉内も横やりを入れてくるので、荒川は困った表情を浮かべる。こういった控えめなところも好感が持てる。自分から注目をそらそうと荒川は譲に話を戻す。
「柳瀬くんはもう研究テーマとか決めているの?」
「……いや、まだ全く見当もついていないんです」
「どこぞの先生みたいに数式見て怪しげな研究に走るんじゃねーぞ」
倉内がふざけてヤジを飛ばす。それを横から松本がたしなめる。
「人の研究をとやかく言うのはよくないな。磐田先生の着眼点は非常におもしろいと私は思っているよ。いつの時代も先進的な人間は理解されないものだ」
松本の言葉に倉内はばつが悪そうにしている。
意外にも松本が磐田を高く評価していることに譲は驚いた。研究内容で言えば磐田のやっていることは異端だ。譲から見ても何の役に立つのかわからない研究だが、磐田の研究を真正面からきちんと受け止めようとする松本の器の大きさに感銘を受けた。
「君も自分が学びたいと思うテーマをしっかりとやったらいい。いろいろなことに挑戦できるのが若さの特権だ」
力強い松本の励ましに譲はうなずく。
「私は磐田先生の授業を受けたことがないんだけど、『哲倫ゼミのアルキメデス』に興味はあるわ。また今度一度ゼミに遊びに行かせてね」
懇親会が始まる前はどうなることかと思ったが磐田ゼミのことを気安く受け入れてもらえてよかった。別のテーブルを見ると由香も楽しそうに談笑している。磐田がいないことで初めは肩身の狭い思いをしていたが、案外磐田がいない方がややこしくなくてよかったのかもしれない。
同じ准教授の倉内は磐田のことを嫌って馬鹿にしているようだが、教授の松本の手前それ以降は磐田のことを話題に出さなかった。
あっという間に約二時間の懇親会は終わりを告げた。松本の締めのあいさつの後、懇親会は終了となるが、店の入っているビルの前で二次会の相談をするものや、トイレにたつもの、机に伏せているものなど混沌としている。かなりできあがっているものも多い中、譲は日高と協力して店の外への誘導を行った。
とりあえず座敷には人がいなくなったので日高には外の整理に行ってもらい、譲はトイレチェックを行うことにした。そういえばずいぶん前にトイレに立った安岡がトイレから帰ってきていない。もしかするとトイレでつぶれている可能性もある。
そもそも、ここのトイレの配置が少しややこしい。レジのある入り口とは別の奥の出口からスリッパを履き、廊下に出てビル内の共用のトイレにいかなければならない。
酔っぱらった誰かが残っていないか奥の出口から出たところで久保田と南が何やら言い合いしているのが見えた。譲は慌てて体をひっこめる。二人には気づかれていない。いけないとは思いながらも二人の様子が気になる。
「あいつのことは朋ちゃんには関係ないだろ?」
「……でも、ひどすぎます! 先輩は今でも」
南が言葉を続けようとするところに久保田が片手で壁に寄りかかり、もう一歩の手の人差し指を南の唇にあてる。
「それこそ朋ちゃんに関係のないことだ」
そのまま顔を近づけようとしてきた久保田に、南は「やめてください!」と肩を押して距離を取る。このまま飛びだそうかと一瞬迷ったが、それ以上強引にいく気配がなかったのでもう少し様子を見る。
完全に拒絶する南の態度に久保田はやれやれといったそぶりを見せる。久保田が大きくため息をつく。
「……わかったよ。ちゃんと訳を話すから場所を変えようぜ」
「本当にちゃんと話してくれるんですか?」
その目には疑いの色が見て取れる。
「大丈夫、大丈夫! ただし必ず一人で来いよ。そうじゃなきゃ俺は何にも話さないからな」
「……わかりました」
「それじゃあ、この店出て駅の方に向かう途中に公園があるからそこで話そう。邪魔が入るとややこしいからうまく他の奴らを撒いて来いよ」
南はとまどいの表情を見せながらもうなずく。それを見て南の肩をポンと叩いた久保田が薄ら笑いを浮かべながら歩き始めた。久保田がこちらに向かって来るのを見て、譲は慌ててもう一度扉を開け締めして、さも今トイレのために店から出てきたかのようにふるまう。
「お、柳瀬、便所か?」
話を聞かれていたともつゆしらず久保田が軽いノリで声をかけてきた。
「はい、安岡先輩が返ってこないので様子を見に来たんです。先輩、他のメンバーは二次会がどうだとか言ってましたよ」
譲の返事に「そっか」と言いながら鼻歌まじりに久保田が店の方に戻っていく。譲もそのまますれ違ってトイレの方に歩いていった。
「南さん……大丈夫か?」
「……柳瀬くん?」
南はまだ先ほどの場所で茫然としていた。譲はその南に軽く頭を下げる。
「ごめん……残っている人がいないか確認に来るときに話を少し聞いてしまったよ」
南は驚いた顔で譲の顔を見上げる。
「話の流れはよくわからないけど、あの先輩に一人でついていかないほうがいいんじゃないか? よく知らないけど正直、俺はあの先輩は苦手だわ」
「うん……私も嫌い」
そう言って南が譲に向かって精一杯の作り笑いを見せる。
「ありがとう。心配してくれて……私もそこまでバカじゃないから大丈夫」
「ならいいけど。無理すんなよ」
「うん、本当にありがとう。うちのゼミ同期がいなくて心細かったけど、こうやって同期とも仲良くなれてよかったよ」
先程までより少し表情明るくなった南が「みんなが心配するから戻ろっか」と言う。その前に安岡の様子だと譲が思い出してトイレに行こうとしたところで、壁にもたれながらふらふらと安岡が出てきた。
「先輩、大丈夫ですか?」
今にも倒れそうな安岡に肩を貸し、一旦、ビルの廊下に設置されているベンチに座らせる。南も心配そうに安岡のことをのぞき込む。
「ありがとう、迷惑かけてすまない。トイレで吐いたら少しマシになったよ」
「……あんまり大丈夫に見えないです。お水もらってきましょうか?」
「すまない。そうしてもらえるとありがたい」
まだかなり気持ち悪そうな安岡が頭を下げると、南は「気にしなくても大丈夫です」と言って安岡の隣にカバンを下ろして、水を取りに店の中に向かった。その間に譲は一応トイレチェックをしておく。もし粗相をしていたらお店に申し訳ないし、トイレに安岡が忘れ物をしていないとも限らない。
思っていたよりトイレはきれいな状態だったのが不幸中の幸いだった。戻ってくると水分を取って安岡もさっきよりは顔色がよくなっていた。隣で解放してくれている南に何度も頭を下げている。
少し休んでだいぶ体調の回復した安岡と三人で店の入っているビルから出てくる。ビルから出てきた譲に気づいた日高が「お疲れさん」と声をかけてきた。手を挙げて応える譲のところに日高が寄ってきて、肩を組んで端まで寄せてくる。
「朋子は俺が狙ってるのでよろしく」
小声で言う日高に譲はぷっと吹き出してしまう。
「了解。応援するよ」
笑顔で返すと日高も親指を立ててきた。
「何すみっこで男子同士でじゃれてんのよ! 二次会行くでしょ?」
由香と倉内ゼミのもう一人の三回生、斎藤ほのかが声をかけてくる。しばらくビル前でたむろしてたが、ようやくカラオケの部屋の空きも見つかったらしくゆっくり移動を始める。
「ああ、すぐ行く」
時刻はまだ十時前だ。ゼミには部屋を借りて一人暮らしや大学の寮に住んでいるものが多かったが、譲は実家通いだ。それでもまだ終電までには一時間半ぐらいは十分ある。教授の松本はすでにいなかったが、准教授の倉内はまだ残っている。
四回生の久保田はいつのまにかふらっといなくなっていた。荒川も帰ろうとしていたが、安岡がつぶれて戻ってきていないことを知り、気を使って残ってくれていた。ちょうど荒川も安岡も大学の寮に住んでいるので荒川が安岡を連れて帰ってくれることになった。
安岡は、自分は大丈夫なので荒川も二次会に行くように言っていたが、こんなときは女性の方が強い。無理やり安岡を言いくるめて、二人で帰ってしまった。
「朋子はどうするの?」
齋藤が南にも声をかける。少し迷ったそぶりをみせたが胸の前で「ごめん」と両手を合わせた。
「私もちょっと……明日朝から予定があって」
「そっか、じゃあ気をつけてね」
先ほどのことがあるので南の様子が気になったが、由香が「行くよ」と背中押してきたので、隣で残念そうにしている日高を連れてカラオケ店に向けて歩き出した。
大学構内で南朋子の死体が発見されたと聞いたのはそれから二日後の月曜日のことだった。
濃紺のジャケットに身を包んだ磐田がペンを走らせながらつぶやく。
また始まった……と譲はため息をつく。別に乗らなくてもいいのに由香が言葉を返す。
「虚数の話ですか?」
確か高校数学でそんな言葉が出てきた。iであらわされる二乗するとマイナスになる数字だ。定義ぐらいは覚えているが文系の譲にとっては大学に入って以来無縁の存在だ。
「ああ、このアイが実際には存在しないというところがまた深いと思わないか?」
「考えたこともなかったです」
由香の反応に気をよくして磐田がさらに言葉を続ける。
「目に見えない、実在もしないものを仮定することで、現実を説明するのにずいぶんと都合がいい。これは数学の話だけでなく、人間という存在を考える上でも大切なことかもしれない」
磐田と由香の会話を聞き流しながら、そんなことないと心の中で舌打ちする。
もともと譲が入りたかったゼミではない。むしろ譲にとってはこの磐田ゼミが哲倫ゼミの中でも最も避けたいゼミだった。二回生に時に授業を受けたことがあったが、この磐田徹という准教授とはそりが合わない。
譲の通う関西教育大学の社会教育コースでは一、二回生の間は一般教養と社会科に関わる専門教養の授業を全般的に受ける。しかし、三回生になると専門教養のうちさらに細かく分野を選びいずれかのゼミに所属しなければならない。
日本史や世界史、あるいは法学などのゼミが学生には人気があったが、譲は何となく興味があったのと卒論の判定が緩く、研究の自由度も高いという理由から哲学・倫理学ゼミを選んだ。
そもそも近しい部分があるとは言え、哲学と倫理学を一つにまとめてしまうこともどうかと思うが、それもゼミ間のパワーバランスによるものだろう。
哲倫ゼミには磐田ゼミ以外に松本教授の松本ゼミ、倉内准教授の倉内ゼミがある。今年度は五人の三回生が哲倫ゼミに希望を出した。教授の希望も一応出せたが結果的に松本ゼミが一人、倉内ゼミと磐田ゼミに二人ずつという割り振りがされた。
『哲倫ゼミのアルキメデス』これが磐田徹に周囲がつけたあだ名だ。他の学部の学生からも譲が磐田ゼミだと伝えると「ああ、あのアルキメデスの!」という反応が返ってくることがある。
譲から言わせると「何がアルキメデスだ!」である。実際のアルキメデスは様々な発明や定理で人々の役にたったかもしれないが、こちらのアルキメデスは全くだ。磐田の研究は数学の定理から人生の真理を導き出すという何とも怪しげなものだった。カントについて学ぶ松本ゼミやデスエデュケーションの倉内ゼミと比べると人気がないのも仕方がない。
磐田は学生に何かを教えるというよりは自分の研究に没頭しているタイプだ。学生の研究テーマについて、とやかく口出しすることもなく、基本的に自由度が高い。その点は譲にとってもありがたかったが、少しは指導らしいこともしてほしい。ゼミとは名ばかりのゼミ室にそれぞれが集まり好きなことをしているというのが磐田ゼミの実態だった。
磐田ゼミに四回生はいない。譲たちの一つ上の学年もいたが三回生の途中で退学してしまった。原因は自由すぎる磐田ゼミの方針のもと、遊び惚けてそのままドロップアウトしたと噂されるが真相は定かではない。
三回生は譲以外にもう一人。譲のように選考もれではなく、自ら磐田ゼミを希望した川本由香はかなりの変わり者だと言えるだろう。ゼミが一緒になるまではあまり話したことはなかったが、明るい性格の由香は沈黙が支配しがちの磐田ゼミの潤滑油となっている。ただ磐田の独り言にもいちいち反応するので、その後のやりとりがめんどうくさい。
先日のゼミでのできごとも狂気じみていた。譲がゼミ室に入ると作業机の上に大量の計算ドリルが置かれていた。小学生が宿題で行うようなものだ。磐田がその計算ドリルを次々と一心不乱に解いている。譲もどういう意味があるのか気にはなったが、変にからんでややこしくなるのも嫌なので、本を出して読書を始めた。
そこに由香が遅れて入ってきた。入ってくるなり目の前の計算ドリルを見て、由香は「何これ? 計算ドリル?」と一冊持ち上げ、中身をパラパラとめくる。問題の内容から小学校三、四年生ぐらいの計算だ。
由香がパラパラと中身を覗いていたドリルを磐田は視線を手元に残したままひったくるように取り上げる。磐田は無言のまま筆算で書かれた二けたの割り算の問題をすごいスピードで解いていく。
「磐田先生、何をしているんですか?」
こらえきれず由香が尋ねる。相変わらず磐田の視線は動かず、ペンは次々と計算を解いていくがどこかその質問を待っていたかのようにも見える。
「見てわからないのか? 割り算をしている」
「割り算?」
「ああ、それもただの割り算じゃない。余りの出る割り算だ。分数の概念を習う前にはやっていただろ」
確かに分数で物事を考えるようになってからいつの間にか忘れていたが、小学校の計算では割り切れない割り算は商と余りの形で答えを表していた。
「でも、何で余りのある割り算をしているんですか?」
譲が浮かべたのと同じ質問を由香が磐田にぶつける。磐田はやれやれといった感じでゆっくりと説明を始める。それがまた譲には癇に障る。
「割り切れない割り算を行いながら、人生はなぜ割り切れないことばかりなのかを考えていたんだ。人生の真理というのは意外とこういうところに隠れているのかもしれない」
人生の真理を探究するのにわざわざ計算ドリルを行う必要はないと思うが、磐田については一事が万事この様子、「アルキメデス」のあだ名もそれを揶揄するものだ。このゼミに入って二ヶ月が経過していたが、譲は未だに磐田の性格をつかむことができていなかった。
二乗するとマイナスになる虚数の話がまだ磐田と由香の間で続いている。二人の会話を完全にシャットアウトして譲は本を読んでいた。周りの雑音をシャットアウトして読書する能力を身につけたことがこの二カ月の一番の成長かもしれない。
やりたいテーマはまだ何も決まっていないので、この二カ月は哲学、倫理学に関する本を手あたり次第読んでいる。譲はその中で何かテーマになりそうな物が見つかればいいと思っていたが今のところそこまで心惹かれる題材がない。
卒論を書きだすにはまだまだ時間があるが今年中にはテーマを決めたいところだ。四回生になると二カ月に一回、哲倫ゼミが集まっての卒論の中間発表会がある。三回生も来年のためにオブザーバーとして参加することになっている。今日も午後からがちょうどその日だ。哲倫ゼミではその発表会の後、懇親会という名の合同飲み会が開かれる。
四回生のいない磐田ゼミでもこの会のおかげで先輩や同級生とのつながりを持つことができる。譲や由香も哲倫ゼミ全体のオリエンテーションで四回生と顏を合わせたことはあるが飲み会は初めてだ。
昼からの中間発表会に向けて早めに昼食を取ろうと譲が席を立ったところで、ドアがノックされる。近くに立っていた譲が自然とドアを開けた。
「磐田先生はいるかい?」
ドアの外にいたのは准教授の倉内だった。
譲が中にいることを伝えると「失礼するよ」と言って、倉内は研究室内に歩みを進める。横を通り過ぎるとき独特な整髪剤の匂いがした。磐田ほどではないがこの倉内も譲は好きにはなれなかった。
磐田より少し年上なので四十代前半ぐらいだろうか? ジャケットの中はいつも少し派手目な色のシャツを着て、グリスで髪の毛をオールバックにしている。人当たりが悪いわけではないが長いものには巻かれろといった性格が透けて見え、教授の松本の顔色をうかがっている印象が強い。
由香と話を続けている磐田の前までやってくると「磐田先生」と声をかけた。
「昨日までに発表会の後の懇親会の参加人数を伝えてくれるよう頼んでいたはずだが?」
口調は丁寧だが倉内が磐田のことをよく思っていないことは見て取れる。
「一応、三人で店には連絡しているが当然君も来られるんだろうね?」
磐田は少し考え込んだそぶりを見せるが倉内とは視線を合わせない。落としていた視線を目の前の由香の方に移すとゆっくりと口を開く。
「参加はこの二人だ。悪いけど一人キャンセルしておいてくれ」
「おいおい、君は参加しないのかい?」
「うちは四回生がいないんだ十分だろ」
磐田の態度も態度だが倉内もそこにしつこくからんでいく。
「今回は三回生の顔合わせも兼ねているんだ。他のゼミの生徒も君と会うことを楽しみしているよ。たまには参加したらどうなんだ」
「……本当に楽しみならいつでもうちのゼミに遊びに来るように伝えておいてくれ。数学の問題を用意して歓迎するよ」
磐田の言葉に倉内はやれやれといったジェスチャーを見せて、「発表会には遅れず来てくれよ」と声をかけて踵を返した。ドアから出るとき譲に向かって小声で「君たちも大変だな」と声をかける。譲は軽く会釈して黙って見送るしかなかった。
三人の四回生の発表は譲からみると見事なものだった。その中でも松本ゼミの荒川綾菜のカントの「純粋理性批判」に関する松本教授とのやりとりは譲も含めて他の三回生も内容のほとんどが理解できなかった。
発表の間の休憩時に松本ゼミの三回生南朋子から聞いた情報によると荒川綾菜は松本も認める熱心さで、普段からかなり深い議論を松本と交わしているらしい。高校でも生徒会長をしていたという荒川を南はかなり慕っている様子だ。
一方、もう一人の松本ゼミの四回生久保田則明についてはあまりよく思っていないらしい。確かに久保田については人によって評価が分かれる。久保田の軽いノリを由香などは人当たりがいいと捉えていたが、この南は軽率で調子がいいとみているようだった。
実際、いち早く就職活動を終え、卒論もそれなりにこなす世渡りの上手さのようなものは雰囲気として出ていた。結局はこういった人間が得をするのだろう。
倉内ゼミ唯一の四回生は安岡拓真といった。久保田と対照的に朴訥なイメージの安岡は、言葉数は少なかったが好感が持てる。ゼミ室が同じ棟の並びにあるので哲倫ゼミの四回生三人の顔ぐらいは知っていたが、こうして話を聞くのは譲も初めてだった。
発表会の間は四回生のいない磐田ゼミはアウェー感もあって譲も緊張していたが、懇親会が始まって、各ゼミのメンバーが入り混じると多少その緊張もほぐれてきた。三回生は授業で一緒になることもあるので今までも話したことがある。
雑居ビルに入った居酒屋の奥座敷を貸し切って行われている懇親会で譲は松本ゼミの久保田、南と倉内ゼミの三回生日高と同じテーブルになった。日高は一回生のころから授業で一緒になることも多く、少しは話せる。
「先輩らの発表すごかったですね。俺、ほとんど意味不明だったっす」
日高が発表会の様子を振り返りながら言った。譲も同じ思いだったが日高が言うと少し軽い雰囲気になる。どちらかと言えば久保田に対してのよいしょにも聞こえる。
「全然あんなの大したことねえよ。俺はもう内定もらったしな。卒論なんて片手間でちょちょいとやっちゃって残りの学生生活をエンジョイするんだよ」
隣のテーブルにいる松本に聞こえないよう少し声を落としながら久保田が言う。
「先輩、もう就活終わってるんですか⁉」
「ああ、しかも伍星商事のな」
久保田が口にしたのは一部上場の有名総合商社の名前だった。アルコールが進んでいるうえに日高の驚きように気をよくしている様子だ。
「文系の学科、しかも哲倫なんてなかなか内定もらえないから早めに就活しといたほうがいいぜ」
「荒川先輩ももう就活終わってんすか?」
「綾菜先輩は大学院に進学予定だから」
今までほとんどしゃべっていなかった南が荒川の話になったとたん口を開く。
「哲学の研究を続けたいんだって」
「確かに松本先生との討論すごかったよな。あの松本先生の厳しい質問に負けてなかったからな」
譲はさっきの発表会での荒川の姿を思い出した。譲の言葉に南は嬉しそうにさらに続ける。
「綾菜先輩は本当に努力家で尊敬できるの。私にとっては昔からあこがれね」
「南は荒川先輩と高校同じだっけ?」
「ええ、高校時代からよくしてもらってる。この大学選んだのも実は綾菜先輩がいることが決め手だったし」
日高と話している南を見て譲は「こんなによく話す子だったか?」と思う。よっぽど荒川に心酔しているのだろう、荒川の話題になるといつになく饒舌になっている。話題の中心が荒川になったのが面白くないのか、久保田が無理やり会話に横入りしてきた。
「綾菜なんてただのガリ勉でおもしろくないやつだよ。それより……」
久保田が隣の南の肩に手を回す。
「俺の方がよっぽど将来性あっていいと思わねーか?」
強引に引き寄せようとした久保田の手を南が「やめてください」といって振り払う。一瞬、場に変な間ができたが日高が「先輩、セクハラはだめっすよ」と冗談に変えてごまかしてしまう。その場はそれで収まったが南を見る久保田の目が譲は少し気になった。
こじんまりした居酒屋の貸し切りにした二階の部屋ではテーブルが三つのグループに分かれていたが、酒が進むにつれていつの間にかメンバーが入り乱れていた。空いているビール瓶を見るだけでもかなりの量を全員が飲んでいる。松本教授はすでにウイスキーになっているし、安岡は発表準備での寝不足のせいか机に突っ伏して眠っている。
かくいう譲ももともと強くないのに久保田らに注がれてかなり酔いが回っていた。何度かトイレに立っては元の場所が他の誰かに奪われているといったことを繰り返し、気づけば松本、倉内、荒川が会話しているところに混ざらざるを得なくなってしまった。
恐る恐る荒川の横に座ると「大丈夫?」と声をかけてくれた。心配そうに顔をのぞき込む荒川に「大丈夫です。ありがとうございます」と返す。ふわふわとした感覚はあるが思考はまだはっきりしている。
「君は確か磐田先生のゼミだったな?」
「はい。柳瀬です」
「そうそう、昨年『哲学基礎講座』を受講していてくれたよね?」
松本が自分のことを認知してくれていたことに譲は驚いた。いつも前の方で受講していたが、受講生は五十人近くいたはずだ。
「今日の四回生の発表を聞いてどうだった?」
「……正直少し自信をなくしました。荒川先輩の発表なんてレベルが高すぎて。来年、俺が同じようにできるかなって」
「荒川さんは特に優秀だからね。ずいぶん前からテーマを決めていたし勉強熱心だ。ぜひとも見習ってほしい先輩だね」
二人の会話を聞いていた荒川がグラスを傾けながら手を振って謙遜している。
「松本先生が学生をこれだけ褒めることなんて珍しいぞ」
倉内も横やりを入れてくるので、荒川は困った表情を浮かべる。こういった控えめなところも好感が持てる。自分から注目をそらそうと荒川は譲に話を戻す。
「柳瀬くんはもう研究テーマとか決めているの?」
「……いや、まだ全く見当もついていないんです」
「どこぞの先生みたいに数式見て怪しげな研究に走るんじゃねーぞ」
倉内がふざけてヤジを飛ばす。それを横から松本がたしなめる。
「人の研究をとやかく言うのはよくないな。磐田先生の着眼点は非常におもしろいと私は思っているよ。いつの時代も先進的な人間は理解されないものだ」
松本の言葉に倉内はばつが悪そうにしている。
意外にも松本が磐田を高く評価していることに譲は驚いた。研究内容で言えば磐田のやっていることは異端だ。譲から見ても何の役に立つのかわからない研究だが、磐田の研究を真正面からきちんと受け止めようとする松本の器の大きさに感銘を受けた。
「君も自分が学びたいと思うテーマをしっかりとやったらいい。いろいろなことに挑戦できるのが若さの特権だ」
力強い松本の励ましに譲はうなずく。
「私は磐田先生の授業を受けたことがないんだけど、『哲倫ゼミのアルキメデス』に興味はあるわ。また今度一度ゼミに遊びに行かせてね」
懇親会が始まる前はどうなることかと思ったが磐田ゼミのことを気安く受け入れてもらえてよかった。別のテーブルを見ると由香も楽しそうに談笑している。磐田がいないことで初めは肩身の狭い思いをしていたが、案外磐田がいない方がややこしくなくてよかったのかもしれない。
同じ准教授の倉内は磐田のことを嫌って馬鹿にしているようだが、教授の松本の手前それ以降は磐田のことを話題に出さなかった。
あっという間に約二時間の懇親会は終わりを告げた。松本の締めのあいさつの後、懇親会は終了となるが、店の入っているビルの前で二次会の相談をするものや、トイレにたつもの、机に伏せているものなど混沌としている。かなりできあがっているものも多い中、譲は日高と協力して店の外への誘導を行った。
とりあえず座敷には人がいなくなったので日高には外の整理に行ってもらい、譲はトイレチェックを行うことにした。そういえばずいぶん前にトイレに立った安岡がトイレから帰ってきていない。もしかするとトイレでつぶれている可能性もある。
そもそも、ここのトイレの配置が少しややこしい。レジのある入り口とは別の奥の出口からスリッパを履き、廊下に出てビル内の共用のトイレにいかなければならない。
酔っぱらった誰かが残っていないか奥の出口から出たところで久保田と南が何やら言い合いしているのが見えた。譲は慌てて体をひっこめる。二人には気づかれていない。いけないとは思いながらも二人の様子が気になる。
「あいつのことは朋ちゃんには関係ないだろ?」
「……でも、ひどすぎます! 先輩は今でも」
南が言葉を続けようとするところに久保田が片手で壁に寄りかかり、もう一歩の手の人差し指を南の唇にあてる。
「それこそ朋ちゃんに関係のないことだ」
そのまま顔を近づけようとしてきた久保田に、南は「やめてください!」と肩を押して距離を取る。このまま飛びだそうかと一瞬迷ったが、それ以上強引にいく気配がなかったのでもう少し様子を見る。
完全に拒絶する南の態度に久保田はやれやれといったそぶりを見せる。久保田が大きくため息をつく。
「……わかったよ。ちゃんと訳を話すから場所を変えようぜ」
「本当にちゃんと話してくれるんですか?」
その目には疑いの色が見て取れる。
「大丈夫、大丈夫! ただし必ず一人で来いよ。そうじゃなきゃ俺は何にも話さないからな」
「……わかりました」
「それじゃあ、この店出て駅の方に向かう途中に公園があるからそこで話そう。邪魔が入るとややこしいからうまく他の奴らを撒いて来いよ」
南はとまどいの表情を見せながらもうなずく。それを見て南の肩をポンと叩いた久保田が薄ら笑いを浮かべながら歩き始めた。久保田がこちらに向かって来るのを見て、譲は慌ててもう一度扉を開け締めして、さも今トイレのために店から出てきたかのようにふるまう。
「お、柳瀬、便所か?」
話を聞かれていたともつゆしらず久保田が軽いノリで声をかけてきた。
「はい、安岡先輩が返ってこないので様子を見に来たんです。先輩、他のメンバーは二次会がどうだとか言ってましたよ」
譲の返事に「そっか」と言いながら鼻歌まじりに久保田が店の方に戻っていく。譲もそのまますれ違ってトイレの方に歩いていった。
「南さん……大丈夫か?」
「……柳瀬くん?」
南はまだ先ほどの場所で茫然としていた。譲はその南に軽く頭を下げる。
「ごめん……残っている人がいないか確認に来るときに話を少し聞いてしまったよ」
南は驚いた顔で譲の顔を見上げる。
「話の流れはよくわからないけど、あの先輩に一人でついていかないほうがいいんじゃないか? よく知らないけど正直、俺はあの先輩は苦手だわ」
「うん……私も嫌い」
そう言って南が譲に向かって精一杯の作り笑いを見せる。
「ありがとう。心配してくれて……私もそこまでバカじゃないから大丈夫」
「ならいいけど。無理すんなよ」
「うん、本当にありがとう。うちのゼミ同期がいなくて心細かったけど、こうやって同期とも仲良くなれてよかったよ」
先程までより少し表情明るくなった南が「みんなが心配するから戻ろっか」と言う。その前に安岡の様子だと譲が思い出してトイレに行こうとしたところで、壁にもたれながらふらふらと安岡が出てきた。
「先輩、大丈夫ですか?」
今にも倒れそうな安岡に肩を貸し、一旦、ビルの廊下に設置されているベンチに座らせる。南も心配そうに安岡のことをのぞき込む。
「ありがとう、迷惑かけてすまない。トイレで吐いたら少しマシになったよ」
「……あんまり大丈夫に見えないです。お水もらってきましょうか?」
「すまない。そうしてもらえるとありがたい」
まだかなり気持ち悪そうな安岡が頭を下げると、南は「気にしなくても大丈夫です」と言って安岡の隣にカバンを下ろして、水を取りに店の中に向かった。その間に譲は一応トイレチェックをしておく。もし粗相をしていたらお店に申し訳ないし、トイレに安岡が忘れ物をしていないとも限らない。
思っていたよりトイレはきれいな状態だったのが不幸中の幸いだった。戻ってくると水分を取って安岡もさっきよりは顔色がよくなっていた。隣で解放してくれている南に何度も頭を下げている。
少し休んでだいぶ体調の回復した安岡と三人で店の入っているビルから出てくる。ビルから出てきた譲に気づいた日高が「お疲れさん」と声をかけてきた。手を挙げて応える譲のところに日高が寄ってきて、肩を組んで端まで寄せてくる。
「朋子は俺が狙ってるのでよろしく」
小声で言う日高に譲はぷっと吹き出してしまう。
「了解。応援するよ」
笑顔で返すと日高も親指を立ててきた。
「何すみっこで男子同士でじゃれてんのよ! 二次会行くでしょ?」
由香と倉内ゼミのもう一人の三回生、斎藤ほのかが声をかけてくる。しばらくビル前でたむろしてたが、ようやくカラオケの部屋の空きも見つかったらしくゆっくり移動を始める。
「ああ、すぐ行く」
時刻はまだ十時前だ。ゼミには部屋を借りて一人暮らしや大学の寮に住んでいるものが多かったが、譲は実家通いだ。それでもまだ終電までには一時間半ぐらいは十分ある。教授の松本はすでにいなかったが、准教授の倉内はまだ残っている。
四回生の久保田はいつのまにかふらっといなくなっていた。荒川も帰ろうとしていたが、安岡がつぶれて戻ってきていないことを知り、気を使って残ってくれていた。ちょうど荒川も安岡も大学の寮に住んでいるので荒川が安岡を連れて帰ってくれることになった。
安岡は、自分は大丈夫なので荒川も二次会に行くように言っていたが、こんなときは女性の方が強い。無理やり安岡を言いくるめて、二人で帰ってしまった。
「朋子はどうするの?」
齋藤が南にも声をかける。少し迷ったそぶりをみせたが胸の前で「ごめん」と両手を合わせた。
「私もちょっと……明日朝から予定があって」
「そっか、じゃあ気をつけてね」
先ほどのことがあるので南の様子が気になったが、由香が「行くよ」と背中押してきたので、隣で残念そうにしている日高を連れてカラオケ店に向けて歩き出した。
大学構内で南朋子の死体が発見されたと聞いたのはそれから二日後の月曜日のことだった。



