ピコン、と軽い電子音が鳴る。
佐々木悠真は制服のポケットからスマートフォンを取り出す。
『まだ帰ってないの? どこにいるの?』
それは幼なじみの桐生朱里からのメッセージだった。
悠真はそれはこっちのセリフだ、と心の中で呟く。だけど、その呟きが彼女に届くことはおそらくないのだろう。
そう考えると、全てがバカらしく思えてくる。
悠真は近くの公園のベンチに座って空を眺める。
都会の空は薄汚く、星の瞬きは田舎と比べると半分以下だ。生まれてからずっと都会で暮らしてきた優馬にとっては、この空こそ日常だった。
だからこそ、幼いときに家族で旅行に行った先でみた星空を忘れることができない。
隙間一つない、星の輝きで埋め尽くされた、満点の星空――。
手を伸ばせば一つくらい掴めるんじゃないかと思えるほどに、美しい光景だった。
昔のことを思い出しながら、悠真はもう一度メッセージアプリを起動する。
そこに表示されているのは、朱里の名前と受信時間。その時間はずっと昔を指していた。
先ほど届いたはずのメッセージは、今からずっと前に送られたものだった。
どうして今更、昔のメッセージが届いたのかというと、単純な話だ。
ある時から、このスマートフォンは充電切れを起こして、電源が落ちていたのだ。
そして、ようやく充電されたのが今日で、電源を入れたのがついさっきということだ。
だから、朱里からのメッセージは今、届いた。
手元の画面を見て、そっと文字をなぞる。
『まだ帰ってないの? どこにいるの?』
それは、数ヶ月前の嵐の夜に、送られたはずのメッセージだった。
*
その日は酷い嵐だった。
元々天気予報では記録的な大雨になることや、台風じゃないのに暴風警報が出るだろうと言われていた。
だけど、社会人になりたてだった悠真はそんなことで会社を休めるわけもなく。家を出る時は小雨だったから、きっとそんなに酷くなることはないだろうと楽観的に考えて家を出る。
隣の家には幼なじみである朱里が住んでおり、大人になった今でも二人の交友関係は続いていた。
悠真はそっと、彼女の家を覗き込んでみたが、今日は休みなのか窓にはシャッターが下ろされたままだった。
朱里が仕事の日はその窓から愛犬のポチ丸が見えるのだ。豆柴のポチ丸はまるで悠真の出社時間を正確に把握しているかのように、いつも窓からエゴで尻尾を振ってくれた。
そして、ポチ丸の後を追って、朱里が現れて、手を振ってくれるのだ。
優しく、柔らかく笑う彼女は、口パクで「行ってらっしゃい」と背中を押してくれる。
何気ない日常の一時が――彼女との短い逢瀬が悠真は大事だった。
近所で働く朱里と電車を乗り継いで都心で働く悠真とでは、学生の時のように時間の都合が合わなかった。だからこそ、その短い時間が悠真の心の支えになっていたのだ。
だからこそ、その日のようにポチ丸にも朱里にも会えない日はちょっとだけ朝が憂鬱だったりする。
一向に開く気配のない窓を見つめるのをやめて、悠真は仕事に向かって歩き出す。
後で、何かメッセージでも送ろうと考えながら。
だけど、実際にはメッセージはなにも送れなかった。
正確には通勤時間は満員電車に揺られ、出社すれば大量の仕事が待っていたのだ。
というのも、全て天気が悪いせいだった。
雨が降るからと通勤方法を電車に変えた人たちで、ただでさえ満員の電車はさらに人で溢れかえった。
また、嵐になることを見越して、リモートワークに切り替えた人がいたため、会社で働く悠真たちが割りをくったのだ。
解せない、そう思っても仕事は減らない。
悠真は黙々と目の前の書類の山を整理することから始めた。
*
昼休みを迎え、今度こそ朱里にメッセージを送ろうと思った矢先、上司から追加の案件を任されることになった。
どうしてこのタイミングなんだよ、と心の中で舌打ちをしながら、表面上では愛想笑いを浮かべる。
よく考えると、大人になるにつれて愛想笑いが上手くなったような気がする。
それまでは、気に食わないことがあるとすぐに喧嘩をふっかけては怪我をしていた。そして、その度に朱里が泣きそうな顔で手当をしてくれるのだ。
そんな顔をさせたいわけではなかったが、当時の悠真はどうすればいいのか分からずそっぽを向くばかりだった。
朱里のことを思い出していたら俄然、声が聞きたくなって困った。
だけど、まともな休憩を取ることもままならず、午後の仕事が始まる。
窓の外を見ると雨足は強くなる一方で、大きな雨粒が会社の窓ガラスを叩いている。風も強くなっているようで、獣の唸り声のような音がエアコンの駆動音の隙間から聞こえてくる。
――今日は帰れないかもしれないな。
そんなことを考えながら、パソコンに向き直る。
仕事は定時の五時を迎えても終わらなかった。本当であれば、今日こそ早く帰りたいところだったが、上司も残って仕事をしている手前、自分だけ帰るのは気が引けた。
そうして仕事していると気がつけば外は真っ暗だった。街はこの嵐で静まり返っており、人々は足早に帰路を急ぐ。
時間を見るとちょうど二十三時を示していた。周りには数人の同期と気安く話せる上司だけが残っていた。
「よう、仕事終わったか?」
声をかけてきたのは三本目のエナジードリンクを飲み干したばかりの上司だった。悠真はヘラっと愛想笑いを浮かべて小さく頷く。
「そっか、そっか。それなら何よりだ。全く、リモートワークもいいけど、会社に残される身にもなってほしいよな」
空になった缶を机に置かれた空き缶にぶつけて、カーンっと音を立てる。なにがおかしいのか上司はクマの濃い瞳でそれをみて笑っていた。
「そんな後輩くんに、残念なお知らせだ」
上司はおもむろにスマートフォンを取り出して画面を見せつけてきた。
そこには豪雨と突風の影響で電車が止まっているというお知らせが載っていた。
――やっぱり。今日は帰れそうにないな。
家に帰れなくなるのは別に初めてではない。だけど、その時ちょうど、朝から会うことも話こともできていない幼なじみを思い出す。
こういう疲れた日には彼女に会いたかった。
「全く、こんなに頑張ったのに神様もひどいよなぁ……あー、休憩室になんか食えるもんあったかな」
そう言うと上司はフラフラと立ち上がって会社の休憩室に消えていく。
二人の会話を聞いていた数人の同期もどうやって帰るか算段をつけるためにスマートフォンを触っていた。
その様子を横目に、悠真も自分のスマートフォンの電源をつけようとする。
しかし、ボタンを触っても、機体を傾けても、スマートフォンはうんともすんともいわなかった。
――最悪だ。こんな日に充電切れになるなんて……。それに俺、今日は充電器持ってきてないぞ。
これでは親に迎えを頼むことも、朱里にメッセージを送ることもできない。
とんだ災難だ、と思いながら、スマートフォンをカバンの中に投げ入れた。
――今日は諦めて、ここで朝を迎えるしかないか。
上司が消えていった休憩室に目を向ける。残っていた同期の三人のうち二人は帰る算段がついたのか、「お疲れ、また明日な」と言って帰っていく。
その後ろ姿を羨ましい気持ちで送り出しながら、悠真は今夜の過ごし方を頭の中で考える。
*
結局、会社から帰れたのは翌日の夜だった。
上司と同期と一緒に夜を明かしたのはなかなか面白い経験になった。
謎のテンションのまま、翌日の仕事もこなし、悠真は夜遅くに帰った。
嵐のような夜は一晩経つとすっかり晴れていた。しかし空が晴れても、都会の空に星は瞬かない。
「ただいまー」
悠真はくたくたになった体で這うようにして家に帰ると、母親の正美が走って玄関まで来た。
そして、鬼のようの形相で悠真を見てきた。
「あんた! 一体なにしてたのよ! 連絡も取れないし、昨日は帰ってこないし!」
「ご、ごめんって。昨日は電車が止まって帰れなかったし、スマホは充電なくなちゃったんだよ」
「そんなの、職場に充電器の一つや二つあるでしょうが!」
「無茶言うなって……職場の備品を勝手に使えるわけないだろ…………それよりも、なんでそんなにカッカしてるんだよ」
「あんた……あんた…………っ!」
正美はそのままその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。ボロボロと泣く姿に悠真も流石に焦った。母親が泣く姿なんて、長いこと見たことがなかった。
「帰ったか……」
渋い声が廊下の奥から聞こえてきて、悠真は顔を上げる。そこには難しい顔をした無精髭を生やした父親の雄大が立っていた。消防官である父親は無口で、多くは語らないタイプの人だった。
その人が、玄関まで悠真を迎えにきたことに驚きを隠せなかった。
「落ち着いて聞けよ」
雄大は泣き崩れる正美の背中を優しくさすった。そして、下から見上げるように悠真の瞳を覗き込む。
真っ直ぐに隠し事を暴くようなその瞳が、昔から悠真は苦手だった。
「なんだよ……連絡できなかったことは悪かったけど、俺だってもう大人だぜ。一晩くらい帰ってこなかったからって……」
「朱里さんが、昨日亡くなった」
「………………は?」
時が止まった。正確には悠真の頭が思考することを放棄した。
雄大がなにを言ったのか、本能的に脳が理解することを拒んだ。
それもしょうがないことだろう。だって、朱里が死んだなんて、そんな話――あっていいわけない。
「……え? ちょ、待ってくれよ……は? どういうことだよ。なんで……どうして朱里が死ぬんだよ」
フッと体から力が抜ける。その場に倒れ込みそうになったが、背中にあった扉に体を預けることでなんとか踏ん張った。
だけど、混乱する頭はまだ雄大の言葉を受け入れない。
「いや、おかしいだろ。だって、今日だって――」
今日だって朱里とやりとりをしたんだ、って言おうとして、ハッと口を塞ぐ。
バッとカバンを勢いよく開けるとそこに沈んだスマートフォンを取り出す。それはなんの反応も返さない、ただの箱に過ぎなかった。
――そうだ。充電が切れてて、昨日も今日もあいつと話してない……!
悠真は朱里の安否を一昨日を最後に、確認できていなかった。
確認できなかった間に、朱里が死んだのだとしたら――雄大の話は嘘ではなくなる。
ずるずると悠真はその場に座り込む。
理解も、感情も追いつかなかった。
だって、つい先日まで朱里は笑顔で過ごしていた。笑って悠真を見送ってくれていた。
それなのに、どうして今――?
「事故だったそうだ」
雄大の静かな声に悠真も顔をゆっくりとあげる。よく見ると、疲れ切った顔をしており、父親も相当なショックを受けていることがわかった。
仕事柄、人の死ぬ経験は人一倍あるはずなのに、雄大の心に一人の女性の死が影を落としていた。
悠真の家族に大きな影響を与えるくらい朱里の存在は佐々木家では大きかった。
「事故って……どうして……だって、昨日は嵐で、外に出ようなんて…………」
「お前を、迎えに行こうとしたんだそうだ」
雄大の言葉に悠真はなにも言えなくなる。彼女の死因が自分に関係していたなんて、どう受け止めればいいのか。
「あんたの、返信が……なくって。朱里ちゃんは……あんたのこと、心配してっ!」
ようやく少しだけ落ち着いたのか、正美が嗚咽を漏らしながら話す。
もうやめて欲しかった。
これ以上話を聞きたくなかった。
桐生朱里がもうどこにもいない話をしてほしくなかった。
そんな現実、嘘であれと心から願った。
しかし、現実は甘くはない。
朱里は実際に亡くなっていて。悠真はどんな顔をして朱里の家族に会えばいいか分からなくて。
だけど、朱里の家族はそれでも、悠真に最後の別れをしてほしいと願った。
悠真はその希望を叶えることがどうしてもできなかった。
木製の棺桶で静かに眠る朱里を見て、取り乱さない自信がなかった。
何回も朱里の家のインターホンを押そうとした。その度に手が震え、込み上げてくる吐き気に耐えられなかった。
そんな不甲斐ない悠真に、それでも朱里の家族は優しかった。
自分の娘を殺したと言っても当然の男に、朱里の家族は無理をしないで、と言ってくれたのだ。
情けない自分が恥ずかしかった。
そこまで想っていたのなら、どうしてもっと言葉を尽くさなかったのか。
どうして自分の気持ちを打ち明けなかったのか。
ずっと、ずっと好きだった。
その一言をなぜ言ってあげられなかったのか。
たくさんのどうしてを考えて、押しつぶされそうな後悔に苛まれる。
そうして、悠真は現実逃避をするように、彼女の面影を探して、夜の街を徘徊するようになった。
*
街の光がやたらと目につく。飲んだくれの調子のはずれた歌声や、チンピラの下品な笑い声が耳に障る。
夜の街は昼の街とは違って一気に治安が悪くなる。だから、悠真はこの時間があまり好きではなかった。
だけど、朱里は案外この時間も好きだったようで、たまに二人で飲みに行くと楽しそうに人間観察をしていた。
朱里曰く、人の本性がここには溢れているそうだ。
社会に抑圧された大人たちが、一時でも我を忘れて楽しそうに過ごしている様子を見ると自分も開放感を得られるとか。
正直に言えば、いい大人が羽目を外してケラケラ笑っていることのなにがいいのかは分からなかった。
だけど、彼女がいなくなってしまった今、その思い出が悠真の心を支えている。
好きではない夜の街も、彼女との思い出が詰まっている。だからこそ、何度もここに訪れてしまう。
どれだけ、過去を追いかけても、朱里はもう帰ってこないというのに――。
悠真は仕事終わりに会社近くの街や地元の飲み屋街を歩くのが日課になっていた。
日によっては終電すら逃し、いつまでも朱里の面影を探す。
そんな悠真の様子を両親は痛ましいものを見るように心配していた。特に、動揺していたとはいえ、自分の息子を責め立ててしまった負い目がある正美は、誰よりも胸を痛めていた。
両親の心配も、朱里の家族の心配も全てわかっていた。
だけど、悠真はこの行動を止めることができなかった。これをやめるということは、前に進むということだ。
言い換えれば、未来に進むとも言える。それはつまり、朱里という人間の死を過去のものにするということだ。
彼女の死を過去に追いやって、自分だけが未来を生きる。
そう考えると、彼女を殺した悠真にそんな権利はないように思えた。
だから、今日も悠真は夜の街を歩く。時間を見ると二十三時を過ぎていた。あと一時間もしないうちに、終電は目的地に向けて出発してしまうだろう。
悠真の想いも、朱里の死も置いていって。
悠真はいろんなことを考えて、気持ちが悪くなる。ふらふらと大通りから脇道に逸れるように移動する。
どこかの店の勝手口の前に座り込む。黄色の空き瓶が入ったケースの奥で、膝を抱えて丸くなる。
このまま、暗闇に溶けて消えてしまえればいいのに。
そうすれば、自分も朱里の下にいけるはずだ。そうでなければいけない。
グッと膝を胸に引き寄せて、腕の中にすっぽりと顔を埋める。
その時、背中にドンッと衝撃が走る。
「あ、ごめん。人がいるとは思わなかったんだ」
中性的な声が耳にスッと入ってくる。高くもなく低くもない。抑揚もあまりなく、耳障りな喧騒とは違い、とても心地よかった。
悠真は謝ってその場を離れようとした時、その人の顔を見て言葉を失った。
そこにいたのは、朱里に瓜二つな女性が、静かにタバコを蒸していた。
「…………あ、朱里?」
「朱里? ごめんね、その人のことは知らないや。お兄さんの大切な人?」
「あ、いや……すみません、こんなところに座り込んでて……」
朱里に似た女性はフッとタバコの煙を吐き出す。そして、にこりと妖艶に笑った。
「別に。構わないさ。それよりも、あんた、つかれてないかい?」
「え? あ、あぁ、ちょっとだけ……いや、疲れてないですよ。これくらい、平気です」
「ふーん、私にはそんな風には見えないけどね」
女性はそう言うと部屋の中へと戻ろうとする。
悠真は朱里に似たその人の背中を見送る。朱里に似た人に出会えただけ、今日は収穫があったと言ってもいいだろう。
そう考えて、ゆっくりとその場を立ち去ろうとする。すると、扉の向こうから女性が頭を出して、首を傾けていた。
「あれ? 来ないの?」
女性の言葉に悠真の足はぴたりと止まる。この人はなにを言ってるんだろう、と頭が混乱していると、女性はさらに言葉を紡いだ。
「あんたの話、聞かせてよ。あんたの抱えているもの、私も興味が湧いた」
女性は糸を手繰り寄せるように悠真に向かって手招きする。悠真は一瞬悩んだあと、朱里の面影があるこの女性と話がしてみたいと思った。
悠真が女性の方に一歩踏み出すと、彼女は満足そうに笑った。女性は笑うと右に笑窪ができるようだった。
――朱里とは違う。朱里は笑窪なんてできない……やっぱりこの人は朱里とは違うんだな。
朱里との違いに気がついた時、少しだけ心が重くなるような気がした。朱里はどこにもいないんだと、言われているようで涙が滲む。
「泣いてたらせっかくの男前の顔が台無しだよ、お兄さん」
ふわっと独特な匂いが鼻につく。気がついた時には目の前はタバコの煙で覆い隠されていた。
煙の向こうでは女性がジッと悠真の瞳を見ていた。
「さ、行こうか。ようこそ、私の館へ」
扉の向こうには照明が極限まで減らされて、薄暗い部屋が広がっていた。
どうやらお店の裏口だったようで、入ってすぐはキッチンだった。たくさんのグラスといろんな種類のお酒が埋め込み式の棚に並んでいた。
「……バー、ですか?」
「そうだよ。私はムーンライトっていう店のマスターをやってるのさ……さ、こっちに来て」
女性はキッチンからホールに悠真を連れて行く。カウンター席の真ん中に悠真を座らせると、キッチンにまた戻っていく。
手際よく、ドリンクを作る道具を取り出すと、ちらっと悠真の方を見た。
「お酒は大丈夫? 問題なければ、私の方で作っちゃうけど」
「大丈夫です。あっ、でも、そんなに今手持ちなくて……」
「気にしないで。私があんたに作ってあげたいだけだからさ。それでも気に病むっていうなら、ぜひうちをご贔屓にしてほしいかな」
揶揄うように笑った女性に悠真は少しだけ緊張を解いた。
「私はサラサって言うんだ。お兄さんの名前は?」
「俺は、悠真って言います」
「悠真、いい名前だね」
サラサは手元でメジャーカップにお酒をついではシェーカーに入れていく。完全に感覚で作っているようだったが、きっとレシピがあるのだろう。
その手つきは慣れており、見ていてスッと胸のつっかえが落ちていくようだった。
「どうして悠真はあそこにいたの? 失恋でもした? それとも、仕事でうまくいかなかった?」
マドラーでカラカラと数回かき混ぜると、再びシェーカーに液体を入れていく。
「……俺は、あそこには…………」
震える声で悠真は話し始める。しかし、朱里のことを思い出すと、声を奪われたようになにも言えなくなる。息が詰まって、喉に何かが張り付いているようだった。
「俺は…………」
それでも、悠真はサラサに全てを話してしまいたかった。両親や朱里の家族、知り合いでは話せないことも、見知らぬサラサになら打ち明けられる気がした。
「俺は、俺は……幼なじみを――殺してしまったんです」
言い切ったあと、悠真は顔を上げられなかった。サラサが――朱里と同じ顔をした彼女が、どんな顔をしているのかと考えるだけで、気分が悪くなる。
しかし、サラサはジュッとタバコの火を灰皿に押し付けて消すと、小さく「そうだったんだね」と呟いた。
あっさりとした返しに悠真はハッと顔をあげる。
サラサは優しく笑い、温かい眼差しで悠真を見ていた。その瞳には哀れみも、慰めもなかった。ただ、労いだけがそこにはあった。
「俺が、あの日ちゃんと、返事をしていたら……あの日、朱里に一言返していたなら。彼女は死ななくて済んだのかもしれないのに」
「そう……それで、あんたの一番の後悔はなぁに?」
その問いかけに悠真は口を閉ざす。
一番の後悔。悠真ができなかったこと。言えなかった気持ち。それは――。
「俺は、朱里に……なにも! なにも伝えられてないんだ!」
幼なじみという消えない絆に縋っていた。名前が変われば、朱里の隣に居られない気がして怖かった。
日和った悠真は、幼なじみという絆にあぐらをかいて、いつかこの気持ちが届けばいいと思っていた。
それが、あんな形で叶わなくなると知っていたら、もっと早くにこの気持ちを伝えていたのに。
もっと早くに、彼女に好きだと伝えていたのに。
「そう、それがあんたの一番の後悔だね」
スッと差し出されたグラスに悠真はハッと顔をあげる。顔はぐしゃぐしゃで、ダムが決壊したように涙がボロボロと溢れていた。
不細工な顔で呆然と出されたグラスを見つめる。濃い赤褐色の液体がゆらゆらと揺れている。
悠真が呆然とそのグラスとサラサを交互に見ていると、サラサはどこからかタバコの箱を取り出す。
箱からタバコを取り出すと、口に咥え、ライターを取り出す。銀製のライターの蓋をカチンと音を立てながら開けると、慣れた手つきで火をつける。
そして、タバコの先端に火をもっていくと、ジュッと音と共にタバコに火がつく。
一連の動作に見惚れていた悠真は、サラサがフッと煙を吐くことで意識を取り戻す。
「これはね、コープス・リバイバー。意味は知ってる?」
サラサはグラスの縁をなぞりながら、悠真に尋ねる。悠真はお酒は飲むが、バーのような小洒落た店には来たことがなく、カクテルについても詳しくなかったため首を横に振る。
すると彼女はわかっていたようにクスクスと笑う。顔は朱里にそっくりなのに、笑い方は全然違っていた。朱里はもっと静かに笑うから。
「コープス・リバイバー……意味は――《死んでもあなたと》」
その瞬間、店内の照明が数回瞬く。室内はどこからか冷風が吹いているのか、急激に寒くなり、ブワッと全身の鳥肌が立つ。
なにが起きたのか、呆然としていると隣に誰かが座った気がした。しかし、両隣には誰もいなくて、店内にも二人以外は誰もいなかった。
「な、なにが…………?」
「別名《死者を蘇らせるもの》――今、あんたの隣にその子はいるよ」
サラサの言葉に両隣をもう一度見てみるがそこには誰もいない。
からかわれたのかと思って思わずサラサを睨みつけた時、店のどこからかカタンという音が響いた。
「ちゃんといるよ。だから、否定したらダメだ。あんたはもう、後悔したくないんでしょ?」
「……!」
その言葉に導かれるように、悠真は心を落ち着ける。不思議とサラサが言うのなら、本当にそこにいるような気がする。
悠真は視線を彷徨わせてここにいるであろう朱里にかける言葉を探す。
言いたくても言えないその感覚は、悠真にとってお馴染みのものだった。
こんな時でも言わないつもりか、と強く唇を噛み締めると、口の端を切ってしまう。
血の味がじんわりと口の中に広がり、その苦味がさらに悠真を追い詰める。
目の前ではサラサが煙を蒸しながらジッと悠真の行動を見ている。その視線は背中を押すようなものではなく、ありのままの悠真を認めるような優しさがあった。
――あぁ、この人もきっと、何かを失ってしまったんだろうな。
そう考えると、少しだけ勇気が湧いてきた。
こんなどうしようもない感情を抱えているのは、自分だけじゃないと思うと、救われるようだった。
だから、悠真は震える唇を動かして言葉を紡ごうとした。
その瞬間、肩にぬくもりを感じ、少しだけくすぐったい気持ちになった。
「俺は…………俺はな。朱里に言いたいことがあるんだ」
朱里の天真爛漫な笑顔を思い出す。サラサのように笑窪は浮かばなくても、目元が柔らぎ、全身で好意を伝えてくれるその笑顔に、悠真はずっと救われていた。
一緒に過ごした学生時代も、大人になってすれ違いながらも少しずつ交流を進めていった時も、ずっと彼女のことだけが好きだった。
「朱里……ごめん…………」
帰り方なんて気にせずに夜まで遊んだ日は終電を逃してタクシーを使ったりもした。お互いの計画性のなさに笑い合ってみたり。
「俺な、朱里のことが……ずっと……ずっと――」
そっと誰かが抱きついてきたように背中に重みと暖かさが加わる。
その重さは、いつか泥酔した朱里を背負って帰った夜と一緒だった。二人でケラケラと笑って、星に手を伸ばした二人の思い出と重なる。
悠真はその重みに静かに涙を流す。そして、震える声で、ずっと伝えられなかったその気持ちを伝える。
「――ずっと、好きなんだ!」
過去形にはしない。だって、離れ離れになった今でも、大好きだから。
何回終電を見送っても、何回彼女との思い出を巡っても。その気持ちだけは色褪せることなくそこにある。
ずっと、悠真の心に深く残っている。
彼女のまっすぐの笑顔が、悠真の心に光を照らす。
悠真はボロボロと涙を流しながら、何度も何度も拭った。
あの日から一度もうまく泣けなかった悠真は、その日、大人にしてはみっともなく、でも、悲しみの連鎖から抜け出すように泣いた。
その様子を見ていたサラサはもう一度煙を吐き出すと、フッと笑った。
悠真に憑いていた彼女は、最後まで彼のそばに寄り添っていた。
その夜、やっと「さよなら」を言えた気がした。
*
スマートフォンで終電の時間を確認する。
時刻は深夜の二時を過ぎており、当然帰るための電車はもうなかった。
久しぶりに二人で飲んでいたら、気がつけばはめを外し、学生気分で飲み続けてしまった。
そのせいで終電を逃した二人は、駅のロータリーで途方に暮れていた。
電車も、バスも、タクシーもない。
朱里の頬はりんごみたいに真っ赤に染まり、楽しそうにヘラヘラと笑っている。
帰る算段もつかず、明日のことを考えると酔ってばかりもいられなかった。だけど、朱里のそんな楽しそうな姿を見ていると、なんだかどうでも良くなるから不思議だった。
悠真が今からでもタクシーが呼べないかと思って一瞬朱里から目を離すと、彼女はパンプスを脱いでくるくると回っていた。
彼女は今日、休みだったこともあって白いワンピースを身につけていた。
くるくると回るとそれに合わせてスカートもふんわりと広がる。その姿がまるで天使のようで、悠真は思わず見惚れてしまう。
何度だって、悠真は彼女のことを好きになる自信があった。
だけど、関係が変わるのが怖くてそのことを伝える勇気はなかった。
「ねぇ、悠真」
朱里の声にハッとする。朱里は回るのをやめて、星空に浮かぶ星のように眩しい笑顔を見せる。
「私たち、ずっと一緒にいられるといいね」
この先も、もっと先も、ずーっと――。
その言葉は未来への希望のようで、なぜか永遠の別れのようにも聞こえた。
悠真の大きく見開かれた両目からは、知らず知らずのうちに涙が溢れていた。
「私を忘れて、って言ってあげたいけど……きっとそれはできない」
すると朱里もうっすらと目に涙を溜めていた。
朱里はゆっくりと悠真に近づくと、そっとその体を抱きしめた。
「意地悪でごめん。悠真の未来を祈ってあげられなくてごめん。自分勝手でごめん。だけど――」
抱きしめる手に力がこもる。悠真も震える手で彼女のことを抱きしめ返す。
これ以上聞きたくなかったけど、朱里の言葉を聞かなければいけないこともわかっていた。
だってこれは、最初で最後のチャンスなのだから――。
「だけど、どうしても私のこと覚えていて欲しいの……!」
そう言うと朱里は悠真の腕の中でわんわんと泣き始める。その涙に引きずられるように、悠真もボロボロと涙を流す。
「わかってる……わかってるから……! 俺は、朱里のこと、絶対に忘れない。朱里のことずっと好きでいるから!」
二人はお互いの存在を確かめるように抱きしめ合いながら、泣き続ける。
その夜が終わっても、悠真の心には、彼女の笑顔が輝き続けていた。
*
グスグスと泣き続けていた悠真はいつの間にかカウンターで寝てしまっていたようだ。
なにか、とても大切な夢を見た気がした。
朱里と心が通じ合えたような、そんな夢を――。
悠真が起きたことに気がついたサラサはグラスを磨きながら言う。
「私も昔、大切な人失ったことがある。毎日後悔したし、毎日泣いていた……だけど、ある日気がついたんだ。失ったものは戻らない。生きているなら前を向いて歩いて生きなきゃって」
悠真は朱里の笑顔を思い出す。周りの人を幸せにするようなその笑顔が忘れられない。
サラサはタバコの煙を吐き、静かに続ける。
「私は朱里って子のことは知らない。だけど、あんたは知ってるはずだ――朱里って子がどれだけあんたを大事にしていたかってことを」
その言葉に悠真は大きく目を見開く。その瞳は出会った時のような虚なものではなく、キラっと星が瞬くように輝く。
「彼女の想いを胸に抱えて生きるのが、きっと彼女への答えだよ」
この先、悠真が一人で生きていくことは変わらない。だけど、彼女の言葉で悠真の心には小さな光が灯ったようだった。
そして、近くに朱里がいるような気がしたのは、悠真が彼女の笑顔を忘れていないからだと気がついた。
彼女の笑顔が、まだ心の中で生きてるからだ、と――。
「はは、あんたはもう大丈夫だね。さ、そろそろ夜明けだよ。早く帰んな。あんたを心配している人たちがいるだろう?」
悠真がスマートフォンで時間を確認するともう朝の六時を回っていた。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、俺は、朱里に伝えたいことを伝えられました」
「いいよいいよ。でも、もしも気になるなら、次はお客さんとして来てね」
優しく目元を柔げたサラサに悠真も優しく笑い返した。
あの日から笑い方を忘れていた悠真が、ちゃんと笑えた朝だった。
*
バーを出て、悠真はゆっくりと街を歩く。人気が少なくなった街に、朝日が差し込む。
悠真は《コープス・リバイバー》の意味を反芻する。
「朱里、俺、ちゃんと生きるよ。君の分まで――」
そうして、悠真はメッセージアプリを起動させる。
彼女の言葉を大切に眺めながら、ゆっくりと文字を打っていく。
その文字はもう二度と届くことはないけれど。
それでも、悠真はよかった。
悠真は朝日に背中を押されるように、一歩を踏み出す。
佐々木悠真は制服のポケットからスマートフォンを取り出す。
『まだ帰ってないの? どこにいるの?』
それは幼なじみの桐生朱里からのメッセージだった。
悠真はそれはこっちのセリフだ、と心の中で呟く。だけど、その呟きが彼女に届くことはおそらくないのだろう。
そう考えると、全てがバカらしく思えてくる。
悠真は近くの公園のベンチに座って空を眺める。
都会の空は薄汚く、星の瞬きは田舎と比べると半分以下だ。生まれてからずっと都会で暮らしてきた優馬にとっては、この空こそ日常だった。
だからこそ、幼いときに家族で旅行に行った先でみた星空を忘れることができない。
隙間一つない、星の輝きで埋め尽くされた、満点の星空――。
手を伸ばせば一つくらい掴めるんじゃないかと思えるほどに、美しい光景だった。
昔のことを思い出しながら、悠真はもう一度メッセージアプリを起動する。
そこに表示されているのは、朱里の名前と受信時間。その時間はずっと昔を指していた。
先ほど届いたはずのメッセージは、今からずっと前に送られたものだった。
どうして今更、昔のメッセージが届いたのかというと、単純な話だ。
ある時から、このスマートフォンは充電切れを起こして、電源が落ちていたのだ。
そして、ようやく充電されたのが今日で、電源を入れたのがついさっきということだ。
だから、朱里からのメッセージは今、届いた。
手元の画面を見て、そっと文字をなぞる。
『まだ帰ってないの? どこにいるの?』
それは、数ヶ月前の嵐の夜に、送られたはずのメッセージだった。
*
その日は酷い嵐だった。
元々天気予報では記録的な大雨になることや、台風じゃないのに暴風警報が出るだろうと言われていた。
だけど、社会人になりたてだった悠真はそんなことで会社を休めるわけもなく。家を出る時は小雨だったから、きっとそんなに酷くなることはないだろうと楽観的に考えて家を出る。
隣の家には幼なじみである朱里が住んでおり、大人になった今でも二人の交友関係は続いていた。
悠真はそっと、彼女の家を覗き込んでみたが、今日は休みなのか窓にはシャッターが下ろされたままだった。
朱里が仕事の日はその窓から愛犬のポチ丸が見えるのだ。豆柴のポチ丸はまるで悠真の出社時間を正確に把握しているかのように、いつも窓からエゴで尻尾を振ってくれた。
そして、ポチ丸の後を追って、朱里が現れて、手を振ってくれるのだ。
優しく、柔らかく笑う彼女は、口パクで「行ってらっしゃい」と背中を押してくれる。
何気ない日常の一時が――彼女との短い逢瀬が悠真は大事だった。
近所で働く朱里と電車を乗り継いで都心で働く悠真とでは、学生の時のように時間の都合が合わなかった。だからこそ、その短い時間が悠真の心の支えになっていたのだ。
だからこそ、その日のようにポチ丸にも朱里にも会えない日はちょっとだけ朝が憂鬱だったりする。
一向に開く気配のない窓を見つめるのをやめて、悠真は仕事に向かって歩き出す。
後で、何かメッセージでも送ろうと考えながら。
だけど、実際にはメッセージはなにも送れなかった。
正確には通勤時間は満員電車に揺られ、出社すれば大量の仕事が待っていたのだ。
というのも、全て天気が悪いせいだった。
雨が降るからと通勤方法を電車に変えた人たちで、ただでさえ満員の電車はさらに人で溢れかえった。
また、嵐になることを見越して、リモートワークに切り替えた人がいたため、会社で働く悠真たちが割りをくったのだ。
解せない、そう思っても仕事は減らない。
悠真は黙々と目の前の書類の山を整理することから始めた。
*
昼休みを迎え、今度こそ朱里にメッセージを送ろうと思った矢先、上司から追加の案件を任されることになった。
どうしてこのタイミングなんだよ、と心の中で舌打ちをしながら、表面上では愛想笑いを浮かべる。
よく考えると、大人になるにつれて愛想笑いが上手くなったような気がする。
それまでは、気に食わないことがあるとすぐに喧嘩をふっかけては怪我をしていた。そして、その度に朱里が泣きそうな顔で手当をしてくれるのだ。
そんな顔をさせたいわけではなかったが、当時の悠真はどうすればいいのか分からずそっぽを向くばかりだった。
朱里のことを思い出していたら俄然、声が聞きたくなって困った。
だけど、まともな休憩を取ることもままならず、午後の仕事が始まる。
窓の外を見ると雨足は強くなる一方で、大きな雨粒が会社の窓ガラスを叩いている。風も強くなっているようで、獣の唸り声のような音がエアコンの駆動音の隙間から聞こえてくる。
――今日は帰れないかもしれないな。
そんなことを考えながら、パソコンに向き直る。
仕事は定時の五時を迎えても終わらなかった。本当であれば、今日こそ早く帰りたいところだったが、上司も残って仕事をしている手前、自分だけ帰るのは気が引けた。
そうして仕事していると気がつけば外は真っ暗だった。街はこの嵐で静まり返っており、人々は足早に帰路を急ぐ。
時間を見るとちょうど二十三時を示していた。周りには数人の同期と気安く話せる上司だけが残っていた。
「よう、仕事終わったか?」
声をかけてきたのは三本目のエナジードリンクを飲み干したばかりの上司だった。悠真はヘラっと愛想笑いを浮かべて小さく頷く。
「そっか、そっか。それなら何よりだ。全く、リモートワークもいいけど、会社に残される身にもなってほしいよな」
空になった缶を机に置かれた空き缶にぶつけて、カーンっと音を立てる。なにがおかしいのか上司はクマの濃い瞳でそれをみて笑っていた。
「そんな後輩くんに、残念なお知らせだ」
上司はおもむろにスマートフォンを取り出して画面を見せつけてきた。
そこには豪雨と突風の影響で電車が止まっているというお知らせが載っていた。
――やっぱり。今日は帰れそうにないな。
家に帰れなくなるのは別に初めてではない。だけど、その時ちょうど、朝から会うことも話こともできていない幼なじみを思い出す。
こういう疲れた日には彼女に会いたかった。
「全く、こんなに頑張ったのに神様もひどいよなぁ……あー、休憩室になんか食えるもんあったかな」
そう言うと上司はフラフラと立ち上がって会社の休憩室に消えていく。
二人の会話を聞いていた数人の同期もどうやって帰るか算段をつけるためにスマートフォンを触っていた。
その様子を横目に、悠真も自分のスマートフォンの電源をつけようとする。
しかし、ボタンを触っても、機体を傾けても、スマートフォンはうんともすんともいわなかった。
――最悪だ。こんな日に充電切れになるなんて……。それに俺、今日は充電器持ってきてないぞ。
これでは親に迎えを頼むことも、朱里にメッセージを送ることもできない。
とんだ災難だ、と思いながら、スマートフォンをカバンの中に投げ入れた。
――今日は諦めて、ここで朝を迎えるしかないか。
上司が消えていった休憩室に目を向ける。残っていた同期の三人のうち二人は帰る算段がついたのか、「お疲れ、また明日な」と言って帰っていく。
その後ろ姿を羨ましい気持ちで送り出しながら、悠真は今夜の過ごし方を頭の中で考える。
*
結局、会社から帰れたのは翌日の夜だった。
上司と同期と一緒に夜を明かしたのはなかなか面白い経験になった。
謎のテンションのまま、翌日の仕事もこなし、悠真は夜遅くに帰った。
嵐のような夜は一晩経つとすっかり晴れていた。しかし空が晴れても、都会の空に星は瞬かない。
「ただいまー」
悠真はくたくたになった体で這うようにして家に帰ると、母親の正美が走って玄関まで来た。
そして、鬼のようの形相で悠真を見てきた。
「あんた! 一体なにしてたのよ! 連絡も取れないし、昨日は帰ってこないし!」
「ご、ごめんって。昨日は電車が止まって帰れなかったし、スマホは充電なくなちゃったんだよ」
「そんなの、職場に充電器の一つや二つあるでしょうが!」
「無茶言うなって……職場の備品を勝手に使えるわけないだろ…………それよりも、なんでそんなにカッカしてるんだよ」
「あんた……あんた…………っ!」
正美はそのままその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込む。ボロボロと泣く姿に悠真も流石に焦った。母親が泣く姿なんて、長いこと見たことがなかった。
「帰ったか……」
渋い声が廊下の奥から聞こえてきて、悠真は顔を上げる。そこには難しい顔をした無精髭を生やした父親の雄大が立っていた。消防官である父親は無口で、多くは語らないタイプの人だった。
その人が、玄関まで悠真を迎えにきたことに驚きを隠せなかった。
「落ち着いて聞けよ」
雄大は泣き崩れる正美の背中を優しくさすった。そして、下から見上げるように悠真の瞳を覗き込む。
真っ直ぐに隠し事を暴くようなその瞳が、昔から悠真は苦手だった。
「なんだよ……連絡できなかったことは悪かったけど、俺だってもう大人だぜ。一晩くらい帰ってこなかったからって……」
「朱里さんが、昨日亡くなった」
「………………は?」
時が止まった。正確には悠真の頭が思考することを放棄した。
雄大がなにを言ったのか、本能的に脳が理解することを拒んだ。
それもしょうがないことだろう。だって、朱里が死んだなんて、そんな話――あっていいわけない。
「……え? ちょ、待ってくれよ……は? どういうことだよ。なんで……どうして朱里が死ぬんだよ」
フッと体から力が抜ける。その場に倒れ込みそうになったが、背中にあった扉に体を預けることでなんとか踏ん張った。
だけど、混乱する頭はまだ雄大の言葉を受け入れない。
「いや、おかしいだろ。だって、今日だって――」
今日だって朱里とやりとりをしたんだ、って言おうとして、ハッと口を塞ぐ。
バッとカバンを勢いよく開けるとそこに沈んだスマートフォンを取り出す。それはなんの反応も返さない、ただの箱に過ぎなかった。
――そうだ。充電が切れてて、昨日も今日もあいつと話してない……!
悠真は朱里の安否を一昨日を最後に、確認できていなかった。
確認できなかった間に、朱里が死んだのだとしたら――雄大の話は嘘ではなくなる。
ずるずると悠真はその場に座り込む。
理解も、感情も追いつかなかった。
だって、つい先日まで朱里は笑顔で過ごしていた。笑って悠真を見送ってくれていた。
それなのに、どうして今――?
「事故だったそうだ」
雄大の静かな声に悠真も顔をゆっくりとあげる。よく見ると、疲れ切った顔をしており、父親も相当なショックを受けていることがわかった。
仕事柄、人の死ぬ経験は人一倍あるはずなのに、雄大の心に一人の女性の死が影を落としていた。
悠真の家族に大きな影響を与えるくらい朱里の存在は佐々木家では大きかった。
「事故って……どうして……だって、昨日は嵐で、外に出ようなんて…………」
「お前を、迎えに行こうとしたんだそうだ」
雄大の言葉に悠真はなにも言えなくなる。彼女の死因が自分に関係していたなんて、どう受け止めればいいのか。
「あんたの、返信が……なくって。朱里ちゃんは……あんたのこと、心配してっ!」
ようやく少しだけ落ち着いたのか、正美が嗚咽を漏らしながら話す。
もうやめて欲しかった。
これ以上話を聞きたくなかった。
桐生朱里がもうどこにもいない話をしてほしくなかった。
そんな現実、嘘であれと心から願った。
しかし、現実は甘くはない。
朱里は実際に亡くなっていて。悠真はどんな顔をして朱里の家族に会えばいいか分からなくて。
だけど、朱里の家族はそれでも、悠真に最後の別れをしてほしいと願った。
悠真はその希望を叶えることがどうしてもできなかった。
木製の棺桶で静かに眠る朱里を見て、取り乱さない自信がなかった。
何回も朱里の家のインターホンを押そうとした。その度に手が震え、込み上げてくる吐き気に耐えられなかった。
そんな不甲斐ない悠真に、それでも朱里の家族は優しかった。
自分の娘を殺したと言っても当然の男に、朱里の家族は無理をしないで、と言ってくれたのだ。
情けない自分が恥ずかしかった。
そこまで想っていたのなら、どうしてもっと言葉を尽くさなかったのか。
どうして自分の気持ちを打ち明けなかったのか。
ずっと、ずっと好きだった。
その一言をなぜ言ってあげられなかったのか。
たくさんのどうしてを考えて、押しつぶされそうな後悔に苛まれる。
そうして、悠真は現実逃避をするように、彼女の面影を探して、夜の街を徘徊するようになった。
*
街の光がやたらと目につく。飲んだくれの調子のはずれた歌声や、チンピラの下品な笑い声が耳に障る。
夜の街は昼の街とは違って一気に治安が悪くなる。だから、悠真はこの時間があまり好きではなかった。
だけど、朱里は案外この時間も好きだったようで、たまに二人で飲みに行くと楽しそうに人間観察をしていた。
朱里曰く、人の本性がここには溢れているそうだ。
社会に抑圧された大人たちが、一時でも我を忘れて楽しそうに過ごしている様子を見ると自分も開放感を得られるとか。
正直に言えば、いい大人が羽目を外してケラケラ笑っていることのなにがいいのかは分からなかった。
だけど、彼女がいなくなってしまった今、その思い出が悠真の心を支えている。
好きではない夜の街も、彼女との思い出が詰まっている。だからこそ、何度もここに訪れてしまう。
どれだけ、過去を追いかけても、朱里はもう帰ってこないというのに――。
悠真は仕事終わりに会社近くの街や地元の飲み屋街を歩くのが日課になっていた。
日によっては終電すら逃し、いつまでも朱里の面影を探す。
そんな悠真の様子を両親は痛ましいものを見るように心配していた。特に、動揺していたとはいえ、自分の息子を責め立ててしまった負い目がある正美は、誰よりも胸を痛めていた。
両親の心配も、朱里の家族の心配も全てわかっていた。
だけど、悠真はこの行動を止めることができなかった。これをやめるということは、前に進むということだ。
言い換えれば、未来に進むとも言える。それはつまり、朱里という人間の死を過去のものにするということだ。
彼女の死を過去に追いやって、自分だけが未来を生きる。
そう考えると、彼女を殺した悠真にそんな権利はないように思えた。
だから、今日も悠真は夜の街を歩く。時間を見ると二十三時を過ぎていた。あと一時間もしないうちに、終電は目的地に向けて出発してしまうだろう。
悠真の想いも、朱里の死も置いていって。
悠真はいろんなことを考えて、気持ちが悪くなる。ふらふらと大通りから脇道に逸れるように移動する。
どこかの店の勝手口の前に座り込む。黄色の空き瓶が入ったケースの奥で、膝を抱えて丸くなる。
このまま、暗闇に溶けて消えてしまえればいいのに。
そうすれば、自分も朱里の下にいけるはずだ。そうでなければいけない。
グッと膝を胸に引き寄せて、腕の中にすっぽりと顔を埋める。
その時、背中にドンッと衝撃が走る。
「あ、ごめん。人がいるとは思わなかったんだ」
中性的な声が耳にスッと入ってくる。高くもなく低くもない。抑揚もあまりなく、耳障りな喧騒とは違い、とても心地よかった。
悠真は謝ってその場を離れようとした時、その人の顔を見て言葉を失った。
そこにいたのは、朱里に瓜二つな女性が、静かにタバコを蒸していた。
「…………あ、朱里?」
「朱里? ごめんね、その人のことは知らないや。お兄さんの大切な人?」
「あ、いや……すみません、こんなところに座り込んでて……」
朱里に似た女性はフッとタバコの煙を吐き出す。そして、にこりと妖艶に笑った。
「別に。構わないさ。それよりも、あんた、つかれてないかい?」
「え? あ、あぁ、ちょっとだけ……いや、疲れてないですよ。これくらい、平気です」
「ふーん、私にはそんな風には見えないけどね」
女性はそう言うと部屋の中へと戻ろうとする。
悠真は朱里に似たその人の背中を見送る。朱里に似た人に出会えただけ、今日は収穫があったと言ってもいいだろう。
そう考えて、ゆっくりとその場を立ち去ろうとする。すると、扉の向こうから女性が頭を出して、首を傾けていた。
「あれ? 来ないの?」
女性の言葉に悠真の足はぴたりと止まる。この人はなにを言ってるんだろう、と頭が混乱していると、女性はさらに言葉を紡いだ。
「あんたの話、聞かせてよ。あんたの抱えているもの、私も興味が湧いた」
女性は糸を手繰り寄せるように悠真に向かって手招きする。悠真は一瞬悩んだあと、朱里の面影があるこの女性と話がしてみたいと思った。
悠真が女性の方に一歩踏み出すと、彼女は満足そうに笑った。女性は笑うと右に笑窪ができるようだった。
――朱里とは違う。朱里は笑窪なんてできない……やっぱりこの人は朱里とは違うんだな。
朱里との違いに気がついた時、少しだけ心が重くなるような気がした。朱里はどこにもいないんだと、言われているようで涙が滲む。
「泣いてたらせっかくの男前の顔が台無しだよ、お兄さん」
ふわっと独特な匂いが鼻につく。気がついた時には目の前はタバコの煙で覆い隠されていた。
煙の向こうでは女性がジッと悠真の瞳を見ていた。
「さ、行こうか。ようこそ、私の館へ」
扉の向こうには照明が極限まで減らされて、薄暗い部屋が広がっていた。
どうやらお店の裏口だったようで、入ってすぐはキッチンだった。たくさんのグラスといろんな種類のお酒が埋め込み式の棚に並んでいた。
「……バー、ですか?」
「そうだよ。私はムーンライトっていう店のマスターをやってるのさ……さ、こっちに来て」
女性はキッチンからホールに悠真を連れて行く。カウンター席の真ん中に悠真を座らせると、キッチンにまた戻っていく。
手際よく、ドリンクを作る道具を取り出すと、ちらっと悠真の方を見た。
「お酒は大丈夫? 問題なければ、私の方で作っちゃうけど」
「大丈夫です。あっ、でも、そんなに今手持ちなくて……」
「気にしないで。私があんたに作ってあげたいだけだからさ。それでも気に病むっていうなら、ぜひうちをご贔屓にしてほしいかな」
揶揄うように笑った女性に悠真は少しだけ緊張を解いた。
「私はサラサって言うんだ。お兄さんの名前は?」
「俺は、悠真って言います」
「悠真、いい名前だね」
サラサは手元でメジャーカップにお酒をついではシェーカーに入れていく。完全に感覚で作っているようだったが、きっとレシピがあるのだろう。
その手つきは慣れており、見ていてスッと胸のつっかえが落ちていくようだった。
「どうして悠真はあそこにいたの? 失恋でもした? それとも、仕事でうまくいかなかった?」
マドラーでカラカラと数回かき混ぜると、再びシェーカーに液体を入れていく。
「……俺は、あそこには…………」
震える声で悠真は話し始める。しかし、朱里のことを思い出すと、声を奪われたようになにも言えなくなる。息が詰まって、喉に何かが張り付いているようだった。
「俺は…………」
それでも、悠真はサラサに全てを話してしまいたかった。両親や朱里の家族、知り合いでは話せないことも、見知らぬサラサになら打ち明けられる気がした。
「俺は、俺は……幼なじみを――殺してしまったんです」
言い切ったあと、悠真は顔を上げられなかった。サラサが――朱里と同じ顔をした彼女が、どんな顔をしているのかと考えるだけで、気分が悪くなる。
しかし、サラサはジュッとタバコの火を灰皿に押し付けて消すと、小さく「そうだったんだね」と呟いた。
あっさりとした返しに悠真はハッと顔をあげる。
サラサは優しく笑い、温かい眼差しで悠真を見ていた。その瞳には哀れみも、慰めもなかった。ただ、労いだけがそこにはあった。
「俺が、あの日ちゃんと、返事をしていたら……あの日、朱里に一言返していたなら。彼女は死ななくて済んだのかもしれないのに」
「そう……それで、あんたの一番の後悔はなぁに?」
その問いかけに悠真は口を閉ざす。
一番の後悔。悠真ができなかったこと。言えなかった気持ち。それは――。
「俺は、朱里に……なにも! なにも伝えられてないんだ!」
幼なじみという消えない絆に縋っていた。名前が変われば、朱里の隣に居られない気がして怖かった。
日和った悠真は、幼なじみという絆にあぐらをかいて、いつかこの気持ちが届けばいいと思っていた。
それが、あんな形で叶わなくなると知っていたら、もっと早くにこの気持ちを伝えていたのに。
もっと早くに、彼女に好きだと伝えていたのに。
「そう、それがあんたの一番の後悔だね」
スッと差し出されたグラスに悠真はハッと顔をあげる。顔はぐしゃぐしゃで、ダムが決壊したように涙がボロボロと溢れていた。
不細工な顔で呆然と出されたグラスを見つめる。濃い赤褐色の液体がゆらゆらと揺れている。
悠真が呆然とそのグラスとサラサを交互に見ていると、サラサはどこからかタバコの箱を取り出す。
箱からタバコを取り出すと、口に咥え、ライターを取り出す。銀製のライターの蓋をカチンと音を立てながら開けると、慣れた手つきで火をつける。
そして、タバコの先端に火をもっていくと、ジュッと音と共にタバコに火がつく。
一連の動作に見惚れていた悠真は、サラサがフッと煙を吐くことで意識を取り戻す。
「これはね、コープス・リバイバー。意味は知ってる?」
サラサはグラスの縁をなぞりながら、悠真に尋ねる。悠真はお酒は飲むが、バーのような小洒落た店には来たことがなく、カクテルについても詳しくなかったため首を横に振る。
すると彼女はわかっていたようにクスクスと笑う。顔は朱里にそっくりなのに、笑い方は全然違っていた。朱里はもっと静かに笑うから。
「コープス・リバイバー……意味は――《死んでもあなたと》」
その瞬間、店内の照明が数回瞬く。室内はどこからか冷風が吹いているのか、急激に寒くなり、ブワッと全身の鳥肌が立つ。
なにが起きたのか、呆然としていると隣に誰かが座った気がした。しかし、両隣には誰もいなくて、店内にも二人以外は誰もいなかった。
「な、なにが…………?」
「別名《死者を蘇らせるもの》――今、あんたの隣にその子はいるよ」
サラサの言葉に両隣をもう一度見てみるがそこには誰もいない。
からかわれたのかと思って思わずサラサを睨みつけた時、店のどこからかカタンという音が響いた。
「ちゃんといるよ。だから、否定したらダメだ。あんたはもう、後悔したくないんでしょ?」
「……!」
その言葉に導かれるように、悠真は心を落ち着ける。不思議とサラサが言うのなら、本当にそこにいるような気がする。
悠真は視線を彷徨わせてここにいるであろう朱里にかける言葉を探す。
言いたくても言えないその感覚は、悠真にとってお馴染みのものだった。
こんな時でも言わないつもりか、と強く唇を噛み締めると、口の端を切ってしまう。
血の味がじんわりと口の中に広がり、その苦味がさらに悠真を追い詰める。
目の前ではサラサが煙を蒸しながらジッと悠真の行動を見ている。その視線は背中を押すようなものではなく、ありのままの悠真を認めるような優しさがあった。
――あぁ、この人もきっと、何かを失ってしまったんだろうな。
そう考えると、少しだけ勇気が湧いてきた。
こんなどうしようもない感情を抱えているのは、自分だけじゃないと思うと、救われるようだった。
だから、悠真は震える唇を動かして言葉を紡ごうとした。
その瞬間、肩にぬくもりを感じ、少しだけくすぐったい気持ちになった。
「俺は…………俺はな。朱里に言いたいことがあるんだ」
朱里の天真爛漫な笑顔を思い出す。サラサのように笑窪は浮かばなくても、目元が柔らぎ、全身で好意を伝えてくれるその笑顔に、悠真はずっと救われていた。
一緒に過ごした学生時代も、大人になってすれ違いながらも少しずつ交流を進めていった時も、ずっと彼女のことだけが好きだった。
「朱里……ごめん…………」
帰り方なんて気にせずに夜まで遊んだ日は終電を逃してタクシーを使ったりもした。お互いの計画性のなさに笑い合ってみたり。
「俺な、朱里のことが……ずっと……ずっと――」
そっと誰かが抱きついてきたように背中に重みと暖かさが加わる。
その重さは、いつか泥酔した朱里を背負って帰った夜と一緒だった。二人でケラケラと笑って、星に手を伸ばした二人の思い出と重なる。
悠真はその重みに静かに涙を流す。そして、震える声で、ずっと伝えられなかったその気持ちを伝える。
「――ずっと、好きなんだ!」
過去形にはしない。だって、離れ離れになった今でも、大好きだから。
何回終電を見送っても、何回彼女との思い出を巡っても。その気持ちだけは色褪せることなくそこにある。
ずっと、悠真の心に深く残っている。
彼女のまっすぐの笑顔が、悠真の心に光を照らす。
悠真はボロボロと涙を流しながら、何度も何度も拭った。
あの日から一度もうまく泣けなかった悠真は、その日、大人にしてはみっともなく、でも、悲しみの連鎖から抜け出すように泣いた。
その様子を見ていたサラサはもう一度煙を吐き出すと、フッと笑った。
悠真に憑いていた彼女は、最後まで彼のそばに寄り添っていた。
その夜、やっと「さよなら」を言えた気がした。
*
スマートフォンで終電の時間を確認する。
時刻は深夜の二時を過ぎており、当然帰るための電車はもうなかった。
久しぶりに二人で飲んでいたら、気がつけばはめを外し、学生気分で飲み続けてしまった。
そのせいで終電を逃した二人は、駅のロータリーで途方に暮れていた。
電車も、バスも、タクシーもない。
朱里の頬はりんごみたいに真っ赤に染まり、楽しそうにヘラヘラと笑っている。
帰る算段もつかず、明日のことを考えると酔ってばかりもいられなかった。だけど、朱里のそんな楽しそうな姿を見ていると、なんだかどうでも良くなるから不思議だった。
悠真が今からでもタクシーが呼べないかと思って一瞬朱里から目を離すと、彼女はパンプスを脱いでくるくると回っていた。
彼女は今日、休みだったこともあって白いワンピースを身につけていた。
くるくると回るとそれに合わせてスカートもふんわりと広がる。その姿がまるで天使のようで、悠真は思わず見惚れてしまう。
何度だって、悠真は彼女のことを好きになる自信があった。
だけど、関係が変わるのが怖くてそのことを伝える勇気はなかった。
「ねぇ、悠真」
朱里の声にハッとする。朱里は回るのをやめて、星空に浮かぶ星のように眩しい笑顔を見せる。
「私たち、ずっと一緒にいられるといいね」
この先も、もっと先も、ずーっと――。
その言葉は未来への希望のようで、なぜか永遠の別れのようにも聞こえた。
悠真の大きく見開かれた両目からは、知らず知らずのうちに涙が溢れていた。
「私を忘れて、って言ってあげたいけど……きっとそれはできない」
すると朱里もうっすらと目に涙を溜めていた。
朱里はゆっくりと悠真に近づくと、そっとその体を抱きしめた。
「意地悪でごめん。悠真の未来を祈ってあげられなくてごめん。自分勝手でごめん。だけど――」
抱きしめる手に力がこもる。悠真も震える手で彼女のことを抱きしめ返す。
これ以上聞きたくなかったけど、朱里の言葉を聞かなければいけないこともわかっていた。
だってこれは、最初で最後のチャンスなのだから――。
「だけど、どうしても私のこと覚えていて欲しいの……!」
そう言うと朱里は悠真の腕の中でわんわんと泣き始める。その涙に引きずられるように、悠真もボロボロと涙を流す。
「わかってる……わかってるから……! 俺は、朱里のこと、絶対に忘れない。朱里のことずっと好きでいるから!」
二人はお互いの存在を確かめるように抱きしめ合いながら、泣き続ける。
その夜が終わっても、悠真の心には、彼女の笑顔が輝き続けていた。
*
グスグスと泣き続けていた悠真はいつの間にかカウンターで寝てしまっていたようだ。
なにか、とても大切な夢を見た気がした。
朱里と心が通じ合えたような、そんな夢を――。
悠真が起きたことに気がついたサラサはグラスを磨きながら言う。
「私も昔、大切な人失ったことがある。毎日後悔したし、毎日泣いていた……だけど、ある日気がついたんだ。失ったものは戻らない。生きているなら前を向いて歩いて生きなきゃって」
悠真は朱里の笑顔を思い出す。周りの人を幸せにするようなその笑顔が忘れられない。
サラサはタバコの煙を吐き、静かに続ける。
「私は朱里って子のことは知らない。だけど、あんたは知ってるはずだ――朱里って子がどれだけあんたを大事にしていたかってことを」
その言葉に悠真は大きく目を見開く。その瞳は出会った時のような虚なものではなく、キラっと星が瞬くように輝く。
「彼女の想いを胸に抱えて生きるのが、きっと彼女への答えだよ」
この先、悠真が一人で生きていくことは変わらない。だけど、彼女の言葉で悠真の心には小さな光が灯ったようだった。
そして、近くに朱里がいるような気がしたのは、悠真が彼女の笑顔を忘れていないからだと気がついた。
彼女の笑顔が、まだ心の中で生きてるからだ、と――。
「はは、あんたはもう大丈夫だね。さ、そろそろ夜明けだよ。早く帰んな。あんたを心配している人たちがいるだろう?」
悠真がスマートフォンで時間を確認するともう朝の六時を回っていた。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、俺は、朱里に伝えたいことを伝えられました」
「いいよいいよ。でも、もしも気になるなら、次はお客さんとして来てね」
優しく目元を柔げたサラサに悠真も優しく笑い返した。
あの日から笑い方を忘れていた悠真が、ちゃんと笑えた朝だった。
*
バーを出て、悠真はゆっくりと街を歩く。人気が少なくなった街に、朝日が差し込む。
悠真は《コープス・リバイバー》の意味を反芻する。
「朱里、俺、ちゃんと生きるよ。君の分まで――」
そうして、悠真はメッセージアプリを起動させる。
彼女の言葉を大切に眺めながら、ゆっくりと文字を打っていく。
その文字はもう二度と届くことはないけれど。
それでも、悠真はよかった。
悠真は朝日に背中を押されるように、一歩を踏み出す。



