「それがマナソニックの始まり……」
松上幸助の話に瑞樹は思わず息を呑んだ。幸助が三十一の時と言うと今から六十六年も前のことだ。
「ああ、その日から改革党と私たちの戦いが始まった。やるべきことや乗り越えないこといけないことはたくさんあったよ。その中でも優先すべきことは二つあった。一つは改革党に支配されていないネットワークや電波帯を構築すること」
その必要性は瑞樹にもすぐ理解できた。ネットワークを支配されるということは、ありとあらゆる情報が筒抜けとなるということだ。組織が拡大すればするほど情報共有は大切だし、仮にGPSなどで動きを捕捉されてしまっては動きも取れなくなる。
「これについてはガラパゴス化していた日本の技術が有利に働いた。電波帯の割り当てなども余裕があって、改革党に支配されていない微量の電波帯の組み合わせで何とか組織内での情報のやりとりも行えた」
「瑞樹くんの持っているスマホに今つながっている電波もその研究の成果だよ。昨日、連絡した時に手動でネットワークをつなぎ直したでしょ? ここで未完成ANSの影響を受けないよう研究されていたものだよ」
隣のリンが幸助の言葉に説明をつけ足してくれる。瑞樹はポケットからスマホを取り出しうなずいた。昨日はシロの情報がなかったら捕まっていただろう。その情報の核となる技術にそのような歴史があったことを知らずに使っていた瑞樹は申し訳なくなる。
瑞樹の取り出したジョージ・サトウのスマホを見て、幸助は目を細めた。震える手を瑞樹の方に伸ばす。
「すまないが……手にとって見せてもらってもいいかね?」
幸助の言葉に瑞樹はうなずいてスマホを差し出す。瑞樹からスマホを受け取った幸助は愛おしそうにその画面をのぞき込む。アイナと戦い始めた日から六十年以上探し続けていたジョージ博士のスマホが今、こうやって幸助の手の中にある。
「先ほど話しかけた私たちが優先すべきことの二つ目がこのスマホを探すことだった。」
幸助が瑞樹にスマホを差し出す。それを自分が持っていていいのかと迷いながらも瑞樹はそれを両手で受け取った。
「祖父からアイナが受け取った手紙によると、ANSの完成のための最後のカギになる部分は改革党側でも把握していなかったのだという。その技術はジョージ・サトウが自身のスマホの中に保存しているところまではつかめていたが、ジョージ殺害の際にも改革党はそのスマホを見つけることができなかった」
「それってつまり……」
「ああ、ジョージ・サトウが自身のスマホを改革党に見つかる前に隠したのだろう。アイナが言っていたよ、事故の日の朝に残っていたジョージ博士からの不在着信はきっと何か大切なことを伝えようとしていたんだって」
瑞樹は改めて両手で受け取ったスマホを眺めた。このスマホに込められた様々な想いを知り、さっきまでよりも重たく感じる。
「スマホを探すことと並行してマナソニックでもANSと同じような装置を作れないかや、不完全な改革党のANSを完成させられないかの研究が行われていた。しかし、改革党の目を避けながらの研究は困難を極めたし、別会社を装って行った実験の一部が改革党に漏れて犠牲者が出たこともあった……」
幸助に代わって話し出した則がそこで言葉を一度止めた。則の拳にぐっと力が入る。一瞬、何か言いたそうなまなざしを瑞樹に向けたが、もう一度視線を足元に戻し言葉を続ける。
「だから、そのスマホは俺たちにとっての希望なんだ」
握りしめた則の拳が小刻みに揺れる。そこには言葉にできない今までの様々な苦労や想いが透けて見えた。だからこそ瑞樹はこのスマホを自分が見つけるべきではなかったと後悔した。
「……すみません、大切なスマホを俺なんかが見つけて。これ、お返しします」
瑞樹は頭を下げてスマホを差しだそうとした。それを幸助は掌を出して制する。則も無言でうなずいた。
「謝る必要はない。君が見つけてくれなければいつまでも見つからないままだったかもしれない。君が見つけたんだ、君が持っていればいい」
「……でも」
「祖父も昔よく言っていた。人にはそれぞれ持って生まれた天命があるってな。君が見つけたのならたぶんそういうことだろう。改革党に奪われずにここまで無事に運んでくれたのも君だ。君には十分に資格がある。もちろんそのスマホを調べさせてもらったり、協力はしてほしいがな」
幸助の言葉を聞いてもなお、瑞樹には迷いがあった。暗い表情の瑞樹を見て、則が優しく諭すように話し始めた。
「会長がいいというんだ、瑞樹くんが持っていればいいと思うよ。俺も君がジョージ・サトウのスマホを見つけ、マナソニックのオリジナルの電波帯の助けを借りてここまで来たことには何か運命めいたものを感じるよ」
「どういうことですか?」
「今、そのスマホにつながっている電波を開発したのは翔樹さん……君のお父さんだよ」
そういって目を細めた則の表情を見て、瑞樹はやはり父の写真に写っていたのはこの人だと確信を持った。瑞樹は父の仕事についてはマナソニックの技術者という認識しか持っていなかった。だが、則の口調からすると瑞樹の父もマナソニックの真の目的を知るうちの一人だったようだ。
「その顔はある程度、理解したようだな。君のお父さんもかつてマナソニックの会長室にいた。翔樹さんは俺の二代前の主任を務めていて、俺も若いころにかなり世話になったんだ。ちなみに小さいころの君に会ったこともある」
「……俺もどこかで会ったような気がしてました。家にあった父の写真に一緒に写っていたのが則さんだったんですね。でも、父がマナソニックの本当の姿を知っていたというのなら、父の事故は……」
瑞樹の問いかけに則は無言で首を振った。
「それはわからない。ただ……その可能性もなくはない。翔樹さんはそのころマナソニックの別会社を使ってどの電波帯までは改革党に悟られずに使用可能かの実験を繰り返していた」
決めつけはしていないが、その口調からは可能性が高いことがうかがえた。今までどこか遠い世界の話だった改革党の支配が急に身近なことに感じた。
「君のお父さんも科学技術の阻害を行い、技術を自分たちのためだけに使うことをよしと思っていなかった。君には君に想いもあるだろうが、もしできるのであれば俺たちと一緒に戦ってほしい」
「私からも改めてお願いするよ」
則に続いて、幸助も頭を下げる。
瑞樹は「やめてください! 頭を上げてください」と慌ててそれをやめさせる。大の大人が自分の前で頭を下げるのを見るのは瑞樹もつらい。ましてや人知れず世界を変えようと戦ってきた二人だ。
瑞樹の中で答えは決まっていたし、そもそも選びようがなかった。すでに改革党の中で瑞樹がインターネットにアクセスしたことは知れ渡っているし、昨夜は警察とカーチェイスまで繰り広げた。
平穏な日々などもうどこにもない。あとは瑞樹が自分自身で動くか、誰かが動いてくれるのを待っているかだけだ。
ただ瑞樹はもう知ってしまった。ここに至るまで多くの人生と想いがつながっていることを。そして、その輪の中に自分の父もいたことを。
瑞樹は自分自身に喝を入れるようにグッと拳に力を込めた。
「やります……俺にどれだけのことができるかわからないけど、一緒にやらせてください」
瑞樹は力強く宣言し、幸助たちに頭を下げる。幸助と則も顔を見合わせてうなずいた。幸助が改めて差し出した手を瑞樹ががっちりと握った。それをリンも嬉しそうに見ていた。
「それじゃあ、まずはジョージ博士のスマホを調べないとね。瑞樹くん、昨日聞かせてもらった博士の伝言をもう一度聞かせてもらえる?」
その場を取り仕切るようにリンが言った。瑞樹はスマホをすばやく右手の人差し指でタップする。一日でずいぶんとタッチパネルの捜査にも慣れた。画面を幸助と則の方に向けながら、ホーム画面からボイスメモのアプリを立ち上げた。
「昨日、家でも何かデータを残っていないか調べたのですが、残っていたのはこの音声データだけでした」
瑞樹が再生ボタンを押すと昨日から何度か聞いたジョージ・サトウの音声が流れ始める。何か大切なヒントが隠されていないか改めて注意深く聞くが、なにぶん情報量があまりにも少ない。
則も「これだけか」とつぶやいて腕を組んでいる。幸三も眉間にしわを寄せて考え込んでいるので、リンが何か手がかりになりそうなことがあったのか幸三に尋ねた。
「……いや、手がかりは特にない。ただ、これは間違いなくジョージ博士だ。もう八十年も前のことだがこの声は聞き間違えることはない……こうしてずっと私たちを待っていてくれたんだな」
思わず潤んでしまった目元を幸助は拭う。このメッセージを聞くまでにアイナも亡くなり、幸助もずいぶんと歳をとった。流れていった歳月を思うと幸助はやるせない気持ちになった。
「他には手がかりはなかったのか?」
腕を組んだ則が瑞樹に聞く。
「あとはアイナの電話番号だけが残されていて……リンからの着信にはアイナって名前が表示されていました」
「ひいおばあちゃんが使ってたやつね」
「ああ。あとは俺の見た限り手がかりになりそうなものはありませんでした」
瑞樹の返事に則は落胆した様子を見せながら「少し見せてもらっていいか?」といって瑞樹からスマホを受け取った。則自身もスマホを扱うのは初めてなのでぎこちない様子で画面をタッチしながら中身を確認する。
「……さすがにそんなわかりやすいところにANSの情報を入れてないか」
則は独り言のようにつぶやいた。ジョージ・サトウのスマホさえ見つかるとトントン拍子に事態が進むと思っていたがそこまで甘くはなかったようだ。落胆する則を励ますように幸助が言葉をつなぐ。
「だが、このスマホをコスモスタワー運んでほしいということは何らかの手立てがうたれているはずだ」
「一度、しっかり解析にかける必要がありそうですね」
則と幸助は真剣な面持ちでスマホの画面をのぞき込んでいる。それを見ていたリンが「ねえねえ」と瑞樹をつつく。
「シロに聞いてみたら何かわかるんじゃない?」
「そうか……確かにシロがジョージ・サトウから何か指示を受けている可能性はあるな」
スマホが改革党側に先に発見される可能性もあるなら通常のアプリに情報を入れておくことは危険だ。高性能なスマホの割にアイナの番号とジョージ博士からのメッセージ以外の情報がなかったのもこのあたりのことを考慮してのことかもしれない。
その点、人工知能のシロになら、ある程度条件を伝えておけば博士にとって都合の悪い情報を漏らさずに済むだろう。
瑞樹は幸助に断りを入れてスマホを預かり、声をかけてシロを起動させた。音声認識が珍しかったのか則も身を乗り出してスマホの画面をのぞき込む。
『何か御用ですか? 瑞樹様』
機械の音声とは思えない滑らかな声でシロが要件を聞く。
「ANSについてジョージ・サトウから何か聞かされていないか? 具体的にコスモスタワーに行って何をすればいいんだ?」
瑞樹の質問にシロは少し考え込むように間をあけた。リンたちもシロの様子に注目しながら待つ。
『申し訳ございませんがANSについての細かな内容については答えかねます。正確に伝えると今の段階ではですが……』
「どういうことだ?」
『ジョージ博士が作成されたANSについてのファイルはありますが、そのファイルを開くための鍵となるデータとは別になっています。機密が簡単に漏れないようにするためのジョージ博士の配慮です』
瑞樹たちの予想通りジョージ・サトウはANSのデータを分割して保存しているようだ。
「その鍵のありかはわかるのか?」
『はい……というよりどちらかというとこちらが鍵になります』
「鍵? このスマホがってことか?」
『はい。メインとなるデータが保存されているのがコスモスタワーになります。すでに博士はコスモスタワーに設置されたスパコンに完成版のANSのシステムを組み込んでいました。あとは起動のための鍵だけですがそれがこのスマホに組み込まれています』
「つまりコスモスタワーにこのスマホを持っていきさえすれば完成版のANSを作動させることができるってことか」
シロの話に横から則が口を挟んできた。
マナソニックのメンバーからするとスマホを解析してジョージ博士のデータを調べたうえで、ANSの実用化に向けての研究を重ねなければならないつもりだったので、ずいぶんとやることが楽になった。
いつか改革党の本体に突入することも考え、北港周辺の調査は長年続けてきた。間の工程がなくなったことで一気に時の流れが加速した感じだ。
『スパコンにアクセスする必要はありますが、それさえできれば今の不完全なANSを完全なものに変えるだけなので、すぐにでもできると思います。ただ、スパコンの仕様が大きく変わっていて、アクセスへの防御もかなり強くなっている可能性が高いので解析と突破に時間はかかると思います』
「……GODか」
幸助がため息まじりにつぶやいた。
「GOD?」
瑞樹が聞き返す。リンと則の方に目をやるが二人も知らないとばかりに首を振る。
「GOD……通称ゴッドと呼ばれる改革党の中心部となるスーパーコンピューターだよ。改革党がネットワークを支配して集めたビッグデータがすべてそこに集約されている」
「つまり改革党の心臓部ってわけだ」
「ああ、祖父の残した記録によるとあれにはハル・カンザキが改良を加えたAIが搭載されている。今までも何度か別会社を使ってハッキングを試みたがすべて失敗に終わってしまった。あのスパコンの防御を突破するのはなかなか厳しいぞ」
「そもそも、そんな優秀なスパコンがいつまでも開かないデータを保存したままにしておくかな?」
リンの心配をシロが否定する。
『データとしては一まとまりではなく、不完全とは言えANS発動のためのシステムデータとしてまぎれさせているので、勝手に消去したり、改ざんされる可能性は低いと思います』
「そもそも、そのゴッドとかいうANSの軸になっているスパコンを物理的に破壊するってことはできないんですか?」
別に荒っぽいことを行いたいわけではないが、コンピューターのシステムを破壊するだけならそれが一番てっとり早い。瑞樹の質問に則はため息をついて「それができたらずいぶんと楽なんだけどな」と言った。
首をひねっている瑞樹に幸助が説明をしてくれた。
「瑞樹くんは『クラウド』って言葉を聞いたことはあるか?」
「確か西暦のころの技術ですよね? 詳しくはないですが、何となくはわかります」
古い技術系の本に出てきた説明を瑞樹は思い出した。確かインターネットなどのネットワークを使ったコンピューターサービスのことだ。
「なら話が早い。ゴッドのシステム自体はそのクラウド上に保存されている。あくまでコスモスタワーにあるスパコンのスペックを使っているだけで本体はそこにはない」
「つまり物理的にそのコンピューターを破壊しても、別のコンピューターでいくらでも再現できるということですか?」
「そのとおりだ。さすがに理解が早いね。だからこそ私たちはANSの完成という回りくどい方法を選んできた。ネットワークそのものをつぶさないとゴッドを倒すことにはならないからね」
幸助の話を聞いて瑞樹も納得がいった。今までなぜ改革党そのものを攻撃対象にしないのかと思っていたが、相手の本丸がネットワーク上にあるというのなら話は別だ。
改革党と戦うというと血生臭いテロのようなものを想像していたが、どうやらそういうわけではなさそうで瑞樹も少し安心した。
「無事にコスモスタワーまで持って行けたとして、ゴッドの防御を破ってアクセスすることは可能かね?」
幸助はスマホの画面のシロに向かって問いかけた。
『今の時点ではおそらくとしか言えません。電波を使っての侵入は時間がかかりすぎるので、できれば直接的にスパコンにつなげてアクセスする必要があります』
「つまり改革党本部に突入して直接ゴッドの保管されている場所まで行く必要があるということだ。かなりの大仕事だな」
現政府の中枢ということもあり警備やセキュリティーはかなりのものだろう。それをかいくぐるとなるとかなり大掛かりな作戦となる。シロの話を聞いて幸助は顎髭を触りながら少し思案する。重大な決断を下すときに白髭を触るのは幸助の癖だ。
「則くん、改革党本部について改めて情報を集めてくれるか? 現場の指揮は君に任せる。私は全体のプランを考えさせてもらう」
幸助の指示に則は気をつけして返事する。則の横でリンは自分を指さしながら「私は?」
と短く尋ねた。
「リンと瑞樹くんはシロを使って情報の整理と最低限の護身のための訓練を受けてもらう。君たちに危険が及ぶような作戦を立てるつもりはないが念のためだ」
瑞樹とリンは幸助の言葉に無言でうなずく。
これまでも多くの犠牲を払ってきた幸助はこの若者たちに危険なことをさせるつもりはなかったが、何しろ相手はアイナのひ孫だ。どんな無茶をするかわからないので、生き延びるための力を少しでもつけさせておきたいと考えていた。
昨日、ジョージ・サトウのスマホを発見してから想像もしていなかった運命の濁流に瑞樹は飲み込まれていたが、不思議と悪い気はしなかった。技術革新を止められた世界に感じていた違和感。瑞樹の日々感じていた思いが、ここでは間違いではないと受け入れられる。
父の意志を継いでなどという気持ちは、瑞樹にはさらさらなかったが、世界を変えなければならないという不思議な使命感が瑞樹の中にあふれていた。
松上幸助の部屋から出る瑞樹は世界が変わる瞬間に立ち会えるような予感がしていた。



