NL15年、幸助が三十一歳を迎える冬に松上電機の創業者で会長の松上幸三が亡くなった。半年前に悪性の腫瘍が見つかった後、会長として公の場に顔を出すことは減ったが、最後まで松上電機の、そして、日本の行く末を考え続けた人生だった。
 亡くなる直前まで幸三は幸助にいろいろな話をしてくれたが、幸助にとってどうしても忘れられない会話がある。それは技術革新にこのままブレーキをかけ続けることが本当によいのかと幸助が幸三と議論した時のことである。
「技術を扱うのはあくまで人間の心持ち次第。技術自体に善も悪もない」
 幸助はジョージ・サトウの言葉を引用して技術開発の制限をなくしていくべきだと主張した。そして、その動きをけん引していくのは松上電機だと強い口調で言い放った。政府の顔色をうかがいながらの父の経営に幸助はいらだっていた。
 そんな幸助に幸三は「人生にはやっていい間違いと、やってはいけない間違いがある。私にはそんな力も……資格もない」と珍しく弱音を吐いた。
 いつも強かった祖父の背中がずいぶんと小さく見えたのを幸助は覚えている。祖父の言う「間違い」が何を指すものだったのかその時の幸助はわからず、病気のせいで気が弱くなっているのだろうと思った。
 いよいよ幸三が危ないというときにも幸助はうまく立ち会うことができた。病室で幸三の手を握り締める孫に向かって幸三は必死に何かを伝えようとするが言葉にならない。意識混濁してからも、うわ言のようにうなされながら何かを訴えかけていた。
 幸助は耳を幸三の口元に近づけ必死に祖父の訴えを受け取ろうとした。声は擦れ、途切れ途切れだが、その中で出てきた単語に幸助は驚いた。
「ジョージ……アイナ……」
 ぼそぼそと他の言葉もつぶやいているがそこまでは聞き取れない。ただ最後にはっきりと聞こえた言葉は「すまない」だった。
 祖父の死後、幸助の仕事に対する情熱は消えかけていた。政府の工業技術に対する規制はさらに強くなり、松上電機の製品も五十年近く前の能力のものしか扱えなくなった。もちろん規制に反対する動きも世界の複数の地域で起こったが、それらもインターネットなどの情報網が分断されているのをいいことに秘密裏に弾圧されていた。
 少なくともこの十年ほどの間に三桁に迫る人数の科学者や技術者が事故や不審な死を遂げており、政府による弾圧の噂はまことしやかに幸助の耳にも入っている。どこまでが事実なのかはわからないが日本の大手企業も及び腰になっているのは確かだ。
 松上電機ですら幸助の父の代からは完全に政府の言いなりで、幸助から言わせると電機産業の雄としての気概を失っている。その現状が幸助のやる気も削いでいた。
 幸三のいたころは会長室付きだった幸助は開発部に異動となっていた。開発部といっても現在では新たな開発にストップがかけられているため、諸々の雑用や幸三がつくった産業博物館管理などを任されていた。
 松上電機として請け負う仕事の量自体も減ってしまっているので、昨年には大規模なリストラが行われたところだ。開発部の主任となっていた幸助ですら産業博物館の受付を交代で行うぐらい人員の整理がなされたし、それだけ仕事がなくなっている証拠とも言えた。
 その日も午後から幸助が産業博物館の当番に当たっている日だった。
 木曜日の午後などに博物館を訪れる人はほとんどいない。まだ西暦のころは博物館も盛況で学校の校外学習の予約や海外からの団体客なども来たらしいが、電機産業だけでなく日本の工業そのものが衰退している今となってはよっぽどのもの好きしかやって来ない。
 三時過ぎに来た老夫婦を最後に見物客の来る気配がなかったので、少し早めに締めの作業に入る。最終入館時刻の午後四時半にはまだ五分ほどあるが、「本日の入館は終了いたしました」の立て看板を入口のところに立てて、本日の日誌を作成する。それが終わったら展示物の点検と年代別に分かれているそれぞれのエリアの施錠を終えたら本日の業務は終了だ。
 今日も五時には上がれるなと幸助が思いながら日誌を書いているところに自動ドアの開く音が聞こえる。閉館ギリギリや閉館後に客がやってくることはときどきある。いつも早めに締めの作業を行っているときに限ってそういう客が多いのはなぜだろうと幸助は思う。無理やり入場させることもできなくはないが、すでに立て看板を立てた後なので断る決心をして幸助は顔をあげた。
「申し訳ありませんが本日はもう受付を終了し……⁉」
 目の前に現れた女性は一瞬にして幸助を十五年前に巻き戻した。
「ひさしぶりね」
「……アイナ?」
 十五年の月日は少女を大人の女性に変えていたが、それでも最初に出会ったころと同じ栗色のショートカットは少女の面影を宿していた。幸助は胸の奥にしまってあった淡い思い出が急に引っ張り出されたような感覚がした。
 アイナのことを全く気にしていなかったわけではないが、ネオライフの後の混乱やジョージ博士の理想とは程遠い松上電機とそこに勤める自分、さらにはこの場所はアイナの悲しい思い出を掘り返すことになり新しい生活を妨げるんじゃないかといった想いから自分から連絡を取ったことはなかった。
 アイナもそういう想いがわかっていたのか、たまに来る手紙などは幸三を通じてのものだった。数年に前にアイナが結婚したという便りを聞いてからは、アイナも新しい幸せを手にしたのだと幸助も自分の想いを心の奥深くに沈めこんだ。
「どうしたんだ、急に? 来るなら連絡してくれればよかったのに。そういや結婚したんだってなおめでとう」
 幸助は自分の動揺が悟られないよう、先に結婚の話題にも触れた。アイナは少し困ったように苦笑いを見せた。
「ありがとう……ただ実はもう別れているの。名前は豊原アイナのままだけどね」
「……そうなんだ」
 隠しかけた動揺がまた表に出てくる。相づちをうった幸助の声は上擦っていた。
「実は幸助に頼みたいことがあってきたの」
「頼みたいこと?」
「ええ、でも、その前に博物館の中を案内してくれない? ひさしぶりに見たくなったわ」
 幸助にとっては久しぶりの感覚だ。突然、押しかけておいて自分のペースでころころと話題を変える自由なアイナ。十五年経っても根本的な部分は変わらない。
 初めて見るわけではないのにアイナは一つ一つの展示に声をあげながらくるくると表情を変えながら奥へ進む。幸助は見慣れた展示物もアイナと見ると新鮮な感じがした。
 松上電機の創業期から年代が進むにつれて、高度な技術を駆使した製品が展示される。タイプライターはやがてワープロに、そしてデスクトップのパソコンからノートパソコン、タブレットへと時代は移っていく。しかし、西暦が終わる直前からの製品は展示物がレプリカばかりになっていく。
 一面に敷きつめられたガラクタにもなれない偽物を前に、幸助は自嘲気味にアイナに言った。
「残念ながらこれが今の松上電機だよ。技術革新の手を止めて、偽物を集めて、これで人類は救われたって本気でも思っている」
「……」
「アイナが前に言ってたよな? ジョージ博士の言葉、『技術を扱うのはあくまで人間の心持ち次第』俺は今のままでいいとは思ってないんだ。でも……」
 最後の部分はうまく言葉にならないが、幸助の普段口にすることのできない想いがあふれ出る。別にこんなことをアイナに言うつもりは幸助にはなかった。しかし、アイナを前に偽物を敷きつめたこの展示室を目にしたとき、それを抑えることはできなかった。
 しばらくアイナは幸助の言葉を黙って聞いていた。視線は合わせず、展示されたノートパソコンのレプリカを触りながら、幸助の言葉が途切れると静かに語りだした。
「別れた旦那さ……すごくいい人だったんだ。別にすごく好きだったわけじゃなかったんだけど、いろんなことから逃げたくて目を逸らして、ほとんど勢いだけで結婚しちゃった。それでもさ、息子が生まれて、かわいらしくて、私はすごく幸せだった」
 アイナが何を伝えようとしているのかわからないが、幸助は黙ってアイナの言葉に耳を傾けていた。
「それでも胸の奥のもやもやがとれなくて、この世界が父の本当に望んでいた姿なのかわからなくなって……私は世界の真実を求めた。その中で少しずつ世界の本当の姿が見えてきた。でも少しずつ世界が見えるにつれてその闇の深さも知ることになった」
「アイナ?」
「こんなことに夫や息子を巻き込んではいけない。私は独りを選んだわ」
 アイナは何かにとりつかれたように言葉を続ける。いつの間にか自分の肩を自分で握りしめている。幸助はただ事でないアイナのように心配して声をかける。
「……アイナ、さっきから大丈夫か? いったい何を言ってるんだ」
 声をかけた幸助の方を一度チラリと見たがすぐに視線を逸らし、言葉を続けた。
「真実をくれたのは松上幸三……あなたのおじい様」
「じいちゃん? 俺のじいちゃんがどうしたんだ?」
「やっぱり幸助はまだ何も聞いていなかったのね」
 冷たく言い放ったアイナに対して、幸助は「おい! どういうことだよ」と肩口をつかみ、こちらを向かせたところで固まってしまう。アイナの瞳からスッと涙が一筋こぼれた。
「私の父ジョージ・サトウが死んだのは事故なんかじゃない。改革党に殺されたのよ。そして、それを松上幸三も知っていた」
 その言葉の後は堰を切ったようにアイナは泣き崩れてしまった。目の前のアイナが感情的になっているおかげで、幸助は平静を保っていられた。そうでなければ今のアイナの言葉で幸助自身も発狂してしまいそうだった。
 ジョージ……アイナ……すまない
 祖父の言葉がよみがえる。詳しいことはアイナの言葉を聞かないとわからないが、幸三がジョージ・サトウの死に関わっているというのはおそらく真実なのだろう。
 アイナ自身も自分が知った真実を人に伝えたのは初めてだった。父の事故には不自然な点をずっと感じていた。それを真剣に調べ始めたのは半年前だ。悲しみを避けるためずっと目をそらしてきた出来事を改めて調べていくうちに、ANSを実際に完成させたハル・カンザキとネオライフに入ってから躍進を続ける改革党の存在、あらゆる技術に制限をかけていく世界の方向性がアイナの中で線としてつながった。
 もし、ANSが完全には完成されておらず、一部の人間によってネットワークが牛耳られているのだとしたら。
 恐ろしい想像がアイナの中でピタッとはまったパズルのように組み合されていく。
 確かめる必要があった。アイナは自分の考えが誤りであることを願って数年ぶりに松下幸三に手紙を書いた。自分にとって恩人でもある幸三が否定するのなら、きっぱりとその考えを捨てよう。家族のために生きよう。そう思っていた。
 すでに死期が迫っていた幸三からの手紙には幸三なりの苦悩の日々とアイナ、ジョージへの謝罪の言葉、そして、アイナの頭の片隅に浮かんでいた残酷すぎる真実が書かれてあった。
「ハル・カンザキと改革党は初めからANSを悪用することを考えて父に近づいていた。世界のネットワークを分断し、それを自分たちだけで独占すれば世界を牛耳れる。幸三さんは途中でその企みを知りながらも政府に睨まれることを恐れて止めることができなかったって」
 少し落ち着いたアイナは幸三の手紙に書かれていた内容、調べてわかった真実をぽつりぽつりと語りだした。西暦が終わる年の一連の真実はにわかに幸助にとって信じがたいものばかりだった。
 しかし、幸助も感じていた違和感や幸三の最後の言葉を思い出してみても、それらが的外れなものだとは思えなかった。
「それじゃあ、ジョージ博士を殺したのはじいちゃんだっていうのか?」
「直接的にはそうではないわ。あくまで幸三さんの手紙によるものだけど、事故の前日には幸三さんは父に改革党に協力するように説得している」
「説得?」
「ええ、いよいよ父の身が危ないと思った幸三さんは、ハル・カンザキたちが計画している内容を父に打ち明けて協力するように説得した。でも、父はその誘いを断り、逆にハル・カンザキを説得してみせると言ったらしいわ」
 幸助の脳裏に在りし日のジョージ博士の姿が浮かんだ。アイナと同じようにどこまでも実直で、裏取引に応じるような性格ではない。
「父はハル・カンザキを呼び出して、直接話し合う機会をつくった。でも、その向かう先の道中で……」
 そこで言葉を途切らせてアイナがうつむく。幸助は何と言葉をかけていいのかわからなかった。幸助自身もやりきれない想いを抱えていた。できればアイナの口からではなく、幸三自身から聞きたかったと幸助は思う。
「……じいちゃんは一言も教えてくれなかった。アイナ……すまない」
 幸三の最後と同じ言葉が幸助の口からも搾りだすように出てきた。アイナはうつむいて首を振った。
「幸助が悪いわけじゃないよ。それに……幸三さんもずっと後悔していたのだと思う。幸助にもちゃんと話すつもりだって手紙にも書いていたよ。でも、たぶんその前に……」
 言われてみると混濁した意識の中で祖父は必死に何かを伝えようとしていたと幸助は思い出した。しばらく気まずい空気が二人の間を流れる。五年ぶりにアイナに会ったときのむず痒いような気持ちも今はどこかへいってしまった。
 幸助とアイナの目のまえには本来の機能をなくしてしまった仮初めの電気機器が展示されている。ネオライフに入ってからの偽りの十五年間について知るにはちょうど良い場所だったのかもしれない。
 技術を扱うのはあくまで人間の心持ち次第……自分たちの欲のためにジョージ博士が世界を救うために開発したANSを悪用し、さらにはジョージ博士の命まで奪った改革党に対して幸助は怒りの炎がふつふつと燃え上がっていた。アイナからは見えない方の拳を幸助はグッと握り締めた。
「……それで俺に頼みたいことってのは?」
 話がずいぶんとそれてしまったがもともとアイナは頼みごとをするために幸助の元に現れた。幸助に対してアイナは言いにくそうに伏し目がちに聞き返す。
「うん……でも、その前に、幸助はさっきの改革党の話を聞いてどう思った?」
「許せない! もちろんジョージ博士の命を奪ったこともそうだけど、それだけじゃない。ジョージ博士が開発しようとしていた本当のANSは、いったんは世界のネットワークを遮断するけど、後にはそれが回復するんだろ? 『みんなを守るための盾』ってアイナも言ってたよな?」
 幸助の言葉にアイナはうなずく。十五年前の話だがANSのことを教えてもらった時のアイナとの会話を幸助はよく覚えている。
「その盾となる技術を悪用して、自分たちだけのために使うってのが、なおさら許せない。『技術を扱うのはあくまで人間の心持ち次第』ジョージ博士はそう言っていたけど、俺はやっぱり技術は人を幸せにするためにあるんだと思う。甘っちょろい理想だと笑われるかもしれないけど、俺が松上電機をそんな会社にしていきたい!」
 幸助の言葉を聞いてアイナは「……よかった」とつぶやいた。十五年の月日が流れても幸助は幸助だという思いがアイナの中にあふれた。家族の元を離れて独りでも戦うことを決めたとき、アイナの心に浮かんだのは幸助の存在だった。
 正直、松上幸三についてはやりきれない複雑な思いを抱えていた。一定、幸三の立場もわかるし、最後に忠告をくれた幸三の気持ちもわからなくはない。だが、だったらなぜ? という言葉がアイナには浮かんでしまう。
 でも、幸助は違う。幸助の言う「甘っちょろい理想」にあのころのアイナは救われていた。だからこそ幸助の心が変わっていないのなら、力になって欲しいと願っていた。
「よかった?」
「うん、幸助が変わっていなくて。何か安心した」
 アイナから出てきたのは心からの安堵だった。
「私は改革党がすべてのネットワークを牛耳る現状を変えたい」
 アイナは幸助の方に向き直した。幸助の目をまっすぐに見つめて片手を差し出す。言いたいことはまだまだたくさんあった。うまく言葉にならない分、アイナは瞳に力を込めた。
「私と一緒に改革党と戦ってくれない?」
 どうやって政府と戦うんだとか、世の中を変えるなんて不可能だとか、そういったことは幸助の頭からは消えていた。もしかしたら後の経営者の判断としては間違いかもしれないが、アイナに頼られたという事実と世界をいい方向に変えるという義侠心が幸助を突き動かす。
 幸助もアイナの目をしっかりと見つめて、大きく一度うなずくと差し出された手をしっかりと握った。