幼いころから数度訪れたことのある産業博物館の地下にアイナ・サトウの研究室が隠されていたことにも驚いたが、マナソニック本社には他にも地下施設が隠されていて、それらが蟻の巣のようにつながっていることに瑞樹は驚いた。
細長い飾り気のない通路は病院の廊下を思い出させるものだった。リンは慣れた様子で瑞樹を先導して歩く。同じような部屋がいくつか繰り返し出てきて、迷路のように通路がくねくねと伸びているので、瑞樹には今、自分たちがどのあたりを歩いているかわからない。
「よく迷わずに歩けるな」
きょろきょろと周りを見渡しながら、瑞樹が感嘆の声をあげる。
「大阪の地下街と一緒。何回か歩けば慣れるよ」
「そんなもんかねー。それにしてもよくこれだけの施設をつくったもんだ」
マナソニック本社は地上施設だけでも相当な規模も建物だ。本館や産業博物館以外にも別館がいくつかあるし、企業スポーツ用のグラウンドや体育館などもある。
「それぞれの地下施設自体は松上電機の時代からあるらしいわよ。ただそれをNLに入ってから地下施設同士をつなげたから、こんな入り組んだ設計になっているんだって。もっとも今は地下施設のことをちゃんと知っている社員は限られているらしいけどね」
あくまでマナソニックは、表向きは電気機器の企業だ。そうでなくともこういった産業は政府による技術革新の規制を受けやすい。来るべき日が来るまでは爪を隠しておく必要があった。今、マナソニックの社員でもマナソニックの本当の目的を知っている従業員はそこまで多くない。
企業の中でもいくつかの部門に分かれるうち、特別に作られた会長直属の会長室と呼ばれる組織が真の目的達成のための中心となっている。
アイナ・サトウの研究室から十五分ほど迷路のような地下施設を歩いた先に今までと少し雰囲気の違う物々しい扉があった。リンはその扉の入口でカードキーを差し込み、さらに画面に自分の瞳を映し、虹彩認証で二重のロックを外した。
瑞樹にとっては見たことのないシステムなので興味津々だ。リンがそんな瑞樹の視線に気づき説明を加える。
「人によって違う瞳の虹彩の模様で認識するの。登録された人しか入れない仕組みになっている。ここからがちょうど会長室の地下、真のマナソニックと言える場所に当たる」
リンは少し重そうな鋼鉄製の扉を押し開けながら答えた。瑞樹は慌てて、扉を押すのを手伝い、二人で中に歩みを進める。少し歩くともう一枚扉があり、それを開けると完全に異世界が開けた。
瑞樹は子どものころにテレビで見た戦隊ものの秘密基地を思い浮かべた。目の前の大きなモニターには上空から撮影している大阪北港の様子が映し出されている。そのモニターの周りには向かい合わせに机はいくつか並べられており、パソコンの画面に向かってなにやら作業を行っている。
二人が入ってきたのをオペレーターたちはチラリと見たが、リンが軽く頭を下げると軽く会釈したり、手を挙げたりして作業に戻っていった。
作業をしているオペレーターの横を抜けて、部屋の奥に向かう。大きなモニターの正面の周囲より一段高くなったところに全体を眺められるリーダーのものと思われる机がある。その中心から少しだけ左にずれたナンバー2の位置と思われる場所に座っている男にリンが声をかける。
「さん、会長は?」
「奥の部屋で休まれている……が、二人が来たらすぐに連れてきてくれとのことだ」
リンに則さんと呼ばれた男は立ち上がり瑞樹で手を差し出す。
「ここで会長室の主任を行っていると言います。よろしく、原瑞樹くん」
差し出された手を握りながら瑞樹は則の顔をまじまじと見つめる。がっしりとした肩幅に長袖のシャツをまくりあげた姿は体育会系をイメージさせたが、それでいて短く刈り上げた頭に眼鏡姿はどこか知的な部分もあった。
どこかで見た感じもするが瑞樹はそれがどこだったのか思い出せない。頭の片隅で引っかかる何かをもどかしく思いながらも「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げる。握手をしながら則の方も一瞬、何かを言いたげな表情をしたが、それを自ら押し殺した。
「君とゆっくりと話したいところだが、まずは会長の用事が先だな。会長のところに案内するかついてきてくれ」
則はそう言って、二人を連れて歩き始めた。
「そうそう、君のお母さんのことだが、ちゃんと無事が確認できたので安心してくれ」
「母さんが⁉」
「ああ、勤務先が松上記念病院でよかったよ。奴らより先に保護できてよかった」
則の言葉を聞いて瑞樹はほっとすると共に、そこまで考えがまわっていなかった自分を恥じた。インターネット回線の監視から原家を割り出した時、当然その家族構成調べたはずだ。スマホの使用が瑞樹の方だとすぐにわかったとしても、母親を抑えれば人質としても使える。うまくマナソニック側に保護されていなければ、夜勤明けの今頃相手に捕まっていたかもしれない。
「……そんな顔をするな。自分の身を守るために必死だったんだ、そこまで気が回らなくても仕方がない。それよりよくジョージ・サトウのスマホを守ってくれた。礼を言う」
「いえ……」
則の言葉も瑞樹には響かなかった。自分の行動で自分だけでなく、母親まで危険な目にあわせたという事実が瑞樹にとっては辛かった。リンも心配そうに横を歩く瑞樹の顔をのぞき込む。
「松上記念病院にも我々の拠点がある。しばらくそちらで匿ってもらってからこちらに移ってくる予定だ。だから、大丈夫! 由美さんのことは心配するな。さ、着いたぞ」
まるで母のことを知ってるような則の口調に思わず顔をあげたが、聞き返すタイミングを失ってしまった。
先ほどの秘密基地のような部屋の奥はそれぞれが休息を取るための個室が並んでいる。その中でも一番奥の部屋の扉をノックして則が「失礼します」と声をかけて中へ入る。
会長の部屋と聞いて正直、もっと豪勢なものを瑞樹は想像していたが、思っていたよりずっと質素で殺風景な部屋だ。個人の部屋と言うよりは少し高めの病院の個室といった印象を瑞樹は抱いた。
「会長、二人を連れてきました」
則はベッドに横たわる老人の横まで行き、少し大きめの声で伝えた。老人はゆっくりとベッドから上半身を起こし、則に支えられながら車いすに乗り換える。
「お待たせしてすまないね、さあ二人ともかけてくれ」
車いすを則に押してもらい、瑞樹たちの近くまで来た松上幸助は二人にソファにかけるよう勧めた。瑞樹とリンが並んでソファに座り、その正面に車いすの松上、さらにすぐ横に則が向き合った。
正面の松上幸助の様子を瑞樹はじっくりと見る。マナソニック、その前身の松上産業を創設した松上幸三のことなら伝記で読んだことがある。その伝記の表紙にあった肖像画の面影がどことなくあるだろうか? 瑞樹は思い出してみるが、その肖像画のころの松上幸三より今の松上幸助の方がさらに齢を重ねている。
しわしわになって力ない肌や薄くなった白髪は敏腕経営者というよりは隠居した好々爺という表現が近かった。
「よく来たね、原瑞樹くん。リンもよく無事で帰ってきた」
しわがれた声だがその響きからは心からリンの無事を喜んでいることが伝わった。
「私がマナソニックの会長を務めている松上幸助です……とは言っても、もう本業の方からはすっかり離れてしまっているがね」
「初めまして、原と申します。まだ状況をつかみきれたわけじゃないんですが、助けていただきありがとうございます」
「いやいや、助けてもらったのはむしろこちらのほうだ。探していたジョージ・サトウのスマホが向こうに渡っていたらそれこそ一巻の終わりだった」
松上ゆっくりと頭を下げる。それを瑞樹はあわてて手を振って制する。松上のところに来たのは別に礼を言ってもらうためではない。
「あの……大まかな話はリンさんから聞きました。正直、まだすべてを飲み込めたわけではないけど、昨日体験したことと合わせるとそれが真実なんだと思います。でも、だからといってただの高校生の俺がどうしたらいいかわからなくて、このままずっと俺は追われたまま何でしょうか?」
別に瑞樹は今の政府を転覆させたいわけではない。技術開発の制限はよくないと感じているが、テロリストまがいのことに協力する義理も理由もない。
「そうだね……そこに関しては巻き込んでしまった君に無理やり何かをさせるつもりはない。我々、マナソニックは最大限、君の安全を尊重しようと思う。だが、真の意味で今まで通りの生活を送ることは、今の政権を打破しないことには達成できない」
「……」
「君にはこれから私の見てきた、そして知っている世界の真実を伝えたいと思う。そのうえでそのスマホをどうするかは君自身の判断に委ねたい。それがこのことに巻き込んでしまった私のできるせめてもの償いだ」
松上の言葉の一つ一つには重みがあった。世界の真実を見てきた重み、それに一人の少年の人生を変えてしまった重み。齢九十七を迎えようとする松上は自分の命のリミットが残り少ないことも感じていた。
そんな松上の覚悟のようなものを瑞樹も感じていた。どのような選択をするにしても世界の真実を知る必要がある。瑞樹は松上の目をしっかりと見て、大きくうなずき、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
細長い飾り気のない通路は病院の廊下を思い出させるものだった。リンは慣れた様子で瑞樹を先導して歩く。同じような部屋がいくつか繰り返し出てきて、迷路のように通路がくねくねと伸びているので、瑞樹には今、自分たちがどのあたりを歩いているかわからない。
「よく迷わずに歩けるな」
きょろきょろと周りを見渡しながら、瑞樹が感嘆の声をあげる。
「大阪の地下街と一緒。何回か歩けば慣れるよ」
「そんなもんかねー。それにしてもよくこれだけの施設をつくったもんだ」
マナソニック本社は地上施設だけでも相当な規模も建物だ。本館や産業博物館以外にも別館がいくつかあるし、企業スポーツ用のグラウンドや体育館などもある。
「それぞれの地下施設自体は松上電機の時代からあるらしいわよ。ただそれをNLに入ってから地下施設同士をつなげたから、こんな入り組んだ設計になっているんだって。もっとも今は地下施設のことをちゃんと知っている社員は限られているらしいけどね」
あくまでマナソニックは、表向きは電気機器の企業だ。そうでなくともこういった産業は政府による技術革新の規制を受けやすい。来るべき日が来るまでは爪を隠しておく必要があった。今、マナソニックの社員でもマナソニックの本当の目的を知っている従業員はそこまで多くない。
企業の中でもいくつかの部門に分かれるうち、特別に作られた会長直属の会長室と呼ばれる組織が真の目的達成のための中心となっている。
アイナ・サトウの研究室から十五分ほど迷路のような地下施設を歩いた先に今までと少し雰囲気の違う物々しい扉があった。リンはその扉の入口でカードキーを差し込み、さらに画面に自分の瞳を映し、虹彩認証で二重のロックを外した。
瑞樹にとっては見たことのないシステムなので興味津々だ。リンがそんな瑞樹の視線に気づき説明を加える。
「人によって違う瞳の虹彩の模様で認識するの。登録された人しか入れない仕組みになっている。ここからがちょうど会長室の地下、真のマナソニックと言える場所に当たる」
リンは少し重そうな鋼鉄製の扉を押し開けながら答えた。瑞樹は慌てて、扉を押すのを手伝い、二人で中に歩みを進める。少し歩くともう一枚扉があり、それを開けると完全に異世界が開けた。
瑞樹は子どものころにテレビで見た戦隊ものの秘密基地を思い浮かべた。目の前の大きなモニターには上空から撮影している大阪北港の様子が映し出されている。そのモニターの周りには向かい合わせに机はいくつか並べられており、パソコンの画面に向かってなにやら作業を行っている。
二人が入ってきたのをオペレーターたちはチラリと見たが、リンが軽く頭を下げると軽く会釈したり、手を挙げたりして作業に戻っていった。
作業をしているオペレーターの横を抜けて、部屋の奥に向かう。大きなモニターの正面の周囲より一段高くなったところに全体を眺められるリーダーのものと思われる机がある。その中心から少しだけ左にずれたナンバー2の位置と思われる場所に座っている男にリンが声をかける。
「さん、会長は?」
「奥の部屋で休まれている……が、二人が来たらすぐに連れてきてくれとのことだ」
リンに則さんと呼ばれた男は立ち上がり瑞樹で手を差し出す。
「ここで会長室の主任を行っていると言います。よろしく、原瑞樹くん」
差し出された手を握りながら瑞樹は則の顔をまじまじと見つめる。がっしりとした肩幅に長袖のシャツをまくりあげた姿は体育会系をイメージさせたが、それでいて短く刈り上げた頭に眼鏡姿はどこか知的な部分もあった。
どこかで見た感じもするが瑞樹はそれがどこだったのか思い出せない。頭の片隅で引っかかる何かをもどかしく思いながらも「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げる。握手をしながら則の方も一瞬、何かを言いたげな表情をしたが、それを自ら押し殺した。
「君とゆっくりと話したいところだが、まずは会長の用事が先だな。会長のところに案内するかついてきてくれ」
則はそう言って、二人を連れて歩き始めた。
「そうそう、君のお母さんのことだが、ちゃんと無事が確認できたので安心してくれ」
「母さんが⁉」
「ああ、勤務先が松上記念病院でよかったよ。奴らより先に保護できてよかった」
則の言葉を聞いて瑞樹はほっとすると共に、そこまで考えがまわっていなかった自分を恥じた。インターネット回線の監視から原家を割り出した時、当然その家族構成調べたはずだ。スマホの使用が瑞樹の方だとすぐにわかったとしても、母親を抑えれば人質としても使える。うまくマナソニック側に保護されていなければ、夜勤明けの今頃相手に捕まっていたかもしれない。
「……そんな顔をするな。自分の身を守るために必死だったんだ、そこまで気が回らなくても仕方がない。それよりよくジョージ・サトウのスマホを守ってくれた。礼を言う」
「いえ……」
則の言葉も瑞樹には響かなかった。自分の行動で自分だけでなく、母親まで危険な目にあわせたという事実が瑞樹にとっては辛かった。リンも心配そうに横を歩く瑞樹の顔をのぞき込む。
「松上記念病院にも我々の拠点がある。しばらくそちらで匿ってもらってからこちらに移ってくる予定だ。だから、大丈夫! 由美さんのことは心配するな。さ、着いたぞ」
まるで母のことを知ってるような則の口調に思わず顔をあげたが、聞き返すタイミングを失ってしまった。
先ほどの秘密基地のような部屋の奥はそれぞれが休息を取るための個室が並んでいる。その中でも一番奥の部屋の扉をノックして則が「失礼します」と声をかけて中へ入る。
会長の部屋と聞いて正直、もっと豪勢なものを瑞樹は想像していたが、思っていたよりずっと質素で殺風景な部屋だ。個人の部屋と言うよりは少し高めの病院の個室といった印象を瑞樹は抱いた。
「会長、二人を連れてきました」
則はベッドに横たわる老人の横まで行き、少し大きめの声で伝えた。老人はゆっくりとベッドから上半身を起こし、則に支えられながら車いすに乗り換える。
「お待たせしてすまないね、さあ二人ともかけてくれ」
車いすを則に押してもらい、瑞樹たちの近くまで来た松上幸助は二人にソファにかけるよう勧めた。瑞樹とリンが並んでソファに座り、その正面に車いすの松上、さらにすぐ横に則が向き合った。
正面の松上幸助の様子を瑞樹はじっくりと見る。マナソニック、その前身の松上産業を創設した松上幸三のことなら伝記で読んだことがある。その伝記の表紙にあった肖像画の面影がどことなくあるだろうか? 瑞樹は思い出してみるが、その肖像画のころの松上幸三より今の松上幸助の方がさらに齢を重ねている。
しわしわになって力ない肌や薄くなった白髪は敏腕経営者というよりは隠居した好々爺という表現が近かった。
「よく来たね、原瑞樹くん。リンもよく無事で帰ってきた」
しわがれた声だがその響きからは心からリンの無事を喜んでいることが伝わった。
「私がマナソニックの会長を務めている松上幸助です……とは言っても、もう本業の方からはすっかり離れてしまっているがね」
「初めまして、原と申します。まだ状況をつかみきれたわけじゃないんですが、助けていただきありがとうございます」
「いやいや、助けてもらったのはむしろこちらのほうだ。探していたジョージ・サトウのスマホが向こうに渡っていたらそれこそ一巻の終わりだった」
松上ゆっくりと頭を下げる。それを瑞樹はあわてて手を振って制する。松上のところに来たのは別に礼を言ってもらうためではない。
「あの……大まかな話はリンさんから聞きました。正直、まだすべてを飲み込めたわけではないけど、昨日体験したことと合わせるとそれが真実なんだと思います。でも、だからといってただの高校生の俺がどうしたらいいかわからなくて、このままずっと俺は追われたまま何でしょうか?」
別に瑞樹は今の政府を転覆させたいわけではない。技術開発の制限はよくないと感じているが、テロリストまがいのことに協力する義理も理由もない。
「そうだね……そこに関しては巻き込んでしまった君に無理やり何かをさせるつもりはない。我々、マナソニックは最大限、君の安全を尊重しようと思う。だが、真の意味で今まで通りの生活を送ることは、今の政権を打破しないことには達成できない」
「……」
「君にはこれから私の見てきた、そして知っている世界の真実を伝えたいと思う。そのうえでそのスマホをどうするかは君自身の判断に委ねたい。それがこのことに巻き込んでしまった私のできるせめてもの償いだ」
松上の言葉の一つ一つには重みがあった。世界の真実を見てきた重み、それに一人の少年の人生を変えてしまった重み。齢九十七を迎えようとする松上は自分の命のリミットが残り少ないことも感じていた。
そんな松上の覚悟のようなものを瑞樹も感じていた。どのような選択をするにしても世界の真実を知る必要がある。瑞樹は松上の目をしっかりと見て、大きくうなずき、「よろしくお願いします」と頭を下げた。



