「ちょっと待ってくれ、頭の整理が追いつかない」
この数時間だけでもあまりにもたくさんのことが起こったのにリンが告げた事実はさらに瑞樹の頭を混乱させるに十分だった。
「どうぞゆっくり整理して……どうせもう逃れられないんだから」
マグカップを傾けながら冗談とも本気とも判別できない口調でリンが言う。瑞樹もいったん気持ちを落ち着けようとリンの入れてくれたコーヒーを両手でつかみ、口に含む。コーヒーの香りと苦みがダイレクトに瑞樹の脳に響く。
確かに今、リンが話してくれたできごとが事実ならば、突然、自分が警察に追われたことも合点がいく。
五台のワークデスクが並べられた中央にコンセントが据え付けられている。瑞樹はそこから伸びるケーブルにつながれたスマホの方に目をやる。マナソニックに入る前には充電は二十パーセントを切っていたが、今は八十パーセントまで回復している。
このスマホがANSの鍵となっている。
先程のリンの言葉を瑞樹は脳内で繰り返してみた。リンから説明された話は瑞樹の、いや、現代を生きる多くのものにとって世界の見方を百八十度変えるような荒唐無稽な話だろう。瑞樹も昨日までの自分ならリンの話を一笑に付していたかもしれない。
瑞樹はノートパソコンのキーボードを叩いているリンの方に目を向ける。これもスマホ戦争後の現代では使われていない珍しいものだ。アイナ・サトウの研究室だったこの部屋には現代よりずっと進んだ旧時代のものがたくさん残されていた。
リンの横顔を見て、瑞樹の頭には周囲と一定の距離をおいてつきあうリンの姿が浮かんだ。リンの言っていた「探しもの」はジョージ・サトウのスマホだったことに今さら気づく。瑞樹の視線に気づいたリンは、瑞樹の方に首を傾けた。
「少しは頭を整理できた?」
「いや……でも、豊原さんの言っていることが嘘じゃないってことはわかる」
今日一日のできごとを踏まえると信じないわけにはいかない。
瑞樹の言葉を聞いて、リンはしばらく黙り込む。
「……原くんって単純だね。女はたいてい嘘つきなんだよ」
リンが茶化すように言った。
「豊原さんは違うよ……それに嘘をつくならもう少しまともな嘘をつく。だいたいそうじゃなきゃ、いくらスタンガンみたいなものとはいえ、警官に銃を突きつけるなんてできないだろ?」
瑞樹の返しにプッと噴き出すようにリンが笑う。大事な話をしている最中なのにその顔を瑞樹はかわいいと思ってしまった。少なくとも今までリンが学校では見せたことのない素の表情だ。
「確かにそうだね。でも、学校では猫被っていたけど、私は警察に銃をつきつけるぐらい原くんが思っているより凶暴な女よ。だから、『豊原さん』なんて言われるとなんかむずがゆくなっちゃう。ここではリンでいいよ」
「じゃあ、俺も瑞樹でいいよ。俺も原くんって柄じゃない」
瑞樹の言葉に「確かにねー」とリンは笑う。これが教室やショッピングモールでの会話なら微笑ましいものだが、現実には警察に追われて逃げ込んだ身だ。リンとの距離は縮まった気がするが他にも確認することはいくつもある。
「なあ、さっきの話は信じたうえでいくつか聞いてもいいか?」
「私に答えられる範囲なら……まさかスリーサイズとかは止めてよね」
「この流れでさすがにそれを聞くほどバカじゃない」
リンの冗談に瑞樹はあきれて答える。瑞樹の中のリンのイメージがどんどんと変わっていく。
「はいはい、冗談よ。何でも聞いて」
「それじゃあ、最初に……君は何者だ?」
予想外の質問にリンから笑みが消える。一呼吸おいて、リンがもう一度笑みを浮かべた。
「今、『リン』って呼ぶの恥ずかしいから『君』って使ったでしょ?」
「……図星だけど、俺が聞きたいのはそこじゃない」
リンは軽いタッチで話してくるが、ここは瑞樹にとって大切なところだ。リンが敵であるとは思わない。だが、この先も信じて協力していくためにリンの素性は重要だ。下手すると「豊原リン」も偽名の可能性すらある。
「君の話してくれたことは真実だと信じている。でも、その事実をどこから知ったんだ? それにマナソニックに隠されていたこの部屋の存在、ジョージ・サトウのスマホを探していたこと。どう考えても一人で計画したこととは思えないし、君が本当は何者で、どういった目的で動いているのか知りたい」
リンに問い詰める瑞樹の表情は真剣だ。
「ただのクラスメートじゃいけない?」
「少なくともただのクラスメートは銃を振り回して警察とカーチェイスはしない」
「……だよねえ」
リンは机にぐたっと上半身を伏せながら瑞樹を見る。いつも学校では凛とした様子しか見たことなかったので、こんなに無防備なリンの姿は新鮮だった。
「本当はできるかぎり、真実を知らせたくなかったんだよ。やっぱり知れば知るほど危険だから」
「でも、このスマホを手にしてしまった以上逃れられないんだろ? なら知る権利はあると思うけど」
瑞樹はリンの理屈がわからないわけではなかったが、こうやって警察に追われている以上すでに危険に変わりはない。ならば情報を共有しておいた方がお互いを信頼して行動できると瑞樹は思う。
信頼は人間関係で最も大切なものだというのが小学校に上がる前に亡くなった瑞樹の父の教えだった。
「わかった。でも、私が何者って質問はすごく難しくない? 私は私でしかないもん。豊原リンもちゃんと本名、別に偽ってるわけじゃない」
「それじゃあ、ただの女子高生がどうして世界の真実にたどり着いた?」
豊原リンが偽名ではなかったことに瑞樹は安堵を覚えたが、「ならどうして?」とさらに疑問は尽きない。
「それについては明日に彼から話してもらう。どちらにしても私たちが日常を取り戻すためには彼の力が必要だから」
「……彼?」
「マナソニックの現会長松上幸助……創始者松上幸三の孫にあたる人よ。表向きは政府の言うことに従順なようで、陰で力を蓄え続けていた。いつかこの支配された世の中を変えるために彼らはずっとジョージ・サトウのスマホを探し続けていた」
「……このスマホを」
瑞樹は机の上のスマホに目をやる。
「最初は松上幸助とアイナ・サトウからこの計画が始まった。松上の『マ』とアイナの『ナ』マナソニックの由来」
「アイナ・サトウっていったい?」
「ジョージ・サトウの娘。もっとも結婚前の旧姓だけど」
「旧姓?」
「ええ、もともとはアメリカ国籍の日系三世。結婚してからは『豊原アイナ』って呼ばれていた」
リンの言葉に瑞樹は息を呑んだ。一瞬で思考がつながった。ジョージ・サトウのスマホに残されたアイナの電話番号。アイナの携帯電話を持っていたリン。リンとマナソニックのつながり。
旧時代に生きていたのなら少なくとも八十歳以上……瑞樹は大まかな年齢を概算した。 瑞樹の表情からリンも瑞樹の思考の流れを汲み取る。
「そう、『豊原アイナ』は私のひいおばあちゃん。つまりジョージ・サトウとも私は血のつながりがあることになる」
つい数秒前に思考でなぞったのと同じことを瑞樹はリンの口から聞くことになった。たどり着いた事実は同じでもリンの口から発せられた言葉はなおさら重く受け止められる。
「どう? 私が何者かわかった?」
いたずらっぽく言うリンに、瑞樹はかける言葉がすぐに出てこなかった。
結局、それ以上の話は明日に松上幸助からということで落ち着いた。すでに平穏な毎日など目の前から消え去っている。せめて休めるうちにしっかりと体を休めておこうとリンが提案した。
アイナ・サトウのラボは生活の拠点としても十分な広さだった。きっと泊まり込みで研究を重ねることもあったのだろう。瑞樹たちの話していたデスクとパソコンの並ぶ部屋以外にも簡易的なキッチンにシャワールーム、仮眠室が三つと充実していた。
リンと交代でシャワーを使い、仮眠室の一つで瑞樹は簡易ベッドに横たわった。しばらく目を閉じてみるが一向に睡魔は襲ってこない。それどころか今日一日のできごとが何度もぐるぐるとまわって目が冴える。
あまりにも現実離れした一日で、正直、今アイナの研究室で横になっていることも信じられない。だが鮮明に浮かぶ記憶の一つ一つが、それが夢でないことを瑞樹に伝えていた。
中でもここに着いてからリンに聞いた世界の真実は、眠るためにいったん思考の外に追い出そうとしても何度も何度も瑞樹を支配した。
この世界はAIに支配されている。そして、ANSはいまだ完成していない。
したり顔で講義をしていた現代史の先生に教えてやりたいと瑞樹は思った。考えてみれば不自然なことだ。過度に技術革新が抑えられた社会。一般人は技術が限定された社会の中で生きて、一部の人間とそれを支配するAIだけがネットワークやビッグデータを独占して人々を管理している。
ANSを完全に機能させる前に、ジョージ・サトウはその一部の技術だけを搾取されて殺されてしまった。表向きには事故死と言うことになっている。
第二次スマホ戦争でAIが世界のネットワークを牛耳った時、核兵器の発射権限さえ手にしたAIの暴走を止めるため、ジョージ・サトウは世界のネットワークを分断するANSを開発した。
そのANSのプロトタイプにより、暴走するAIからネットワークの権限を奪ったが、人間はやはり愚かである。ジョージ・サトウのANSの技術を搾取したものたちは自分たちだけ今まで通りAIやインターネットを中心としたネットワークを使用できるようにし、それ以外のネットワークをANSのプロトタイプで遮断してしまった。
それをよしとしなかったジョージ・サトウはANSを完成させることですべてのネットワークを遮断し、世界を牛耳ろうとするものたちからの解放を計画した。しかし、ジョージ・サトウの計画も世界のネットワークを支配する者たちにすぐにばれてしまい。そのまま消されてしまう結果となった。
そんな現在の世界を裏から支配しているものこそ現在の日本の政権与党である改革党だ。
リンの話を聞いて瑞樹も昔から何となく感じていた違和感が解決したような気がした。技術革新を否定する改革党の歴史はネオライフを迎えるころからうまくいきすぎている。一時期世界の中でも低迷しかけていた日本の地位も、改革党が与党になってから急激に回復しているし、先進国各国も日本の動きに追随して政治を行っていくような次第である。
それにまるでこれから世界で何が起こるのかを予知でもしているかのように、改革党の政治は常に先手を打った対応が進められていた。
約八十年もの間、世界は一部の者たちによって欺かれ続けていたのだ。改革党に対する怒りの気持ちは瑞樹にもふつふつと湧いた。だからといって改革党を打倒しようなどという気持ちまでは瑞樹にはなかった。
リンの話ではジョージ・サトウが残したスマホにANSを完成させる鍵が隠されているという。ANSを完成させネットワークを完全に分断し、改革党による支配を終わらせるのがマナソニックの隠された裏の目的だと聞いた。
瑞樹にとって積極的に協力するべき理由はないが、成り行き上、ジョージ・サトウのスマホを見つけ、警察に追われる立場となった以上、自分の身を守るためにはマナソニックに協力するしか道はない。
それに瑞樹はリンのことも少し気になる。
たとえジョージ・サトウやアイナ・サトウと血縁があると言っても高校生の女子がテロリストのようなことまでする必要があるのだろうかと考えてしまう。できればリンの力になってやりたいが自分にどこまでのことがやれるかというと瑞樹には自信がない。
とにかく明日、松上幸助の話を聞いてみないことには始まらない。瑞樹は考えることを止めて眠りに就こうと試みる。結局、ほとんど眠れないまま夜は更けていく。瑞樹にとって長い長い一日が終わりを迎えようとしていた。
この数時間だけでもあまりにもたくさんのことが起こったのにリンが告げた事実はさらに瑞樹の頭を混乱させるに十分だった。
「どうぞゆっくり整理して……どうせもう逃れられないんだから」
マグカップを傾けながら冗談とも本気とも判別できない口調でリンが言う。瑞樹もいったん気持ちを落ち着けようとリンの入れてくれたコーヒーを両手でつかみ、口に含む。コーヒーの香りと苦みがダイレクトに瑞樹の脳に響く。
確かに今、リンが話してくれたできごとが事実ならば、突然、自分が警察に追われたことも合点がいく。
五台のワークデスクが並べられた中央にコンセントが据え付けられている。瑞樹はそこから伸びるケーブルにつながれたスマホの方に目をやる。マナソニックに入る前には充電は二十パーセントを切っていたが、今は八十パーセントまで回復している。
このスマホがANSの鍵となっている。
先程のリンの言葉を瑞樹は脳内で繰り返してみた。リンから説明された話は瑞樹の、いや、現代を生きる多くのものにとって世界の見方を百八十度変えるような荒唐無稽な話だろう。瑞樹も昨日までの自分ならリンの話を一笑に付していたかもしれない。
瑞樹はノートパソコンのキーボードを叩いているリンの方に目を向ける。これもスマホ戦争後の現代では使われていない珍しいものだ。アイナ・サトウの研究室だったこの部屋には現代よりずっと進んだ旧時代のものがたくさん残されていた。
リンの横顔を見て、瑞樹の頭には周囲と一定の距離をおいてつきあうリンの姿が浮かんだ。リンの言っていた「探しもの」はジョージ・サトウのスマホだったことに今さら気づく。瑞樹の視線に気づいたリンは、瑞樹の方に首を傾けた。
「少しは頭を整理できた?」
「いや……でも、豊原さんの言っていることが嘘じゃないってことはわかる」
今日一日のできごとを踏まえると信じないわけにはいかない。
瑞樹の言葉を聞いて、リンはしばらく黙り込む。
「……原くんって単純だね。女はたいてい嘘つきなんだよ」
リンが茶化すように言った。
「豊原さんは違うよ……それに嘘をつくならもう少しまともな嘘をつく。だいたいそうじゃなきゃ、いくらスタンガンみたいなものとはいえ、警官に銃を突きつけるなんてできないだろ?」
瑞樹の返しにプッと噴き出すようにリンが笑う。大事な話をしている最中なのにその顔を瑞樹はかわいいと思ってしまった。少なくとも今までリンが学校では見せたことのない素の表情だ。
「確かにそうだね。でも、学校では猫被っていたけど、私は警察に銃をつきつけるぐらい原くんが思っているより凶暴な女よ。だから、『豊原さん』なんて言われるとなんかむずがゆくなっちゃう。ここではリンでいいよ」
「じゃあ、俺も瑞樹でいいよ。俺も原くんって柄じゃない」
瑞樹の言葉に「確かにねー」とリンは笑う。これが教室やショッピングモールでの会話なら微笑ましいものだが、現実には警察に追われて逃げ込んだ身だ。リンとの距離は縮まった気がするが他にも確認することはいくつもある。
「なあ、さっきの話は信じたうえでいくつか聞いてもいいか?」
「私に答えられる範囲なら……まさかスリーサイズとかは止めてよね」
「この流れでさすがにそれを聞くほどバカじゃない」
リンの冗談に瑞樹はあきれて答える。瑞樹の中のリンのイメージがどんどんと変わっていく。
「はいはい、冗談よ。何でも聞いて」
「それじゃあ、最初に……君は何者だ?」
予想外の質問にリンから笑みが消える。一呼吸おいて、リンがもう一度笑みを浮かべた。
「今、『リン』って呼ぶの恥ずかしいから『君』って使ったでしょ?」
「……図星だけど、俺が聞きたいのはそこじゃない」
リンは軽いタッチで話してくるが、ここは瑞樹にとって大切なところだ。リンが敵であるとは思わない。だが、この先も信じて協力していくためにリンの素性は重要だ。下手すると「豊原リン」も偽名の可能性すらある。
「君の話してくれたことは真実だと信じている。でも、その事実をどこから知ったんだ? それにマナソニックに隠されていたこの部屋の存在、ジョージ・サトウのスマホを探していたこと。どう考えても一人で計画したこととは思えないし、君が本当は何者で、どういった目的で動いているのか知りたい」
リンに問い詰める瑞樹の表情は真剣だ。
「ただのクラスメートじゃいけない?」
「少なくともただのクラスメートは銃を振り回して警察とカーチェイスはしない」
「……だよねえ」
リンは机にぐたっと上半身を伏せながら瑞樹を見る。いつも学校では凛とした様子しか見たことなかったので、こんなに無防備なリンの姿は新鮮だった。
「本当はできるかぎり、真実を知らせたくなかったんだよ。やっぱり知れば知るほど危険だから」
「でも、このスマホを手にしてしまった以上逃れられないんだろ? なら知る権利はあると思うけど」
瑞樹はリンの理屈がわからないわけではなかったが、こうやって警察に追われている以上すでに危険に変わりはない。ならば情報を共有しておいた方がお互いを信頼して行動できると瑞樹は思う。
信頼は人間関係で最も大切なものだというのが小学校に上がる前に亡くなった瑞樹の父の教えだった。
「わかった。でも、私が何者って質問はすごく難しくない? 私は私でしかないもん。豊原リンもちゃんと本名、別に偽ってるわけじゃない」
「それじゃあ、ただの女子高生がどうして世界の真実にたどり着いた?」
豊原リンが偽名ではなかったことに瑞樹は安堵を覚えたが、「ならどうして?」とさらに疑問は尽きない。
「それについては明日に彼から話してもらう。どちらにしても私たちが日常を取り戻すためには彼の力が必要だから」
「……彼?」
「マナソニックの現会長松上幸助……創始者松上幸三の孫にあたる人よ。表向きは政府の言うことに従順なようで、陰で力を蓄え続けていた。いつかこの支配された世の中を変えるために彼らはずっとジョージ・サトウのスマホを探し続けていた」
「……このスマホを」
瑞樹は机の上のスマホに目をやる。
「最初は松上幸助とアイナ・サトウからこの計画が始まった。松上の『マ』とアイナの『ナ』マナソニックの由来」
「アイナ・サトウっていったい?」
「ジョージ・サトウの娘。もっとも結婚前の旧姓だけど」
「旧姓?」
「ええ、もともとはアメリカ国籍の日系三世。結婚してからは『豊原アイナ』って呼ばれていた」
リンの言葉に瑞樹は息を呑んだ。一瞬で思考がつながった。ジョージ・サトウのスマホに残されたアイナの電話番号。アイナの携帯電話を持っていたリン。リンとマナソニックのつながり。
旧時代に生きていたのなら少なくとも八十歳以上……瑞樹は大まかな年齢を概算した。 瑞樹の表情からリンも瑞樹の思考の流れを汲み取る。
「そう、『豊原アイナ』は私のひいおばあちゃん。つまりジョージ・サトウとも私は血のつながりがあることになる」
つい数秒前に思考でなぞったのと同じことを瑞樹はリンの口から聞くことになった。たどり着いた事実は同じでもリンの口から発せられた言葉はなおさら重く受け止められる。
「どう? 私が何者かわかった?」
いたずらっぽく言うリンに、瑞樹はかける言葉がすぐに出てこなかった。
結局、それ以上の話は明日に松上幸助からということで落ち着いた。すでに平穏な毎日など目の前から消え去っている。せめて休めるうちにしっかりと体を休めておこうとリンが提案した。
アイナ・サトウのラボは生活の拠点としても十分な広さだった。きっと泊まり込みで研究を重ねることもあったのだろう。瑞樹たちの話していたデスクとパソコンの並ぶ部屋以外にも簡易的なキッチンにシャワールーム、仮眠室が三つと充実していた。
リンと交代でシャワーを使い、仮眠室の一つで瑞樹は簡易ベッドに横たわった。しばらく目を閉じてみるが一向に睡魔は襲ってこない。それどころか今日一日のできごとが何度もぐるぐるとまわって目が冴える。
あまりにも現実離れした一日で、正直、今アイナの研究室で横になっていることも信じられない。だが鮮明に浮かぶ記憶の一つ一つが、それが夢でないことを瑞樹に伝えていた。
中でもここに着いてからリンに聞いた世界の真実は、眠るためにいったん思考の外に追い出そうとしても何度も何度も瑞樹を支配した。
この世界はAIに支配されている。そして、ANSはいまだ完成していない。
したり顔で講義をしていた現代史の先生に教えてやりたいと瑞樹は思った。考えてみれば不自然なことだ。過度に技術革新が抑えられた社会。一般人は技術が限定された社会の中で生きて、一部の人間とそれを支配するAIだけがネットワークやビッグデータを独占して人々を管理している。
ANSを完全に機能させる前に、ジョージ・サトウはその一部の技術だけを搾取されて殺されてしまった。表向きには事故死と言うことになっている。
第二次スマホ戦争でAIが世界のネットワークを牛耳った時、核兵器の発射権限さえ手にしたAIの暴走を止めるため、ジョージ・サトウは世界のネットワークを分断するANSを開発した。
そのANSのプロトタイプにより、暴走するAIからネットワークの権限を奪ったが、人間はやはり愚かである。ジョージ・サトウのANSの技術を搾取したものたちは自分たちだけ今まで通りAIやインターネットを中心としたネットワークを使用できるようにし、それ以外のネットワークをANSのプロトタイプで遮断してしまった。
それをよしとしなかったジョージ・サトウはANSを完成させることですべてのネットワークを遮断し、世界を牛耳ろうとするものたちからの解放を計画した。しかし、ジョージ・サトウの計画も世界のネットワークを支配する者たちにすぐにばれてしまい。そのまま消されてしまう結果となった。
そんな現在の世界を裏から支配しているものこそ現在の日本の政権与党である改革党だ。
リンの話を聞いて瑞樹も昔から何となく感じていた違和感が解決したような気がした。技術革新を否定する改革党の歴史はネオライフを迎えるころからうまくいきすぎている。一時期世界の中でも低迷しかけていた日本の地位も、改革党が与党になってから急激に回復しているし、先進国各国も日本の動きに追随して政治を行っていくような次第である。
それにまるでこれから世界で何が起こるのかを予知でもしているかのように、改革党の政治は常に先手を打った対応が進められていた。
約八十年もの間、世界は一部の者たちによって欺かれ続けていたのだ。改革党に対する怒りの気持ちは瑞樹にもふつふつと湧いた。だからといって改革党を打倒しようなどという気持ちまでは瑞樹にはなかった。
リンの話ではジョージ・サトウが残したスマホにANSを完成させる鍵が隠されているという。ANSを完成させネットワークを完全に分断し、改革党による支配を終わらせるのがマナソニックの隠された裏の目的だと聞いた。
瑞樹にとって積極的に協力するべき理由はないが、成り行き上、ジョージ・サトウのスマホを見つけ、警察に追われる立場となった以上、自分の身を守るためにはマナソニックに協力するしか道はない。
それに瑞樹はリンのことも少し気になる。
たとえジョージ・サトウやアイナ・サトウと血縁があると言っても高校生の女子がテロリストのようなことまでする必要があるのだろうかと考えてしまう。できればリンの力になってやりたいが自分にどこまでのことがやれるかというと瑞樹には自信がない。
とにかく明日、松上幸助の話を聞いてみないことには始まらない。瑞樹は考えることを止めて眠りに就こうと試みる。結局、ほとんど眠れないまま夜は更けていく。瑞樹にとって長い長い一日が終わりを迎えようとしていた。



