「もう何が何だかわからない……警官殺しなんて凶悪犯もいいとこだ」
 リンと共に走りながら、瑞樹の口から思わず本音がこぼれ出た。瑞樹からしてみれば自分がなぜ追われているのかもわからないし、なぜリンが助けてくれたのかもわからなかった。「アイナ」の声が聞き覚えのあるはずだ。数時間前の学校で話していた相手だったのだから。もちろんその時には、こんなことにまきこまれるなどとは瑞樹は露にも思っていなかったが……。
「あれは強力なスタンガンみたいなものだから死んでない! 勝手に人殺しにしないでくれる? とにかく話は後、まずはここから離れよう」
「離れるったって、どうすんだよ? 応援を呼んでいたからすぐに集まってくるぞ」
 植え込みを抜けて、ランニングコース沿いを走りながら瑞樹が聞き返す。
「そこの小さな堤防あがったところにバイクを置いてる。それで逃げましょ」
「逃げるってどこに?」
「マナソニック」
 息を切らせながらリンが答える。マナソニックといえばかつては松上電工と言われた大手の電機メーカーだ。それこそ百年ほどまえは隆盛を極めていたが、第二次スマホ戦争後は電気機器自体が衰退した分、会社の規模も小さくなった。
 一応、大阪に本社があるが工場の規模が縮小されて、本社の土地の中にあまり人の入らない産業博物館などを備えている。
 父親がマナソニックに勤めていたし、西暦のころの機器にも興味があったので瑞樹は何度も足を運んだことがある。いつ訪れても産業博物館の館内はガラガラに空いていた。
 瑞樹はなぜマナソニックかリンに尋ねたかったが、後から響く警笛の音でそれどころでないと思い直した。もう応援が到着したのか、警笛を鳴らしながら数人の警官が瑞樹たちの後を追ってくる。
「あれよ」
 堤防を上りきったところに停まっている白色のバイクをリンが指さした。
「XXR400……いい趣味してるねー」
 小回りの利くオフロード使用のバイクだ。排気量の割には軽量化されていて小回りも聞く。エンジンのスターターがキックしかないのが難点だが、ライダーたちに人気のある車種だった。
「軽口叩いてる場合じゃないよ」
 リンはバイクにまたがって勢いよくキックペダルを踏みつける。ドドドとエンジン音が響きかけるがすぐに消える。何度か体重をかけて踏みつけるが焦りもあるのかうまくかからない。
「……こんなときにもう!」
 リンが独り言をもらす。その間にも警官たちは二人の方に迫ってくる。
「代われ!」
 瑞樹はリンに代わってバイクにまたがる。
「わかるの?」
「機械についてはたぶん俺の方が詳しい!」
 その言葉に納得してリンはバイクの方は瑞樹に任せた。腰元から先ほどの変わった形の銃を取り出し、警官の接近に備えた。
 瑞樹は思い切り体重をかけてペダルを踏み込みながら、アクセルを少しだけ開ける。エンジンが低い音を立て、かかりかけたが再び止まってしまう。瑞樹はハンドルを握って、飛び上がるように体を浮かし、もう一度全体重を乗せてキックペダルを思いきり踏み込んだ。
 瑞樹の体重を跳ね返すようにペダルが跳ね上がり、先ほどより少し高い音を立てて、エンジンがかかった。アクセルをある程度開いてみる。エンジンの回転数が上り、振動がグリップを通して瑞樹の元にも伝わった。
「行くぞ! 乗れ!」
 瑞樹の声と同時に後部シートにリンが飛び乗った。右手で瑞樹の腰のあたりに手を回し、左手には警官をけん制するように銃口が二つ並んだ銃を持ったまま、警官の方に突き出している。
「しっかり掴まってろ! 落ちるなよ」
 瑞樹はクラッチを握りながら、シフトレバーを踏み込み、右手のアクセルを一気に開放する。一瞬、バイクの前輪が浮き上がり、そこから大きなエンジン音をたてて一気に加速する。外環状線側はすでにパトカーが集まりだしていた。瑞樹は思い切って堤防の逆サイドを下って住宅街の方に向かった。いくらオフロード使用とは言え、舗装されていない堤防をタンデムで下るのは至難の業だ。
 遊園地のジェットコースター並みに揺れる車体を瑞樹は何とかコントロールする。リンも銃の引き金に手をかけたまま、左手も瑞樹の腰に回して振り落とされないよう必死で力を入れた。
 二人がバイクで堤防を下ったのを追いかけてきた警官は堤防の上からトランシーバーでパトカーに指示を出す。すでに浅北に集まってきていたパトカーだけでなく、近くの検問にも二人組のオフロードバイクが逃走中の報が知らされた。
 堤防を下り切り、やっと舗装されたまともな道に入ると後部座席のリンが瑞樹に話しかける。
「できるだけ大通りは避けたほうがいい。私が来るときも大きな検問がやっていた」
「わかってる。でも、どこかで大通りに出ないとマナソニックにいけない」
 大通りが危険なことは十分に承知しているが、住宅街も袋小路になっているところがたくさんある。うかつに迷い込むと追い詰められる可能性もある。
 瑞樹はチラッと自分のポケットに目をやり、大きめの声で「ヘイ、シロ」と声をかけた。ポケットからスマホの光が漏れる。瑞樹の腰に手を回しながらリンはその光をのぞきこむ。リンもSiroの搭載されたスマホを見るのは初めてだ。リンが使っていたのはガラケーと呼ばれるスマホより旧型の携帯電話で曾祖母が持っていたものを改造したものになる。
『瑞樹様、ご用件は何でしょう?』
「マナソニック本社までのルート検索を頼む」
『わかりました。しばらくお待ちください……候補地がいくつかありますがどうなさいますか?』
 瑞樹の背中側からひょこっと顏を出してリンが「産業博物館……あそこを目指して」と言う。リンの言葉を聞いて瑞樹は改めてシロに指示を出し直した。
「マナソニック本社の産業博物館だ。途中、検問は避けてなるべく大通りを避けていきたい。できるか?」
 瑞樹の問いにシロは少しの間沈黙した。検索をかけているようだ。その間も瑞樹は住宅街を適当にバイクを走らせている。警察の追跡を交わすように細そうな道を選んで右へ左へ曲がってきたので方向感覚もおかしくなっている。
 今がどのあたりか把握はしていないが、堤防より北側の外環沿いを走っていることは確かだ。バイクを見られているのでどこかで乗り捨てることも瑞樹は考えたが、マナソニックまで向かうことを考えるとせめてもう少しはバイクを使って近づいておいた方がいい。
『最短ルートはR163を通るルートですが、すでに検問がはられています。このまま府道を真っすぐ行ってR163を横切ってR13に出るのがよいかと思います。ただしR13もR163に比べると手薄ですが巡回のパトカーが多く走っています。現場近くの状況を見て生活道を抜けていくのがいいかと思われます』
 シロの情報が正しいのか確かめる術などないので瑞樹はシロの性能を信じるしかなかった。すでに街中でサイレンが鳴り響いている。
「わかった。道案内を頼む」
 瑞樹はシロにそう伝えて、右手のアクセルをさらに少し開いた。瑞樹の右手に反応してバイクは加速していく。
『二つ目の交差点を右に曲がってしばらくみちなりに進んでください』
 シロのサポートで瑞樹の気持ちにも少し余裕が出てきた。瑞樹は先ほどまで気づかなかった腰に回されたリンの両腕からのぬくもりに気づく。運転しながらチラッと後ろのリンの様子をうかがうと、リンは首をかしげて「どうしたの?」と聞いてくる。
 慌てて「何でもない」とごまかした後に、「マナソニックに何があるんだ?」と尋ねる。バイクのエンジン音と風の音で会話が聞こえにくい。自然とバイクの後部座席のリンは瑞樹に密着してできるだけ耳元で会話をする。
「私たちの隠れ家、アジトがあるわ。少なくとも安全は確保できる」
「だいたい何で俺が追われることになったんだよ」
 瑞樹は情けない声で言った。
 流されるままこうしてリンと警察から逃亡しているが、そもそも現状を全く理解していない。数時間前までは学校で居眠りしていたのが嘘のようだ。
「奴らが狙っているのはそのスマホよ」
「このスマホ? ジョージ・サトウの?」
 瑞樹はポケットの方に一瞬、目をやった。
「ええ、そこにはある重要な秘密が隠されている」
「……秘密?」
 瑞樹がリンに聞き返したところにシロの声が割ってはいる。
『お話のところ申し訳ありません。あと二百メートルでR163に出ますがすでに相当数のパトカーが警戒に当たり、R163に入る車やバイクを警戒しています』
「何とか避ける方法はないのか?」
『時間が経つほど主要な道路の警戒網は整えられていきます。マナソニックの産業博物館が安全な場所であるなら一刻も早くそちらに移るほうがよいと思われます』
「マナソニック内はセキュリティ面では安心よ。私も避けるよりここで無理するべきだと思う」
 シロの言葉にリンも同調する。こうしている間にもR163は近づいてくる。
「その検問は突破できそうか?」
『R163に続く道すべてを封鎖しているので、かなり分散して警戒に当たっています。この先は今のところ手薄にはなっているので可能性は高いです』
 瑞樹はこうなったらやるしかないと腹をくくった。
「このまま突破する。シロ、頼むぞ!」
『かしこまりました。あと五キロほど速度を上げてください。ちょうど信号が変わるタイミングで横断できそうです』
「了解!」
 瑞樹はクラッチを握り、左足でギアを上げた。さらにタイミングよくアクセルを開き、加速を増していく。風と一体化していくような感覚を瑞樹は持った。少し遠くに見える信号はまだ赤だが、シロを信じて速度は緩めない。手前の部分でパトカーが一台止まっており、警官が数人、赤く光る棒を振って静止を呼び掛けているのが見える。
 シロの言うようにちょうど手前で信号が青に変わった。瑞樹は警官たちの呼びかけに応じず、手前で対向車線に飛び出して、検問を通り抜ける。すれ違う瞬間に警官たちの怒号が聞こえた。止まっていたパトカーのサイレンもすぐに鳴らされた。
「すごい数のパトカー」思わずリンはつぶやいた。
 瑞樹もR163を横断しながら横目でチラッと視界に入った。交差点という交差点にパトカーが配置されて回転灯を光らせている。
「シロ! 次は?」
『できる限り速度を上げてこのまま府道を進んでください。あまりR163の近くで側道に入るとかえってパトカーに追い詰められて危険です』
「原くん! もう来てる」
 リンは後ろを振り返りながら言った。
 瑞樹のバイクの後ろにパトカーが二台続く。マイクを使った大音量で「前のバイク停まりなさい」と警告が響く。瑞樹はそのパトカーを引き離そうと加速を続ける。メーターはもう百十キロを示していた。それでもパトカーはまだ喰らいついてくる。
「原くん、今度は前!」
「わかってる!」
 この府道はまだ完全に通行を止め切っていないため、前には他の車両も走っている。目の前にはトラックの背中が迫っていた。スピードを緩めるとパトカーに追いつかれる。瑞樹は覚悟を決めた。
「しっかり掴まってろよ」
 そう言って瑞樹は体重を大きく右に傾ける。それに合わせてバイクも大きく右に傾く。
百キロを超えているので少しの体重移動でも大きく車体が動く。バランスを崩せばそのまま転倒しそうだ。
 内転筋に力を入れてしっかりとシートをグリップしながら対向車線にはみ出し、トラックを抜き去る。向かいから別の車両が迫ってくる。それを紙一重で今度は左に体重を乗せ、トラックの前に躍り出る。
 トラックと対向車から同時にクラクションが鳴らされるが、それを無視してアクセルを開ける。後に掴まっているリンは生きた心地がしなかった。
 トラックと対向車のおかげで追ってくるパトカーとはずいぶんと差ができた。パトカーも「道を空けてください」と放送しながら走るが、一車線ずつのせまい府道では瑞樹のバイクほどスムーズに通り抜けることができない。
 うまく撒いたかと瑞樹が思ったところでシロが『まだです』と音声案内で知らせる。
『警察無線で連携を取られています。一キロ先がパトカーで封鎖されました。向こうからもパトカーと白バイが迫っています。次の交差点を左に折れましょう』
「了解! 路地に入るから早めの指示を頼むぞ」
 信号のない交差点に差し掛かるころ向かいからもサイレンの音が聞こえてきた。小回りの利くバイクならパトカーはうまく撒く自信があるが、白バイは別だ。狭い路地に入ってスピードもそこまで出せない中、少しずつ距離を詰められる。
『次を右、その次は左に……三つ目の交差点をもう一度右』
 シロの声を聞きながら必死にハンドル操作をする。交差点ではかなり攻めたコーナリングをしているが、さすがは白バイ隊員、瑞樹のバイクに引き離されずについてくる。体重移動という面ではどうしても後ろにリンを乗せたタンデム走行の分だけ体勢を戻すのにロスができる。
 三つ目の交差点に入るところで白バイの一台に並ばれる。排気量も上のバイクであるのでどうしても直線の加速に差ができてしまう。後続のバイクとで瑞樹たちのバイクを挟み無理やり停止をさせようとしてきた。
 右側に並んだ白バイが瑞樹のバイクの方に幅寄せして圧力をかけてくる。接触すれば大事故は必至だ。ブレーキをかけようとした瑞樹にリンが「ダメ!」と叫ぶ。
「そのまま思いきり加速して‼」
 リンに何か考えがあると思って瑞樹はもう一度アクセルを全開まで開く。リンは右手に銃を持ち換えて、瑞樹の腰回した左手で支えながら、体を右側の白バイの方にのばす。この速度で警官を気絶させたら大事故、下手したら殺すことになると瑞樹は心配したが、リンの狙いは警官ではなかった。
 白バイと並走ながらカウルの隙間からエンジン目がけて引き金を引く。火花のようなものが闇の中に飛び散った。すぐに並んできた白バイのエンジン部分から白い煙のようなものが立ち上がり、失速していく。
 何とかハンドル操作はできているがエンジンは完全に故障している。推進力がなくなり転倒しないようバランスを取る動作がうまい具合に後続のバイクの妨害にもなった。この隙を使って瑞樹は白バイ隊を引き離しにかかった。
 シロの誘導のもと右へ左へとわざと交差点を曲り、追跡を振り切る。バックミラー越しに確認するがパトカーや白バイの姿は見えない。
「うまく振り切ったみたいね」
「ああ、それにしても便利な銃だな。それを出した時にはバイクに乗った警官をやっちまうんじゃないって心配したよ」
 さすがに十六を過ぎたところで殺人犯にはなりたくない。
「これはもともと人向けに使う用じゃないの」
「ん? どういうことだ」
「これは電子パルス銃っていって、本来は半導体や電子回路に損傷を与えて誤作動させるためのものなの」
 リンはポケットに銃をなおしながら言った。再び両手で瑞樹の腰に手を回す。リンのしぐさに背中に集中がいきそうだったが平静を装って会話を続ける。
「なるほどね。それで白バイのエンジン回路に異常を発生させたわけだ」
「ええ、最新式のバイクでよかった。レトロなもので電子制御されていないモデルだったら効果がなかったかもしれない」
『FJR1400XX……現行の最新モデルですね。チョークなどを使わなくても混合比を調整できる機能が災いしましたね』
 シロが解説を入れてくる。瑞樹とリンの会話に自然と入ってくる様はとても人工知能には思えなかった。
「それでここからどうやって行けばいいんだ?」
 瑞樹は話の流れでシロに尋ねる。
『このまま住宅街を抜けながら、都阪電車の線路沿いの道を使って向かうのが、一番危険が少ないと思われます。ただ……』
「ただ?」
『すでにこのバイクの情報が警察の方で出回っているみたいなので、マナソニックに入っていくところを見られるのはまずいのではないでしょうか?』
 シロのいうことも一理ある。工場内に匿ってもらうにしても、できる限り物証となるものはないほうが得策だ。当然、先ほどのチェイスでナンバーも控えられているだろう。
「どうする?」
 後部座席のリンにうかがいをたてる。どこかで乗り捨てるにしてもこれはリンのバイクだ。
「……乗り換えよう。少しでも見つかる危険は下げるべきだわ」
「乗り換えるったってどうすんだよ」
 リンの「乗り捨てる」ではなく「乗り換える」という言葉に瑞樹は驚いて聞き返す。
「あれ」
 リンが指さした先には小さなハイツのエントランス付近に停まっている小さなトラックがあった。リンの意図は瑞樹にも一瞬で伝わった。ただ本当にそこまでしてよいのか瑞樹には迷いがあった。
「仕方ないよ。生き延びるためだもん」
 瑞樹の迷いを見透かすようにリンがつぶやく。正直、警察に捕まるのを避けることと「生き延びるため」という言葉が瑞樹にはつながらなかったが、リンの覚悟は伝わった。
 瑞樹は左にウインカーを出してハイツの入口の自転車やバイクが置かれている場所にリンのバイクを停めた。木を隠すなら森の中、特に区画の決められていないタイプの駐輪場なので自然と紛れさすことができた。
 バイクから降りて周りを見渡すがちょうど運よく人通りもない。駐輪場の陰に潜みながら少し離れた場所でトラックの様子をうかがう。運転手はハイツの中に荷物の配送に行っているみたいだ。ハザードがついていて、エンジンはかかったままになっている。
「エンジンかかってるから今ならいけるんじゃないか?」
 瑞樹の左後ろに隠れているリンに相談する。
「ううん、運転手が乗り込む瞬間に気絶させていこう。ここでトラックに乗り換えたことを騒がれると面倒だわ。気絶させたまま一緒に連れて行ってどこかで解放した方が警察をかく乱できる」
「なるほどな」
「運転手が出てきたら後ろから二人でつけよう。私が気絶させるから、車に押し込むのを手伝って」
 リンの指示に「了解」と答えながら、とんでもないことに巻き込まれたなと瑞樹は少し後悔する。あのときスマホを拾ってこなければよかったと過ぎた時を悔いるも、もうどうしようもない。
 横目でリンを見るが、リンの表情に迷いはない。変わりものだとは思っていたが、今さらになってこの豊原リンが何者なのか、瑞樹は気になってきた。
「来た!」
 リンが小声でささやいたので瑞樹は我に返る。手に持った伝票のようなものを見ながら駐輪場の前を通り過ぎるので、瑞樹たちのことなど見向きもしない。そのまま二人で自然と後ろをつけて歩き出した。
 リンは左手をポケットの中に突っ込んでいる。すでにあの電子パルス銃の引き金に手をかけているのだろう。運転手が運転席の方に回り込み、ドアを開けた瞬間、音もなくリンが背後に忍び寄り、電子パルス銃の引き金を引く。
 一瞬、運転手の体が跳ね上がり、悲鳴をあげる間もなくその場に崩れそうになる。そこを背中から支えるようにしてそのまま運転席側から助手席まで、瑞樹が身体を押し込む。さらにリンが助手席のシートを倒してそのまま、運転席の後ろのスペースに横たわらせた。
「運転はできる?」
 助手席に乗り込み、シートベルトを締めながらリンが瑞樹に尋ねる。
「ああ、オートマだし何とかなると思う」
 瑞樹はハザードランプを切り、右に指示器を出してからアクセルをゆっくりと踏み込む。免許はまだ持っていないがだいたいの構造はわかっているつもりだ。ゴーカートも小型トラックも大差はない。
「後のやつ縛ったりしなくて大丈夫か?」
「十五分やそこらじゃ起きないと思うから大丈夫と思う。マナソニック本社の少し手前に白猫運送のターミナルがあるの。その近くでよく荷物の引継ぎ待ちの仮眠ドライバーがよくいるから、そこに紛れさせておけばあんまり怪しまれないと思う」
 リンの言葉に瑞樹は右手一本でハンドル操作しながらポケットからスマホを出し、「シロ」と呼びかける。
『わかっています。白猫運送門屋ターミナルですね……ここからですと十分ほどで到着予定です。幸いこの道では現在のところ検問もしていません』
「よし! もしパトカーが接近してきたら早めに知らせてくれ、シロ」
『承知いたしました』
 シロの予測通りときおり遠くでパトカーのサイレンは聞こえるものの順調にターミナルの近くまで到着した。同じように引継ぎ待ちのトラックが何台か停車している。その最後列にトラックを停め、ハザードを出しておく。
 瑞樹とリンはすばやくトラックから降りると早歩きでその場から離れた。チラッと他のトラックの運転席に目をやるが、たいてい足をダッシュボードにあげて仮眠しているので、瑞樹たち、歩行者を気にするそぶりはない。
「駅前は人通りがそれなりにありそうだけど大丈夫か?」
「大丈夫、北門の鍵を持ってるから駅より手前で本社の敷地内に入ろ」
 リンはカード型のキーを瑞樹に見せる。瑞樹はそれを見てうなずく。
 遠くに駅の明かりが見える。都阪電車の東三荘駅だ。利用者のほとんどはマナソニック本社に勤める社員だ。マナソニック本社は門屋市と守吉市の境の門屋側に位置する。駅をもう一つ行けば守吉市駅があるので、この時間に東山荘駅を利用する人はほとんどいない。
 それでも駅のガード下にはぽつぽつと飲み屋が点在しており、仕事帰りのサラリーマンたちが集う。マナソニック本社の北口はそれらのゾーンの手前にある。
 北口のトラックなども通る大きな正門の横に設置された通用門でリンはカードキーをあてる。ピッという電子音と共に解錠される。当たり前のようにリンは中に入っていくがカードキーのシステムもさすがはマナソニックだと瑞樹は感心した。
 マナソニックの本社内の敷地をリンは慣れた足取りで歩いていく。広々とした敷地内はきれいに整備されていて、リンと二人で歩いているとさっきまで警察に追われていたことが嘘のようだと瑞樹は思った。
「ん? どうしたの?」
 リンはまわりをきょろきょろしながら、後ろを少し遅れて歩く瑞樹に向かって聞いた。
「いや、まだそこまで遅い時間じゃないのに工場とかに残っている人はいないんだな」
「本社の中には残っていると思うけど、工場自体は五時で生産ラインが止まるわ。それこそ昔は二十四時間体制でラインが動いていたらしいけど、政府が工業自体に制限をかけているから今は時間外に動かすと罰則があるの」
「なるほどね」
 瑞樹が産業博物館に来たときはもう少し人の出入りがあった気がしていたが、リンの説明で納得がいった。おかげで誰ともあわずに駅前のエリアも抜けて、産業博物館までやってくることができた。
 正面の入口の前にはマナソニックの創始者である松上幸三の銅像が立っている。当然ながら今の時間は閉館されていて正面玄関も施錠されている。
「それで、産業博物館に着いたはいいけどここに何があるんだ?」
「ちょっと待って……いいから私について来て」
 リンはそう言って、さっきのカードキーを出して正面玄関横に設置されている従業員用の通路のドアを解錠して中に入る。ドアを開けてリンが手招きするので、瑞樹もそれに続く。閉館後の館内は非常灯の薄暗い明かりで、展示されている電化製品の数々も不気味に映った。
 本当なら久々にじっくりと見てみたい旧時代の電化製品もたくさんあったが、リンが先先と行ってしまうので、瑞樹は後ろ髪をひかれながらも先を急いだ。マナソニックの前身である松上電機の時代から時代を追うように配置されている展示室をどんどんと抜けていく。
 入口に「2020」と書いてある展示室に入る。西暦の最後の十年、つまり人類の技術が一番進歩していた時代の展示品だ。これまでの部屋に比べると文献資料が多く、実物資料は取り締まられてしまっていてほとんど残っていない。
 かろうじて展示されているものもほとんどは本物を模ったレプリカだ。声だけで反応する電化製品、仮想空間を利用したゲーム機、自動で目的地まで運んでくれる車。人類の未来がこの部屋には詰め込まれていた。
「ここよ」
 部屋の中央に配置されている巨大なカプセル型の体感型ゲーム機の前でリンが立ち止まった。展示品の説明によるとこのカプセルの中が全方位型のプロジェクターになっていて仮想空間を利用したゲームが楽しめるらしい。
 リンに勧められて恐る恐る瑞樹は座席に座る。隣に座ったリンが先程のカードキーを認証させ、画面にパスワードのようなものを打ち込んだ。何が起きるのかと瑞樹が警戒しているとカプセル全体が落下していくかのような感覚が瑞樹を襲う。思わず瑞樹は目の間のハンドルのようなものを握りしめた。
 十秒ほど落下するような感覚の後、一気にブレーキがかかり浮遊感が抑え込まれる。リンは瑞樹より一足早く立ち上がり、そのカプセルの外へ出る。
「さあ、着いたよ」
 リンに続いてカプセルの外へ出ると先ほどのまでの展示室ではない。広い部屋にいくつものコンピューターや見たことのない機械が設置されている。正面には瑞樹は見たことないサイズの大きなモニターまで設置されている。ここがどこかはわからないがどうやら大きな研究施設のようだ。
「ようこそ、アイナ・サトウの秘密のラボへ」
 とまどう瑞樹に対してリンがいたずらっぽく微笑んだ。