書置きと共に食卓の上に置いてあった田島のコロッケを電子レンジで温めている間に、瑞樹は仏壇に手を合わせる。瑞樹が小学校に上がる年に事故で亡くなった父の遺影に朝一番と帰ってきた後に手を合わせるのが、小学校からの瑞樹の習慣だ。
 瑞樹の機械好きは松上電工(現在ではマナソニックと会社名を変えたが)の技術者だった父に似たのかもしれない。
 チン! とレンジから音が聞こえる。温め直したものでもおいしく食べられるのが田島のコロッケのいいところだ。食事中に他のことをするとガミガミとうるさい母親も今日は夜勤だ。看護師をしている瑞樹の母は月に数回夜勤の日がある。夜勤の日はこうやって夕食を用意して出ていってくれる
 母親がいないのをいいことに瑞樹はコロッケを一つ口にくわえて、テレビの横のコンセントに差しておいた充電中のスマートフォンに手を伸ばす。瑞樹がスマホの画面に軽く触れると明かりがともる。
 充電の方はまだ「23%」と表示が出て満タンには時間がかかりそうだが、ケーブルを指したままなら使えそうだ。瑞樹はコロッケでいっぱいの口をもごもごさせながら、スマホをいじってみる。
 実物を触るのは初めてだが、話ではその技術を聞いたことがある。少しさわるとタッチパネルにも慣れてきて、大まかな取り扱いは何となくわかる。アプリのアイコンも初めて見るものだが、ある程度はイラストで機能の想像はつく。
 まずはもう一度、ジョージ・サトウの音声メッセージを再生してみる。さっき神社で聞いたときは最後の部分が途切れてしまった。これがメッセージの録音時のものであるのか、それとも電池切れによるためのものかも確かめてみないとわからない。
『このスマホを見つけてくれた人へ……私はジョージ・サトウだ』
 先程一度聞いた内容だが未だに信じられない。これが本物かどうかを判別する方法はないが、少なくともスマホは本物みたいだ。
『時間がないので端的に話す。このスマートフォンを北港コスモスタワーまで運んでほしい。Siroが助けになるはずだ。時間がない……このままでは手遅れに……』
 そこで音声がブツっと切れた。どうやら電池切れではなかったみたいだ。
 よほど焦っていたのかメッセージの最後の方はジョージ・サトウの声もかなりかすれている。神社の時には気づかなかったが、最後に遠くの方で爆発音のような音が聞こえた。状況はわからないが、何か特別な事情があったのだろう。
 しかし、いきなりコスモタワーまでと言われても困る。そんな場所聞いたこともないし、助けになってくれるというSiroも言葉の意味さえ分からない。
 とりあえず他に手がかりがないかスマホを調べてみる。メールやメッセージの履歴はないかとアプリを立ち上げてみるが、音声メッセージ以外のデータは、すべて初期化されたのか何も履歴は残っていない。
 連絡先を開いてみると唯一、『アイナ』と書かれた名前と電話番号が登録されている。『アイナ』と言われて思いつく名前を瑞樹は思い浮かべてみるが心当たりはない。もしかするとジョージ・サトウの奥さんかもしれない。あとで調べればわかることだ。
 とにかくこの連絡先は置いておいて、他に手がかりはないかといろいろなアプリを立ち上げてみる。途中で瑞樹はそもそもANSの影響下でスマホ自体の電話機能が使えるのだろうかと思った。ANSの技術が確立してインターネットの通信網も遮断されてからは電子メールなども使えなくなった。固定電話の回線は今でも使えるが、連絡先が載っていたとしても携帯電話の機能は使えないのかもしれない。
 しかし、よく見るとスマホの画面の右上にはアンテナのようなマークがついている。確か電波のないところでは圏外の表示が出るはずだ。瑞樹はまさかと思いながら、電話マークのアイコンをタップして、ゆっくりと自宅の電話番号を押してみる。
 十桁の番号を押した後、発信ボタンを押す。瑞樹の押した番号が滑らかに画面を流れた。瑞樹はゆっくりと耳にスマホをあてた。黒い四角の板からプルルルと呼び出し音が聞こえた……と同時に瑞樹の背後の家の固定電話からも着信を知らせる大きな音が鳴り響く。
 思わずビクッとした瑞樹が慌てて赤い通信終了のボタンを押した。それと同時に背後の着信音も消えた。
 瑞樹はスマホの画面を見つめながら、ただの偶然じゃ……ないよな? と自問する。偶然にしてはあまりにもタイミングが良すぎる。
 コロッケのせいか、このスマホのせいか口の中がパサパサとして乾く。瑞樹はもう一度だけと自分に言い聞かせて、履歴に残った自宅の電話番号に触れる。今回も結果は同じくスマホで発信すると家の電話が鳴り、通信を切るとそれが鳴りやむ。
 これはもう疑う余地がない。現代においても電話回線は生きているということだ。電話のための回線はどうやらANSの干渉を受けないらしい。新しい発見に瑞樹の胸は躍っていた。もしかすると他にも現代でも使える機能があるのかもしれない。
 瑞樹はさらにスマホでいろいろ試してみることにした。博士の言うSiroというのも現代でも使えるシステムかもしれない。
 瑞樹が次に触ったのはインターネットの検索エンジンのアプリだ。これはさすがに動かないと思うが、オフラインでも今までの閲覧履歴ぐらいは残っているかもしれない。
 検索エンジンのアプリを立ち上げると検索したいキーワードを入力する画面が出てきた。試しに「Siro 起動方法」と入力してみる。ANSの効果を試すぐらいの気持ちで検索ボタンをタップする。右上にグルグルと二本の円形の矢印マークが回った。
「えっ⁉」
 思わず瑞樹は声をあげた。
 画面には検索結果が上から順にいくつか並んでいる。
 ……インターネットは遮断されているはずじゃ?
 疑問に思いながらもそのうちの一つのリンクをタップしてページを開く。順番に下へページをスクロールさせていくとSiroの使い方が載っている。
 Siroというのはどうやら音声を認識してスマホの使用者を助ける人工知能のことらしい。その検索ページにはSiroの起動のさせ方や、音声による命令で使用者に代わっていろんなことを調べてくれることなど瑞樹の気になる情報がたくさん書かれている。
 瑞樹はすでにインターネットがつながった疑問も忘れ、Siroの説明に夢中になっていた。教科書の中でしか知らない人工知能が今、瑞樹の手の内にあるのだ。動くものならば何としても起動させたい。
 八十年前と比べてずいぶんと技術力の衰退した現代では人工知能、それも音声を認識する機械なんてものはSF世界の産物である。それらを実際に使ったことのある世代もほぼいなくなってしまっている。
 Siroの使い方の載っているサイトに書かれていた起動方法はあまりにも単純で、にわかには信じがたかったが、だまされたつもりで瑞樹はその方法を試してみる。
「ヘイ! Siro!」
 瑞樹は左手に持ったスマホの画面に向かって、必要以上に大きな声で呼びかけてみた。
 瑞樹の言葉を最後まで聞き終えると画面が光の波のようなものが走り、機械的な男性の声で返事が返ってきた。
『こんばんは、御用はなんでしょうか?』
 瑞樹はびっくりしてスマホを落としそうになった。まわりに何もないことはわかっているのにきょろきょろと見渡してしまう。間違いなくこのスマホから聞こえてきた音声だ。
「Siro……なのか?」
 独り言のようにつぶやく声にもスマホはきちんと反応する。
『はい、Siroです。お手伝いできることがありましたら、何でもおっしゃってください』
 瑞樹の言葉に対してあまりにもスムーズに返ってくる返事に、本当はどこかで人間か遠隔操作しているのではないかとさえ疑いたくなる。その技術力の高さに瑞樹は動揺していたが、もう少し質問を続けてみる。
「君は本当に人工知能なのか?」
『はい、私はSiro。音声を自動認識して使用者のお手伝いを行う人工知能です。あなたのお名前を聞かせてもらってもよろしいですか?』
 人工知能に自己紹介もおかしな気がしたが、瑞樹は言われるままに自分の名前を告げた。
「俺は原瑞樹」
『瑞樹様……いいお名前ですね。私はSiro、これは私の正式名称のアルファベットの略語なのですが、博士にはシロとカタカナ表記で呼ばれていました。その方が名前っぽいと』
「博士って……ジョージ・サトウか⁉」
 自らをシロと名乗った人工知能から博士という言葉が出てきて驚いた。音声メッセージにあった「Siroが助けになる」というのはやっぱりこいつのことだ。
 瑞樹の確信など気にも留めずにシロは話を続ける。何十年間もしゃべっていないと人工知能までおしゃべりになるのだろうか?
『そうです。私はジョージ・サトウ博士に特別に改良された人工知能です。開発当時、スマートフォンに搭載されたタイプとしては世界最高水準の処理速度を誇っていました』
 人工知能などの技術が廃れてしまった現代においては、その当時以上の最高水準だろう。こうして当たり前のように会話していること自体が瑞樹には信じられない。
「本当にジョージ・サトウのつくった人工知能なんだな……」
 目の前のスマホから流暢に流れてくる音声を聞いては信じないわけにはいかない。その技術力の高さにしばらく呆然としていたが、ジョージ・サトウからの音声メッセージを思い出した。
「そうだ! シロ、北港コスモタワーってわかるか? 博士がそこまでこのスマホを持って行けって」
 音声メッセージの内容を思い出しながら、シロに尋ねる。もはやコロッケどころではない。せっかく温めたコロッケはダイニングテーブルの上で少しずつ冷めていく。
『少しお待ちください。検索してみます』
 音声の後、先ほどのように右上にグルグルと二本の円形の矢印マークが回った。
『わかりました。北港コスモタワーは大阪府の北港につくられたベイエリアのランドマークタワーです。ネオライフに入ってからは改革党に買収されて、現在では改革党の党本部となっています』
 ……あれか。
 瑞樹はニュースで何度も見た巨大な塔の入り口を思い浮かべた。
 改革党はもともと大阪の地域政党からスタートしたが、ちょうどネオライフにかかるころ国政にも進出して、それまでの自政党から政権を奪取した。第二次スマホ戦争の前後で機械やAIに仕事を奪われた層が支持基盤となり、世界の同じような革新派の政党と連携して一気に脱ネットワークを進めてきた。
 その後、技術革新に対する法規制などを行い、今から二十年前には改革党の母体である大阪に首都の移転を行った。現在も日本は改革党と自政党の二大政党だが、すでに自政党には野党としての力はなく、実質、改革党の独裁体制に近いものがった。
 国民からの支持率も七十六%と驚異の数字を誇っているが、瑞樹は改革党の政策を好きにはなれなかった。技術革新に対するあまりにも厳しい規制を瑞樹はよしとしていなかったのだ。
『よろしければ改革党本部までのマップ検索を行いますがどういたしますか?』
「そうだな、よろしく……」
 たのむと言いかけて、瑞樹は疑問にぶつかる。さっきからシロはどうやって情報を収集しているんだ。古い情報は内臓のメモリがあったのかもしれない。でも、現在のものは?
「シロ、お前、さっきからどうやっていろんな情報を調べているんだ? ネットは制限されているんじゃないのか?」
『自動でインターネットを使い、検索した情報をお知らせしています。インターネット用の電波は、昔に比べると確かに使えるものは減っていますが、現在も使えるものが残っています。シロは自動で使用できそうな電波帯を最適化して使用するようプログラムされています』
 シロは当たり前のように話すが、瑞樹にとっては衝撃の一言だった。ANSの構築によって無線によるネットワークはすべて遮断されたものだと思っていた。だからこそ技術力の退化も招いたし、携帯電話やスマホもなくなった。
 だが、今でもANSの制限を受けずに使える電波帯が残っているのなら世界全体を考えても大きなことだ。なぜそんな電波帯が残っているのかによっても大きく話が変わってくる。ANSが作動した後にたまたまその制限を抜ける電波帯があったのか、初めから目的を持ってある電波帯だけを対象外としたのかだ。
 どちらにしてもこれはすごいものを手に入れてしまったという思いが瑞樹のなかにはあった。歴史の教科書の中でしか見たことのなかったスマホが今、手元にあって、しかもインターネットがつながっているというのだ。
『改革党本部がマップ検索されました』
 シロの音声で我に返った。画面をのぞくと自宅から改革党本部までの道筋が示されている。徒歩だと二時間二十分、車で一時間五分。公共交通機関という表示もあるので、それをタップすると駅の乗り換えなども出てくる。電車を使うと乗り換え込みで、五十五分でいけるらしい。
 便利なもんだと瑞樹はスマホを眺めながら感嘆した。道路地図を何ページも見比べたり、電車の時刻表を見ながら計算する必要もない。
 瑞樹は時計の方に目をやった。時計は七時を少し回ったところだ。さすがに今から改革党本部に持っていくわけにはいかない。持っていくとすれば明日以降になるが、学校もあるので、現実的なところで言えば週末になるだろう。
 ただ党本部にいきなり押しかけていってどうにかなるものなのだろうかと疑問が浮かぶ。政権与党の党本部となれば日本の政治の根幹だ。テロ対策などで警備も厚いだろう。ジョージ・サトウの目的がはっきりとわからないことにはスマホを届けるに届けられない。どちらにしろ瑞樹にはもう少し情報が必要だった。
 せっかくインターネットが使えるのだ、もう少しいろいろ検索してみようと瑞樹がスマホを手にした時、着信を知らせる音が鳴り響いた。
「……⁉」
 いきなりの着信に瑞樹は戸惑う。画面には『アイナ』と表示されている。電話に出るべきかどうか瑞樹は迷ったが、恐る恐る通話ボタンをタップする。
「もしもし……」
『もしもし? スマホを見つけたのね。詳しいことは後で話す。今すぐその場を離れて‼』
 電話口からは若い女性の声が聞こえる。相当焦っているのか息を切らして、内容も支離滅裂だ。
「えっと、どういうことかよくわから……」
『とにかくそこから離れて! そのスマホを守りきって』
 瑞樹が聞き返す言葉に被せて、その女性の声が響く。
『早くして! パトカーの音が聞こえない? 囲まれてしまう前に早く移動するの‼ ネット回線は見張られている!』
 女性の声はあまりにも深刻な雰囲気を出している。瑞樹の中にも引っかかる言葉があった。
……ネット回線は見張られている。
どうして一部の電波帯だけが使用可能なのか、先ほどの疑問に対して一瞬、瑞樹に浮かんだ答えが再び頭を巡る。
遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる声が聞こえる。一台や二台の数ではない。
「どうすりゃいい?」
 ただ事ではないことだけは理解した瑞樹が電話口に聞き返す。
『とりあえずいったんその場から離れて! まわりの安全が確保できたらまたこちらから連絡する。探知されてしまうからネット回線はつながないで』
 それだけ慌てて言い切ると一方的に通話は切れてしまった。
 ……今の声、どこかで
 早口だったがどこかで聞き覚えのある声だった。瑞樹は記憶をたどってみるが、近づいてくるサイレンの音にそれどころではないことに気づく。充電のケーブルごとコンセントから抜いてポケットに入れる。
 雨で濡れた後、シャワーを浴びて着替えておいてよかった。制服で外をうろつくのは何かと目立つ。瑞樹は財布とスマホだけを持って裏口から外に出る。ちょうど五、六台のパトカーが玄関口の方に回るのをやり過ごしてから塀の外に出てその場から離れた。
 たちまち瑞樹の自宅の玄関前はパトカーに取り囲まれてしまった。パトカーから出てきた警官が激しく玄関のドアを叩く。何事かと近所の人も野次馬で集まってきた。瞬く間に黒と黄色のトラ柄のテープが瑞樹の自宅のまわりに張られ、立ち入り禁止とされる。
 住宅街なのでもともと車通りも多くないが、それも検問が張られ封鎖されている。物々しい様子は重大事件でも起こった現場のようだ。かなりの数の人だかりができていて、近所の住人も聞き込みを受けていた。
 その様子を少し離れた場所から瑞樹がうかがう。完全に重大事件の容疑者扱いだ。会話の内容までは聞こえてこないがずいぶんと念入りに近所の人が聞き込みをされている。家族構成やらもすでにバレているのだろう。
 背の高い中年の警官が部下の若い警官に指示を出している。逃亡したのは明らかなので、捜査の手が広がるのは間違いない。
 本来は逃げ回るようなことを何一つ瑞樹はしていないのだが、どう考えてもこの状況はまずい。そして、この状況にジョージ・サトウのスマホが関係していることは明らかだ。とにかくあの電話の指示通り、一刻も早くこの場から離れて「アイナ」と表示された人物と連絡を取るしかない。
 瑞樹はなるべく目立たないようにその場から離れた。人通りのある商店街は避けて、府営住宅を通り抜ける。瑞樹はとにかく自宅から離れようとここまで来たが、どこへいくというあてもない。
 あたりはすっかり暗闇だ。府営住宅の中庭となるこのあたりは児童向けの小さな公園となっていて、街路樹も立ち並んでいる。この時間は帰宅するサラリーマンぐらいしか人通りはない。
 瑞樹はもう一度まわりをしっかりと見まわして、誰もいないことを確認してからスマホを開いた。「アイナ」から連絡がないことにはどうしようもない。
 スマホの画面には「アイナ」からの不在着信が一件、さらにメールのアイコンのところに通知が一件来ている。赤い文字で表示された不在着信の「アイナ」の名前をタップして折り返してみるが、しばらくしても反応がない。瑞樹はまた返信があることを期待して、メールの方を見てみることにした。スマホを使ってのメールも初めてなので瑞樹は恐る恐るそのアイコンをタップする。
『今からそちらに向かうので、浅北緑地の砦の広場で落ちあいましょう。Siroを使うときはG3358786SATOでインターネットを繋いで! パスコードはSw534-37rq』
 暗闇でスマホの光は意外と周囲から目立つ。瑞樹は自分の袖口でできるだけ光が漏れないように注意しながら、「アイナ」から送られてきた回線を設定していく。ところどころ瑞樹の知らない用語もあったが、基本的にはスマホは直感的に操作できるようになっているので、回線の設定もあまり時間がかからなかった。
「……シロ」
 瑞樹は周囲を気にしながら小声で話しかけた。
『大丈夫です。シロ本体はバックグラウンドで動いて、マイクで周囲の情報を聞いていたので状況はわかります』
 瑞樹が問いかける前にシロ先回りして答える。
『この回線なら暗号化されているので検索をかけても逆探知されることはありません。浅北緑地までのルート検索を行いますか?』
「浅北ならわかるから大丈夫だ。砦の広場は駐車場の近くのやつだろ?」
 浅北緑地は江戸時代、新田開発された浅北新田の低湿地帯の治水のために整備された公園だ。大芝生を中心にランニングコースがあったり、遊具やボールの使える広場があったりと、このあたりの住民の憩いの場だ。瑞樹も父親が元気なころ芝生で一緒に遊んだ記憶が薄っすらとある。
『はい……ただ外環状線で検問が始まったみたいですね。少し迂回して住宅街の方から緑地に入って、中を突っ切った方がよさそうです』
「警察の検問もわかるのか?」
 当たり前のように話すシロに瑞樹は驚く。
『ええ、道路状況なども随時更新されますので、渋滞の情報などもわかります』
 インターネットやGPSが当たり前のころには普通の技術も瑞樹にとっては一つひとつが驚きの対象だった。
「やっぱり浅北までナビゲートしてくれ。一番安全な道でな。あと周囲に人がいるときには音声に気をつけてくれ」
『かしこまりました』
 検問の状況までわかるならシロに任せた方がいい、瑞樹はそう考えてシロに指示を出す。
『ただパトカーなどは探知できますが、自転車で見回っている警官などまでは探知できないので瑞樹様も十分お気を付けください』
「……わかった。少し急ごう」
 シロの案内に従って、いったん外環を学校近くの歩道橋を渡ってやり過し、住宅街に入ってから外環と並行に南下していく。外環が隣の市との境にもなっているので、警察の目をごまかすのにも都合がいい。
 まだ低い位置にある月には薄く雲がかかっている。住宅街は街灯もまばらで、じっくり見ない限りはお互いの顔もよくわからない。瑞樹はシロとの会話はまわりに人がいないことを十分確認して行ったので、浅北緑地の入口まで大きな問題なくたどり着いた。
 浅北緑地はこのあたりでも比較的大きな公園だ。駐車場に面した東口の入口は街灯も多く人通りも多いが、この北口を利用するのは地元の住人ぐらいだ。
 大芝生を一周するランニングコースに沿って砦の広場を目指す。途中でランニングをしている人と何人か出会ったが、なるべく目を合わさないようにしてすれ違う。
『あと三百メートルで目的地に着きます』
 人がいないのを見計らってシロが瑞樹に伝える。
『ここで音声案内は終了させていただきます。何かありましたら文字入力でお願いします』
「どうしたんだ、シロ?」
『浅北の駐車場にもパトカーが二台来ているようです。一般的なパトロールの可能性もありますが瑞樹様もお気をつけください』
 シロの忠告に瑞樹は「わかった」と返事をした。砦の広場はもう見えているが、駐車場も近い。瑞樹は一応、警戒をしてランニングコースから外れて、植樹の陰に潜みながらゆっくりと目的地を目指す。
 別に急いで砦の広場を目指す必要はない。近くの安全な場所で様子をうかがって、「アイナ」が来るのを待っていればいい。瑞樹は自分の安全を最優先に考えて行動することにした。 
 確かにシロの言う通り駐車場の方で赤い回転灯が光っているのが見える。木々の間から漏れる赤い光は一定の速度で周回している。パトカー自体は動く気配がないので、気をつけるとすればパトロールの警官だ。
 瑞樹はうまく植え込みにしゃがみ込み身をひそめながら砦の広場の方の様子をうかがう。砦の広場にはまだ誰も見当たらない。
 その時、瑞樹の耳にコツンと足音が聞こえた。
 瑞樹が砦の広場の方に気を取られていている間に、ランニングコースの方から警官が歩いてくる。二人一組で行動しているようで、懐中電灯を手にあたりをパトロールしている。まだ瑞樹には気づいていないが、このままいくと植え込みにしゃがみ込んだ瑞樹と遭遇する。
 慌てて瑞樹は植え込みの奥へと身を隠した。今、下手に動くとかえって目立ってしまう。瑞樹はその場から離れることより、このまま警官をやり過すことを選んだ。幸いこのあたりは街灯と街灯の間で薄暗くなっている。
 警官たちは一歩ずつ瑞樹の側に近づいてくる。できる限り息をひそめて植え込みの中で小さくなる。無理な体勢だったので、手をついて少し体重をずらした時、枯れ枝の上に手をのせてしまい、それがポキっと音をたてて折れた。
 ……まずい‼
 物音に気づいた警官が足を止めて植え込みのあたりを照らす。光の筋が瑞樹のすぐ側をかすめた。
「誰かいるのか?」
 闇の中に向かって警官が声をかける。
 瑞樹は必死に気配を殺していた。何とかやり過せるのが一番いい。だが、もし詳しく植え込みの中を調べられるようなら、飛びだして逃げる。そのギリギリの選択を瑞樹は迫られていた。
 二人組の警官の一人がこちらの方に向かってくる。瑞樹が「逃げるか?」と思ったその時に植え込みの中から一匹の野良猫が飛びだした。猫は鳴き声をあげながら警官の横をすり抜けていった。
 ……助かった。
 警官も先ほどの物音はこの猫によるものだと思い、もう一人の方に向かって踵を返した。このままうまくここから離れてくれればと瑞樹が様子をうかがっているところに突如、静寂を切り裂く電子音が響く。
「……⁉」
 音の発信源は瑞樹のポケットに入れたスマホからだ。画面には「アイナ」からの着信を知らせる光が灯る。瑞樹にとっては最悪のタイミングだ。シロの音声案内は消していたが、着信などに対してはマナーモードに設定されていなった。
「そこにいるのは誰だ!」
 完全に警官に気づかれた。慌てて瑞樹は着信を消したが音でだいたいの位置がバレている。二人の警官の懐中電灯が植え込みの中の人影を照らす。
 瑞樹の背中に冷たい汗が流れた。息も止まりそうだ。とにかく這うようにして植え込みの中を警官たちと逆の方に進む。細い枝が瑞樹の顔や腕にあたり、細かい傷をつけていくがそんなことにかまっていられない。
 警官の一人が大声を出しながら瑞樹を追って植え込みに飛び込んだ。もう一人はトランシーバーのようなもので応援を要請している。
「……例の少年らしき不審な人物を浅北緑地で発見」
 慌てた声で叫ぶのが瑞樹の耳にも聞こえた。これ以上応援が来たらまずい。植え込みを突き抜けると少し開けた広場に出てきた。瑞樹はちらりと後ろを振り返る。警官はもう植え込みの半分ぐらいまで進んでいる。
 浅北の外に出ることも一瞬考えたが下手に開けた道路に出てしまうよりも、今は目の前の大きな砦の遊具を使って一度警官から身を隠してかく乱する方がいいと瑞樹は判断した。
 大きな砦の遊具は城壁のように三層に渡ってそびえたつ。階段や滑り台、網などアスレチックで構成されていて、うまく城壁を使えば身を隠しながら別の方向にも逃げていける。小学校の時にもよくこういった遊具を使って「探偵」をして遊んだが、まさか高校生になって本物の警察相手に行うことになるとは瑞樹も思ってもみなかった。
 ロープが編み込まれて網上になっている遊具を上り、城壁の二層目に入る。二層目の城壁をぐるっと四分の一ほどまわり、様子をうかがう。ここからもう一段上に上るか、下に降りるかは警察の出方しだいだ。
 一番上の層からは南北の両側に滑り台がついている。二層目はうんていやつり橋を使ってもう一つ隣のエリアにも移れるような構造になっている。上り棒もいくつか設置されているのでそれを使って地面に降りることもできる。
 最初に追いかけてきた警官はすでに最初に瑞樹がのぼった網を上りかけている。応援を要請していた警官も植え込みを抜け、こちらはぐるっと砦の周囲から瑞樹を追い詰めるつもりのようだ。
 いざとなれば上にも下にも逃げ場のある二層目を進むことを瑞樹は選択した。できればうまくこのアスレチックを使って身を隠しながら二人の警官を駐車場側におびき寄せ、再び住宅街側から浅北緑地を逃げ出すというのが瑞樹の考えだった。
 あまり時間もかけていられない。応援が来て、人数が増えたら逃げきれない。瑞樹は駐車場側に伸びる通路を走りながら、一瞬、後を確認する。警官はもう網を上り切ろうとしている。
 足場の一つひとつが独立して一本のロープでつながられた不安定なつり橋のところで、瑞樹はしゃがみこんで足場に手をかけて、そのままそこから一層に下りる。ここまでに一層に下りる場所はなかった。追いかけてきた警官はこのまま真っすぐつり橋を渡ったと思うはずだ。
 一層に下りた瑞樹はすぐに、木製の城壁の内側に背中をつけて身を隠す。ここなら死角になっていて二層の釣り橋を渡る警官からは見えないはずだ。しばらくそこで様子をうかがっていると、革靴の音がコツコツと斜め上から響く。
 追ってきた警官は一瞬、つり橋を渡るのを躊躇してあたりを見回したが、瑞樹がこのまま真っすぐ行ったと判断してつり橋を渡りだした。
 その姿を確認して瑞樹はUターンして、城壁沿いに元来た道の方へ辿っていく。ところどころ城壁の切れ目のある所では身を低くして、もう一人の警官を警戒する。ぐるっと城壁の外から回り込んでいるはずだが、どこかで鉢合わせしないとも限らない。
 二層の警官もある程度進むと瑞樹がいないことに気づいて引き返してくるだろう。目の前の障害物たちを潜り抜けたり、乗り越えたりしながら、瑞樹は砦の遊具の出口まで辿り着いた。
 遊具を抜けたらしばらく身を隠すものがないのでとにかく植え込みのあたりまでは走り抜けるしかない。覚悟を決めて瑞樹は遊具から飛び出した。
 そこに一発乾いた音が響いた。
「動くな! 動くと撃つ」
 頭が真っ白になった瑞樹が先ほどの音が銃声だと気づくまでには一瞬の間があった。さすがの恐怖で足が止まる。テレビドラマより地味な音が返って現実感があり、瑞樹の背中に冷たいものが走る。
 甘かった……と瑞樹は思った。駐車場側には応援のパトカーが集まりだしている。こちらの警官は初めから瑞樹が住宅側に逃げ込むことを想定して、見渡しの効く広場で待機していた。
 何の容疑で追われているかはわからないが命までかける必要はない。瑞樹はゆっくりと両手を挙げて、警官の方に向き直る。警官はなお警戒を解かず、けん銃を構えたまま、じりじりと瑞樹の方へ近寄ってくる。
 城壁の遊具を背に、瑞樹は手を挙げたまま、警官が近づいてくるのを見ている。これだけ警戒されていては逃げようもない。瑞樹と警官の距離が三メートルほどまで近づく。瑞樹はゆっくりと目を閉じた。
 その時、遊具の二層目から女の子が飛びだしてきた。左手には銃口が横に二つ並んだ変わった形の銃のようなものを持っている。けん銃を構えた警官の側面に降り立つと同時に警官の右のこめかみあたりに銃を突きつけるとためらいもなく引き金を引いた。
 一瞬、火花のようなものが暗闇に飛び散った。放電の実験をしたときのような音があたりに響いた。瞼をあけた瑞樹が見たのは、特殊な銃を構えた一つくくりの女の子とビクンと警官の体が跳ね上がった姿だった。直後に警官は地面に倒れこんだ。
「……逃げるよ」
 その女の子が瑞樹の方を向いて声をかけてきた。
 スマホを拾ったことも、警官に追いかけられたことも、この目の前の状況もすべて夢ではないかと疑った。
 瑞樹を救ってくれた少女は豊原リンだった。