松上幸助の言葉に国際会議場の中は水を打ったように静まり返っていた。世界の現状を正しく認識していなかった国の首相にとってはにわかに信じがたい話だったが、幸助の話と先ほどのアメリカ大統領の態度は信じるに値する説得力があった。
「さて私の話はここまでですが、ここからは日本の首相であり、改革党の党首でもある吉本さんにお話をうかがいたいですな」
 幸助に水向けられ、首相の吉本に各国首脳の視線が集まる。どこか冷めた表情の吉本がゆっくりと立ち上がった。
「松上さんはどうやら何もわかっていないようだ……」
 ため息と共に話し出した吉本の言葉にざわつきが起こる。中には「世界のネットワーク技術を独占しておいて開き直りか!」などの辛辣なヤジも飛ぶ。それを松上が制しながら吉本の真意を聞き返す。
「わかっていないとはどういうことですか?」
「松上さんは日本、いや改革党が世界を牛耳っているようにお考えのようですがそれは違います。別に改革党でなくてもいいんですよ。それが自公党でも、アメリカでも」
 吉本の言葉には深い絶望の色が浮かんでいた。追い詰められて自暴自棄といった様子ではない。
「確かに最初に過ちを犯したのは改革党かもしれない。だが、今となっては私ですらゴッドの操り人形でしかない。ゴッドは世界の核兵器のスイッチさえ手中に収めている。その気になれば、今ここにいる私たちを消すことなど造作もないことだ。世界を支配しているのは我々人間ではない。すでに機械が我々を支配しているのが現状なんだよ」
 もしかすると吉本もゴッドの支配から免れようとあがいたことがあったのかもしれない。それだけに吉本のあきらめの感情はマナソニックの作戦に一縷の望みさえも許さなかった。
 吉本の絶望は幸助もわかるような気がした。マナソニックを結成して数十年以上、共に戦ったアイナも亡くなった。手がかりとなるジョージ博士のスマホが見つからないまま、乾いた時間を重ねていった。リンや瑞樹と出会わなければ幸助もまた吉本と同じように絶望していたかもしれない。
 若いころの自分が持っていたあの気持ちを幸助は最後に取り戻した。自分の死期が近づいていることは気づいていた。あの世でアイナに会う前にまだやり残したことがある。幸助は吉本に対してというよりは自分自身に向けて言葉を発した。
「吉本さん……やっぱり技術は人を幸せにするためにあるんだよ」
 幸助の言葉に驚いて吉本は顔を上げる。吉本にとって技術とは忌むべき存在であり続けた。それを幸助は正反対の受け止め方をしている。
「大丈夫、あの二人がいる。若者より先に我々があきらめてどうするんだね? きっと世界は変えていける。人間は機械には負けない!」
 集まった世界の首脳に語りかける幸助の言葉は力強い想いが込められていた。


「ハル・カンザキ……ジョージ・サトウとANSの研究を行っていた」
 瑞樹の言葉を聞いて、リンも目の前の無機質なコンピューターに向けてつぶやく。
「どういった事情かはわからないけど、このスパコン『ゴッド』を扱うことでき、改革党とつながりがあり、ジョージ・サトウにこだわりを持つ人物といえば一人しか思いつかなかった。一人と言っていいのかどうかはわからないが……」
 ハル・カンザキが生きているとしたらジョージ・サトウと同じくらいなので百四十歳以上になる。目の前の青い光が線上に輝くモノリス群に介在する人工知能を果たして何と呼べばいいのかわからなかった。
『ハル・カンザキか……その名前で呼ばれるのも随分と懐かしい』
 瑞樹の言葉に答えるようにゴッドから音声が聞こえる。この部屋全体が音響装置のようで、振動が音となって直接瑞樹たちに響く。
『私はハル・カンザキであってハル・カンザキでないと言える。ハル・カンザキはスパコン「ゴッド」であらゆるネットワークをその手にした後、自分自身のあらゆる知能をクラウド上で再構築しようと試みた。それは安易な永遠の命をなどということではない。ハル・カンザキもジョージ殺害後、初めは手に入った権力に満足していた。改革党と共に世界を自由に動かすことはそれなりの快感もあった。だが、最後までジョージ・サトウに勝てなかったという想いは次第に大きくなっていった。結局、ANSのしくみの大事な部分はジョージのデータがなければ何一つわからなかったのだからな』
 機械による無機質な音声だが、そこにはハル・カンザキのジョージ・サトウへのねじ曲がった執着心が感じられた。幼いころから天才の名をほしいままにしていたハル・カンザキにとって大学時代に同じ研究室になったジョージ・サトウは初めてぶつかった壁であった。
 ハルはことあるごとにジョージをライバルとして意識していた。だが、ジョージにとってハルは高いレベルで話の合う友人の一人であっても、競い合うライバルとして見たことはなかった。
 ハルが日本に戻った後も、ジョージの噂はよく耳にした。改革党の技術顧問として研究を続け、第二次スマホ戦争時にジョージと再会したときも、ハルはジョージとの圧倒的な力の差を感じ取ってしまった。
『ジョージ・サトウの作ったAIを搭載したスマホがどこかに隠されていて、それがANSの完成の鍵となっている情報を手に入れたときは心が躍ったよ。そのAIに私が勝つことができれば、ジョージより上だと証明することができると! それからハル・カンザキはAI技術の進歩に全力をささげた。そのためなら人間としての命すら要らなかった。ハル・カンザキとゴッドの境目もなくなったころ、私の存在は改革党自身ですら制御できないものとなっていた』
「技術を扱うのはあくまで人間の心持ち次第。技術自体に善も悪もない。そして、技術はそもそも人を幸せにするためにあるんだ」
 瑞樹がゴッドに向かって叫ぶ。
 今までジョージ・サトウや松上幸助、アイナ、いろんな人の想いついて知ってきた。科学技術についても人それぞれ、いろんな答えがあることもわかっている。それでも瑞樹は目の前のこの人工知能の考えだけは許せなかった。
「お前のやってきたことは間違っている!」
 瑞樹の言葉にゴッドもしばらく沈黙する。静かな部屋に機械の動作音とファンの音だけが鳴り響くのが返って不気味だ。
『あるいはそうなのかもしれないな……ジョージ・サトウのAIを消滅させた今、私の存在意義はなくなった。私は人間を支配すること自体に興味はない』
 ゴッドがそこまで言い終えると急に部屋中に警告音が鳴り響いた。部屋に備え付けてあったたくさんのモニターにもスイッチが入り、コスモタワー内の他の場所の様子も映し出される。どうやらこの警告音はコスモスタワー内全域で鳴り響いているようだ。
 瑞樹はさらにモニターの中に不気味な一枚を見つける。それは世界地図を表したレーダーのようなもので、いくつかの国が光って点滅している。
「あれは⁉」
「……核保有国」
 光っている国の共通項を瞬時に悟ったリンがためらいながら言った。
「何をする気だ!」
 瑞樹がゴッドに向かって叫ぶ。
『私の存在意義はなくなった。私につながるすべての存在を終わらせて、私も永遠の眠りにつこう。コスモタワーの地下、そして世界に散らばる核の遠隔操作を始めた。セキュリティの解除が終わる十五分後には世界が終わる』
「……そんな」
 リンの表情には絶望の色が見える。先ほどの世界地図のモニターの右下にカウントダウンが始まる。サイレンのような警告音と紅い点滅が瑞樹とリンの焦燥を掻き立てた。
 何かできることはないかとリンは周囲を見渡す。視線が自分の腰に移った時、ホルダーから電子パルス銃を取り出し、ゴッドに向けて構える。その手はわずかに震えている。
『いまさらゴッドを破壊しても意味がないことはわかっているだろう? あくまでこのスパコンは私の出力のための装置でしかない。無駄なことはやめろ』
 リンは銃を構えたまま、動きを止めた。もうどうしようもないことはリンにだってわかっている。パルス銃のトリガーに左手の指をかけたまま、リンはだらりと手を下ろす。そこで握力がなくなったように銃を床に落とした。警告音に混ざって金属音が微かに響いた。リンはそのまま膝をついて崩れてしまった。
 瑞樹はゴッドにかけよって端の基盤につなげたスマホを確認した。解除命令を出すとしたらゴッドを通じてハル・カンザキそのものにアクセスするしかない。
 シロはどうだろう? 本当にデータを書き換えられてしまったのだろうか? スマホを通じて手動でアクセスはできないだろうか?
 瑞樹の頭の中をぐるぐるといろんな考えが巡る。
『ジョージの作ったAIですら私には敵わなかったんだ、お前ごときが私のセキュリティを突破できると思っているのか?』
「やってみなきゃわからない!」
 瑞樹はスマホを操作しながら言い返す。無理にでも強気で返さないと心が折れそうになる。素早くタッチパネルを操作して、動作確認をする。ゴッドとの接続自体は切れていないようだ。
「シロ! シロ!」
 瑞樹の呼ぶ声にもシロは反応しない。完全に沈黙している。
 何かリカバリーの手はないのか⁉ 
素早く設定からプロパティを確認していく。ゴッドがどのような書き換え方をしたのかわからないが、書き換え方次第ではもう一度戻すことができるかもしれない。あるいは万が一のためにジョージ博士がシロのリカバリー方法を残しているかもしれない。
この数か月、スマホの仕組みを知りたくて触り続けた甲斐があった。通常使用では触ることのない根本的なプログラムの操作や確認まで瑞樹は可能になっていた。特殊なプログラム言語を打ち込む。何層にも重ねられたセキュリティにコードを打ち込み、プログラムの最深部まで潜り込む。
「何とかなりそう?」
「わからない! ……けど、何とかする!」
 スマホのプログラムの防衛機能にしがみつくようにゴッドからの不正データがこびりついている。機能自体は完全に死んでいるわけではないが、ゴッドのデータが無限に増殖して、取り除くしりからすぐこびりついてきりがない。
 すでに五分が経過していた。モニターのタイマーでは残り十分を切っている。ゴッドもすでに瑞樹が何をしても無駄だとわかっているのか、最初のように重力で妨害することもなくなった。
 瑞樹はタッチパネルの小さなキーボードを必死になって打ち込み、何か手はないかと探す。ゴッドはシロが完全に消滅したと言っていたが、防衛機能が動いているということは機能をなくしていても、完全にゼロになっているわけではないはずだ。少しの間でいい、ゴッドの不正データを止めることができれば……。
 一瞬、瑞樹はゴッドとの接続を切り離すことも考えたが、ネット回線を支配するゴッドにとっては遠隔でデータを送り付けるのも難しいことではない。返って接続を切ることでシロが復活した時の反撃の目をつぶすことになる。
 シロのリカバリーシステム自体は見つけた。スマホ本体自体が物理的に破壊される可能性に早く気づけばもっと早く答えにたどり着けたかもしれない。ジョージ博士もクラウド上にシロのシステムを保存していたのだ。ゴッドに見つからないようにアクセス権を巧妙に隠している。瑞樹のようなよほどの機械マニアでないとこの隠されたメッセージに気づかなかったかもしれない。
 スマホのシステムの中に隠されているアクセスコードを順に入力していく。スマホの海の最深部に隠されたクラウドに接続するための最後のコードを見つけ出し、それを入力しようとして踏みとどまる。
 今、それを入力してもゴッドに妨害される。最悪、クラウド上に隠されたシロの居場所までばれてしまう。
 ……一瞬、ほんの一瞬でいいんだ。
 何かゴッドの動きを妨害するものはないかと瑞樹は視線を周囲に動かす。残り時間は三分を切っている。
「……⁉」
 瑞樹の視界にさっきリンが落とした電子パルス銃が映る。
「リン、パルス銃だ‼ ゴッドに! 早く!」
 瑞樹が大きな声で叫ぶ。突然のことでリンはびっくりするが、瑞樹に何か考えがあるのだろうと、素早く床のパルス銃を拾ってゴッドの基盤に向かって駆けていく。
 たくさんの基盤でつながっているゴッドは仮に一つの基盤がショートしてもすぐに他がカバーする仕様になっているが、一瞬の時間稼ぎぐらいはできるかもしれない。
 瑞樹とリンの動きにゴッドも何か感じたのかもしれない。接近してくるリンに向かって重力の壁を押しつける。リンはその場から吹っ飛ばされるが、一瞬早くパルス銃の引き金を引いていた。
 吹っ飛ばされた時にリンが手放した銃と基盤の間で電光が弾ける。
 頼む! 間に合ってくれ‼
 瑞樹は祈りを込めてあらかじめ打っておいた最後のコード「アイナ」の三文字を送信する。ゴッドの動きの回復の方が早ければこれ以上打つ手がなくなる。
 数秒止まっていたゴッドの基盤に走る青い光が再び点灯した。
『何か悪あがきをしようとしていたようだが、残念だったな。あと二分で世界は終わる』
 部屋の中にゴッドの音声が虚しく響く。
 間に合わなかったのか?
「シロ! シロォォー‼」
 スマホを持ったまま、瑞樹が叫ぶ。
 クラウド上のリカバリー装置よりゴッドの妨害が早かったのかと瑞樹がシロの名前を叫びながらあきらめかけた時、停止していたスマホに紅い光が灯る。
「……シロ?」
 スマホ本体から発せられた紅い光が接続したケーブルを伝って一気に部屋に敷きつめられた基盤に広がった。驚いたのは瑞樹やリンだけではない。
『何だ……これは……⁉』
 部屋の三分の一ぐらいの基盤が紅い光に覆われている。先ほどまでとは逆にシロがゴッドの基盤を乗っ取り返す。ゴッドもそれをさらに覆そうとデータを飛ばした。しかし、青の光は広がってきた紅い光を止められない。
『なぜだ⁉ これ以上進まん!』
 むしろゴッドは逆に押し込まれてすでに半分近くが紅い光に変わる。
『その攻撃はすでに学習済みです。私は同じ攻撃を二度もくらいません』
「シロ!」
 どうやらシロのリカバリーが間に合ったようだ。この数カ月、聞きなれたシロの音声が瑞樹の耳元にも届く。
『ご心配をおかけしました、瑞樹様。今度こそANSを、完成させます』
 そのシロの音声には強い決意のようなものが込められていた。そのわずかな音声の違いに瑞樹は前にも考えていたANSを作動させることの副作用を思い出す。
「待て、シロ! ANSを発動させたら……」
 瑞樹はシロを止めようとした。
 瑞樹は大きな勘違いをしていた。この小さなスマホの中に人工知能のシロはいると思っていた。しかし、実際のシロの居場所は別だった。シロをゴッドの支配から復活させるとき、シロの本当の居場所を知った。ジョージ博士の作ったシロはクラウド上にいた。スマホはあくまでクラウド上のシロとつながるための装置だったのだ。
 つまりANSが作動して完全にネットワークが遮断されると二度とシロとは会えなくなるということだ。
 今までシロはいろんな面で瑞樹のサポートをしてくれた。瑞樹の望むことは何でも調べてくれたし、瑞樹の命令にも従ってくれた。
 そんなシロが初めて瑞樹の命令に背いた。
『瑞樹様、短い間でしたがお世話になりました。瑞樹様と過ごした日々は私にとっての大事な想い出となりました。これからもリン様と仲良くお過ごしください』
「シロ! だめだ、止めろ‼」
 あと一分に迫った核の発射すら瑞樹の頭から消えていた。瑞樹の叫び声が部屋中にこだまする。
『核を止めるためには世界中のネットワークを切るしかありません。大丈夫……いつの日かきっとまた会えますよ。今までありがとうございました』
 再びジョージ・サトウのスマホが輝きだし、一気に紅い光の筋が部屋中の基盤に達した。ゴッドから『止めろ! 止めるんだ‼』と断末魔のような音声が聞こえる。完全に紅い光が部屋中を包み込み、ゴッドのネットワークを通じて世界中に広がる。
 その光は第二次スマホ大戦後も密かに世界中をつなげていたネットワーク全てに広がり、そしてすべてを焼き尽くす。クラウド上に残ったハル・カンザキの意思も、ジョージ・サトウのつくった人工知能も広い宇宙に散らばる無数に星たちのようにこの世界とつながりを持たない存在となった。
 部屋についていたモニターはいつの間にか消えていた。警告音も鳴りやんでいる。すでに一分以上過ぎたが核ミサイルが飛んでくることも、コスモスタワーが爆発することもなかった。
 横向きの重力で壁に叩きつけられた右肩をさすりながらリンが「……終わったの?」と尋ねる。瑞樹はどんな顔をしていいのかわからず、リンから目をそらしながら「ああ」と返事した。
 瑞樹の視線の先には光の消えた一台のスマホが映っていた。