午後からの現代史の授業は多くの者にとって苦痛でしかないだろう。
ましてや昔を懐かしむ初老の教師の工夫のない平坦な授業は、眠りへ誘う魔術でしかなかった。かろうじて起きている生徒もすでにこの暑さで集中力などなく、下敷きをせわしなくパタパタさせて、わずかな風でシャツを膨らませている。
地球温暖化が叫ばれたかつては、どこの学校にもエアコンがついていたというが、それこそ今、現代史で取り上げている時代に突入してから、特別な事情のある学校にしかつかなくなった。公立の工業高校など順番待ちの最後列だろう。
あまりにも机に伏せてしまう生徒が増えたので、教師が一度話を中断して、顔をあげるように促す。声をかけられて顔が上がるのは約半分、残りの半分の内のさらに半分が友達に揺すられたり、声掛けをされて顔をあげる。
最後まで顔が上がらないのは数人だ。リンは無駄に終わるだろうと思いながらも、一応隣のを揺すってみる。だらしなく机に伏せる瑞樹は一向に起きる気配はない。リンは最低限の責務は果たしたと自分に言い聞かせ、すやすやと眠る瑞樹の横顔から目を逸らせた。
初老の教師は額に汗を光らせながら、授業の続きを始めている。授業はちょうど西暦が終わるあたりの話だ。
『2023年 第一次スマホ戦争』と教師が黒板に大きく書いた。いくら実習中心の工業高校の生徒と言えど、さすがにそれは知っている。小学校の歴史でも出てくる有名な出来事だ。
驚異的な速度で進歩するAIやネットワークは想定していたより早く人々から仕事を奪っていった。生産性が上がり、人々は自由を手に入れられるどころか、少しずつその生活を追 われていった。
スマホに搭載された人工知能も格段に進歩し、人々はAIを使っているのか、それとも使われているのかわからなくなった。
仕事を追われた人々の不満はついに膨れ上がり、それは各地での蜂起という形で爆発した。その動きは世界中に広がり、国連はついに新たなAIやネットワークの技術の開発中止を提言し、段階的にスマホの利用を停止していくことを宣言した。
これまで何度同じ話を聞いただろう? リンはあくびを噛み殺した。それでも横の瑞樹とは違い、割り切って睡眠時間にあてられるような性格ではなかった。
第一次と第二次スマホ戦争後の混沌期が終わってすぐに生まれた世代だからだろうか? この世代のものはすぐスマホ戦争の話をしたがる。
……何にも知らないくせに
リンは思わず悪態をついてやりたくなった。
そんなリンの気持ちも知らずに教師の話は第二次スマホ戦争の内容に進んでいく。
第一次スマホ戦争終結から七年経った西暦2030年、日本、アメリカを含む六か国が国連の協定を破り、密かにビッグデータにより、AI技術の進歩を計っていたことが判明。それをきっかけに互いの情報を狙っての電脳世界での戦争へと発展する。
その中で暴走したAIがインターネットを占拠、核兵器のスイッチすらも機械の手におちるという人類史上未曾有の危機に落ちった。
そんな混とんとした状況を救ったのがジョージ・サトウ博士の開発しただ。ネットワークを妨害する特殊な電波を増幅させる方法を見つけたことにより、地球上のすべてのインターネットを分断し、AIの支配から逃れることができた。
その後、世界はインターネットやAIからの解放を目指し、あれだけ普及率の高かったスマホも人類の歴史から破棄された。科学からの脱却を目指した世界は徐々に技術を退行させていき、そこから約三十年かけて西暦でいうところの1980年代の技術水準に落ち着いた。
教師の長い話は第二次スマホ戦争があった2030年で西暦が終わり、そこから新しい道を選んだ人類は西暦2030年を元年と呼んだというくだりで終わった。
授業が終わるころには十人に近い生徒が机に伏せていたが、リンの隣ですやすやと眠る瑞樹は特別だ。よっぽど疲れているのか現代史の授業が終わって、担任による終礼が始まっても机に伏せたままだ。
担任による明日の連絡も終わり、号令と共に一斉に皆が動き出す。そのまま下校するものもいれば、部活の準備もするものもいる。その喧騒の中でも瑞樹は一向に起きる気配がない。さすがのリンももう一度、瑞樹の体を揺する。
「原くん、もう学校終わったよ」
少し位揺すっても、びくともしない瑞樹に、段々とリンの揺すり方も激しくなる。最終的に枕にしていた腕を無理やりどけようとして、机にゴンと頭をぶつけた衝撃で目を覚ます。まだよく状況のわかっていない瑞樹にリンがあきれたように話かける。
「…‥よく学校でそこまで熟睡できるね。もう終礼も終わっちゃったよ」
「ああ、もう終わったのか。昨日、完徹で学校来たから完全に熟睡だったわ」
瑞樹は机に打った額のあたりをなでた。ずっと腕を枕にしていたので、赤く跡がついている。
「完徹って、朝まで何してたの?」
「……ゲームウォッチ」
ゲームウォッチは単純なゲームが行える携帯機器だ。ネオ・ライフに突入後はゲーム産業はいち早く衰退した。それまではオンラインゲーム機が発展し、据え置き型に携帯型とたくさんのゲーム機があったが、一度完全にその文化を失った。モノクロ画面の原始的なこのゲームウォッチでさえ流行りだしたのは昨年ぐらいからだ。
「ゲームウォッチ?」
「……正確にはその分解」
答えるか迷ったが、リンに朝までゲームをしていたと誤解はされたくなかった。
「分解? ゲームをしてたんじゃなくて?」
「ああ、どうなってるか仕組みが知りたくて。どうせならもっとすごいゲームを組み込めないかなと思ったんだ」
リンが何か珍しいものを見つけたかのように瑞樹を見る。二人のやり取りなど気にも留めず教室からは、どんどんと人が減っていく。
「前から思っていたけど、原くんって変わってるよね。そんなことしておもしろい?」
「何言ってんだよ、豊原さん! 一応、工業高校なんだし、そういったことに興味を持つのは悪いことじゃないだろ?」
瑞樹としては至極まっとうな好奇心だと思っているので、変人扱いされてはたまらない。
「それはそうかもしれないけど……そんな前向きな工業高校生初めて見たかも。だって技術開発自体、世界的に制限がかかってるじゃない。確かに今ある工場などを動かしてく必要はあるかもしれないけど、そこまで新しいことをやりたいってなかなか珍しくない?」
国連の方針として世界の技術開発は極端に制限されている。それどころか過去にあった技術さえ、ANS開発後は継承されず衰退の一方を辿った。今や工業高校は毎年定員割れ、ここの卒業生も半数近くは工業以外の職に就く。残りの多くも工場作業や手に職つけた職人がほとんどで開発担当の技術者になるものは皆無だ。
「そんな新しいことがやりたいって前向きな訳じゃないけど、単純に気になるんだ。ただの好奇心ってやつ。そもそも、技術開発に制限かけるってのも、本当はよくないんじゃないかって思ってる方だよ」
「うわっ! それ危険主義者のやつだよ。あんまり外で言わない方がいいよ」
NL81年の現在になっても二度のスマホ戦争の原因になったインターネットなどのネット回線や科学技術を取り戻そうという動きが一部の過激組織の中である。ただ、そういった思想を実行に移そうとした者たちは大抵、各国の政府によって取り締まられている。
多くの者にとって現在の便利さ以上の生活は望まないし、科学技術の過度の進歩がどれだけの災厄を人類に与えてきたか幼少のころから教育され続けてきた。
「別にそんなんじゃないよ。ただ昔はここにいながら世界中の人とつながったり、それこそスマホに話しかければ何でも調べることができたってんだぜ。そりゃ実際に見てみたいし、使ってみたい、興味が湧くのも当然だろ?」
教科書の中に出てくる夢のような機械や技術たち……確かに使い方を誤ると恐ろしい面があるかもしれないが、それは使い方しだいだ。ずっとその話を聞いてきて瑞樹はできることならその技術を体験したいと思っていた。
「当然かどうかは別にして……やっぱり原くんが変わりものってことだけはわかったわ」
「だから、変わりものじゃないって……」
瑞樹がムキになって否定するのをくすくすとリンは笑う。そういえばリンが笑っているのをまともに見るのは初めてかもしれないと瑞樹は思った。席が隣になってからも最低限のあいさつ以外の会話を交わしたことはほとんどない。
「はいはい、それじゃあ、ちゃんと原くんを起こすこともできたから私は帰るね」
通学用のスクールバッグに筆記用具を入れて帰り支度を始める。ちゃんと教科書を持って帰るところにリンの真面目さが表れていた。
「あれ? 豊原さんって部活入ってなかった?」
「うん、帰宅部だよ。帰ったらいろいろ忙しいし」
スクールバッグを肩から背負い、リンが立ち上がる。
「バイトとか?」
立ち上がったリンの背中に瑞樹が問いかける。
「ううん……『探しもの』かな」
「探しもの?」
リンの言っている意味がいまいちわからず瑞樹はとまどう。そんな瑞樹を気にも留めず「それじゃあ、また明日」と笑みを浮かべて、リンは教室を後にした。
それ以上何も言えないまま、瑞樹はリンを見送った。前から思っていたがリンの方こそ変わりものだと思う。
工業高校だけあってクラスの三分の二が男子で女子の数は少ない。それだけに少ない女子の奪い合いがおこり、普通以上にここの女子はモテるし、その情報も男子の中で出回りやすい。
黒髪を一つくくりにして、色白の整った顔立ちのリンはどう考えてもモテるはずの女子だった。瑞樹も顔だけで見たらクラスの中で一、二を争うと思っている。
だが入学してこの三カ月、リンの浮いた話は聞かない。決して社交性がないわけではないが、どちらかというとリンがうまく他の人と一定の距離を保つようにしているように見える。
リンの言う『探しもの』の意味はわからなかったが、少しだけリンに興味が湧いたことは確かだ。明日、そのあたりもリンに聞いてみようと思いながら瑞樹も帰り支度を行う。
少し外が薄暗くなってきた。夕立が来るのかもしれない。
瑞樹が帰り支度を済ませて、門から出るころは曇天の空は今にも激しい雨を降らせようと紺色を深めている。家まで歩いて二十分、この近さも高校を選んだ理由だが家まで天気が持ってくれるだろうか。
……自転車でくればよかった
瑞樹は今朝の選択を後悔した。完徹の眠気をすっきりさせようと今日に限って歩いて学校までやってきた。
中学の時の瑞樹は野球部に所属していて毎日体を動かしていたが、高校に入って帰宅部になってから運動はからきしだ。機械いじりの方にばかり興味が向いて運動不足の体を久々に動かそうなんて思ったのが間違いだった。
しばらく歩き商店街にさしかかるころにはパラパラと小雨が降り始めていた。熱せられたアスファルトに雨があたり独特な匂いが立ち込める。少し早歩きで瑞樹は人混みを通り抜ける。ビニール傘を買うという選択肢は今のところ瑞樹にはない。
肉の田島のコロッケの匂いがした。夕飯時のおばちゃんたちもこれぐらいの小雨には負けない熱気を立ち込めている。この時間の活気ある商店街が瑞樹は好きだ。威勢のいい肉屋や八百屋の声は生きているという確かな今を瑞樹に感じさせる。
商店街を抜けて縄手神社の鳥居を抜けるころには、雨粒は大きさを増して容赦なく瑞樹に降りかかる。先ほどまでの紺から、あたりが一気に黒に近い色になったかと思うと、近くで稲光が走り、すぐさま轟音が鳴り響いた。
雨脚は地面を殴りつけるかのように強くなり、さすがの瑞樹も走って帰るのをためらった。いつも近道としてこの縄手神社を通り抜ける。ここでちょうど家と学校の中間地点だ。何とか雨をしのげる場所はないかとあたりを見渡した瑞樹は仕方なしに深々と頭を下げてから境内の引き戸を開けて、雨宿りさせてもらうことにした。
……この雷雨だ。神さんも許してくれるだろう
びしょ濡れになったシャツの袖口を軽くしぼりながら瑞樹は思った。神主さんでもいれば、一応許可を取ろうとあたりを見渡すが人の気配はない。埃っぽい境内は管理者がちゃんといるのかもわからない。
正月や七五三の時期などには神主がいるのを見たことあるが、普段は無人なのかもしれない。一応、室町初期からの由緒ある神社らしいが、ずいぶんと老朽化が進みこの境内もあと数年で取り壊して、違う場所に合祀することが決まっていた。
境内から外の雷雨を見ながら瑞樹は光と音の差から雷の距離を計算してみた。まだかなり近い。もうしばらくは雨もやまなそうだ。
観念した瑞樹はもう一度祭神の方に手を合わせた後、両手を伸ばし、そのまま後ろに倒れこむ。埃が舞うのもお構いなしだ。どうせこれだけ濡れていたらシャツだけでなく、制服のズボンも洗濯しなくちゃいけない。
少しだけさっきの仮眠の続きをしようと自分の手を枕にして横向きの体勢に転がった時、肘のあたりに違和感があった。木の板がここだけやけにへこむ。
瑞樹は上半身を起こして、その場所を手のひらで触れて確認する。どうやらこの板の部分は取り外しができるようになっているみたいだ。グッと力を入れて片側の板を浮かし、隙間に手を入れる。そこから持ち上げるように板をずらすと簡単に板が外れた。
一枚板を剥がすと、そこから連鎖して順番に他の板も剥がしていけた。板を剥がした下の空間は、ちょっとした床下収納になっているようで、隙間から四角い箱のようなものがあるのが見える。
瑞樹は湧き出てくる好奇心に抗えず、仮眠の続きをしようとしていたことも忘れてすべての板を剥がしきった。
全部で六枚ほどの板を外すと、テーブル一卓分ほどの面積の収納になっている。深さ自体は一メートルほどでその中にポツンと黒い重箱のようなものが一つ置かれていた。
漆の塗られた黒光りする箱がいかにも高そうだ。他にもたくさんの物が入るスペースがあるのに、この箱だけが置かれているのが不思議だ。
ここまで来たら後には引き返せない。瑞樹は手を伸ばしてその黒い箱を収納から取り出し、目の前に置いてみた。光沢のある黒に自分の顔が映っている。その箱を包むひもをほどいて、そっと箱のふたを持ち上げてみた。
…‥これは⁉
赤いクッション性の詰め物の上には黒光りする掌サイズの長方形の物体が置かれている。その横には白いケーブルのようなものも結束バンドで止められている。
瑞樹も実物を見るのはこれが初めてだが、歴史の教科書の中で何度も見たことがあるので、それが何なのかは一目でわかった。
これはスマートフォンだ。それもずいぶんと状態がいい。
今でも歴史博物館などに行けばスマホを見ることができるが、そのほとんどはレプリカで通信機能などは、もちろん持ち合わせていない。だが、これは過去に使用されていた本物ではないかという予感を瑞樹は感じていた。
落としたりしないよう両手で大切にスマホの本体を持ち上げてみた。表面や背面をぐるっと確認してみるが特に目立った傷などはない。動くかどうか電源を探してみる。画面の上部と側面にスイッチらしきものがあるので、それらを押してみるが反応はない。
もう一度そのスマホをぐるっと一回転させながら他にスイッチなどがないか確認する。画面の下の方にコネクターを指すためのくぼみがある。
……もしかして‼
瑞樹は箱に納められていた白いケーブルを引っ張り出す。ケーブルの先にはスマホのくぼみにピッタリと合いそうな端子がある。それをスマホの画面下部に差し込んでみるとカチッという音と共にうまく接続された。
……と言うことはこっちにはきっと。
ケーブルが納められていたあたりを探るとやっぱり出てきた。コンセントに差すためのプラグだ。さっそくそれをケーブルのスマホと逆側に取り付ける。瑞樹の予想通りこれはスマホに充電するためのキットのようだ。ならば充電をすればスマホ自体も動き出すのではないか。
瑞樹はカバンから電池式の簡易な電源装置を取り出した。一週間ほど前に実習で使ったものだ。もう電池も残量がほとんどないと思うが少し位は充電できるかもしれない。
高鳴る気持ちを抑えながら、ゆっくりとその電源装置のコンセント部分にケーブルの先を差し込む。うまく規格があってくれればいいがと、祈るような気持ちでしばらく真っ暗のスマホの画面をのぞき込む。
変化はないかと一分ほど緊張して画面を注視するが反応はない。壊れているのか、それとも電源の規格が合わなかったのかと瑞樹が諦めようとした時、突然、スマホの画面が光りだす。スマホの画面には『音声メッセージ一件』と書かれている。
スマホの電源が入ったことに喜びを感じつつも、ここからどうしていいかわからない。側面のボタンを押していいのかどうかもわからないまま、瑞樹がその『音声メッセージ一件』の表示のあたり触れたとたん、スマホから機械的な女性の声が鳴り響く。
『新しいメッセージ一件』
スマホから声が出てきたことに驚いた瑞樹だったが、その後に続く低い男性の声でさらに言葉をなくしてしまう。
『このスマホを見つけてくれた人へ……私はジョージ・サトウだ』
……ジョージ・サトウ‼ ANSの⁉
瑞樹は自分の耳を疑った。たまたま同姓同名の人かも知れないが、もし本当にあのサトウ博士ならナポレオンに匹敵する歴史の重要人物だ。
本当に本物? 何でこんなところで? 考えても答えの見つかるはずのない疑問が次々と湧いてくる。そんな瑞樹の混乱を整理する暇もなく、スマホからは音声データの続きが再現される。
『時間がないので端的に話す。このスマートフォンを北港コスモスタワーまで運んでほしい。Siroが助けになるはずだ。時間がない……このままでは手遅れに……』
音声はそこで途切れてしまった。
……コスモスタワー? Siro? メッセージの意味は全く分からない。
もしこれが本当にジョージ・サトウのメッセージなら少なくとも八十年以上前のものになる。ジョージ・サトウはANSの開発をして世界を救ったが、その元年に事故死を遂げたはずだ。
瑞樹はもう一度音声を再生しようとしたが、バッテリーランプが点滅して画面が真っ暗になる。歯車のようなマークがしばらく光っていたが、やがてそれも消えてしまった。どうやら本格的に充電切れのようだ。やはり実習で使った電源装置はもうほとんど電池が残っていなかったらしい。
……どうする? 瑞樹は誰もいない境内の中でスマホを握りしめたまま考え込む。いつの間にか雨の音は止んできた。小鳥のさえずりも聞こえる。
いたずらでジョージ・サトウのふりなどするだろうか? このスマホを見つけてくれた人へ……ということはジョージ・サトウがこの境内に慌ててこのスマホを隠したのかもしれない。
だとしたらやっぱりこれは持って行った方が……神社の境内に納められていたスマホを勝手に持って行ってよいものか、瑞樹は迷っていた。いや、正確には迷っているふりをしていたのかもしれない。
話の中でしか聞いたことのなかったスマホをもっとさわってみたい。自分の知らなかった技術を目の当たりにしたい。さっきもそうだ。音声データの再生の時には凹凸のボタンを押さなくても画面に触れるだけで再生が始まった。歴史の資料集に出てきたタッチパネルという技術だろう。
きっと家に帰ってきちんとスマホを充電すれば、もっと多くのことがわかるに違いない。瑞樹はいつの間にかスマホを持っていくための理由を探していた。それほど瑞樹にとってこの黒い小さな塊は魅力的なものだった。
瑞樹はきょろきょろと周りを見渡した。境内の中には瑞樹以外には誰もいない。
瑞樹はそのスマホと充電ケーブルをまだ雨で湿っているバッグの中に突っ込んだ。スマホが収められていた黒い箱はもう一度外のひもも結び直して、元の場所に戻した。続いて隠し収納の板を一枚一枚元通りはめ直していく。
別に焦っている訳ではないのだが、板をはめるのにずいぶんと手間取った。やっと最後の板をはめ終わると改めて周りを見渡す。もちろん誰もいない。雨宿りで入ってきた時と全く違わないことを確認すると、瑞樹は境内の外に出た。
すでに陽は少し西側に傾き始めている。先ほどまで雷雨が嘘のようだ。雨で濡れた石畳に注意しながら鳥居のあたりまで歩く。誰かに呼び止められることはなかったし、誰にも見られることはなかったようだ。鳥居を抜けると瑞樹は立ち止まって、境内の方に振り返り一礼を行った。
背中のバッグの揺れにいつも以上に気を使って歩く。家まではもう十分もかからない。側溝は先ほどの夕立のせいで、いつもより流れを速めている。瑞樹はもう放課後リンと会話したことすら忘れていた。



