──上京して三年目。
先程、午前零時を過ぎ無事に終電を逃すと私は二十五歳になった。
「……片想い三周年おめでとう」
自分でも拗らせてるなと思うが、この片想いがやめられない。
抜け出せないのは多分、いまの関係がちょうどいいからだ。
形を変えれば、この居心地のいい関係はきっと消えてなくなってしまうから。
踏み出せない。
きっと今夜も。
明日も明後日の夜も。
それでも一縷の望みをかけて、私は酔いの回った頭で嘘のメッセージを送信する。
──『ごめん。終電逃した』
それだけ送るとスマホをポケットに突っ込む。
いつもよりやけに瞼が重いのはなぜだろう。
元々お酒が強くない私はいつもレモンチューハイ二杯で酔っ払うのだが、誕生日を迎えることもあり、何か変わるかも、今夜こそ酔いに任せてこの片想いを終わらせられるかもと三杯目のチューハイに手を出したのが間違いだったのだろう。
「はぁあ」
私は深いため息を吐くと、重力に逆らうことなく静かに瞼を閉じた。
※
「こんなとこで寝んな」
ふいに頭上から降ってきたのは、聞き慣れた低い声。その声に私は浅い眠りから現実へ引き戻される。
「ん……っ」
ホームのベンチに上半身を預けていた私が瞼を開けると、同じ広告代理店に勤める同期の片平涼弥がしゃがんで眉を寄せていた。
「祭理、いいかげんにしろよ」
祭理と言うのは私の名前。
涼弥は会社では私の苗字である新崎と呼ぶが、プライベートでは私を祭理と呼ぶ。
きちんとオンとオフを使い分けているだけなのに、なんだか狡いと感じるのは私が彼に長く想いを寄せているせいなんだろう。
「何回、終電逃すわけ?」
「知らない」
「はぁあ……毎回呼び出される俺の身にもなれよな」
涼弥は呆れ顔で私の背中を支えて体を起こす。そしてペットボトルの水を私に渡した。
「ありがと……」
「マジで最後にしろよ」
(私だってワザと終電逃すのなんて最後にしたいわよ)
今夜だってお酒の力をふんだんに借りて涼弥に想いを伝えるべくシュミレーションは嫌と言うほど重ねてきた。
けれど実際に実行に移せるかとと言えば恐らく今夜もダメだ。だって、私は現在進行形で今のラクで居心地のいい関係にあぐらをかきそうになっている。
(……迎えにきてくれたってことは、まだ彼女いないってことだよね)
今夜は金曜の夜。
恋人がいるならば遠距離じゃない限り一緒に過ごす人も多いのではないだろうか。
(今夜こそちゃんと告おうと思ったのに)
涼弥への罪悪感からそう考えが過ぎるのに、すでに今夜も告白できる気がしない。そもそも断られるのがわかっているから、いくら酔っていても何回終電を逃して迎えにきてもらってチャンスを作っても、最終的に勇気が出ない。
先日、涼弥と一緒に制作に携わった、ある企業のキャッチコピーが頭に浮かぶ。
──『物語の主人公は自分が決める』
初めて私の案が採用されてすごく嬉しかったけど、同時に落胆する自分もいた。
物語の主人公はいつだって最後はハッピーエンドだけれど、私はこの恋の主人公には決してなれないから。
「てか彼氏に迎えにきて貰えば?」
「いない」
「は? いるって言ってたじゃん」
「願望」
涼弥が彼氏だったらなって何回、何十回思っただろう。先月、涼弥と飲みに行ったとき、『彼氏作んないの?』って言われてショックだったから私は咄嗟に『いるけど?』って答えた。
ようは悲しい見栄を張ったのだ。
「妄想だったのかよ。やばいな」
(誰のせいだと思ってるのよ)
私は黙ったまま涼弥に責任転嫁して心の中で毒づく。この飲みの席で私は涼弥にも同じことを聞いていた。
『彼女作んないの?』
おでんの大根を箸で割りながら聞くと、涼弥はだし巻きを口に放り込みながら、『好きな子いるけどね』と答えた。
思わず『どんな子?』と聞いたら、涼弥は少し言いにくそうにしながら『なんかほっとけない子』と答えた。その表情が切なそうで涼弥が誰かに片想いしてるのがすぐにわかった。
きっと涼弥がほっとけないと思うほどに小柄で可愛らしい雰囲気で、勝ち気で可愛げのない私とは真逆の守ってあげたいタイプの女の子なんだろう。
そのあとのおでんの味もチューハイの味もよく覚えてない。味がわからなくなって、ただ平然を装うのに必死だった。
涼弥は誰かに恋している。
それは私以外の誰か。
涼弥の恋の物語に私はいない。
(やば、泣きそう)
でも今泣いたら、きっと涼弥に変に思われてしまう。それに好きでもない子に突然泣き出されたら、普通に考えて迷惑以外の何ものでもない。
私はペットボトルの水を溢れ落ちそうな涙と一緒に胃に流し込んだ。
「落ち着いた?」
「うん、だいぶ」
「はぁ。仕事はあんなキッチリやるくせに。祭理の酒癖だけはとんでもないな」
「今更でしょ」
「てか何回目?」
「……八回目?」
アルコールでふわふわする脳内でなんとかそう答えると、彼が切長の目をきゅっと細めた。
「十二回目。誤差ありすぎだろ」
そうか、もう十二回も告白できずに失敗してるのか。回数だけ聞けば、拗らせすぎてる自分にさすがに嫌気がさしてくる。
「俺と飲みにいくときはちゃんと一杯で終わらせられんのにな」
それは涼弥と二人きりで面と向かって飲んでいると緊張してお腹が膨れてしまうから。
胸がいっぱいってやつ。
いつからか涼弥の前で大きな口を開けて食べられなくなった。ビールに餃子が大好きだけど、帰り道、口臭が気になるからレモンチューハイとおでんを頼むようになった。
好きなんだよ。
もうずっと前から涼弥のことが。
どうしようもなく好き。
好きなの。
心の中ではスラスラと言葉にできるのに、口から吐き出すのは本当にムズカシイ。
「車まで歩ける? ロータリーに停めてるから」
「頑張る」
頑張るならもっと他に頑張ることあるだろと自分で自分に突っ込みたくなる衝動を抑えながら、涼弥に支えられて改札の外へ出る。
改札を出ればロータリーの端っこにハザードランプが点灯している車が見えた。涼弥はすぐにロックを解除すると助手席の扉を開けて私を乗せる。
「シートベルト閉めろよ」
「うん」
涼弥もシートベルトを閉めると、すぐにハンドルを握る。
車の中は洋楽が静かに流れていて、彼の着ているTシャツとスウェットから優しい柔軟剤の匂いが鼻を掠める。そしてよく見れば、涼弥の髪はセットされておらず毛先が濡れている。
「涼弥、もしかしてシャワー浴びてた?」
「残業して飯食って、風呂入って出た瞬間、祭理からLINE」
「言ってくれたら別にタクシーで帰ったのに」
そう言葉にしてから、しまったと思う。
先にごめんねを言うべきだった。
まさに『後の祭り』という言葉がピッタリ。名は体を表すと言うがあながち間違ってないな、なんてつまんないことを考えていたら涼弥が小さくため息を吐き出すのが聞こえた。
そのため息が私の心にチクリと棘を刺す。
「……ごめん」
もう遅いと思いながらも謝罪の三文字を付け加える。そして何とも言えない雰囲気に思わず俯いた。
「別に……金曜の夜で暇だし? 祭理に何かあったら俺が困るし」
「え。何で、涼弥が困るの?」
「俺が行かなかったせいで何かあったら責任感じるだろ、普通に」
(ああ、そっちか。そうだよね)
一瞬でも私のことを心配してくれたのかと思ったが、そんなわけない。社会人としての常識的な言動と同僚へのありふれた気遣い。この場に及んで、まだ小さな期待をしてしまった自分に今度こそ呆れて物が言えない。
「毎回言ってるけどさ」
「うん」
「別に飲んでもいいけど、こんなになるまで飲むな。いい?」
「はい……努力します」
「次から罰金な」
「えーっ」
「静かにしろ。酔っ払い」
さっきまでの微妙な空気が飛んでいって、いつもと変わらない会話のやり取りができていることにほっとする。
(どこで間違えたのかな)
新入社員の飲み会でたまたま隣になったのが涼弥だった。趣味の映画の話から意気投合して、住んでいるアパートがたまたま近所だったこと、さらに同じ部署の配属だったこともありすぐに気の置けない仲になった。
始めは本当にただの同期でただの男友達。それ以上でもそれ以下でもなかった。
そこから私だけが形を変えてしまった。
だから涼弥にとっては本当にいい迷惑だと思う。彼にとって私はただの同期。それなのに私の身勝手なこじらせた片想いのせいで今夜も随分と迷惑を被っている。涼弥が本音を言えば心底面倒臭い、それに尽きるだろう。
私はまた泣きそうになってきて、そんな顔を見られないように窓に顔を向けた。
(今日でもう涼弥に迷惑をかけるのやめよう)
(せめて二十五歳の幕開けに今までのダメな自分から何か一つでもお別れしたい)
車内は静かで涼弥は黙々とハンドルを握っている。
「……気持ち悪くない?」
信号待ちで彼が私に視線を向けた。
「大丈夫。ありがと」
「今から、ちょっと寄りたいとこあるけどいい?」
「あ、うん……いいけど」
どこへと聞こうかと思ったが、涼弥との深夜のドライブは今夜で最後だと思うとどこでも良かった。本当はこのまま家に着かなけれいいのにと馬鹿みたいなことが何度か頭をよぎっていたから。
涼弥が高速に乗ると前を向いたまま口を開く。
「眠いだろ、ついたら起こすから」
「でも、運転してもらってるのに……なんか」
「深夜に迎えに来させんのに、そこは遠慮すんのかよ」
「仰る通りで」
涼弥が面白げに口元を緩める。
その意地悪な横顔を見つめながら私はオーディオを指差した。
「どこのバンド?」
私が車に乗せてもらう時、涼弥は決まってこのバンドの曲を流している。
「んー、アメリカのバンド」
「何て名前」
「ブラックコーヒー」
「え?」
私は思わず目を丸くする。
「ボーカルがブラックコーヒー好きらしくてさ。そのままバンドの名前にしたらしい」
涼弥は会社では決まってブラックコーヒーを飲んでいる。以前、得意先からロールケーキの差し入れがあったが涼弥は苦手だからと食べなかったから単に甘いものが苦手なのかと思っていた。
「へぇ。じゃあ涼弥がブラック好きなのもそのせい?」
「多分ね」
「多分って他にも理由あるの?」
「んー、なんか大人に見えるから、とか?」
「え、そんな理由もあったの」
「知らんけど」
「あのね」
ワザと睨んでみせると涼弥がククッと笑う。
「でも好きなアーティストの影響とか、なんか意外」
できるだけ平坦な口調でそっけなく言いながら、どんな小さなことでも知らなかった涼弥のことを知ればやっぱり嬉しい。
「まぁ、どっちかと言うと歌の影響が一番かもな。このラブソングも好きだしな」
浮かれたのも束の間、ほんの少し照れたような顔の涼弥に胸がズキンとした。
いまちょうど流れているのは涼弥が車でよくかけている曲だ。気にしたことはなかったが確かにラブソングと言われたらそうかもしれない。切ないバラードだから。
「これ、歌詞何て言ってるの?」
私は五教科の中で一番苦手なのが英語だ。残念ながら、涼弥が好きだと言う曲の歌詞は全くもって聞き取れない。
「さぁ」
「何、恥ずかしいの?」
「……言葉にするってムズいだろ」
さっきよりも私のコンプレックスの小さな胸はもっと痛む。涼弥は誰を想って誰に重ねてこの曲を聞いてるんだろう。
私が口を開くより先に、まるで追求を逃れる様に彼が話の矛先を変えた。
「てか、祭理もブラックじゃん」
「まあ、ね」
ややぎこちなく答えてしまったのは、私は本当はブラックコーヒーが苦手だから。
それでも社内でブラックを飲み続けているのは涼弥と新商品やおすすめのコーヒーの話がしたいから。あとは単純に好きな人の好きなものを共有したいという子供じみた発想からだ。
「コーヒーをブラックで飲むって大人だと思ってたけど違うよね。普通に苦いし」
「どした? 急に」
「わかんないけど」
私の恋とよく似てる。
真夜中に酔った勢いで呼び出す勇気はあるくせに、そこから先には踏み込めない。苦さを味わうのが怖くて大人になりきれない。
「……なんか、大人って難しいなって」
どうせ大人になりきれないなら、大人なんて辞めてしまいたい。
「別に、いつか大人って呼ばれるものになってたら良くね?」
「今は大人じゃなくていいってこと?」
「まー、社会人だし仕事はちゃんとやるけど、それと大人かどうかって別な気がするな。俺は」
「もっと……大人になりたい」
報われない、この不毛な恋にいつまでもしがみつかない為にも。それなのに──。
「なんでこんななんだろ……」
「…………」
ポツリと吐き出した言葉に涼弥は少しの間、黙っていた。いつもならこんなネガティブなこと思っていても口には出さない。
でももう涼弥を夜中に呼び出すのは今夜で最後と決めた途端に、ひたすら隠し続けている心の端っこを言葉にせずにはいられなかった。
「祭理は……そのまんまでいいんじゃない」
(よくないよ)
(だって涼弥に迷惑かけてばっかりじゃん)
本当はそう言いたかったけど、目の奥が熱くなりそうで私は黙って頷くしかなかった。
「もう着くよ」
いつの間にか車は高速をおりていて、見知らぬ街の住宅街を抜けて山道を登っていくと、小さな展望台に辿り着いた。眼下に広がる、宝石箱をひっくり返したような七色の輝きを目にして私は思わず息を呑む。
「涼弥、ここ……」
「降りて見よっか」
涼弥は私の返事を待たずに車を停めると、シートベルトを外して外に出る。私もすぐに車外に出れば、涼弥が後部座席からブランケットを取り出した。
「ほら、冷えるから」
「あ、うん……」
気のせいだろうか。いつもと少し雰囲気の違う涼弥に鼓動が早くなる。そして彼はベンチのところまで歩くとすぐそばの自販機を指差した。
「何か飲む?」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ先座ってて」
「わかった」
私は先にベンチに腰を下ろすがソワソワして落ち着かない。
涼弥はどうして展望台に来たかったんだろう。それにどうしてこんな、恋人同士で過ごす様なところに私を連れてきたんだろう。いくら考えを巡らせても納得のいく答えは勿論出ない。
涼弥は缶コーヒーを手に戻ってくると私の隣に座った。プルタブを開ける音と鼻を掠めていくブラックコーヒーの匂いが夜風と共に身体をすり抜けていく。
「……綺麗だね」
沈黙が嫌で先にありきたりの言葉を口にしたのは私だった。
「ずっと前、飲み行ったとき言ってたじゃん。誕生日は夜景見たいって」
「え?」
思ってもみない涼弥の言葉に私は両目を見開く。
「……覚えてて、くれたの?」
自分でもすっかり忘れていたが、確かに去年の誕生日あたりに酔いの勢いに任せて、そんなことを言ったような気もしてくる。
「まぁな。お誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう……」
「俺で悪いけど」
肩をすくめてそう付け足すと涼弥が夜景に視線を向ける。
(そんなことない)
誕生日に夜景を見れるなら涼弥とがいいに決まってる。
何も貰えないと思っていた冴えない誕生日はほんのり淡く色がついて、目の前に広がる夜景の煌びやかな光のように燻んだ心に明かりが灯る。
「連れてきてくれてありがと。すごく……嬉しい」
私は精一杯、自分の気持ちを言葉にする。
「なら良かった」
涼弥は缶コーヒーを傾けながら長い脚を組む。
「俺さ。高いとこ好きでさ」
「そうなの?」
「なんか高いとこから景色見てるとさ、悩んでることがちっぽけに思えんだよな」
「涼弥、悩み事があるの?」
「まぁ……。祭理は?」
「私は……」
それこそずっと悩んでいる。
涼弥のことで。
でもどこからどう話せばうまく伝えられるのか、この関係を変えることなく恋を終わらせることができるのかわからない私は唇をきゅっと結んだ。
「──聞くけど」
顔を横に向ければ、涼弥の切長の目と目があって鼓動がひとつ跳ねる。
「ここ一年くらい? 俺と飲んでてもなんか上の空の時あるしさ」
(それは涼弥に見惚れてただけ)
「前みたいに大きな口開けて笑ったりしないし」
(そんなの好きな人の前で恥ずかしいじゃん)
「一人で飲みに行ったと思えば、酔い潰れて終電逃したって連絡くるしさ」
(だって告白するには酔わなきゃ無理だから)
「どんな悩み抱えてんだよ。心配だろ、普通に」
「心配……してくれてたんだ?」
「当たり前じゃん……、同期なんだから」
(あ……)
当然のように返ってきた返事に私は肩にかけているブランケットを握りしめた。
心配してくれたことが嬉しい。
でも一線をあらためて引かれたことが悲しい。
「涼弥にとって私は同期……だもんね。それ以上でもそれ以下でもない」
つい口をついて出た言葉は可愛さのカケラもなく棘だらけだ。
「祭理?」
「涼弥にはわかんないよっ」
「何、急に。言ってくれなきゃわかるも何もないけど」
涼弥の言う通りだ。言葉にしないと何ひとつ相手には伝わらない。でも喉の奥に言葉が引っかかって出てこない。まだ怖い。
「ちゃんと聞くから」
涼弥の宥めるような声に、私は少し迷ってから叱られた子供みたいに首を縦に振った。もうここまできたら引き返せない。
「……私、ずっとね……」
声が掠れて震える。あれほどアルコールでフワフワしていた脳内は透き通っていて、心臓の音が涼弥に聞こえてるんじゃないかと思うほどにうるさく跳ねている。
(ここまできたら言わなきゃ……)
今、この瞬間に言わないとおそらく一生、この想いを抱えたまま大人にならないといけない。
拗らせたこの恋を終わらせることができない。
「私──」
「ごめん、待って」
涼弥が私の言葉を遮ると大きく深呼吸するのが見えた。
もしかしたら私の言おうとしていることを感じ取ったのかもしれない。震えた指先を悟られないように私は両手をぐっと重ねた。
「先に俺が言うわ」
「え……?」
「ずっと祭理のこと同期として見てた。同期としての関係が居心地が良かったから」
見たことがない真剣な表情の涼弥に見つめられて、どうしたらいいのかわからない。
一つだけわかるのは続きを聞くのが怖くてたまらない。
迷惑だと、その想いはいらないと拒絶されるのがどうしようもなく怖い。
「──なんで好きに変わったんだろうな」
(……え?)
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「い、ま……なんて……?」
「好きだよ、祭理が」
真っ直ぐに私を見つめる涼弥の言葉に何度も瞬きしながら、意味を理解しようとするのに頭の中は真っ白だ。
「正直、居心地いいじゃん。俺らの関係」
「う、ん」
「でもいつからか祭理をただの同期として見れなくなった」
「嘘……」
「嘘ついてどうすんだよ」
涼弥が困ったように笑う。
「けどさ、告ったところで祭理は迷惑でしかないだろうなと思ったし、何より俺から今の関係を壊すのが嫌だった」
「待って。だって……涼弥、私に彼氏作らないのか聞いたり、それに好きな子がいるって」
「祭理に彼氏ができたら諦めようと思って聞いた。あと好きな子って言うのは祭理」
「ほっとけない子って……」
「酔って終電逃してる祭理、ほっとけないだろ」
涼弥がふっと笑うと、私の頭をポンと撫でた。
「泣くなって」
「だって……ずっと……私だけだと思って……」
私はマスカラが取れるのも構わず涙を手の甲で拭う。
「大体、俺は金曜の夜に、ただの同期が終電逃したからって迎えにいくほど暇じゃないからな」
涼弥の指先が私の額をツンと突く。
これが酔い潰れて眠ってしまった夢の中ならもう少しだけ覚めないでいてほしい。
「ねぇ、私、酔ってる?」
「なんで?」
「だって……なんか信じられなくて、夢かもって」
「夢でたまるかよ。てか、祭理は俺のことどう思ってるわけ?」
「え? お、同なじ気持ちだけど」
大好きだと言えれば良かったけれど、やっぱり可愛くない返事をしてしまう。だって今は気が抜けてほっとして、形を変えようとしているこの関係がくすぐったくてたまらないから。
「ズルくね?」
「い、いいじゃない。私の方が片想い長いんだからっ」
「俺もまあまあ長いけど?」
「な……っ」
さらりと言われた言葉に頬が紅潮する。
「顔真っ赤」
「酔ってますので」
「ふうん。じゃあ確かめよっか」
何をどうやってと聞く前に、涼弥が私の頬にそっと触れる。大きくてあったかい手のひらが心地いい。
「何味かわかったら酔ってないってことで」
「なにそれ、よくわかんないんだけど」
涼弥が何をしようとしてるのか予想はつくのに、恋愛偏差値の低い私は憎まれ口を叩かずにはいられない。
「んー、一回黙って」
「……はい」
「何で敬語?」
「もう、わかんないよっ」
私の返事に涼弥が屈託のない笑顔を見せる。
こじらせた恋の物語がこんな展開を迎えるなんて大どんでん返しもいいとこだ。
そして涼弥の顔が私の気持ちを確かめるようにゆっくり近づいてくる。
──ふわりと落とされたキスは、ちゃんと大人のブラックコーヒーの味がした。
2025.7.22 遊野煌
※フリー素材です。
先程、午前零時を過ぎ無事に終電を逃すと私は二十五歳になった。
「……片想い三周年おめでとう」
自分でも拗らせてるなと思うが、この片想いがやめられない。
抜け出せないのは多分、いまの関係がちょうどいいからだ。
形を変えれば、この居心地のいい関係はきっと消えてなくなってしまうから。
踏み出せない。
きっと今夜も。
明日も明後日の夜も。
それでも一縷の望みをかけて、私は酔いの回った頭で嘘のメッセージを送信する。
──『ごめん。終電逃した』
それだけ送るとスマホをポケットに突っ込む。
いつもよりやけに瞼が重いのはなぜだろう。
元々お酒が強くない私はいつもレモンチューハイ二杯で酔っ払うのだが、誕生日を迎えることもあり、何か変わるかも、今夜こそ酔いに任せてこの片想いを終わらせられるかもと三杯目のチューハイに手を出したのが間違いだったのだろう。
「はぁあ」
私は深いため息を吐くと、重力に逆らうことなく静かに瞼を閉じた。
※
「こんなとこで寝んな」
ふいに頭上から降ってきたのは、聞き慣れた低い声。その声に私は浅い眠りから現実へ引き戻される。
「ん……っ」
ホームのベンチに上半身を預けていた私が瞼を開けると、同じ広告代理店に勤める同期の片平涼弥がしゃがんで眉を寄せていた。
「祭理、いいかげんにしろよ」
祭理と言うのは私の名前。
涼弥は会社では私の苗字である新崎と呼ぶが、プライベートでは私を祭理と呼ぶ。
きちんとオンとオフを使い分けているだけなのに、なんだか狡いと感じるのは私が彼に長く想いを寄せているせいなんだろう。
「何回、終電逃すわけ?」
「知らない」
「はぁあ……毎回呼び出される俺の身にもなれよな」
涼弥は呆れ顔で私の背中を支えて体を起こす。そしてペットボトルの水を私に渡した。
「ありがと……」
「マジで最後にしろよ」
(私だってワザと終電逃すのなんて最後にしたいわよ)
今夜だってお酒の力をふんだんに借りて涼弥に想いを伝えるべくシュミレーションは嫌と言うほど重ねてきた。
けれど実際に実行に移せるかとと言えば恐らく今夜もダメだ。だって、私は現在進行形で今のラクで居心地のいい関係にあぐらをかきそうになっている。
(……迎えにきてくれたってことは、まだ彼女いないってことだよね)
今夜は金曜の夜。
恋人がいるならば遠距離じゃない限り一緒に過ごす人も多いのではないだろうか。
(今夜こそちゃんと告おうと思ったのに)
涼弥への罪悪感からそう考えが過ぎるのに、すでに今夜も告白できる気がしない。そもそも断られるのがわかっているから、いくら酔っていても何回終電を逃して迎えにきてもらってチャンスを作っても、最終的に勇気が出ない。
先日、涼弥と一緒に制作に携わった、ある企業のキャッチコピーが頭に浮かぶ。
──『物語の主人公は自分が決める』
初めて私の案が採用されてすごく嬉しかったけど、同時に落胆する自分もいた。
物語の主人公はいつだって最後はハッピーエンドだけれど、私はこの恋の主人公には決してなれないから。
「てか彼氏に迎えにきて貰えば?」
「いない」
「は? いるって言ってたじゃん」
「願望」
涼弥が彼氏だったらなって何回、何十回思っただろう。先月、涼弥と飲みに行ったとき、『彼氏作んないの?』って言われてショックだったから私は咄嗟に『いるけど?』って答えた。
ようは悲しい見栄を張ったのだ。
「妄想だったのかよ。やばいな」
(誰のせいだと思ってるのよ)
私は黙ったまま涼弥に責任転嫁して心の中で毒づく。この飲みの席で私は涼弥にも同じことを聞いていた。
『彼女作んないの?』
おでんの大根を箸で割りながら聞くと、涼弥はだし巻きを口に放り込みながら、『好きな子いるけどね』と答えた。
思わず『どんな子?』と聞いたら、涼弥は少し言いにくそうにしながら『なんかほっとけない子』と答えた。その表情が切なそうで涼弥が誰かに片想いしてるのがすぐにわかった。
きっと涼弥がほっとけないと思うほどに小柄で可愛らしい雰囲気で、勝ち気で可愛げのない私とは真逆の守ってあげたいタイプの女の子なんだろう。
そのあとのおでんの味もチューハイの味もよく覚えてない。味がわからなくなって、ただ平然を装うのに必死だった。
涼弥は誰かに恋している。
それは私以外の誰か。
涼弥の恋の物語に私はいない。
(やば、泣きそう)
でも今泣いたら、きっと涼弥に変に思われてしまう。それに好きでもない子に突然泣き出されたら、普通に考えて迷惑以外の何ものでもない。
私はペットボトルの水を溢れ落ちそうな涙と一緒に胃に流し込んだ。
「落ち着いた?」
「うん、だいぶ」
「はぁ。仕事はあんなキッチリやるくせに。祭理の酒癖だけはとんでもないな」
「今更でしょ」
「てか何回目?」
「……八回目?」
アルコールでふわふわする脳内でなんとかそう答えると、彼が切長の目をきゅっと細めた。
「十二回目。誤差ありすぎだろ」
そうか、もう十二回も告白できずに失敗してるのか。回数だけ聞けば、拗らせすぎてる自分にさすがに嫌気がさしてくる。
「俺と飲みにいくときはちゃんと一杯で終わらせられんのにな」
それは涼弥と二人きりで面と向かって飲んでいると緊張してお腹が膨れてしまうから。
胸がいっぱいってやつ。
いつからか涼弥の前で大きな口を開けて食べられなくなった。ビールに餃子が大好きだけど、帰り道、口臭が気になるからレモンチューハイとおでんを頼むようになった。
好きなんだよ。
もうずっと前から涼弥のことが。
どうしようもなく好き。
好きなの。
心の中ではスラスラと言葉にできるのに、口から吐き出すのは本当にムズカシイ。
「車まで歩ける? ロータリーに停めてるから」
「頑張る」
頑張るならもっと他に頑張ることあるだろと自分で自分に突っ込みたくなる衝動を抑えながら、涼弥に支えられて改札の外へ出る。
改札を出ればロータリーの端っこにハザードランプが点灯している車が見えた。涼弥はすぐにロックを解除すると助手席の扉を開けて私を乗せる。
「シートベルト閉めろよ」
「うん」
涼弥もシートベルトを閉めると、すぐにハンドルを握る。
車の中は洋楽が静かに流れていて、彼の着ているTシャツとスウェットから優しい柔軟剤の匂いが鼻を掠める。そしてよく見れば、涼弥の髪はセットされておらず毛先が濡れている。
「涼弥、もしかしてシャワー浴びてた?」
「残業して飯食って、風呂入って出た瞬間、祭理からLINE」
「言ってくれたら別にタクシーで帰ったのに」
そう言葉にしてから、しまったと思う。
先にごめんねを言うべきだった。
まさに『後の祭り』という言葉がピッタリ。名は体を表すと言うがあながち間違ってないな、なんてつまんないことを考えていたら涼弥が小さくため息を吐き出すのが聞こえた。
そのため息が私の心にチクリと棘を刺す。
「……ごめん」
もう遅いと思いながらも謝罪の三文字を付け加える。そして何とも言えない雰囲気に思わず俯いた。
「別に……金曜の夜で暇だし? 祭理に何かあったら俺が困るし」
「え。何で、涼弥が困るの?」
「俺が行かなかったせいで何かあったら責任感じるだろ、普通に」
(ああ、そっちか。そうだよね)
一瞬でも私のことを心配してくれたのかと思ったが、そんなわけない。社会人としての常識的な言動と同僚へのありふれた気遣い。この場に及んで、まだ小さな期待をしてしまった自分に今度こそ呆れて物が言えない。
「毎回言ってるけどさ」
「うん」
「別に飲んでもいいけど、こんなになるまで飲むな。いい?」
「はい……努力します」
「次から罰金な」
「えーっ」
「静かにしろ。酔っ払い」
さっきまでの微妙な空気が飛んでいって、いつもと変わらない会話のやり取りができていることにほっとする。
(どこで間違えたのかな)
新入社員の飲み会でたまたま隣になったのが涼弥だった。趣味の映画の話から意気投合して、住んでいるアパートがたまたま近所だったこと、さらに同じ部署の配属だったこともありすぐに気の置けない仲になった。
始めは本当にただの同期でただの男友達。それ以上でもそれ以下でもなかった。
そこから私だけが形を変えてしまった。
だから涼弥にとっては本当にいい迷惑だと思う。彼にとって私はただの同期。それなのに私の身勝手なこじらせた片想いのせいで今夜も随分と迷惑を被っている。涼弥が本音を言えば心底面倒臭い、それに尽きるだろう。
私はまた泣きそうになってきて、そんな顔を見られないように窓に顔を向けた。
(今日でもう涼弥に迷惑をかけるのやめよう)
(せめて二十五歳の幕開けに今までのダメな自分から何か一つでもお別れしたい)
車内は静かで涼弥は黙々とハンドルを握っている。
「……気持ち悪くない?」
信号待ちで彼が私に視線を向けた。
「大丈夫。ありがと」
「今から、ちょっと寄りたいとこあるけどいい?」
「あ、うん……いいけど」
どこへと聞こうかと思ったが、涼弥との深夜のドライブは今夜で最後だと思うとどこでも良かった。本当はこのまま家に着かなけれいいのにと馬鹿みたいなことが何度か頭をよぎっていたから。
涼弥が高速に乗ると前を向いたまま口を開く。
「眠いだろ、ついたら起こすから」
「でも、運転してもらってるのに……なんか」
「深夜に迎えに来させんのに、そこは遠慮すんのかよ」
「仰る通りで」
涼弥が面白げに口元を緩める。
その意地悪な横顔を見つめながら私はオーディオを指差した。
「どこのバンド?」
私が車に乗せてもらう時、涼弥は決まってこのバンドの曲を流している。
「んー、アメリカのバンド」
「何て名前」
「ブラックコーヒー」
「え?」
私は思わず目を丸くする。
「ボーカルがブラックコーヒー好きらしくてさ。そのままバンドの名前にしたらしい」
涼弥は会社では決まってブラックコーヒーを飲んでいる。以前、得意先からロールケーキの差し入れがあったが涼弥は苦手だからと食べなかったから単に甘いものが苦手なのかと思っていた。
「へぇ。じゃあ涼弥がブラック好きなのもそのせい?」
「多分ね」
「多分って他にも理由あるの?」
「んー、なんか大人に見えるから、とか?」
「え、そんな理由もあったの」
「知らんけど」
「あのね」
ワザと睨んでみせると涼弥がククッと笑う。
「でも好きなアーティストの影響とか、なんか意外」
できるだけ平坦な口調でそっけなく言いながら、どんな小さなことでも知らなかった涼弥のことを知ればやっぱり嬉しい。
「まぁ、どっちかと言うと歌の影響が一番かもな。このラブソングも好きだしな」
浮かれたのも束の間、ほんの少し照れたような顔の涼弥に胸がズキンとした。
いまちょうど流れているのは涼弥が車でよくかけている曲だ。気にしたことはなかったが確かにラブソングと言われたらそうかもしれない。切ないバラードだから。
「これ、歌詞何て言ってるの?」
私は五教科の中で一番苦手なのが英語だ。残念ながら、涼弥が好きだと言う曲の歌詞は全くもって聞き取れない。
「さぁ」
「何、恥ずかしいの?」
「……言葉にするってムズいだろ」
さっきよりも私のコンプレックスの小さな胸はもっと痛む。涼弥は誰を想って誰に重ねてこの曲を聞いてるんだろう。
私が口を開くより先に、まるで追求を逃れる様に彼が話の矛先を変えた。
「てか、祭理もブラックじゃん」
「まあ、ね」
ややぎこちなく答えてしまったのは、私は本当はブラックコーヒーが苦手だから。
それでも社内でブラックを飲み続けているのは涼弥と新商品やおすすめのコーヒーの話がしたいから。あとは単純に好きな人の好きなものを共有したいという子供じみた発想からだ。
「コーヒーをブラックで飲むって大人だと思ってたけど違うよね。普通に苦いし」
「どした? 急に」
「わかんないけど」
私の恋とよく似てる。
真夜中に酔った勢いで呼び出す勇気はあるくせに、そこから先には踏み込めない。苦さを味わうのが怖くて大人になりきれない。
「……なんか、大人って難しいなって」
どうせ大人になりきれないなら、大人なんて辞めてしまいたい。
「別に、いつか大人って呼ばれるものになってたら良くね?」
「今は大人じゃなくていいってこと?」
「まー、社会人だし仕事はちゃんとやるけど、それと大人かどうかって別な気がするな。俺は」
「もっと……大人になりたい」
報われない、この不毛な恋にいつまでもしがみつかない為にも。それなのに──。
「なんでこんななんだろ……」
「…………」
ポツリと吐き出した言葉に涼弥は少しの間、黙っていた。いつもならこんなネガティブなこと思っていても口には出さない。
でももう涼弥を夜中に呼び出すのは今夜で最後と決めた途端に、ひたすら隠し続けている心の端っこを言葉にせずにはいられなかった。
「祭理は……そのまんまでいいんじゃない」
(よくないよ)
(だって涼弥に迷惑かけてばっかりじゃん)
本当はそう言いたかったけど、目の奥が熱くなりそうで私は黙って頷くしかなかった。
「もう着くよ」
いつの間にか車は高速をおりていて、見知らぬ街の住宅街を抜けて山道を登っていくと、小さな展望台に辿り着いた。眼下に広がる、宝石箱をひっくり返したような七色の輝きを目にして私は思わず息を呑む。
「涼弥、ここ……」
「降りて見よっか」
涼弥は私の返事を待たずに車を停めると、シートベルトを外して外に出る。私もすぐに車外に出れば、涼弥が後部座席からブランケットを取り出した。
「ほら、冷えるから」
「あ、うん……」
気のせいだろうか。いつもと少し雰囲気の違う涼弥に鼓動が早くなる。そして彼はベンチのところまで歩くとすぐそばの自販機を指差した。
「何か飲む?」
「ううん、大丈夫」
「じゃあ先座ってて」
「わかった」
私は先にベンチに腰を下ろすがソワソワして落ち着かない。
涼弥はどうして展望台に来たかったんだろう。それにどうしてこんな、恋人同士で過ごす様なところに私を連れてきたんだろう。いくら考えを巡らせても納得のいく答えは勿論出ない。
涼弥は缶コーヒーを手に戻ってくると私の隣に座った。プルタブを開ける音と鼻を掠めていくブラックコーヒーの匂いが夜風と共に身体をすり抜けていく。
「……綺麗だね」
沈黙が嫌で先にありきたりの言葉を口にしたのは私だった。
「ずっと前、飲み行ったとき言ってたじゃん。誕生日は夜景見たいって」
「え?」
思ってもみない涼弥の言葉に私は両目を見開く。
「……覚えてて、くれたの?」
自分でもすっかり忘れていたが、確かに去年の誕生日あたりに酔いの勢いに任せて、そんなことを言ったような気もしてくる。
「まぁな。お誕生日おめでとう」
「あ、ありがとう……」
「俺で悪いけど」
肩をすくめてそう付け足すと涼弥が夜景に視線を向ける。
(そんなことない)
誕生日に夜景を見れるなら涼弥とがいいに決まってる。
何も貰えないと思っていた冴えない誕生日はほんのり淡く色がついて、目の前に広がる夜景の煌びやかな光のように燻んだ心に明かりが灯る。
「連れてきてくれてありがと。すごく……嬉しい」
私は精一杯、自分の気持ちを言葉にする。
「なら良かった」
涼弥は缶コーヒーを傾けながら長い脚を組む。
「俺さ。高いとこ好きでさ」
「そうなの?」
「なんか高いとこから景色見てるとさ、悩んでることがちっぽけに思えんだよな」
「涼弥、悩み事があるの?」
「まぁ……。祭理は?」
「私は……」
それこそずっと悩んでいる。
涼弥のことで。
でもどこからどう話せばうまく伝えられるのか、この関係を変えることなく恋を終わらせることができるのかわからない私は唇をきゅっと結んだ。
「──聞くけど」
顔を横に向ければ、涼弥の切長の目と目があって鼓動がひとつ跳ねる。
「ここ一年くらい? 俺と飲んでてもなんか上の空の時あるしさ」
(それは涼弥に見惚れてただけ)
「前みたいに大きな口開けて笑ったりしないし」
(そんなの好きな人の前で恥ずかしいじゃん)
「一人で飲みに行ったと思えば、酔い潰れて終電逃したって連絡くるしさ」
(だって告白するには酔わなきゃ無理だから)
「どんな悩み抱えてんだよ。心配だろ、普通に」
「心配……してくれてたんだ?」
「当たり前じゃん……、同期なんだから」
(あ……)
当然のように返ってきた返事に私は肩にかけているブランケットを握りしめた。
心配してくれたことが嬉しい。
でも一線をあらためて引かれたことが悲しい。
「涼弥にとって私は同期……だもんね。それ以上でもそれ以下でもない」
つい口をついて出た言葉は可愛さのカケラもなく棘だらけだ。
「祭理?」
「涼弥にはわかんないよっ」
「何、急に。言ってくれなきゃわかるも何もないけど」
涼弥の言う通りだ。言葉にしないと何ひとつ相手には伝わらない。でも喉の奥に言葉が引っかかって出てこない。まだ怖い。
「ちゃんと聞くから」
涼弥の宥めるような声に、私は少し迷ってから叱られた子供みたいに首を縦に振った。もうここまできたら引き返せない。
「……私、ずっとね……」
声が掠れて震える。あれほどアルコールでフワフワしていた脳内は透き通っていて、心臓の音が涼弥に聞こえてるんじゃないかと思うほどにうるさく跳ねている。
(ここまできたら言わなきゃ……)
今、この瞬間に言わないとおそらく一生、この想いを抱えたまま大人にならないといけない。
拗らせたこの恋を終わらせることができない。
「私──」
「ごめん、待って」
涼弥が私の言葉を遮ると大きく深呼吸するのが見えた。
もしかしたら私の言おうとしていることを感じ取ったのかもしれない。震えた指先を悟られないように私は両手をぐっと重ねた。
「先に俺が言うわ」
「え……?」
「ずっと祭理のこと同期として見てた。同期としての関係が居心地が良かったから」
見たことがない真剣な表情の涼弥に見つめられて、どうしたらいいのかわからない。
一つだけわかるのは続きを聞くのが怖くてたまらない。
迷惑だと、その想いはいらないと拒絶されるのがどうしようもなく怖い。
「──なんで好きに変わったんだろうな」
(……え?)
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「い、ま……なんて……?」
「好きだよ、祭理が」
真っ直ぐに私を見つめる涼弥の言葉に何度も瞬きしながら、意味を理解しようとするのに頭の中は真っ白だ。
「正直、居心地いいじゃん。俺らの関係」
「う、ん」
「でもいつからか祭理をただの同期として見れなくなった」
「嘘……」
「嘘ついてどうすんだよ」
涼弥が困ったように笑う。
「けどさ、告ったところで祭理は迷惑でしかないだろうなと思ったし、何より俺から今の関係を壊すのが嫌だった」
「待って。だって……涼弥、私に彼氏作らないのか聞いたり、それに好きな子がいるって」
「祭理に彼氏ができたら諦めようと思って聞いた。あと好きな子って言うのは祭理」
「ほっとけない子って……」
「酔って終電逃してる祭理、ほっとけないだろ」
涼弥がふっと笑うと、私の頭をポンと撫でた。
「泣くなって」
「だって……ずっと……私だけだと思って……」
私はマスカラが取れるのも構わず涙を手の甲で拭う。
「大体、俺は金曜の夜に、ただの同期が終電逃したからって迎えにいくほど暇じゃないからな」
涼弥の指先が私の額をツンと突く。
これが酔い潰れて眠ってしまった夢の中ならもう少しだけ覚めないでいてほしい。
「ねぇ、私、酔ってる?」
「なんで?」
「だって……なんか信じられなくて、夢かもって」
「夢でたまるかよ。てか、祭理は俺のことどう思ってるわけ?」
「え? お、同なじ気持ちだけど」
大好きだと言えれば良かったけれど、やっぱり可愛くない返事をしてしまう。だって今は気が抜けてほっとして、形を変えようとしているこの関係がくすぐったくてたまらないから。
「ズルくね?」
「い、いいじゃない。私の方が片想い長いんだからっ」
「俺もまあまあ長いけど?」
「な……っ」
さらりと言われた言葉に頬が紅潮する。
「顔真っ赤」
「酔ってますので」
「ふうん。じゃあ確かめよっか」
何をどうやってと聞く前に、涼弥が私の頬にそっと触れる。大きくてあったかい手のひらが心地いい。
「何味かわかったら酔ってないってことで」
「なにそれ、よくわかんないんだけど」
涼弥が何をしようとしてるのか予想はつくのに、恋愛偏差値の低い私は憎まれ口を叩かずにはいられない。
「んー、一回黙って」
「……はい」
「何で敬語?」
「もう、わかんないよっ」
私の返事に涼弥が屈託のない笑顔を見せる。
こじらせた恋の物語がこんな展開を迎えるなんて大どんでん返しもいいとこだ。
そして涼弥の顔が私の気持ちを確かめるようにゆっくり近づいてくる。
──ふわりと落とされたキスは、ちゃんと大人のブラックコーヒーの味がした。
2025.7.22 遊野煌
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