「あの、それでは……行ってきます」

「行ってきまーす!」

 数日後の朝。
 灯里は鎌鼬(かまいたち)の霧矢とともに、玄関口で一礼して屋敷を出発した。
 行く先は二人とも同じところ。
 霧矢が世話になっている、久留間藤兵衛という研ぎ師の工房である。
 どうして灯里もそこに行くことになっているのか。
 それは、白怜の言う『社会見学』のため。
 つまり、外のさまざまな人たちの仕事場に行って、皆がどのように働いているかを見てきてはどうか──白怜は灯里にそんな提案をした。

 仕事がしたいと頼んだのに、見学だけとはどういうことか。
 灯里のような未熟者は、働くのはまだ早いということなのだろうか。
 わからないが、無碍(むげ)に断ることもできず、灯里はひとまずその提案を受け入れることにした。

 そして、この日は霧矢と一緒に、彼の勤め先にお邪魔させてもらい、霧矢自身の仕事ぶりも見ることになっている。
 それを聞いた霧矢は、灯里に良いところが見せられると、大いに喜んだ。
 なお、今日は霧矢だが、明日は飛丸で、その次は火十郎。日ごとにそれぞれのあやかしたちの勤め先を見学する予定になっている。
 どの仕事場も人間が経営しているが、皆、巽一家があやかしの集まりであることを知っているという。

(私が思っている以上に、あやかしは人の社会に馴染んでいるのね……)

 そんな感じで、最初の訪問先、久留間研磨工房にて。

「あらあら~。巽さんのところに、こんな可愛いお客さんがいらしてたなんてねぇ」

 研ぎ師・久留間藤兵衛の妻、久留間千代は、夫とともに灯里を笑顔で出迎えた。

「よろしくお願いします。お世話になります」

「で、嬢ちゃんは、どういう感じの妖怪変化なんだい?」

 そう尋ねるのは、白いあごひげをたくわえた老年の男性、工房主の藤兵衛。

「えっ、わ、私はあやかしではなくて、普通の人間ですけど……」

「もう、お父さんったら、早とちりして」

 と、千代が藤兵衛の背中を強めにはたいた。

「ごめんなさいねぇ。うちの人、こういう感じで気の利かない男だから、失礼なこと言われても適当に受け流してくれればいいからね」

「い、いえ、勘違いしてしまうのもわかるので……」

「灯里さんは、研ぎを学びに来たんじゃなくて、見学なのよね。じゃあ、こっちの板敷のところに座ってもらって、お茶でも淹れましょうか」

「あ、いえ、大丈夫です、お構いなく」

「いいのいいの。せっかく来てくれたんだもの、おもてなししなくちゃね。お茶菓子も、今日はどら焼きを買ってあるのよ」

「あ、僕も食べるー!」

「こら、霧坊。おめぇは食べる前にやることあんだろうが」

「えー、じゃあ、僕の研ぎが終わったら、みんなでおやつにしようよ。ね、灯里さんも、それでいいですよね?」

「え、あ、う、うん……」

 そんな感じでなし崩し的に、お茶とお茶菓子をいただくことになってしまう。
 霧矢は久留間夫妻に完全に心を許しているのか、時折小動物の姿になるが、夫妻もまったく気にする様子はなかった。
 霧矢たちが作業している間、灯里は千代から研ぎ師の仕事についての大まかな説明を受ける。
 研ぎ師。すなわち、刃物を研ぐ職人のこと。
 藤兵衛はその中でも、包丁やハサミなどの日用品を扱い、客が持ち込んだ刃物の切れ味を元に戻すことを仕事としているという。
 ちなみに、霧矢の尻尾は刃のように鋭い切れ味をしているのだが、たまに藤兵衛にその尻尾を研いでもらっているらしい。
 そんな余談も交えて聞きながら、灯里は興味深く研ぎの仕事を見学する。
 そうして無事、初日の訪問を終えることができたのだった。



 二日目。飛丸の勤め先の鍋工房にて。
 一日目の仕事場よりも幾分か広めの小屋内で、灯里は鍋の作り方を学ぶ。
 ちょうどその日は飛丸が銅鍋を作るということで、彼の師匠である笹葉吾郎という中年の男性が、灯里に詳細な説明をしてくれた。

「銅板を一度熱してから自然冷却することを『なます』というんですけど……。そのなました銅板を折り曲げて大まかな形にした後、金づちで叩いていくんです。今から飛丸君がやるのが、それですね」

 灯里は一日目の研ぎの見学と同じように、脇に座ってその様子を観察する。

「……始めていいですか、師匠」

「いつでも。飛丸君の好きなように」

「うす。では……かかります」

 飛丸は小さく礼をして、スゥと一度息を吸った後、勢いよく金づちを銅板に振り下ろした。
 カンと高い音が工房内に響き渡り、続いて同じ音が連続で鳴り響く。銅板は一定のリズムで満遍なく叩かれ、みるみるうちに鍋の形が出来上がっていった。

 カン、カン、カン、カン、カン──

「……すごい……!」

「叩いて伸ばして形を整えていくわけだけど、叩けば別のところにもひずみが波及するものだからね。そこら辺を考えて叩かないといけない。簡単そうに見えて、なかなか難しいものなんですよ」

「……わかります……想像してる以上に繊細な力加減が必要なんだってことは。いえ、なんとなく、ですけれど……」

 カン、カン、カン、カン、カン──

 音のうるささよりも、飛丸の真剣さとその気迫に圧倒される。
 先日、自らのことを極道と自虐した飛丸だが、そのまなざしは強面ながらも、どこかすがすがしい輝きを放っていた。



 そして三日目。次の訪問先は、火十郎の仕事場。
 そこは、前の二つ以上に特異なところだ。
 というのも、火十郎の職業は()り師。
 つまり、今回向かうのは、刺青(いれずみ)を彫る店なのである。

「あの……灯里さん、本当についてくるんですか。俺んとこは灯里さんの参考になるようなものは、何もないと思うんですが……」

 灯里に並んで歩きながら、気乗りしない様子で火十郎は言う。
 確かに、灯里も刺青を彫るところに立ち会うというのは少し気後れしたが、それでも白怜が紹介してくれたのだから何か意味があるのだろうと思い、お願いすることにした。

 その店では予想した通り、あまり柄のよろしくない、いわゆる筋者(スジモノ)の客が多く出入りしていた。
 その日も髪を剃り上げた(いか)つい男が予約を取っており、火十郎に彫りを頼む。
 火十郎は男に服を脱いでもらい、うつ伏せになってもらった後、手慣れた様子で準備を整え、右目の眼帯を外した。

(あれっ、火十郎さんの右目って、怪我とかじゃないんだ……)

 眼帯を取った火十郎の素顔に、灯里は少しだけ驚く。
 布宛てで覆われていた部分は傷跡もなく、普通に見えているようだった。
 ただ、その瞳は左目とは異なり、輝くような金色をしている。
 そして、火十郎が針を手にした時、その右目に炎が宿った。
 続いて、彼が見ている視線の先──彼の手元くらいの位置に不動明王の絵姿が浮かび上がると、それが客の背中に貼りつくようにすうっと馴染んでいった。

「えっ……えっ……?」

「おや、お嬢ちゃんは火十郎の狐火を見るのは初めてかい」

 彫りの様子を見守っていた彫屋の主人、牧島時恵という名の女性が灯里に言う。

「あの眼に宿った炎は、妖狐固有の力とかでね。本当に燃えてるわけじゃなくて、幻なんだよ。それで、目の炎が出ている時は、火十郎が思い描いた幻を見せることができるんだけど……あの子はその幻をお客の背中に貼りつけて、それに沿って彫りを入れてるのさ」

「はぁ……」

 なるほど背中に貼りついた不動明王は、よく見れば陽炎のように揺らいでいる。
 火十郎はその上をなぞるように、墨を彫っていく。
 下絵の手間も省けるし、これなら色合いの調整などもやりやすいに違いない。あやかしの力にこんな使い方があったのかと、灯里は感心して彼の作業を見守るのだった。