灯里がハッと我に返った時、そこは日も暮れた夜の屋外だった。
 木々の輪郭だけが影として見える暗闇。
 その上には、星が輝いている。
 どうしてこんなところにいるのか。先刻まで、寮の部屋にいたはずなのに。

「ここまで来れば、もう大丈夫ですよ」

 灯里の耳元で白怜が言った。
 その声で、灯里は彼に抱きかかえられていたことを思い出す。
 近すぎる距離に赤面する灯里に、白怜は「よろしいですか」と断ってから彼女を下ろし、パチンと指を鳴らした。
 すると、周囲にあった複数の石灯籠に火が灯り、辺りが明るく照らされる。

「……これって……」

「ここはもう、私の屋敷の敷地内です。転移、あるいは瞬間移動とでも言いましょうか……あなたの部屋に移動したのと同じ要領で、先の場所からこちらに移って来たんですよ」

 白怜は灯里を安心させるように、穏やかな声で言った。
 要するに、彼の術によって一瞬にして自分たちをこの場所に移動させたのだという。
 それと同じく、石灯籠に火を灯したのも彼の力によるもの。まさに人知を超えたあやかしの不可思議さに、灯里は驚嘆の吐息を漏らした。

「……あの、それより、すみませんでした。灯里さん」

「えっ?」

 続く白怜の言葉に、灯里は瞬きする。
 さっきも似たような謝罪を受けた気がするが、どうしたのか。
 何のことですかと灯里が尋ねると、白怜は口ごもりながら彼女に答えた。

「移動する直前、あの男たちと同じように……あなたのことを『贄』と言ってしまったので……。彼らに腹が立って、皮肉として言ったつもりだったのですが、思えば、その、勢いでたいへん失礼なことを……」

「えっ、あ、ああー……」

 何だそんなことか、と灯里は思った。
 確かにそのようなことを言っていたが、本当に生贄だと思って言ったわけでないことは、先の会話から普通にわかる。

「……大丈夫です。怜さん……白怜さんが悪い人じゃないってことは、わかりますから」

「灯里さん……」

「こちらこそ……危ないところを助けていただいて、ありがとうございました」

「どういたしまして。灯里さんがご無事で、何よりです」

 風雅な見た目の割に、律儀で細やかな人だなと思った。
 けれど、その細やかな心配りは、まさに手紙の「怜」そのもの。むしろ、灯里にとっては好ましく、なんだか可愛らしいとさえ思うくらいだった。
 
(というか、びっくりすることが多すぎて、そんなこと気にしてなかったわ……)

「あの、それより、白怜さんって、男の方だったんですね。私、本の趣味が同じだったから、てっきり女性かと……」

「あ、あぁ……それも黙っていて、すみませんでした」

 今度は少し気恥ずかしげに、白怜は言う。
 性別だけではない。白怜が手紙で自らのことを語らなかったのは、その特異な素性を隠すためだろうか。
 灯里は少し考えて、「あの、私、白怜さんがあやかしでも、男の方でも、気にしませんから」と笑みを向けた。

「他の人にも言いません。ですから、またお手紙のやり取りを……いえ、白怜さんさえ良ければ……今後は、ふ、普通に会って、お話などもできたらいいなって……思います」

「……ありがとうございます。灯里さんは、優しいですね」

 勇気を出して言った灯里の言葉に、白怜は心から安堵した様子で微笑んだ。

「……ただ、灯里さん。私もあなたとお話できればと思うのですが……。いえ、だからというわけではないのですが……灯里さんの今後について、一つ私からの申し出を聞いていただけますか」

「? はい、何でしょう」

 どこかためらいがちな白怜に、灯里はきょとんとして聞き返す。
 自分の今後。つまり、以前探してくれると言っていた、下宿先に関してのことだろうか。

「もし、灯里さんさえよければ……私のところに来て……私の屋敷で暮らしませんか」

「えっ」

 あ、変な意味ではなくてですね、と白怜は慌てて言葉を足した。

「先ほどの男たちの様子からして、おそらく彼らはまだ灯里さんのことを諦めていないでしょう。ですから、再びあのようなことがないように、私の目の届くところにいてもらった方が良いと思うのです」

「……」

 その言葉に、灯里はハッと現実に返った。
 あやかしという非現実的な存在に気を取られていたが、灯里はつい先刻さらわれそうになったのだ。
 しかも、その首謀者は自分の父。そもそも父は、最初から灯里のことをただの研究材料としか見ていなかった。
 そのことを思い出し、そろりと背中を寒気が這い上がる。

「……灯里さん、大丈夫です。あなたのことは私が守ります」

 そんな灯里の恐怖を見て取ったのか、白怜は包み込むように彼女の両手を取った。

「は、白怜さん」

「私のような化け物のところで暮らすのは、お嫌かもしれません。ですが、少なくとも問題が解決するまでは、誰かがあなたの傍にいるべきだと思うのです」

 ご迷惑をおかけするでしょうが──と、白怜は言葉を続ける。
 灯里は「いいえ」と首を横に振った。

「私……嫌だなんてことは全然ないです。さっきも言ったように、白怜さんがあやかしでも気にしません。そのお心遣い……嬉しいです」

「……灯里さん」

 それは本心からの言葉だった。
 自分を実験動物扱いする先の男たちに比べ、白怜の言葉のなんと思いやりにあふれたことか。
 人かあやかしかなんて関係ない、この人は信じるに値する人だ。
 彼のことをまだよく知らないにもかかわらず、自然とそれを強く信じることができた。
 灯里はうなずき、確たる口調で白怜に言った。

「……お世話に、なります」

「こちらこそ、よろしくお願いします。一家総出であなたを歓迎しますよ」
 
 と、その時だった。

「あっれー、若さま? こんなところで何してるんですかぁ?」

 ひょこりと白怜の右肩から、小さな動物が顔を出した。
 見たところ、それはイタチの子供のようである。
 小麦色の毛並みに、丸く愛らしい瞳。大きな尻尾が何故か刃物のように光沢を放っているそのイタチは、細長い体をにょろりと立て、楽しげに白怜に話しかける。

霧矢(きりや)か」

 白怜がイタチに言う。
「今、帰って来たのか?」と彼が問うと、イタチは「うん!」と元気よくうなずいた。

「今日は居残りして、久留間のおじさんに尻尾を研いでもらってたんだ。若さまも、お出掛けしてたの?」

「ああ、ちょっとこの人を迎えにね」

 そう言って、白怜は灯里に視線をやった。

「灯里さん、彼は私の屋敷の住人で、鎌鼬(かまいたち)の霧矢といいます。霧矢、こちらは四条灯里さん。彼女は人間だけど、今日から私たちと一緒に暮らすことになったんだ」

 白怜は灯里と霧矢、双方を交互に紹介する。
 灯里はイタチがしゃべることにしばし言葉を失っていたが、何とか気を持ち直して挨拶をした。

「は、はじめまして。四条灯里です」

「霧矢です! 灯里さんは、若さまのお嫁さんなんですか?」

「えっ?」

「っ、き、霧矢。灯里さんは、お客様だから」

 と、白怜は焦った様子で言う。

「悪いが先に戻って、お(しず)さんたちに伝えてくれないか。これから灯里さんが──人間の女性が一人住むことになるから、彼女の部屋として二階の奥の部屋を空けておいて欲しいと。それから、軽めの食事を二人分、今から用意して欲しいことも」

「はいっ、承知しました!」

 霧矢は右手をあげて返事をすると、軽やかに近くの木の枝へと駆け上がった。
 そして、目にもとまらぬ速さで木々を伝って坂の上へと登ってゆく。

「灯里さん、すみません。ここからもう少し歩きます」

 霧矢の姿が見えなくなると、白怜は灯里を先導して歩き始めた。
 その間、彼は自らのことと、あやかしたちについての簡単な説明をする。

「ここは天厳山。私が生まれた故郷の山です。私はこの山一帯を人間たちから買い上げて、山の(ふもと)に屋敷を建てて、仲間のあやかしたちと一緒に暮らしているんです」

「……この山、一帯。こんなにも広い山を……」

 二人が歩く道は、相応の長さと広さがあった。
 進む先の奥、霧矢が走って行った方向は、ここから少し小高くなっており、その先にぼんやりと家の灯が見える。
 一方、坂の下、逆方向の背後には門扉があり、山と外界を隔てるように、白い壁が延々と続いていた。

(……巽、一家……)

 先の白怜の言葉を思い出し、灯里はふと思う。
 一家ということは、相当な数のあやかしがここで暮らしているのだろうか。
 わざわざ人間から山を買い上げ、人と同じように家を建てて、皆で共同生活をしている。
 それは、灯里が想像していたのとはまったくの逆。まるで自分たちを人間に寄せるような、どこか親しみが持てるあやかしの在りようだった。

「山に棲むことを望む者は、屋敷の外の山中で暮らしていますが、人に近しいあやかしたちは、できるだけ人の生活に近い暮らしをしています。今の霧矢のように、外の人間のところで働いて、夜になったら屋敷に戻って来る……そんな生活をしている者も、何人かいるんですよ」

「外で……そんな方も……」

(ちまた)では、無法者の集まりみたく誤解する人もいるのですが……それらの者も、まっとうに稼いで社会とつながっています。どうか、受け入れて下されば……幸いです」

 白怜は、今までで一番自信なさげに灯里に言う。
 灯里は「もちろんです」とうなずいて、白怜が安心できるように微笑んだ。

 そうこうしているうちに、二人は目的の屋敷に着く。
 予想した通り、それはかなりの豪邸。さらなる壁に囲われて、その中にいくつもの家屋が立ち並ぶ、まるで武家屋敷のような邸宅だった。
 霧矢から伝達を受けたのだろうか、およそ二十名余りの者が外に出てきており、白怜と灯里を出迎えてくれる。
 人の姿を取っている者もいるが、すべてどこか人とは異なる雰囲気。おそらく全員があかやしであろうことを、灯里は肌で感じ取った。

「──さて、そういうわけで、今日からここがあなたの家となります」

 ようこそ、巽一家へ──
 白怜がそう言って手を差し伸べると、ざっと風が吹き、草木が涼やかに揺れた。
 屋敷からの淡い光が辺りを照らし、どこか神秘的な情景を際立たせる。
 それを見て、灯里は思った。
 ずいぶんと遠い世界、見知らぬところに来てしまったと。
 けれど、差し伸べられた手はあたたかく、不思議と信頼できるもので。
 この人が導いてくれるのなら──きっと危ぶむことなく歩んでいけるだろう。
 灯里はそんな確信にも似た予感を抱きながら、彼の手を取り、一歩を踏み出す。

「白怜さん……ありがとうございます。これから……よろしくお願いします」

「ええ、灯里さん。こちらこそ」

 あやかしという人知を超えた存在、彼らに囲まれた灯里の新たな生活は、こうして始まったのだった。