(……なんでこんなことを思い出してるんだろうな……)
氷の球に包まれ、おぼろげな意識の中で、白怜は遠い昔の記憶を思い起こしていた。
これはもしや、走馬灯というやつなのだろうか。
いや、仮死状態に近いとはいえ、死の狭間にいるわけではないのだ。そもそも前提からしてそれは間違っている。
それでは、単に寝ぼけているだけなのか。
黒い泥を凍らせることはできたが、それに満足して眠ったままではいられない。
それなのに、起きなければいけないと思いながらも、彼はまどろみの中、別の思考に身を委ねていた。
(……結局のところ、私は形を真似しているだけなのだろうな……)
物語の主人公たち。彼らの高潔さを見習って同じようにとつとめても、自分の振舞いが正しいのか、本質的にはわからない。
本当にこれでいいのか。間違っていないだろうか。
悠然とした態度で人を導くときも、実を言うとずっと自信が持てないでいた。
一般的な振舞いがそうなのだから、色恋沙汰などもっと自信がなかった。
下界に戻り、あやかしとして再び歩み始めたが、こんな自分が愛する者になど出会えるのだろうか。
運命の相手、そう呼べる者などいるのだろうか。
未来を不安に思いながらも、さらにいくつかの物語に触れ、彼はまた恋に憧れを抱く。
下天した白怜は、ある意味生まれ直したともいえる状態で、それゆえ皆から「若」と呼ばれていたのだが、肉体と同じように精神もまだ未熟だと、いつも思い続けていた。
ただ、それでも。
胸を張れる自分でいたかった。
あやかしたちを助けているのは、もちろん彼らを大事に思うからだが、それがあるべき自分だと考えているからだ。
他者から感謝された瞬間だけは、自分が正しく在れたと思うことができる。
最終的には自分のために他者を救っているようなものだ。
その一方で、灯里と出会ったのは、本当に偶然の出来事だった。
本の趣味がまったく同じで、灯里が勇気を出して交流を求めてきたことを、さすがに無下にはできずに文通を承諾する。
色々と手紙で助言などもしたが、自分はずいぶん偉そうなことを言っているなと、いつも書きながら申し訳なさを感じていた。
そんな自分を、灯里はずっとまっすぐな視線で見つめていてくれた。
嬉しかった。
至らない自分、取り繕ったハリボテの自分でも、彼女はこちらを向いて微笑んでくれる。
最初はほのかな好意だったが、彼女を助け、ともに過ごすうちにだんだんとその気持ちは大きくなり、もはや恋心を否定することはできなくなっていた。
そして、距離が縮まりつつあったある日、灯里は白怜に言った。
白怜のような人になりたい。あなたこそを将来の目標にしたいと。
彼女は自分に自信が持てない白怜を勇気づけるように語り掛ける。
何かの真似でもあなたの価値が損なわれるわけじゃない。あやかしでも人間でも、それは変わらないと。
それらの言葉が、どんなに白怜を救ったか、おそらく彼女は気付いていない。
たとえそれでも構わなかった。
心を決めることができたから。
この少女とともに歩みたい。同じ道を、肩を並べて進んで行きたいと、彼はその時強く思うことができたのだ。
(……ああ、そうだ。だから起きなきゃいけないんだ)
白怜はうっすらと目を開く。
もやがかかっていた意識が、灯里の軽やかな笑顔で晴れていくようだった。
(外はどうなってる……まだ安全かどうかわからないだろうが。私がこんなところで寝ていてどうする……!)
そして、彼は現実へと意識を向ける。
あやかしの直感とでもいうべきものなのか、まだ泥に対して警戒を解くべきでないことを、白怜は肌で感じ取っていた。
果たしてその直感は的中し、自分が動くよりも先に氷の壁に亀裂が走る。
その亀裂が崩れ落ち、しかし最初に視界に飛び込んで来たのは、愛しむべき女性の姿。
「──白怜さん!」
「灯里、さん……」
「時間がありません。手を!」
叫ぶ灯里。
言われるままに白怜は手を伸ばし、灯里がそれをつかむ。
すぐ後ろから泥の触手が迫るが、彼女は白怜と手をつないだまま振り返り、空いた左手を突き出すように泥へと向けた。
「──ええいっ!」
すると、白い光がまっすぐにはしり、清めるように泥を蒸発させてゆく。
まるで以前からそれを使いこなせていたように、灯里はその光で泥を薙ぎ払った。
「これは……白龍の神気……。灯里さん、どうして……」
「説明は後です。白怜さんにも龍神の力が戻っているはずです! 手を前に!」
確かに彼女の言う通り、神の力が白怜の身体によみがえっていた。
言われるままに右手を出し、灯里と同じように力を放出する。
光の線がもう一条、黒い闇をかき分けていく。
そこで白怜は理解する。灯里の霊力が白怜の体内に入り込み、彼の龍神の力とともに灯里へと回帰していることを。
(そうか……これが灯里さんの異能……。この力で、私の神気をよみがえらせ、自らの力としているのか……!)
なんと素晴らしいことだろうと白怜は思った。
二度と目にすることはない、そう思っていた神の力を、愛する人間の女性が使っている。
目の前の光景は何よりも美しく、自分が使うよりもふさわしいものとして彼の目に映って見えた。
「……ありがとうございます、灯里さん。あなたのおかげで、我々あやかしは救われるのですね……」
その言葉に、灯里は首を横に振った。
「……いいえ、それは違います。私だけじゃありません。白怜さんがいるから、白怜さんがいてくれたから……私はここにいられるんです。この力も、きっとそう……お互いが、わたしとあなただからこそ、この闇を祓うことができる──」
そして灯里は白怜へと体を預ける。
寄り添うように、身も心もゆだねるように。彼の胸へと飛び込むと、ただ一言、「白怜さん」とその名を呼んだ。
白怜は彼女の思いに応えるように「灯里さん」とうなずく。
白怜の突き出した右手、その手に灯里が優しく左手を添える。
それは二人で支える光の砲塔。二本の光は重なり合い、一つ一つよりもさらに大きな光の線になると、付近一帯の泥を瞬く間に消し去っていった。
その力は、白く、清らかで、そしてあたたかく。
やがて二人を中心に光は輝きを増し、まるで世界が真っ白になったかのようにすべてを包み込む。
次に灯里が目を開いた時、彼女の目に飛び込んできたのは、仲間たちの安堵と喜びの表情。
そして、自身のすぐ隣の、最愛の男性の安らかな笑顔。
街に広がった黒い泥は、二人の光の力によって、すべてがあとかたもなく浄化されたのだった。


