大きく時はさかのぼり、昔々の、そのまた昔のお話──
あるところに、二匹の蛇がおりました。
一匹は、雪のように白い蛇。
もう一匹は、墨のように真っ黒な蛇。
二匹は長い時の中を故郷の山で過ごし、ごく少数の人間を除いて、他者と交わることはありませんでした。
ある日のこと、黒い蛇が白い蛇のところにやって来て、一冊の本を渡します。
「なぁ、祠の供え物の中に、こんなものがあったんだ。何だろうな?」
それは、人間が書いた本。一組の男女の一生を描いた物語でした。
異なる境遇の男と女がめぐり逢い、惹かれ合い、添い遂げるまでの物語。
主人公二人の恋模様が、細やかな心理描写で美しく描かれます。
物語は、二人の恋愛だけでなく、彼らが多くの人へと力を尽くし、尊敬を集め、次の世代へ命をつなぐまでが記されていました。
誰が置いていったのか、そんな伝記にも似た壮大な物語を、二匹は興味深く読みふけりました。
「……ふぅん、なかなか面白い話だったな」
最後まで読み終わって、黒い蛇は言いました。
一方、白い蛇はいたく感動して、深いため息をつきました。
「何て素敵な話なんだろう。こんな美しい世界が人の世にはあったのか……!」
「おいおい、これは作り話だぞ。人間が頭の中で考えた絵空事に過ぎないんだ」
「わかってるよ。でも、人間がこれほど美しい物語を作れるのは……彼らの心に同じような清らかなものがあるからじゃないのかな? 私はそれを、とてもうらやましいと思うよ」
そんなことがあって以降、今まで外に出ることのなかった白蛇は、だんだん他人と交わるようになっていきました。
山を下りて、人の町に行くだけではありません。山中を整え、無秩序に暮らしていたあやかしたちをまとめ上げ、時には流れ着いた手負いのあやかしを保護します。
それらの行いは、物語の主人公たちが人に対してしていたこと。
本の主人公の男女は、出自や身分に関係なく、いつも誰かを思いやり、偽善者と蔑まれようとも他者に手を差し伸べていました。
白蛇も時には正体を知られ、化け物と呼ばれることがありました。
けれど、自分も彼らのように高潔でありたいと思い、それを行動で表し続けたのでした。
そこからさらに時は流れ。小雨の降る梅雨時のことでした。
天から神様が下りてきて、二匹の蛇に言いました。
「天厳山に棲みし蛇たちよ。千年の時を生きた蛇たちよ。お前たちは龍神として天に上る資格を得た。これからはあやかしとしてではなく、龍神として我がもとで暮らすがよい」
天の神の誘いに、二匹は驚きつつも沸き立ちました。
もとは地を這う蛇でしかなかった生き物が、時を経てあやかしとなり、とうとう龍神にまで上り詰めたのです。
このようなことは、ままあることではありません。
あやかしといえど千年生きることは珍しく、また、だからといって必ず神になれるわけでもないのです。
しかし、彼らは見事神に見いだされ、天へ上ることを許されました。
きっと、二匹の龍の神々しさは、未来永劫語り継がれることでしょう。
彼らはともに天に昇れることを、またお互いに喜びを分かち合えることを嬉しく思うのでした。
ところが。
「白蛇に戻るって……どういうことだよ!?」
「言葉のままの意味だよ。私は龍神であることをやめる。再びあやかしに戻るんだ」
白蛇──白龍は、ある日、下天することを黒龍に告げました。
黒龍は困惑し、白龍に問いただします。
何故そのようなことをするのか。神にまでなったのに、わざわざその座を捨てるなど、とても正気のことではないと。
白龍は申し訳なさそうに答えました。
「今の状態だと、自由に下界に降りることができないからね。地上の山ではあやかしたちが私の帰りを待っている。山の外にも私の助けを必要とする者がいるだろう。だから、戻りたいんだ」
神として天に上った者は、それ以降、下界に干渉することは許されません。
天上と下界では、価値観も理も異なります。
白龍は仲間のあやかしたちを助け、彼らとともに生きるため、神であることを捨てようとしていたのでした。
「なんでだよ……おかしいだろ? そんなことのために、せっかく手に入れた神の座を捨てるのかよ!?」
黒龍は納得できませんでした。
白龍の行いは、確かに尊ぶべきものかもしれません。
ですが、自らを犠牲にしてまで他に尽くす──下界の者にそんな価値などあるのかと、彼に異を唱えます。
「お前……そんなことを考えるような奴じゃなかっただろ。一体、何があった? 何がお前を変えたんだ?」
問われた白龍は、黒龍に一冊の本を見せました。
それは、いつかの時に人間が祠に置いていったもの。
白龍は、その物語に心を動かされ、主人公たちのようにありたいと願い続けていました。
それは龍神になった後も変わることはありませんでした。
その物語を指し示し、だから下界に戻りたいのだと、彼は黒龍に伝えます。
「馬鹿なことを……」
黒龍は失望したようにつぶやきます。
けれど、彼はその一方で得心していました。
近年、白龍が外界と積極的に交流していたことは黒龍も知っていました。
彼が少しずつ変わっていったことをわかっていたれど、それを認めたくなくて──しかし、もはや認めざるを得ないのだと、黒龍はようやく理解します。
「それともう一つ。私は……恋をしてみたいんだ。この物語の男女のように、思いを通じ合える誰かに出会ってみたいんだ。無知で子供じみた願いかもしれないが……何も知らないからこそ、この憧れは止められない」
白龍は照れ臭そうに言いました。
物語の主人公たち。恋仲となる彼ら男女のように、誰かとめぐり逢い、思いを通じ合うことは、神の身では為し得ないことでした。
「ああ、ちくしょう」と、黒龍は悪態をつきました。
白龍の決意は固く、もう止めることはかなわない。黒龍はそのことを彼の表情から悟ります。
「……あんな本なんか見せるんじゃなかったな」
「……感謝してるよ」
半ば本心でもある黒龍の軽口に、白龍は微笑んで返します。
黒龍は少し考えるようにうつむくと「……ここまで来たら仕方がないか」とつぶやいて、真剣な瞳で言いました。
「……一つだけ言わせてくれ。お前が地上に戻ってからのことだ。すべてを救おうなんて大それたことは考えるな。そんなことは、たとえ神でもできないことだ。お前は、お前を見てくれる奴のために力を尽くせ。良くありたいと思うなら、むしろそういう奴のためにこそ生きるんだ」
「……ああ、ありがとう」
「恋の方は……良い相手が見つかるといいな」
「そっちは、まあ……気長にやるさ」
二人は視線を交わしてから、どちらともなく笑い合います。
それから白龍は黒龍に背を向け、天の世界を後にしました。
空を滑り、稲光とともに地上へと降る白い龍の姿を見送って、黒龍は彼の幸せを祈らずにはいられませんでした。


