黒い泥は、自らに迫る力を察知した。
 数は全部で五体。それらは散り散りに分散しているが、どれもがこちらを目指して突撃してくる。
 それらの向かう目標は、正確には泥自身ではなく、先刻捕獲した氷の球。
 自らの中に閉じ込め、埋もれさせたはいいが、未だ外壁を破れないその球を、五つの個体は奪い返そうとしている。
 泥はそのことを本能とも呼ぶべきもので感じ取っていた。

 そして、泥は数多の眼球で、そのうちの一体、灯里を視界に入れる。
 氷球の中の者と同じく、この者は抹殺しなければならない。何故かはわからないが、中心核からそんな感情が流れ込み、沸き立つ感情のままに、泥は灯里に向けて触手を繰り出す。
 だが──

「──せいやっ!」

 キン、という鍔鳴りにも似た音の直後、黒い触手はすべてが一刀両断に切り裂かれた。
 小動物形態、霧矢の尾による刃の斬撃。
 円を描いたその軌道は、三日月のような残像を残し、泥の触手から灯里を守り切っていた。

「霧矢君!」

「灯里さん、気を付けて! こいつら、やっぱり灯里さんを狙ってきてる!」

 霧矢は壁を蹴って飛び回り、灯里の近くの触手をさらに切り刻んでいく。
 最後の跳躍で、灯里の肩へと飛び移る。
 灯里は霧矢の着地を確認すると、髪と首の翼をはためかせ、そのまま真上へと飛び上がった。
 一方、黒い泥たちは、今度は大きく迂回して全方位から二人を取り囲む。
 逃げ場をふさがれる灯里と霧矢。二人の動きが止まった直後、泥は一斉に無数の棘を射出した。
 しかし、そこに飛丸が急降下して割って入る。

「──風よ!」

 飛丸が叫ぶ。彼が腕を振るうと、激しい風が巻き起こり、棘の攻撃はすべて蹴散らされた。
 その手には、天狗が持つというヤツデの葉の扇。
 二度三度と扇を振り、四度目は背中の翼もはためかせて、さらに大きな風を作り出す。
 今、飛丸は上着を脱いで、その上半身と翼を露出させている。
 四度目の動作とともに竜巻が生じ、泥の包囲網は一気に切り裂かれた。

「灯里さん、狐火で攻撃を散らします。一度退がって下さい!」

 今度は火十郎が灯里に叫ぶ。
 両目の炎が強く燃え盛ると、何人もの灯里が現れ、四方八方へと飛び退(すさ)った。
 すなわち、その灯里は狐火による幻覚の偽物。
 黒い泥はそれらの灯里を貫くために触手を突き出すが、いずれもが触れた瞬間、霞のように霧散する。
 その隙に、本物の灯里と霧矢は後方の静と合流する。
 灯里は二人に守られながら、放たれた矢の勢いで再び泥へと滑空していく。

 霧矢も、飛丸も、火十郎も、静も、持てる力のすべてをもって泥に立ち向かっていた。
 彼らの気持ちは全員が同じ。
 灯里を支援し、主人である白怜を助け、同胞たちを守り切る。そのためにすべての力を尽くす。
 天厳山のあやかしたちは、たとえ種族が違っても、仲間を思う気持ちは何よりも強い。
 それは、互いの辛さを知っているからだ。
 そして、彼らあやかしたちの要として、その中心にいたのが白怜だった。
 白怜に救われたのは、飛丸や火十郎だけではない。山のあやかしすべてが白怜に恩を感じ、彼を慕っていた。
 静は夫を亡くし、生きる気力を失っていたところを、白怜に助けられた。
 霧矢は両親の顔を知らない。赤子の時分に捨てられ、凍え死ぬ寸前だった彼を拾ったのが白怜である。
 生まれ落ちた境遇はそれぞれ異なる。劣っている者もいる。
 それでも白怜は、彼らに分け隔てなく手を差し伸べ、見守っていてくれた。

 灯里もそうだ。
 感謝しているのは、助けられたことにだけではない。
 ずっと自分を見ていてくれる、支えられている背中の安心感。それこそが何よりもあたたかく、嬉しいと思うことだった。
 だからこそ、灯里は思う。
 白怜が皆を見守っているように、自分も白怜を見つめていたい。
 時折彼が見せる寂しい表情、それを埋める欠片(かけら)に自分がなれたなら。

(……知っていますか、白怜さん。あなたが傍にいてくれることで、どれだけ私の心が救われたかを。あなたが私を見ていてくれる……ただあなたがいるというだけで、私の道は照らされるんです)

 きっとそれは、他のあやかしたちも同じだと思う。
 誰もが皆、要領良く生きられるわけではない。どんなに頑張っても得られないものもある。
 それでも、自分を見てくれる誰かがいる──それだけで、再び歩き出すことができるのだ。

(だから……あなたが私を助けてくれたように、私もあなたを助けます。あなたに傍にいて欲しいから。そして、かなうなら、私があなたの支えになりたいから──)

 思いが力となり、灯里の身体を突き動かす。
 ただ白怜を助けるという一点のためだけに。
 黒い泥から多量の針が射出され、その攻撃で灯里と静が分断される。
 泥は好機とばかりに灯里に狙いを定め、鋭く触手を突き出すが、その貫いた影は別の姿へと変化した。

「残念。こっちは外れですわよ?」

 その灯里は、狐火で変化した静だった。
 一瞬の隙を突き、灯里は自らの狐火で双方の姿を変化させていたのだ。
 触手は肩に乗った霧矢に斬り払われ、静にも負傷はない。
 そして、泥の頭上から一つの影が滑空する。
 静の姿に変化した、そちらが本物の灯里。
 影がゆらめき、元の姿に戻った彼女は、右手を大きく泥へと振り下ろす。
 霧矢と同じ鎌鼬の刃が泥を薙いで切り裂いていく。
 中の氷球が露出し、灯里がそこに竜胆のかんざしを突き立てた時──これまでにない強い光が周囲を覆った。

「白怜さん……白怜さん! 目を覚まして下さい!」

 皆の思いが一つになり、白怜を助け出した瞬間だった。