地表へと這い出た棘状の泥は、すぐに液状化して侵攻を再開した。
 一か所だけではない。複数の地点でそれは起こり、再び溶岩が流れるように、辺り一面を覆っていく。

「そんな……若様の力でも駄目なのか!?」

 火十郎が唇を噛む。
 天厳山で一番強いのは、一家の当主たる白怜だ。
 彼の力をもってしても止められないのでは、他に方法はない。

「ど、どうしよう。このままじゃ、山が……」

 不安げな様子で霧矢が言う。
 続けざまに、氷球付近の泥がうごめく。
 泥は白怜への恨みを晴らすがごとく、先端を尖らせ、氷の壁を突き破ろうとした。

「白怜さん!」

「灯里様、いけません!」

 泥の視線から灯里を隠すように、静が腕を広げて彼女を止める。
 幸い、白怜を覆う氷は他よりも厚く強固であるらしい。何度か刺突が繰り返されるが、球にはひび一つ入らなかった。
 しかし、突き破れないと判断した黒い泥は、すぐに形状を変化させ、氷球を薄い泥の膜で包み込んだ。今度は閉じ込めるつもりのようだ。
 そして、続々と泥が覆いかぶさり、さらに後方から流れてきた泥と合流すると、氷の球は濁流に浸かったように天頂部以外がどっぷりと埋もれてしまった。

「白怜さん……!」

 その光景に、灯里はぞっと背筋を凍らせた。
 たとえ壁が突き破られずとも、このままでは生き埋めと変わらない。
 一体どこまで持ちこたえられるのか。あるいは、氷を介してはいるが、ずっと泥に触れ続けるのは危険ではないのか。
 確たることは何もわからない。
 そもそも、現状を打破しようにも、これでは動きようがない。

「……!?」

 そこで、静が灯里を見て怪訝な表情になる。
 今、灯里は静の腕に触れている。
 その触れた部分に視線をやり、静は「まさか……」とつぶやく。

「……お静さん?」

 灯里が聞き返すが、静は答えない。
 彼女はその代わりに「灯里様、失礼します」と言って、灯里の手を両手で握った。
 灯里から何かを感じ取ったように、静は目を見開く。
 続いて灯里の髪がふわりと浮き上がり、その髪は静と同じように毛先が白い翼へと変化した。

「えっ──!?」

「……そういうことでしたか」

 驚く灯里。静は確信を得たようにうなずき、そして言った。

「灯里様、皆さんも! 白怜様を救い、あの黒い泥を倒す方法を見つけました。──灯里様の力を使うのです!」

「!?」

「ど、どういうことですか、お静さん!?」

 驚嘆して静を見る全員に、彼女は説明する。

「結論から先に言います。灯里様は、他者の力を引き出して、それを自らのものとして使う異能を持っておられます。今、灯里様の髪がわたくしのようになっているこの状態……これこそが、灯里様の能力(ちから)の証なのです」

「なっ……」

「どうして、そんなことが……」

「理由はわたくしにもわかりません。ただ、灯里様が作られた料理に、わたくしと同じように『気』が乗っていたと聞いた時、もしやと思ったのです。そして、灯里様に触れてそれは確信に変わりました。灯里様は……ご自身の霊力を他者を介して循環させることで、その者の力をも自らに取り込んでいるのだと」

 静は続けて灯里に尋ねた。

「灯里様、これと似たようなことが今までにありませんでしたか? たとえば、他の方の力が灯里様から生じたりするようなことが……」

 灯里はその問いにハッと思い出す。

「……そういえば……姉さまに斬られそうになった時、白怜さんの氷の鏡が防いでくれた……。白怜さんは自分の力じゃないって言ってたけど……。あれは、白怜さんじゃなくて、私が白怜さんの力を使ったから……?」

 静はその言葉に、「おそらく」とうなずく。
 人間でも霊力の大きい者は、後天的に特殊な力を持つことがある。
 料理の件、灯里が自分と同じ力を使えたことが偶然ではないと思った静は、視点を変え、灯里の力を『他者から何らかの影響を受ける能力』と推測した。
 その予想は的中し、今、自らの翼が灯里にも生えたことで、彼女は灯里の異能を先のように見極めたのだった。

「そ、それで、灯里さんの力を使うって言っても、どうするの? 僕たちと同じ力を使えたって……」

 霧矢が問う。
 静は「いいえ」と首を振り、全員に告げた。

「わたくしたち全員で白怜様を救い出し、灯里様が白怜様(・・・・・・・)の力を使うのです(・・・・・・・)。白怜様の──龍神の力を」

「龍神……?」

 白怜は白蛇のあやかしのはず。
 蛇ではなく、龍とはどういうことか。
 灯里が(いぶか)る一方で、彼女を除く全員がなるほどとうなずいた。

「灯里様、白怜様は単なる蛇のあやかしではありません。あの方は、千年という長い時を生きたあやかし……。そのあやかしが、一度龍神となって天に昇り、再び地上へ降りてこられた……いわば、神が下天された存在なのです」

「……は、白怜さんが……神様、だった……?」

「けど、お静さん。そうだとしても、龍神の力を灯里さんが使えるんですか? 若様は龍神の力を封じられて、龍から白蛇に戻ったって聞きました。力を使うにしても、元になるそれがないなら……」

 静は火十郎の問いには答えず、灯里に向かい合う。
 彼女は灯里の手を引いて、そこに自らの手を重ね合わせた。

「皆様、わたくしと同じように、灯里様の手に触れてみて下さい」

「……?」

 何のことやらわからないまま、全員が円になって灯里の手に自らの手を重ねる。
 すると、灯里の身体に変化が起こった。
 彼女の全身が発光したかと思うと、静以外のあやかし──霧矢、火十郎、飛丸の特徴を再現するかのように、手の甲から小鎌のような刃が、右目から炎が、首筋からはカラス天狗の黒い羽根が生えてくる。
 その一方で、霧矢たち三人の肉体もそれに呼応するように変化が生じる。
 霧矢の尻尾の刃は何股にも別れ、火十郎は両目に炎が宿った。
 飛丸は背中が盛り上がり、着流しの下から黒い羽根が再生する。

「!」
「なっ……」
「これは……」
「ど、どうなってるの!?」

 静は男三人の変化については予想外だったらしく、一瞬驚いた表情になるが、すぐに自らを納得させるように「……すごいですね」とつぶやき、そして言った。

「つまり、灯里様のお力は──灯里様の首筋の羽根を見ればわかるように、もとの使い手が使えない場合でも、自らの力とすることができるのです」

 静には疑問に思っていたことがあった。
 料理に『気』を乗せる自分の能力は、全盛期から衰えを見せ、今はほとんど使えなくなっていた。
 彼女の料理の異能は、時には発動することもある。しかし、発動したらしたで大きく体力を消耗するため、実を言うとここ最近は、自らでその力を封じ込めていた。
 先日のカボチャの煮つけを作った時も、彼女の力は発動しないはずだった。なのに、灯里が同じ力を使うことができた……すなわち、使い手自身の力が封じられた状態でも、灯里が使う分には支障がないということ。
 そして今、飛丸の黒い翼が灯里に生え──それどころか、翼を失ったはずの飛丸自身にもその翼が生えてきた。これは、封じたり失ったりした力を灯里が使えるだけでなく、その使い手の力すらも復活させられることを意味する。

「は……羽根が……っ。俺の……羽根が……っ!」

 飛丸は声を震わせた。
 失ったはずのカラス天狗の羽根がよみがえった。その事実に、皆の前だというのに、感極まって涙を見せる。

「お、俺……両目に狐火が出てる……。なんで……?」

「ねぇ、僕の尻尾の刃も、なんだかたくさんになってるよ!」

 火十郎は戸惑った様子で眼帯を外し、霧矢も身体の変化に声を弾ませる。
 二人の力は飛丸と異なり、もとあったものが失われたわけではない。
 おそらくは、灯里の霊力に刺激され、発展途上の力が活性化し、強化されたのだろう。
 つまり、霧矢の刃もだが、片目しか使えないはずの火十郎の狐火も、まだ成長の余地があることを示していた。

「さあ、皆様。ここからが正念場です。わたくしたち全員で灯里様を白怜様のもとに届け、白怜様を目覚めさせるのです。山の仲間たちも、白怜様も、私たちが助けるのです。灯里様、申し訳ありませんが、どうかお力を貸していただけませんか」

 静は真剣な瞳で灯里を見る。
 灯里は彼女の言葉に大きくうなずいた。
 迷うことなど何もなかった。彼らの役に立てるなら、白怜を助け出すためなら、灯里は喜んで危険の中に身を投げ込める。
 何故なら、今の彼女があるのは、すべて白怜と彼らのおかげなのだから。
 優しさを、喜びを、心安らげる日々をくれたこの人たちに、自分も力を尽くしたい。その前を向く思いが胸にある限り、何も恐くはない。それが嘘偽りのない、灯里の本心だった。

「ええ──行きましょう。皆さんでいっしょに、白怜さんを助け出しましょう!」

 灯里は決意の瞳とともに、四人に言った。
 その言葉を受け、あやかしたちが同時にうなずく。
 「応」「ええ」「うん」「はい」と、思いを同じくする声が重なる。
 そして、彼らは飛び立つ。自らの主と、山の同胞たちを助けるために。
 灯里にとって、彼らにとっての最大の戦い、その戦いの火ぶたが、今ここに切って落とされたのだった。