飛丸たちが店を出たのとほぼ同時に。
 巨大な負の霊力を感じ取った白怜は、灯里を連れて喫茶店を出ていた。
 白怜と灯里に続き、客たちも続々と外に出る。
 皆、黒い泥を目撃すると、おののきつつも反対方向に走って逃げる。
 白怜は店内で「火事だ」と叫び、皆の避難を誘導したのだ。

「若!」

「飛丸! お静さんたちも!」

 白怜は仲間のあやかし四人を視界に入れる。
 彼らは白怜たちが入った店の向かいから出てきた。偶然とは思えない邂逅だが、緊急事態と判断した白怜は、それには触れずに四人に言った。

「あの黒い泥……禍々しいまでの負の霊力だ。触れるだけでもまずい。皆、すぐに避難を」

「承知しました。若は──」

「このままだと街の人たちが危ない。すでに取り込まれた人もいるだろう。私はここで食い止めて、その人たちを助けようと思う」

「えっ」

「危険です! 救助も大事ですが、まずはご自分の安全を考えて下さい!」

 灯里は戸惑いの声を漏らす。
 飛丸は彼にしては珍しく、強い口調で白怜を諫めた。

「ありがとう。でも、どちらにせよ私は避難できない。あの泥の進行方向……このまま進めば、おそらく天厳山にぶつかってしまうだろうから」

「!」

 白怜は自らの鋭敏な知覚力で、汚泥の強大さと侵食速度を察知していた。
 黒い泥が取り込むのは人だけではない。植物や小動物、昆虫、地中の鉱物すらも餌として、進めば進むほど大きく、速くなっている。
 そして、いずれは山をも覆いつくし、すべてを飲み込んでしまうだろう。
 だが、まだ拡大しきってはいない。初期段階である今が抑える好機なのだ。
 そうでなくても、あやかしの当主である白怜が、仲間を見捨てて逃げることなどできはしない。

「飛丸。灯里さんを連れて、山とは反対方向に逃げて欲しい。お静さん、火十郎、霧矢、皆もだ」

「しかし、若。それでは……!」

「仲間を救おうとして逆に全員が犠牲になることは避けたい。どうか今は、避難することのみを考えてくれ」

 白怜の空間術は、その都度、移動先の地点に術を施しておく必要がある。
 壮馬との対決後、もうそれを使う必要がないと判断した彼は、今回その準備をしておらず、山のあやかしたちに避難を促すにしても、一足飛びで戻ることはできなかった。

「……っ」

 白怜の口調から、山へ助けに戻る時間がないことを理解し、飛丸は歯噛みする。
 その時、黒い汚泥の一部が急に速度を上げ、触手のように先鋭化して白怜に襲い掛かった。

「若っ!」

「──はッ!」

 白怜は右手を突き出し、氷の壁を出現させて触手を防ぐ。
 それは、以前極道たちを凍らせたのと同じ、白蛇の氷の力。
 彼は即座に攻勢に転ずる。眼前を強くにらみつると、氷の一部が数多の蛇へと変化した。

「中に入って、取り込まれた人たちを救出してくれ。──頼むぞ」

 白怜が自らの分身でもある蛇たちに命じると、それらの蛇は躊躇なく泥へと突入していく。
 襲ってきた触手部分を伝い、その先にある本体へ。
 まもなくして、蛇たちは捕らわれた人間たちを絡め取ると、急流を跳ねる魚のように、泥の中から勢いよく飛び出した。

(すごい……さすが白怜さん……!)

 灯里が感嘆の息を吐く。
 蛇に助けられた者たちは、そのまま建物の屋根など、泥が及ばないところに安置させられる。

「これで良し。あとは、中心核にいる者を助け出して……。ッ!?」

 白怜はそう言って泥の中の蛇をさらに奥へ入らせようとするが、直後、苦悶の表情に変わった。
 それと同時に、黒い泥から無数の目玉が出現し、一斉に白怜たちに視線を向ける。

「なっ、なんだこいつら!?」

「──そういうことか……!」

 それらの目玉に戦慄する火十郎たち。
 何かに気付きながらも、汚泥からダメージを受けたのか、片膝をつく白怜。
 彼は気力を振り絞るように立ち上がり、息を吐きながら声をあげた。

「……すべてわかった。この泥は、おそらく四条壮馬が原因だ! 私と灯里さんを狙っている!」

「えっ──」

 灯里は驚いて白怜を見た。
 もう関わることはないと思っていた父。何故その名前が出てくるのか。
 しかも、自分と白怜が狙いとは一体どういうことか。

「今、泥の中心部に入って、核になっている者を発見しました。中にいるのは四条壮馬。しかし、彼は泥に取り込まれて意識を失っています。おそらく、この黒い泥を使って私たちに報復しようとしたのでしょう。それが失敗して、泥が暴走したようです」

 白怜は灯里に向けて説明する。
 泥の目玉は白怜たちを──正確には、白怜と灯里に狙いを定めるように視線を集めていた。
 また、泥の触手は、白怜を見るや彼に襲い掛かった。
 それらのことや、中心部に壮馬がいること、進行方向が天厳山であることも併せ、白怜は先の結論を導き出したようだ。

「他の人間は救出できましたが、中心部の彼だけは深く結合して切り離せませんでした。仕方がないのでこのまま対処します。飛丸──いや、お静さんの方が適任か。灯里さんを泥の届かない上空へと避難させて下さい。繰り返しますが、他の皆も早く逃げるように。もう時間がない、今すぐにです」

「で、でも、白怜さん。食い止めるって、お一人でどうやって」

「私の力で凍り付かせます。この規模を凍結させるとなると、私自身も休眠状態に入ってしまいますが、ご心配なく。これだけの騒ぎ、黒白院か他の家か、すぐに助けが来るはずですから」

「さあ、急いで!」と白怜は声を上げる。
 灯里が応諾する前に、傍にいた静が灯里の胸に手を回して抱えた。

「お、お静さん!?」

「灯里様、すみません。少しだけご辛抱下さい」

 静はいつの間にか髪をほどき、その髪が羽根のように左右に広がっていた。
 否、それこそが鶴のあやかしたる静の羽根。広がった髪は鶴の翼のように、先へ行くほど白くなり、その羽ばたきで灯里は静とともに空高く舞い上がる。

「──あそこがようございますわね」

 そして、静は少し離れた建物の屋上に着地する。
 そこは最近できたばかりの百貨店。五階建ての大きな洋風建築の屋上に静と灯里が降り立つと、飛丸たち三人も、付近の建物を飛び伝ってそこに移って来た。

「白怜さんは……?」

 灯里が地面を見下ろすと、すでに白怜は氷の術を発動させていた。
 純白の氷の球が彼を覆い、そこを起点としてみるみるうちに周囲が凍り付いていく。
 黒い泥も氷に覆われ、それによって動きを止める。
 ものの数十秒で白銀の世界が出来上がり、泥の浸食は白怜を起点にしてせき止められた。
 辺りはしんと静まり返る。氷に阻まれて見えないが、中の白怜も休眠状態に入ったようだ。

「……やったのか……?」

「おそらくは……」

「さすがは若様だな……!」

 その光景をかたずをのんで見守っていた飛丸、静、火十郎は、ホッと安堵の息を吐く。
 一方、下の様子を恐る恐るのぞき込みながら、霧矢が言った。

「……ね、ねぇ。これなら、山のみんなに報せに行ってもいいんじゃない? ていうか、僕たちも、もう逃げなくても大丈夫だよね。ここで人間の救助を待てば──」

 バキィッ──!

「……えっ?」

 だが、次の瞬間、氷の地表に亀裂がはしった。
 続いて黒い触手が、植物が成長するようにうねりながら、白銀の氷壁を突き破っていく。
 全体を止めたのは、ほんの一時のこと。
 すでに多くのものを取り込んだせいか、壮馬の怨嗟か。
 暴走した禍石は、白怜の力すらも上回るほどに強大化していたのだった。