「灯里さん、少しよろしいですか?」

 壮馬との対決から約一週間後。
 屋敷の自室でくつろいでいた灯里のところへ白怜がやって来て声をかけた。
 彼は一枚の紙を灯里に差し出す。

「えっと、これは……」

「灯里さんの女学校の、履修証明書です」

「えっ」

 驚く灯里に白怜は説明する。
 なんでも先日、白怜は女学校に赴いて、学校長にかけあい、灯里の単位取得を認めてもらうように頼んだのだという。
 単位の内容としては就業体験。飛丸たちの仕事場の見学や、白怜の事務所の手伝いを、そのまま修学の一つとみなしてもらったらしい。

「い、いいんですか? 事務所のお手伝いはともかく、それ以外は見ていただけなのに、単位なんてもらっちゃって……」

「社会見学も立派な勉強ですよ。第一、それで得られたものはあったでしょう?」

(……それは確かに、そうね……)

 もっとも、仕事場の見学はともかく、弁護士事務所の事務員については、もう就業体験というより就職後のそれに近い。
 いずれにせよ、これによって単位はすべて揃い、卒業要件も満たされたという。
 
「今、卒業証書を作っていただいているところです。出来上がったら一緒にもらいに行きましょう」

 白怜はさらりと言う。
 壮馬との問題が片付いて、時間ができたこともあるのだろうが、率先して手続きを進めてくれていたことに灯里は恐縮してしまった。

「ありがとうございます……白怜さん」

「大したことではありませんよ。お気になさらず」

 この時点において同級生たちはすでに卒業し、そもそも女学校に大して未練もないので、灯里としても白怜の行為には感謝しかない。
 ただ、これで彼に保護される理由もなくなったといえる。
 そうであれば、自分はこれからどうするべきだろう。
 そんなことを灯里がぼんやり考えていると、白怜に怪訝な顔をされてしまった。

「……どうかしましたか?」

「いえ、お世話になってばかりで申し訳ないというか、早く次に住むところを考えないといけないなあ、って……」

「えっ、灯里さん、ここを出て行くつもりなんですか!?」

 白怜はびっくりした様子で声を大きくする。

「どうしてですか。屋敷の待遇で何かご不満な点でも!? ま、まさか、私たちと暮らすのが嫌になったとか……」

「えっと、そういうわけじゃなくて。今言ったように、お世話になりっぱなしなのは良くないと思ったので……ダメでしょうか……?」

 白怜はその言葉に一瞬ホッとした様子を見せ、顔を近づけてさらに尋ねた。

「……でも灯里さん、私の事務所のお仕事は、まだ続けられるんですよね?」

「は、はい」

「でしたら、今のままでもいいじゃないですか。私は……灯里さんにここにいて欲しいです」

「白怜さん……」

 白怜はそう言った後で、ハッと自分の言葉の意味に気付き、「ほ、他の者たちも、灯里さんにいて欲しいと思っているはずですよ」と付け足した。

「……ありがとうございます」

 灯里は改めて感謝の意を示し、白怜の屋敷の世話になることを伝える。
 すると、白怜も心からの笑顔で「これからもよろしくお願いしますね」と彼女に言った。

「……ただ、住むところもですが、灯里さんの仕事について、事務員以外でやりたいことがあれば、遠慮なくおっしゃって下さいね」

 自分で好きな道を選び、やりたい仕事をやればいい。以前も灯里に言ったことを、白怜は強調するように繰り返す。

「そのことなんですが……別のお仕事というわけではないんですけど、志望する職業がありまして……。わ、私、白怜さんみたいな、弁護士になりたいんです」

 思い切って言った灯里の言葉に、「えっ」と白怜は声を漏らした。
 自分と同じ弁護士を志望することもだが、何より白怜みたいになりたいと言われたことに、彼は驚き、戸惑ってしまう。

「あ、灯里さん。弁護士になりたいというのは良いと思いますが……。私のような者を見本にするのはどうかと……」

 灯里は「いいえ」と首を横に振る。

「事務所のお手伝いをやらせていただいて、ずっと思っていたんです。白怜さんみたいに賢くて、考えの深い人になりたいって。白怜さんはいつも周りのことを、皆のことを考えている。私も、そういう人間になりたいんです。だから……」

 しかし、その言葉の途中で、白怜は「違いますよ」と灯里を留めた。

「……私がそのように見えるのは、そういう『振り』をしているからに過ぎないんです。私は所詮あやかしで……だから、灯里さんに目標にしていただけるような資格は、私にはないんです」

「……どういうことですか?」

 尋ねる灯里に白怜は答えた。

「私は……とある物語の登場人物の真似をしているんです。私がまだ竜胆の花畑にいた頃のことなのですが……一番最初に読んだ本に、とても感銘を受けまして。その物語の登場人物たちのように高潔に生きられたらと思い……ずっとそのように振舞っているだけなんです」

 実は、と言い足して白怜は説明する。
 もともと白怜は他者と交わる性格ではなく、昔は天厳山の山奥でひっそりと暮らしていたという。
 けれどある時、人間の物語を手に取って読んでみたところ、それがあまりにも面白くて、そこからすっかり本に心を奪われてしまったそうだ。

「私が恋愛小説を好きなのも、ある意味そこからきているというか……。だから、本当の私はそんなふうに評価してもらえるような存在じゃなくて……。目標にするなら、もっとちゃんとした人にした方がいいと思うんです」

 申し訳なさそうに白怜は言う。
 だが、「それこそ違いますよ」と、灯里は強い口調で反論した。

「そんなこと……白怜さん自身を否定する理由にはならないじゃないですか! 白怜さんが皆のために力を尽くしているのは嘘じゃないでしょう? たとえ何かの真似でも──それで白怜さんの価値が損なわれるなんて、絶対にありません!」

「……灯里さん」

「それに、白怜さん、『自分はあやかしだから』って言いますけど、それも違うと思うんです。あやかしだから劣るとか、私、考えたこともなかったですし……。だいたいそんなこと言ったら、お屋敷の皆さんも下に見てることになっちゃいますよ?」

 灯里の言葉に白怜はハッとする。
 確かに、今まで自分が人につり合うかばかりを考えていて、同胞たちのことについては頭から抜け落ちていた。
 白怜の主張は、自分だけではなく仲間のあやかしをも貶めるものだ。どうしてそのことに思い至らなかったのかと白怜は己を恥じる。

「人もあやかしも、それぞれ良いところがある……それだけのことだと思います。人間だって、いい人ばかりじゃないですし……。白怜さんは、自信を持てなかった私に道を示してくれた。だから私は、物語の登場人物じゃなく、白怜さんご自身を尊敬しますし、白怜さんにも自信を持ってもらいたいです」

「灯里さん……あなたは……」

 あくまでも白怜自身に向き合い、思いを伝える灯里。
 彼女のまっすぐな瞳と心を、改めて白怜は美しいと思い、そして愛しく思った。
 白怜は、灯里に気付かれないように顔をそらして目元をぬぐう。
 それから、小さな声で「ありがとうございます」とつぶやくと、彼女に向き直ってこう答えた。

「……いつか、灯里さんが弁護士になった時は……二人で肩を並べて働けたら……嬉しいですね」

 灯里はその言葉を耳にして、ぱっと顔を輝かせる。
 そして、「白怜さん、私、頑張ります!」と答えるのだった。