一体、何が起こったのか。
 目の前に氷の鏡があらわれたと思ったら、それを見た加奈子が脱力したように膝から崩れ落ちた。
 状況が理解できずに灯里は困惑する。
 白怜が何かしたのかと、彼を見る。しかし、同じように不可解な表情をしていた。
 ただ、白怜は何かに気付いたようにぽつりとつぶやきを漏らす。

氷面鏡(ひもかがみ)……」

 えっ、と灯里が聞き返すと、彼は灯里に言った。

「この氷は……私のあやかしとしての能力(ちから)です。この氷に映された者は、自らの悪意がその身に跳ね返ることになる……。今、あなたのお姉さんは、あなたに向けた悪意を自分自身で浴びてしまっているんです」

「……えっと、つまり……白怜さんが助けてくれたんですか……?」

「いえ、私は何もしていません。そのはずなんですが……どうしてこれが現れたんだろうか……」

 とりあえず、この鏡の効力で、今の加奈子は心神喪失の状態にあるという。
 だからもう、心配はないはずです──白怜はそう付け加えて、加奈子の手から短刀を抜き取った。
 その言葉通り、心ここにあらずといった感じの加奈子は、焦点は定まらぬままに、恐怖におびえた瞳をしていた。

「……姉さま」
 
 試しに呼んでみるが、反応はない。
 しかし直後、うわごとのように加奈子は声を発した。

「……やめて……来ないで……。私はただ、あの子がいなくなればいいと思っただけで……!」

 虚空に向けて懇願する。
 次の瞬間、「ひっ」と加奈子は叫びをあげて、鼻の上部を両手で押さえた。
 まるで自らの顔を横一線で斬られたかのように。

「──痛いぃっ! 痛い痛い痛い、私の顔がぁっ!」

 苦しみ悶えてうずくまり、己の手指を見て絶望の表情になる。
 両の手にべっとりとついた血。それは彼女の顔から流れ出たもの。
 だが、実際には何もない。
 本当は血も出ていないし、斬られてもいない。彼女はそうなっている(・・・・・・・)幻覚を見せられていた。

 つまり、この氷の鏡は、自分が他人に行おうとした攻撃を、そのまま自分がされたと錯覚させるのだ。
 それは悪意が強ければ強いほど、大きなダメージとして返ってくる。
 加奈子が灯里に向けた悪意のうち、直近で一番意識していた顔への切り付け行為、それがそのまま跳ね返り、彼女は自分の顔が切られた幻を見ているのだった。

「痛い……嫌よ……どうして私がこんな目に……!」

 顔を歪ませて泣き声をあげる加奈子。
 灯里はそんな姉を気の毒そうに見下ろし、目を伏せる。
 一方、白怜は灯里の肩に手を置いて言った。

「気に病む必要はありません。今、彼女が見ている光景は、まさにあなたに為そうとしていたことなのですから」
 
 優しさを持ち、少しでも躊躇していれば、それを受けることはなかったはず──だから自業自得なのだと白怜は言う。

「……で、でも……」

「それに、この幻覚は永遠に続くものではありません。大丈夫です。四、五日もすれば、正気に戻るでしょう」

「四、五日……」

 しかし、少なくともその間は幻覚に囚われたままということ。
 だとすれば、それは絶え間ない拷問を受け続けるようなものではないのか。
 もし現実に返ったとしても、おそらく心の傷は残り、精神は元に戻らないかもしれない。
 そのことを想像して暗澹たる表情になる灯里に、「灯里さんは真から優しい人なのですね」と白怜は言った。

「……ですが、何事も適度な度合いというものはあるのです。厳しい言い方かもしれませんが、灯里さんがそこまで気にかける義理はないと思います。あなたのお姉さんがこの後どうなるか……あとはもう、彼女の心次第なのです」

「……」

 確かに、彼の言う通りかもしれなかった。
 自分を貶め、傷付けようとした義姉を、被害者の灯里が救う義務などない。
 ただ、そうだとしても、目の前の光景を「ざまあみろ」の一言で終わらせるのも、何かが違うのではないか。

「……納得いきませんか?」

「……すみません……」

 とはいえ、これ以上、灯里に何ができるわけでもない。
 白怜に促され、灯里はようやくその場を離れることにする。
 とりあえず人だけは呼びませんかと白怜に頼み、灯里は救護を求めるため、彼とともに大通りの方に足を向ける。
 そこで、白怜が小声でつぶやいた。

「きっと……そこで慈悲の心を持てることが、人としてのあなたの強さ……あやかしである私との違いなんでしょうね……」

 灯里はハッと顔を上げ、白怜を見る。
 先を行く彼は背を向けており、その表情はわからなかった。
 ただ、どこか寂しそうな彼の声は、しばらくの間、灯里の耳に残り続けたのだった。