灯里は大きく戦慄した。
 それは、自分の置かれた窮地にでもあるが、それをもたらす加奈子の思考回路にである。
 使い捨てられるだけの自分にすら嫉妬し、妨げ、痛めつけようとする。
 それが父の望む道とは真逆であるにもかかわらず。
 完全に常軌を逸している。
 
(正気じゃないわ……結局のところ、この人は自分の感情だけで動いている。自分のことだけを考えて、周りがまるで見えていないんだわ)

 恵まれた境遇のせいか、生来の気質か。
 そもそも、話し合うという選択肢がこの姉にはないのだ。

「なぁ、お嬢さんよ。ちょいと脅かしてやるだけじゃなかったのかい。聞いてた内容と違うみてえだが……この娘、あんたの妹じゃないのかよ」

 すると、加奈子に雇われたであろう者たちのうち、リーダーらしき男が尋ねた。
 加奈子は怒りのこもった声で答える。

「だからこそよ。こんな女が私の妹であること自体、間違ってるのよ。だからそのことを思い知らせてやらなくちゃいけないの」

 男は加奈子の返答に「はは、怖いねえ」と笑う。
 加奈子は彼に「依頼を変える分、報酬は色を付けさせてもらうわ」と言った。

「おお、そいつはありがてえな」

 男は大仰におどけた後で、ふところから白鞘の短刀を取り出す。
 そして、前に出て、気怠げな様子で灯里を見下ろした。

「悪いね、お嬢ちゃん。俺らみてえな貧乏極道には、何かと先立つものが必要でね。ま、裸にひん剥くような無粋な真似はしねえよ。ほんの少し傷が残るだけだ」

「って、ちょっと! 私は辱めろって言ったのよ? 服も脱がせないで、何するつもりなのよ!?」

「要は外を歩けないくらい、恥をかかせりゃいいんだろ。何、顔に刃物傷の一つでもつけりゃ十分ってもんよ」

 軽い調子で男は言うが、その目論見は十分に苛烈なものだった。
 確かに、性的な意図が無いのなら、そういう意味での『辱め』にはならないかもしれない。
 だが、男は短刀を、自らの顔の前で横に薙ぐ動作をした。
 すなわち、灯里の顔をそうしてやるという予告。
 嫁入り前の乙女が顔に深く残る傷をつけられる──結局のところ、受ける“傷”としてはどちらも大きなことに変わりはない。

「……!」

 男のジェスチャーで意味を悟った灯里は、その身をわななかせた。
 それを見て、ニヤリと笑う加奈子。
 灯里は思わず後ろに足を引くが、壁に背が当たってしまう。
 いつの間にか、路地裏に追いつめられていた。
 左右は他の取り巻きたちが塞ぎ、正面には煌めく刃。それを差し向けて、男は言った。

「あきらめな。生きてりゃどうにもならないってことはあるもんさ」

 飄々とした姿勢を崩さず、さらに距離を詰める。
 「抵抗すると、余計危ねぇぞ」と警告し、彼は短刀を持たない方の手で灯里を押さえつけようとした。

 しかし、絶体絶命と思われたその刹那、灯里に触れる直前で──何故か男はピタリと動きを止めた。

「……何? どうしたのよ? さっさとやっちゃいなさいよ!」

 加奈子が急かす。
 だが、そのまま動かない。

「な……んだこれ」

 男は小さく声を漏らした。
 それは動かなかったのではない。
 彼はそれ以上、足を前に出すことができなかった。

「なんで、蛇、が」

 途切れ途切れの言葉に、加奈子は不審がり、のぞき込む。
 ふと下に視線をやると、真っ白な蛇たちが密林の蔓のごとく、男の両足に絡み付いていた。

「ひっ……!?」

 蛇の赤目と視線が合い、加奈子はおぞましさに青ざめる。
 叫びそうになるのをこらえ、彼女は反射的に身を引いた。

 その一方で、灯里はハッと気づく。
 それらの蛇、この光景、見たことがあった。
 いつかの時と同じ状況。灯里の窮地を救ってくれた白蛇たち。それが今も男を留めてくれている。

 ──そう、大切な彼の、本当の姿。
 決しておぞましくなどない、灯里にとっては清廉たる超常の存在。

(白怜さん──!)

「──そこまでだ」

 路地裏の入り口から声が響く。
 凛然たる声に導かれるように、その場の全員があやかしの主、白怜へと振り向いた。