チリン、チリンと事務所の呼び鈴が鳴らされて、灯里は早足で玄関へ向かう。
来所した人間と挨拶を交わし、手慣れた様子で中に案内する。
一度給湯室に戻ってお湯に火をかけてから、彼女は執務室の白怜に声をかけた。
「白怜さ……巽先生、中村商事様、いらっしゃいました。三名様、応接室にお通してます」
「ありがとうございます、灯里さん。今、向かいます」
各所の仕事場の見学から約一月。
結局、灯里は白怜の事務所の手伝いをやらせてもらうことにした。
要するにそれは、法律事務所の事務員である。
仕事内容は、来客対応などの一般事務から法律業務の補助に至るまで。それから、お茶くみや掃除などの雑用も。
あえて口にすることはなかったが、初めて事務所を訪れた日に、すでに彼女の心は決まっていた。
白怜の役に立ちたい。彼が他のあやかしたちの支えになっているなら、自分は彼の助けになれないだろうか。
そんな思いの灯里が、白怜にもっとも近い場所で彼の手伝いをするのは、ごく自然な流れであった。
もともと事務所には白怜を手伝うあやかしもいたが、そのあやかし──不知火という火の玉のあやかしは、当然だが来客対応などはできない。
それゆえ、灯里が足りない仕事の補完をすることは、その不知火にも、白怜にとっても願ったりであり、彼女は望まれて事務員に加わることになった。
ただ、白怜はその一方で、灯里が事務所で働くことを決して強制しなかった。
灯里の希望を否定もしないし受け入れもするが、彼はもっと時間をかけて自分の道を選ぶべきだと言う。
そして、やや過保護気味に、合わないと思ったら遠慮なくやめても構わないと言った。
灯里は、そんな白怜の言葉で確信する。彼が社会見学を提案した意図は、やはり飛丸が言ったように「自由な進路を選ばせること」にあったのだと。そして、だからこそだと白怜に反論した。
「白怜さん。私、弁護士のお仕事を手伝いたいっていうのは……自分の心で決めたことなんです」
「自分の心で決めた……ですか?」
「はい。確かに法律が関係する業務は、ちょっと慣れなくて大変だったりもしますけど……それも含めて、自分で望んだことなんです。だからとても満足していますし、これで良かったと思っています」
灯里たちが生きるこの国では、まだ女性が自分で決められることは少ない。
特に、職業の選択肢は、男と女で雲泥の差がある。
そんな中で、白怜が道を選ばせてくれることには感謝しかなく、またその中で選んだこの道に、不満などあるはずもなかった。
苦労するのも、大変なことも、全部自分で決めたこと。
誰に強制されたわけでもない。だから、歩む道のりが険しくても、後悔などない。
それに最近は、法律の仕事そのものにも興味を抱くようになっていた。
法学は、他の学問と異なり、確たる正解があるわけではないが、白怜はその法学を活用して人々の助けになるよう努めている。
そんな彼の姿勢を尊敬し、あこがれを抱き、時にはどうしてその解釈を取ったのかと彼に質問してみる。
手本となる存在が近くにいることで、灯里は知らず知らずのうちに白怜の考え方を学び、あるべき法曹の姿を学んでいったのだった。
「──お疲れさまでした、灯里さん。不知火も先に帰ったので、私たちも行きましょうか」
「わかりました、準備します」
そして夕刻、帰る支度を整えて、二人そろって事務所を後にする。
赤く染まる太陽を背に浴びながら山への道を歩いていく。灯里はこの時間がとても好きだった。
「……あ、しまった」
ただ、その帰り道、ふと白怜が小さく声を漏らす。
「どうされました? 白怜さん」
「いえ、大したことではないのですが……」
そう言いつつ、ばつの悪い顔で口元に手をやる。
彼の目線の先は商店街の豆腐屋。店内の水槽の切り分けられた豆腐を目にして、何かを思い出したようだ。
「お静さんに『今日は牛鍋をやるから、野菜と豆腐を買ってきて欲しい』と言われていまして……。事務所の棚にある小鍋を容器にするつもりだったのですが……。それを持ってくるのを……忘れていました」
「あら、それは……」
この時代、使い捨てのプラスチックのパックなどはなく、豆腐を買う時は鍋などの入れる容器を持参しなければいけない。
今回は出勤時に鍋を持たず、事務所の鍋で持ち帰ろうとしたせいで、豆腐屋の店先を目にするまですっかり忘れていたとのことだった。
「あの、白怜さん。でしたら、私がお鍋を取ってきましょうか」
「いえ、私がお静さんから頼まれたのですから、灯里さんにお願いするわけには」
「でも、白怜さん、書類カバンもお持ちじゃないですか。それだとお鍋が持てないと思いますけど……」
「あっ」
と、白怜は再度口元に手をやる。
灯里の言うように、白怜は書類が入ったブリーフケースを持っており、豆腐の入った鍋を両手で持つと、それを持てなくなってしまう。
一方、灯里は手が空いており、ならば確かに彼女が取りに行った方が道理である。
「私、急いで取って来ますから。お鍋のある場所でしたら、私もわかっていますし」
「……わかりました。それなら、私はその間に八百屋に行って、野菜の方を買っておくことにします」
「はいっ、お願いしますね!」
申し訳なさそうな白怜に背を向けて、灯里は小走りで駆け出す。
走りながら、今の会話を胸の中で反芻し、彼女はクスリと顔をほころばせた。
もう何年も一緒にいるような、気安い日常の会話。
血のつながりどころか、人とあやかしという異なる種族でありながら、まるで家族のように親しげなやり取りができていることに、灯里は大きな喜びを感じていた。
(……こんなあたたかで嬉しい日常が、私にも持てるなんて……)
ふと今の自分を顧みて、何故だか涙が出そうになる。
それをこらえてさらに歩を進め、灯里は四つ辻を右に曲がった。
だが、事務所まであと少しというところで、彼女の前に人影が立ちはだかる。
「──ようやく見つけたわ。探したわよ、灯里」
「えっ、姉さま……」
その人影──灯里の義姉、加奈子は、数名の男たちを従えて、不敵な表情を灯里へと差し向けた。


