「すっ──すみません、灯里さん! うっかりして、私の仕事場のことを伝え忘れていました……!」
翌日の朝、白怜は玄関口で待っている灯里に、慌てた様子で謝罪した。
単純にど忘れしていたらしい。自らの事務所に連れて行くことを、彼はすでに言ったものと思い込んでいたそうだ。
昨晩は白怜の帰りが遅かったので、灯里も確認を取るタイミングがなかった。今朝の朝食時にそれとなく聞いてみたところ、彼は茶碗と箸を持ったまま、冷や汗をかいて無言で固まってしまう。
「──いえ、準備はできていましたし、気にしてませんから。それよりも、白怜さんのお仕事着は……洋装なんですね」
目の前の白怜は、いつもと異なり、グレーの細身のスーツに身を包んでいた。
髪も後ろで一本に縛っており、銀色の長髪ということもあって、海の向こうの異人のようにも見える。
灯里はそんな彼の姿に見惚れて、こっそりとため息をつく。
「別にいつもの服装でもいいのですが、同業の人たちはだいたい背広なので。それに、『あやかし一家の当主』よりは、こちらの方が依頼人の方も安心すると思うんです」
「えっと、弁護士……って、どういうお仕事なんですか?」
灯里たちの住むこの国では、弁護士という職業はまだ一般的ではない。
異国に倣って正式な資格制度として創設されたのも近年のことで、この時点での弁護士の地位は、同じ法曹である裁判官や検察官よりも下に見られていた。
そんな発展途上で、しかもあやかしには関係なさそうな職業を何故選んだのか。仕事の概要も含めて、白怜は灯里に説明する。
「弁護士というのは……要は法律を使って、もめごとや問題を解決するお仕事ですね。裁判までいくこともありますが、実際はその前段階の交渉で話がつくことも多いです。私は人ではなくあやかしですが……だからこそ、人間の社会で生きていくためには、人間のしきたりを学ぶ必要があると思ったんです」
そうやって法律について調べ、勉強を重ねていくうちに、ついには法曹の資格を取るまでになったのだという。
「……すごい……白怜さん、すごいです」
灯里の賞賛に、白怜は照れたように「大したことはありませんよ」と頬をかいた。
白怜の肩書もであるが、灯里が感嘆したのは、それ以上に彼の目の付け所にであった。
軋轢が生じないよう人のやり方に合わせるだけでなく、率先して人のルールを、法律を学ぼうとする。そんなあやかしなど他にいるだろうか。
しかも、それを自らの仕事にまで昇華させるなんて。
ただ優しいだけじゃない。このような賢さ、したたかさがあるからこそ、あやかしたちの中心となり、皆を守れているのだろう──灯里は尊敬のまなざしで白怜を見た。
山を下り、神門市の北部地区の街中、そこに建てられた白怜の事務所に二人は向かう。
事務所はいくらか小さめのつくりで、巽の屋敷とは趣が異なる洋風の建物だった。
鍵を開けて中に入り、来客の準備を整える。
今日は三件の相談依頼が入っているという。
「ああ、灯里さん。お客さんが来る前に、一つお願いしておきたいことがあるのですが。よろしいですか」
「はい、何でしょう」
「今、ちょうど事務所には私たちしかいないので」と前置き、白怜は応接間の隣、執務室へと灯里を案内する。
その部屋の、仕事机の一番下の引き出しを開け、彼は中にあった一冊の本を灯里に見せた。
「え、これって……」
「お願いというのは……その……今日の帰りに、灯里さんに本を……買ってきて欲しいのです」
何故か恥じらいつつも白怜は言う。
その本は、法律とはまったく関係のない流行りの恋愛小説だった。
新進気鋭の人気作家が昨年執筆した、新シリーズの一作目。
満を持して発刊されたそれは、瞬く間に重版がかかり、現在は四巻まで発売されている。
灯里も、その本の一巻を図書館で借りて読んだことがある。しかし、あまりに人気なため、それ以降の既刊はまだ表紙すら見れていないものだった。
「ご存じの通り、私はいつも図書館で本を借りていますが、これは別にお金を節約しているわけではないのです。実を言うと……この手のものを買うことは、ゆ、勇気がいるというか……。ほ、本当は……恥ずかしいのです……」
「え」
白怜の言葉に灯里は一瞬固まってしまう。
彼は赤面しながら言葉を続けた。
「今までは……借りられるものだけで満足していたのですが……。この本の二巻以降は、図書館で借りるのも難しい感じで……。ただ、買いに行くにも少々尻込みしてしまって……。で、ですから、灯里さんにそれをお願いできないかな、と……」
「使い走りのようなことをさせて申し訳ないのですが」と、白怜は気まずそうに目線をそらした。
(恥ずかしいって……恋愛小説を買うのを……白怜さんが……?)
意外な言葉に、灯里は何度も瞬きをした。
正直、少しも予想していない答えだった。
確かに、灯里と白怜が読んでいた本──二人の共通の話題だった小説は、どれも女性向けの内容だ。
ただ、文通ではそんなことを気にしていなかったし、顔を合わせてからのやり取りも普通だった。
それもあって、目の前の白怜は今までの彼からまったく想像できないもので、灯里はなんだか戸惑ってしまう。
「買っていただいた本は、灯里さんのものということにすれば……屋敷にも持ち帰れるかなと。もちろん、灯里さんも自由に読んでもらって構いませんし、そういう意味でも良いと思うのですが……」
灯里のものという名目なら、屋敷に本を持ち帰れる。つまりそれは、今までは屋敷に持ち帰ったことがない──白怜の趣味は、他のあやかしたちには知らせていない──彼の秘密ということになる。
白怜が勇気を出して言ってくれたのに、こんなことを思うのは不謹慎かもしれない。けれど、灯里はその告白を聞いた時、次の気持ちを抑えることができなかった。
──嬉しい。
屋敷のあやかしたちにも隠している、白怜のささやかな秘密。
前もって文通で知っていたからとはいえ、恥ずかしがりながらも自分には気持ちを打ち明けてくれた……そのことが、何よりも嬉しい。
「こちらの本は……買われたんですか? 図書館の本ではないようですけど……」
「あ、いえ。これは出版社が依頼人となった案件がありまして。その時にいただいたんです」
宣伝も兼ねて配られたようなものだが、白怜にとっては予想外にありがたい贈り物だったという。
ちなみに、図書館で借りる時は、手紙の中継でも世話になっている山城司書に頼んでいるらしい。
彼だけは、白怜の素性も含め、縁あって諸々を知っている友人とのことだった。
(ああ……そうか。白怜さんが図書館の貸出しカードに偽名を使っていたのも、自分が借りていると知られたくなかったからなのね……)
あまりにも単純な理由だが、だからこそ確認するまでもなく、そう納得することができた。
「……わかりました」
灯里は、できる限りの穏やかな笑みで応えた。
当たり前だが、白怜が恋愛小説を好きだろうと、灯里がそれを笑うことなどない。
そのことを知られたくないのも個人の自由だし、恥ずかしいという気持ちもそれなりに理解できる。
むしろ、そうであるにもかかわらず、自分を信じて伝えてくれたのだ。彼の信頼をどうして無下になどできようか。
「……私もこの本は、一巻しか読んだことがなかったんです。ですから、続刊を読んだ後で、また感想を語り合ったりできると……嬉しいです」
「……灯里さん」
白怜は感激した様子で、灯里の両手をひしと握る。
その笑顔は、子供のように純粋無垢なもので。
灯里はそんな白怜を微笑ましく思いながら、もう一歩踏み込んだ提案を申し出てみることにした。
「あの、白怜さん、私がお使いに行くのは全然良いんですけど……それならいっそのこと、二人で行きませんか?」
「え、二人で……ですか?」
「ええ、私の付き添いという名目なら、白怜さんがついて行ってもおかしくないと思うんです。それで、今日の帰りだけじゃなくて、今後も定期的にお買い物に行くのはどうでしょう。そうすれば、白怜さんは他の本も選んで買えるでしょうし……。ふ、二人だと、もっと楽しいかな、なんて」
言った後、今度は灯里が赤面する番だった。
少々図々しかったかもしれない。要するにこれは、どさくさで本屋デートに彼を誘ったようなものだ。
誘うタイミングもだが、本をエサにするのもずるかったかなと灯里が思っていると、しかし白怜は満面の笑みでそれに応じてくれた。
「……いいですね! でしたら、灯里さんも欲しい本があったらおっしゃって下さい! お金は私が出しますので、遠慮なく十冊でも二十冊でも! ……ああ、それならお互いが選んだものを二冊ずつ買えば、同時に読めていいかもしれないですね!」
「えっ、そ、それだと白怜さんの趣味を隠せないんじゃ……というか、お金は……大丈夫なんですか?」
「あぁ、お金のことなら心配いりません。はっきり言って、使いきれないほどあるので」
「つ、使い切れないほど……!?」
灯里の申し出にテンションを上げつつ、そこは何でもないことのように言う白怜に、灯里は驚き、声を上ずらせてしまうのだった。


