どうやら図書館の常連に、自分と同じ趣味の人がいるらしい。本の貸出しカードの最後尾に、七冊連続で同じ名前があるのを目にしたところで、ようやく灯里はその事実に気が付いた。
しかし、どういう偶然なのだろう。灯里が読みたいと思うタイミングで、常にその人が一歩先んじているというのは。
つまり、彼女の借りるどの本も、おかしなことに直前で同じ人が借りているのだ。
それが一度や二度ならともかく、連続七回、断続含めて十一回。これはもう奇跡に近い確率である。
わざとそんなことができるとも思えない。その人が男か女かもわからない。貸出しカードの記入欄には、ただ「怜」とだけ流麗な筆致で記されており、その謎めく名前が余計に興味をかき立てた。
(……ちゃんと姓名を書かなくても、借りられるものなのかしら)
まじまじとその名を見て、何者なのかという疑問とともに、灯里はそんなことを思う。
一度会って、話してみたいと思った。こんなにも嗜好が同じなのだから、この人となら楽しい会話ができるに違いない。
例えば、今回借りた本の、主人公の恋の行方について、どんな結末になるのだろうと語り合えるのではないか。
灯里が借りているのは、だいたいが流行りの恋愛小説、恋物語である。
ここ、草薙ノ国の皇都、その中心である神門市は、一番の都会だけあって公共施設が充実している。
灯里が足しげく通う図書館も、国内最大級の大きさを誇る。
それだけでなく無料で借りることができ、流行りの小説や雑誌も入荷されるため、一般大衆にも人気の高い施設だ。
当然それらの新刊は、早い者勝ちで簡単には借りられない。
が、小遣いもなく余計な出費ができない灯里にとって、図書館の本は唯一の娯楽だった。
本は良い。特に物語の類いは、別世界に心を誘い、嫌なことを忘れさせてくれる。
灯里の実の両親は、灯里が生まれて間もなく事故で他界したという。
彼女はその後、街はずれの小さな孤児院に引き取られ、そこで暮らしてきた。
だが、十二になった時、何故か四条という華族の家に養子として引き取られることになる。
そして現在、灯里は四条家の養父である四条壮馬の指示により、皇雅館学習院という女学校の寮で生活していた。
世間的に見れば、孤児院を出て華族の娘として迎えられるなど、ありえないと言っていいほどの幸運だ。
皇都の女学校に通えることも、女子の就学率の低さからすれば、恵まれた環境といえるだろう。
しかし、灯里にとって四条の養子となってからの生活は、孤児院での貧しかった暮らしに比べても、決して幸せと呼べるものではなかった。
「あら嫌だわ。やけに土臭いと思ったら、どうしてこんなところに下女がいるのかしら?」
とある昼の休憩時、外の木陰で昼食を摂っていた灯里に、そんな声がかけられた。
顔を上げればそこには彼女の義姉である加奈子が、女中や女子生徒たちともに侮蔑の視線で灯里を見下ろしていた。
「姉さま」
灯里がそう呼ぶと、加奈子はギッと険しい顔に変わる。
「誰が姉さまよ。あなたのようなみすぼらしい妹なんて、私は持った覚えはないわ」
彼女は手に持った扇子をバチンと閉めて、いまいましげに吐き捨てた。
加奈子は四条家の実子であり、灯里と同じくこの皇雅館学習院に通っているが、灯里とは生活態様が大きく異なる。
彼女の登下校は、実家から自動車での送り迎え。制服も、自前の地味な袴姿の灯里とは対照的に、洋風のモダンなセーラー服を買い与えられている。
所属クラスも灯里が衆庶科という庶民の職業訓練のための学科に属しているのに対し、加奈子は上等科。こちらは良家の娘が嫁入り前に教養を身に着けるためのもので、学べる科目も多い。
また、灯里は加奈子と違って、卒業後も本家の屋敷に戻ることは許されず、学費は就職後の給料から差し引いて返済することになっている。
要するに、実子と養子で明確に差を付けられているのだが、それでも加奈子は灯里が義妹であることが面白くないらしく、ことあるごとに彼女に辛く当たっていた。
「さっさとここから消えなさい。私の視界に少しでも入ったら許さないと、前から言っているでしょう」
加奈子は灯里を見下ろして、怒りを込めた声で言った。
だが、それはあまりにも無茶が過ぎる要求だった。同じ学校で生活しているのだから、どうしたって顔を合わせることは避けられない。
灯里は「そんな」と抗議の声を上げる。
加奈子はその声すら聞きたくないと言わんばかりに、足もとの湯飲みを取り、中身を叩きつけるように振りまいた。
「うっ──」
パシャリと水音がして、灯里の顔が濡れる。
幸い湯飲みの中身は水であり、灯里がやけどをすることはなかった。
しかし、灯里の黒髪からは水滴がしたたり、着古した袴に染み込んでいく。
加奈子はそんな灯里を見て、「いい気味ね」とせせら笑った。
「私を不快にさせた罰よ。さぁ、早くここからいなくなりなさい。それとも今度は熱湯をかけられたいのかしら?」
加奈子はそう言って、背後の自分の女中に視線をやった。
女中はお茶の入ったやかんを持っており、注ぎ口からは湯気が立っている。
女中はまさかという表情で加奈子を見るが、おそらく加奈子は容赦しないだろう。それを悟った灯里は、急いで荷物を手ぬぐいにまとめ、立ち上がった。
「……失礼します」
灯里は一礼してその場を後にする。
加奈子は挨拶の返事の代わりに、ふんと大きな鼻息を吐いた。
「本当に腹が立つわ。孤児風情がこの学習院に紛れ込んでいるだけでも最悪なのに、四条の家名を名乗っているだなんて」
灯里の背中に当てつけの言葉がぶつけられる。
続けて加奈子は、気持ちを抑えられない様子で、「どうしてお父様はこの子を娘に迎え入れたのよ」と声を漏らした。
その疑問は、灯里も同じことを思っていた。
灯里は四条家と血のつながりはなく、父とも数えるほどしか顔を合わせたことがない。
それは引き取られる前でも同じで、そもそも灯里を養子にすると言われた時が、父・壮馬と初めて会った時であった。
ゆえに、何をもって自分を引き取ることを決めたのか、灯里にはまったくと言っていいほど心当たりがなかった。
孤児院出身のみなしごが妹であることが気に食わない──そんな加奈子の気持ちもわかるが、姉の心ない仕打ちは確実に灯里の心身をすり減らしていった。
四条の実家は夫人を早くに亡くしており、加奈子のわがままを諫める者がいない。
父である壮馬も、軍の極秘の仕事に関わっているとかで、ほとんど家に帰らず、加奈子への気遣いをすることはなかった。
そして、加奈子の八つ当たりは次第にエスカレートし、その空気は女学校の同級生たちにも伝播する。
華族の中でも上澄みとされる四条家の長女が、養子の次女を人目もはばからずいじめている。
その光景を目にして、短慮な者は加奈子に追従し、そうでない者もとばっちりを受けないよう、黙って距離を置く。
結局のところ、寮内においても灯里に手を差し伸べる者はおらず、彼女の慰みは図書館の本のみ。灯里の現在の境遇は、そのようにして出来上がっていったのだった。
「あら? 何かしら、これ……」
そんなある日のこと。
灯里は運良く借りられた小説の最新刊を読もうとして、手を止めた。
そこにあったのは一枚の栞。押し花が貼り付けられた薄い青色の紙片が、借りてきた本に挟まっていた。
「竜胆の花の、栞ね……」
押し花にされた竜胆は、台紙よりも青色が濃く、鮮やかだ。
シンプルに一輪の花が貼られているだけだが、その素朴さが逆に存在感を放っていた。
前に読んだ人が抜き忘れたのだろう。そう思って貸出しカードを確認するために表紙の裏側を開く。
開きながら「もしかして」という思いが脳裏をかすめるが、さすがにそこまでの偶然はないだろうと灯里は小さく首を振った。
しかし、カードに書かれた名前を目にした直後、彼女は思わず苦笑してしまう。
そこには件の謎の人物、「怜」の名前が書かれていた。
しかも、それ以外の利用者の記載はなく、この本を借りたのは、まだ「怜」だけらしい。
つまり、栞の持ち主もこの人ということになる。
「あらあら……」
どうしましょうとつぶやきつつ、灯里は色めき立った。
これでこの人に話しかける口実ができた。そう思ったからだ。
ずっと気になっていたのだ。自分とまったく同じ趣味の人が、どんな人物なのか。
栞の花柄からしておそらく女性に違いなく、話が合う自信があった。だから、いつか会って話をしてみたい、友達になってみたいと思っており、知り合うきっかけを灯里は探していたのだった。
(直接会えたら、きっと良い関係になれるはずだわ。だって、こんなに好きなものが同じなんだもの。この人とお友達になれたら、どんなに素敵なことかしら……!)
ただ、そう簡単には事は運ばない。
「いやぁ、本当にごめんね。この利用者さん、事情があって名前を外に出さないように頼まれてるんだよ」
栞を渡すという口実で「怜」の住所を聞き出そうとしたが、図書館の男性司書はそう言って灯里の頼みを却下した。
個人情報保護が問題となる世相ではない。単純にその人物の希望なのだという。
なんでも「怜」なる人物は司書と古くからの知り合いで、本名を書かずに図書を借りられるのも、この司書が特別に取り計らっているからとのことだった。
「事情というと……もしかして、やんごとなき身分の方……ですか?」
「やんごとなき……とは、違うかなあ……。ちょっと特殊ではあるんだけど」
そう言いつつ、本人の秘密に関わることらしく、彼はそれ以上言及しようとしない。
「その栞、僕からこの『怜』さんに返しておくよ。わざわざ届けてくれて、ありがとうね」
栞を受け取ろうと軽い調子で司書は手を差し出してくるが、わかりましたと応じるわけにはいかなかった。
ようやくこの人と知り合う機会が訪れたのだ。みすみす逃すわけにはいかない。
「あのっ……どうにかして連絡を取ることはできないでしょうか?」
これを逃したら、もう趣味の合う友達なんてずっとできないかもしれない。
灯里はこれまでのいきさつを打ち明け、「怜」と少しでも話をさせてほしいと頼み込んだ。
いきさつといっても、二人が毎回同じ順番で同じ本を借りたという偶然のみ。にわかには信じがたく、だから何だと却下されればそれまでの話である。
それでも灯里の熱意が伝わったのか、司書はしばらく考える様子を見せた後で、「怜」にコンタクトを取ることを受け合ってくれた。
「とりあえず連絡は取ってみるけど……でも、あまり期待しないようにね。少なくともこの『怜』さん、顔を合わせるのは望まないと思う。良くて文通くらいじゃないかなあ、受け入れてくれるのは」
「文通……わかりました。ありがとうございます!」
それでも灯里は構わなかった。
文通だろうと何だろうと、誰かとのつながりを持てるなら、それに勝る喜びはないのだ。
信頼できる家族や友人、そういった他者との結びつきを持てなかった灯里は、ずっとそれを求めていた。
女学校に通う前、孤児院時代でも心から打ち解けあった者はいなかった。だからこそ、このチャンスを逃すまいと、彼女は強い執着を見せる。
──そして、さらに二週間後。
男性司書の言った通り、「怜」からの返事は「文通ならばかまわない」とのことだった。
それを耳にした灯里は、弾けんばかりの笑顔になる。
「ありがとうございます! 嬉しいです……!」
たったそれだけのことで大仰に感謝する灯里を見て、司書は苦笑しつつも和やかな表情を見せた。
「それにしても、借りる本が二人ともまったく同じになるなんてね。どういう偶然かわからないけど、もしかしたら、何かの縁なのかもしれないね」
「仲良くなれるといいね」、そんな司書の言葉に、灯里は「はいっ!」と、うなずいたのだった。


