終電を逃して自宅に帰れなくなったという人は珍しくもないが、終電を逃して自宅に泊まることになったという奴は、恐らく私くらいのものだろう。
中学時代の担任の通夜に顔を出し、その流れで、久しぶりに会った地元の同級生たちと飲んだ後、まだ少し飲み足りなかった私は、一人で駅前の焼きとり屋に入った。たいして飲んだわけでもないのに、駅で上りの最終電車を待っていたら、不意に強烈な眠気が襲ってきた。立っていられない程の不自然な眠気に負け、ベンチに腰を降ろしたのが運の尽きで、すっかり眠りこけてしまったのだ。
私の自宅があるのは、都心までは1時間半程掛かる典型的なベッドタウンだ。自宅とはいえ、若手小説家として、都内のワンルームマンションに仕事場を構える私は、もう1年以上も自宅には帰っていなかった。かつて妻や両親と共に暮らし、大好きだった自宅は、今や空き家と化していた。
高校の同級生で、23歳で結婚した妻・明子との結婚生活は僅か3年で破綻した。離婚届に判を押して郵送してから既に1年が経つ。離婚の原因は全て自分にあった。明子は正に理想の妻だった。明子は、普通なら嫌がりそうな夫の両親との同居を快く受け入れてくれた。幼くして両親を亡くし、祖父母に育てられた明子は、まるで自分の両親に接するように、いや私以上に、私の両親に良く尽くしてくれた。
私の両親は、明子とは逆に娘を早くに失くしていた。私には妹がいたのだ。母は明子を、妹の生まれ変わりのように思っていたのだろう、実の娘のように明子を溺愛していた。嫁姑間の諍いなどは欠片もなかった。二人で買い物に出かけたりするのもしばしばで、父と私の男二人は、置き去りにされては近所の洋食屋で愚痴をこぼしていた。
しかし、絵に描いたような幸福な暮らしが脆くも崩れ去ったのは、結婚してわずか2年後のことだった。私の両親の乗った車が交通事故に合ったのだ。父は即死だった。母は運良く命は取り留めたものの、そのせいで、61歳の若さで認知症を発症してしまったのだ。
認知症の母との3人の暮らしは、辛いものだった。母の行動は、しばしば私の執筆活動の妨げになった。仕事に集中したいという気持ち、次第に壊れてゆく母を見ている辛さ、そして健気に母の介護をする明子を苦労から解放してやりたいという思いから、私は母を老人ホームに入れることを提案した。しかし、明子は断固としてその提案を拒否した。
「お母様の面倒は最後まで私が看ます」
そう言い切った明子の目には凛とした決意と共に、私への怒りが見てとれた。
今にして思えば、私は母にとっては冷たい息子で、明子にとっては理解の無い夫だったようだ。私は、明子と共に母と向き合うことから逃げて、都内に仕事場を構えてしまったのだ。その頃の私は、ちょうど小説家として売り出し中で、仕事に集中したくて仕方がなかったのだ。
最初の内は、朝、仕事場に出かけ、終電に乗ってでも毎日自宅に帰っていた。しかし、苦労して自宅に戻った末に、真夜中に母に起こされ、正気を失った母との対話に疲れ切ってしまうこともよくあった。
そうして私は、次第に自宅に戻らず、仕事場で夜を明かすことが増え始めた。そして、とうとう最後には、全く自宅には戻らなくなり、結果的に明子とは別居状態になってしまったのだ。
しかし、私の明子への愛は決して薄まった訳ではなかった。私はバーやスナックに出かけるわけでもなく、増して仕事場に女を連れ込むことなどなかった。別居生活に陥ってしまったのは、ただただ、仕事に集中したいという思いからだった。しかし、それは極めて愚かな行いだと気づかない程、その頃の私は自己中心的で、家族を疎かにしていたのだ。
駅員に起こされて駅を出ると、かつては何でもなかった駅前の景色が、なぜか妙に懐かしく思えた。私の自宅は駅から歩くと少し遠かったが、タクシー乗り場には、下りの最終に乗り遅れた人もいたのか、列ができていたので歩くことにした。
人気の無い真夜中の道を歩き出してしばらくすると、インドカレー屋が見えてきた。そこは、言わば私たち家族の最後の晩餐が行われた場所だった。明子と両親の四人で夕食を取った次の日に両親は事故に合ったのだ。
私は、次の日に起こる悲劇を知る由もなく、楽しく夕食を取り、「孫はいつ見られるの?」という母の決まり文句を明子と共に煙に巻いていた。二世帯住宅の自宅に、やがて三世代の家族が暮らす未来を誰一人疑っていなかった。しかし、私は今、そんな未来とは遠く離れた場所にいた。
明かりの落ちたインドカレー屋の店内を何気なくのぞき込んでいたら、スマホに着信があった。取り出してみると、知らない番号からのものだったので無視した。一度切れたものの、すぐにまた、同じ番号から着信があった。詐欺か間違い電話だろうと思い、私は無視を決め込んだ。しかし、因縁のインドカレー屋の前で鳴り続く着信音は、嫌でも私に約1年前のできごとを思い出させた。
約1年前の深夜、仕事場で締め切りに追われていた私のスマホに、明子から電話があった。仕事に集中したかった私はそれを無視した。にもかかわらず繰り返す着信音に嫌気が差した私は、とうとう電源を切ってしまった。
翌日、原稿を書き上げた私は、ようやく明子のスマホに電話を掛け、母の死から半日以上経ってから、ようやくその事実を知った。急いで自宅に戻った時には、葬儀の準備は全て明子が済ませていた。
葬儀が全て済み、夜も更けて、一階のダイニングキッチンで二人きりになった時、明子に話があると言われた。
「四十九日に納骨を済ませたら離婚届けを郵送してください」
生命保険の約款を読み上げるような口調でそう言われて、私は言葉を失った。しかし、私には反対する資格などなかった。明子がそれを望むのならそうするしかないと思った。私と同じ、当時26歳の明子には、他の誰かと人生をやり直すチャンスはいくらでも有った。自分が言うのもなんだが、明子はすごく奇麗だったし、今時、バツイチなど珍しくもない。子供がいなかったのは、むしろ好都合だ。再婚相手など掃いて捨てる程いそうな気がした。
「分かった」とだけ私は答えた。別れ話を切り出されるなどとは思ってもいなかったので、その晩は自宅に泊まるつもりだったが、上りの最終電車に乗って、私は仕事場に戻った。
ほぼ無言のまま四十九日に納骨を済ませた後、私は自宅宛てに離婚届を郵送した。一週間経っても、明子からは確認のメールすら無かったので、一応スマホに電話をしてみた。「お掛けになった番号は現在使われておりません」、という空々しい音声が返ってきただけだった。確認のメールよりも、遥かにはっきりした返答だと思った。
昔のことに気を取られていた私が、ふと我に返ると、着信音は消えていた。インドカレー屋の前をから歩き出し、国道を渡ると、今度はラーメン屋が見えてきた。ネギラーメンが旨い店で、なんと朝8時から開いている店だった。
「ねえ、朝8時にラーメン食べる人なんているの?」
結婚後まもなく、店の前で明子がそう言ったことを思いだした。
「長距離トラックの運転手さんたちに人気があってね。よく朝から大きなトラックが停まっているんだ」
私がそう答えると、明子は大きく頷いた。
「そうか、なるほどね」
「今度、一緒に食べに来ようよ」
「うん、そうしよう」
嬉しそうな明子をその店に連れて来たのは、その数日後だった。その頃はまだ、その店はそれほど混んではいなかったので、それからは結構頻繁に食べに行ったものだった。
しかし、その後、状況は変わった。
「こんなに暑いのに、日陰もない店先で、ラーメン一杯食べるために並ぶなんて信じられないわ」
ある夏の日に、明子はそう言ってあきれ返った。ネットでその店が有名になり、行列ができるようになってからは、私たちはその店に全く行かなくなってしまった。
少し前のことなのに、その店で明子と共にラーメンを食べたのが随分と遠い昔のことのような気がした。そして、同時に、その店で再び明子とラーメンを食べることはないのかと思ったら何だか寂しくなった。
歩き続けると、次は右手に24時間営業のスーパーが見えてきた。明子といつも買い物に行っていた店だ。寝る前に缶ビールの一つも飲もうかと思い、店に入ったのが失敗だった。レジに春香の姿があったのだ。春香がその店で働いていることを、私はうっかり忘れていた。とは言え、春香が深夜のシフトに入っていたのは不運としか言いようがなかった。
春香は自宅の隣に住む私の幼馴染で、なおかつ私と明子の高校の同級生でもあった。明子と春香は、高校時代は顔見知り程度だったが、明子が結婚して隣に住むようになってからは、親友のような関係になっていた。私と明子が買い物に来たのを見かけると、春香は勤務中にも関わらず、「相変わらず仲が良いのね」とからかってくるのが常だった。
しかし今、私に気づいた春香の顔は醜く歪んでいた。『勤務中でなければ噛み殺してやるのに』と言いたそうなつきそうな目をしていた。
母が亡くなる前、明子が、春香にどの程度私たち夫婦の内情を話していたかは分からない。しかし、隣に住んでいれば、私が母を明子に任せきりにして、家に寄り着いていないことは明白だった。
母の死を知って私が自宅に戻った時、憔悴しきった様子の明子に春香は寄り添っていた。春香は私に気づくと鬼のような形相で私の元に歩み寄って来た。そして、既に家に集まってきていた親戚や母の知人たちの前で、私に平手打ちをくらわした。
「何やってんのよ、あんた。明子が一体どういう思いで・・・」
言いかけて泣き出してしまった春香は、明子の元に駆け戻り明子を抱きしめた。
その時、私は、明子が母の死に責任を感じ、打ちひしがれていることさえ知らなかった。前の晩、夜中に目を覚ました母は、一人で二階に上がろうとして階段を踏み外した。後頭部を強打したことが母の死に繋がった。母の隣に寝ていたものの、母が起き出したことに気づかなかった自分自身を、明子は責めていた。しかし、私が、そういった事情を聞いたのは明子からではなく、親戚の者からだった。
葬儀が片付くまでの間、そんな明子にずっと寄り添っていたのは春香だった。本来ならそれは自分の役目だった。
レジに立つ春香を見た途端、踵を返して店を出るのはあまりにもあからさまだったので、私は予定通り缶ビールを一つ選んでレジに運んだ。
「ありがとうございます」
極めて事務的にそう言った春香の顔には、営業上の笑顔すら浮かんでいなかった。
私は逃げるように店を出た。後ろを見るのが怖かった。春香が依然として殺気立った目で私の背中を見つめているような気がしたからだ。
それから、駅からまっすぐに歩いてきた道を右に曲がった。そろそろ、私たち親子が、越して来てすぐに行きつけになったレストランの建物が見えてくるはずだと思った。しかし、それは見えてこなかった。「フライパン」があった場所は、ただの空き地になっていた。
「フライパン」はレストランを名乗ってはいたが、洋食屋と呼ぶべき店だった。テーブル席が4つにカウンター席が3つのこぢんまりとした造りだった。メニューにはハンバーグやエビフライから、スパゲティー、ピザ、カレー、生姜焼きまで揃っていた。しかし、チェーン店のファミレスとは違う手作りの料理はどれも旨かった。
日替わりランチも激安で、お昼時はいつも混んでいた。しかし、「フライパン」の良い所は、日常的な外食をするための「安くて旨い洋食屋」に留まらなかったところだ。「フライパン」は少々贅沢なステーキのメニューと、それに合うお手頃価格のワインも用意していた。
だから、町の人々は、何かお祝い事があると「フライパン」に足を運んだ。私と両親も例外ではなかった。私の入学、卒業、その他を、両親は「フライパン」で祝ってくれた。途中からそこに明子も加わった。小説の受賞、婚約や同居の開始、そういった機会に、私たち四人は「フライパン」でステーキを食べた。
そんな「フライパン」が閉店したのは、父が亡くなる少し前だった。もちろん業績が理由ではなかった。マスターのお母様が、介護が必要になり、ママさん共々故郷に帰ることになったからだった。閉店が近づくと別れを惜しむ人たちで店が溢れた。私たち四人が最後の客だった。永遠のラストオーダーになったシーフードグラタンを食べながら明子は泣いていた。
私たち家族の楽しい思い出ばかりが詰まった「フライパン」の建物は、閉店後もそこに残っていたのだが、今はその建物すら姿を消していた。ただの空き地になったその場所は、自分の心象風景そのもののような気がした。
「フライパン」のあった場所を通り過ぎ、少し行った所を左に曲がれば、すぐに自宅だった。そこまで来て、私は今日の自分の行動に疑問を持ち始めた。もしかしたら、自分は初めから自宅に来るつもりだったのではないかと思えてきたのだ。
亡くなった中学時代の担任には、そもそも、仕事を中断してわざわざ東京から通夜に駆け付けなければならない程の恩が有った訳ではなかった。かつての担任の通夜を、半ば無意識の内に、自宅のある町に帰る言い訳にしたに過ぎなかったのではないか。そんな疑問が私の心の中で渦を巻き始めていた。
そう思い始めると、最近書き上げた短編小説の内容も、今回のことと無縁ではないような気がしてきた。その小説は「怪談」で有名な小泉八雲の作品、「和解」をモチーフにしたものだった。
「和解」はこんな話だ。昔々、出世を夢見た男が妻を捨て京の都を去る。数年後、富を得た男は、妻を捨てたことを後悔し、都に戻ったら罪滅ぼしをしようと決心する。京の都に戻った男が、かつて妻と二人で暮らした家を訪ねると、男を待ち続けていた妻が優しく迎えてくれる。
男は、妻と添い寝をして語り合い、やがて眠りに就く。翌朝、廃屋で目覚めた男は愕然とする。男の隣には白骨と化した妻の亡骸が横たわっていたからだ。その後、男は近隣に住む人から、男のことを待ち続けていた妻が、何年も前に亡くなっていたことを聞かされる。
そんな「和解」をモチーフにして小説を書いたのは、明子が、まだ自宅で自分を待っていてくれるのではないかという無意識の願望に根差していたという可能性がちらついてきた。
いよいよ、自宅が近づいてきた時、私は、明子が自宅で自分を待っていてくれるかも知れないという期待、あるいは妄想を抱いていることを否定しきれなくなった。
そうしてついに、私は久しぶりに自宅の前に立った。私の自宅は父のこだわりの塊でもあった。まず、第一に、父は、坪単価が高いことで有名な菱友林業に施工を依頼していた。部屋を狭くしてまでも一階には縁側を設けていた。バスタブも標準より大きなものを入れていた。二階に続く階段の手摺も特注だった。何よりも、新築当時、私はまだ小学校に入ったばかりだったというのに、息子夫婦との同居を想定して、二階にもトイレとダイニングキッチンを設けていたのだ。
しかし、今、目の前の自宅には明かりがまるで点いていなかった。時刻を考えれば当たり前と言えば当たり前だったが、私は自分の妄想がポキンと折れるのを感じた。
玄関の鍵を開けて中に入ると、人の気配の無い無機質な空気感がそこに在った。かつて二組の夫婦と、親子の愛で満ちていた家は、今や空っぽの空間に成り下がっていた。
靴を脱ぎ、一階のダイニングキッチンに入った。奇麗に片付けられたそこには、生活の匂いがまるでなかった。食卓を囲む椅子の一つに腰を降ろし、ビールの栓を開けた。しかし、酒の味がしなかった。半分も飲まずに残りを捨てた。水気の欠片もない排水溝に流れてゆく液体を眺めている内に、下らない妄想に惹かれてここまでやってきた自分がひどく惨めに思えてきた。逃げ出したい気持ちになったが、こんな真夜中、田舎町には他に行く場所もなかった。
かつて家族四人で楽しく食卓を囲んでいたダイニングキッチンに、ただ一人取り残された私は、後悔の念に駆られた。家族生活には、苦しいこともあるのが当然だった。しかし、私はその苦しみから目を背けた。明子と共に、母と向き合おうとはしなかった。そうしていれば、母はともかく、明子は今も、ここにいるはずだった。更に言えば、この場所で別れ話を切り出された時、土下座して床に頭をこすりつけて詫びれば、明子は許してくれたかもしれないのだ。しかし、私はそれをしなかった。考えれば考える程、惨めな気分が増していった。寝てしまうしかないと思った。
二階に上がり、夫婦の寝室を開けた。隅々まで奇麗に片付いた部屋には、かつての生活の名残は欠片もなかった。奇麗好きで整理整頓が得意な明子の性格が、今は恨めしくもありがたくも思えた。
下着だけになってベッドに横になった。一人には有り余るダブルベッドのスペースが悲しかった。ぽっかりと空いた心の空白がそのままそこに在るような気がした。
目を閉じて眠ろうとした次の瞬間に、私はベッドの空いたスペースに重みが掛かるのを感じた。目を開き、隣を見ると、そこに明子が横たわっていた。
何も言わずに、私は明子を求めた。何も聞かずに明子はそれに応じた。私が、かつての自分の行いを詫びたのは、その後だった。
「もういいよ」と、明子は少し笑った。
それから私たちは、楽しかったことだけを選んで、過去のことを語り合った。
現在のことは、共に問わなかった。私は、それを問うてはいけないような気がした。明子も同じように感じていたようだった。
「明子、この家で、もう一度やり直そう」
そう伝えた後、私たちは未来のことを語り合った。話は膨らむ一方で、いつまでも途切れることが無かった。
とは言え、朝が近づいた頃には、さすがに眠くなってきた。しかし、『このまま眠りに落ちて、朝を迎えたら、明子は消えてしまうかもしれない』という思いから、私は眠気に抗った。しかし、駅で感じたのと同じ不可解な程の眠気に耐えきることができず、私は眠りに落ちてしまった。
朝、自宅のベッドで目を覚ました時、明子はそこにいなかった。恐れていたことが起こった訳だが、隣に白骨が横たわっていなかったことには僅かばかりだが安堵を覚えた。
同時に、私は、終電を逃した前の晩の出来事が、夢であったとは思っていなかった。夢だと思うには余りにも生々しい感覚が未だに残っていたし、記憶も鮮明だった。
そんな状況下でも、私は、自分に起きていることに、あれこれと思いを巡らすことは無かった。ただ単純に、明子に会いたいと思っていた。しかし、明子が、まだ生きていたとしても、スマホが通じない今、私には明子に連絡を取る術がなかった。思わず唇をかんだ時、家電の子機が鳴った。
受話器を取るなり、私は半ば叫んでいた。
「明子だろう!」
「うん。和弘さん、私ね、今、夢を見ていたの」
「いや、明子、それは夢じゃない。夢じゃないよ。その証拠に、もう一度言うよ。この家に帰ってきてくれ。もう一度やり直そう」
明子の反応を待つほんの一瞬の間が、永遠のように長く感じられた。
「うん、分かった。ねえ、晩御飯は何が食べたい?」
余りにも日常的な問いが妙に嬉しくて、私はすぐに答えることができなかった。家電の子機の受話器を握りしめたまま、私は思っていた。父の夢とこだわりに満ち、かつては家族の幸福があったこの家が、もしかしたら私たち二人を、昨夜ここに呼び寄せたのかもしれないと。
終わり
あとがき
本作で言及のある「和解」をモチーフにした短編小説とは、筆者の過去作、「ある夜、とある部屋で始まった物語は、意外な展開で朝を迎える」をイメージしたものです。合わせてお読みいただけると幸いです。
中学時代の担任の通夜に顔を出し、その流れで、久しぶりに会った地元の同級生たちと飲んだ後、まだ少し飲み足りなかった私は、一人で駅前の焼きとり屋に入った。たいして飲んだわけでもないのに、駅で上りの最終電車を待っていたら、不意に強烈な眠気が襲ってきた。立っていられない程の不自然な眠気に負け、ベンチに腰を降ろしたのが運の尽きで、すっかり眠りこけてしまったのだ。
私の自宅があるのは、都心までは1時間半程掛かる典型的なベッドタウンだ。自宅とはいえ、若手小説家として、都内のワンルームマンションに仕事場を構える私は、もう1年以上も自宅には帰っていなかった。かつて妻や両親と共に暮らし、大好きだった自宅は、今や空き家と化していた。
高校の同級生で、23歳で結婚した妻・明子との結婚生活は僅か3年で破綻した。離婚届に判を押して郵送してから既に1年が経つ。離婚の原因は全て自分にあった。明子は正に理想の妻だった。明子は、普通なら嫌がりそうな夫の両親との同居を快く受け入れてくれた。幼くして両親を亡くし、祖父母に育てられた明子は、まるで自分の両親に接するように、いや私以上に、私の両親に良く尽くしてくれた。
私の両親は、明子とは逆に娘を早くに失くしていた。私には妹がいたのだ。母は明子を、妹の生まれ変わりのように思っていたのだろう、実の娘のように明子を溺愛していた。嫁姑間の諍いなどは欠片もなかった。二人で買い物に出かけたりするのもしばしばで、父と私の男二人は、置き去りにされては近所の洋食屋で愚痴をこぼしていた。
しかし、絵に描いたような幸福な暮らしが脆くも崩れ去ったのは、結婚してわずか2年後のことだった。私の両親の乗った車が交通事故に合ったのだ。父は即死だった。母は運良く命は取り留めたものの、そのせいで、61歳の若さで認知症を発症してしまったのだ。
認知症の母との3人の暮らしは、辛いものだった。母の行動は、しばしば私の執筆活動の妨げになった。仕事に集中したいという気持ち、次第に壊れてゆく母を見ている辛さ、そして健気に母の介護をする明子を苦労から解放してやりたいという思いから、私は母を老人ホームに入れることを提案した。しかし、明子は断固としてその提案を拒否した。
「お母様の面倒は最後まで私が看ます」
そう言い切った明子の目には凛とした決意と共に、私への怒りが見てとれた。
今にして思えば、私は母にとっては冷たい息子で、明子にとっては理解の無い夫だったようだ。私は、明子と共に母と向き合うことから逃げて、都内に仕事場を構えてしまったのだ。その頃の私は、ちょうど小説家として売り出し中で、仕事に集中したくて仕方がなかったのだ。
最初の内は、朝、仕事場に出かけ、終電に乗ってでも毎日自宅に帰っていた。しかし、苦労して自宅に戻った末に、真夜中に母に起こされ、正気を失った母との対話に疲れ切ってしまうこともよくあった。
そうして私は、次第に自宅に戻らず、仕事場で夜を明かすことが増え始めた。そして、とうとう最後には、全く自宅には戻らなくなり、結果的に明子とは別居状態になってしまったのだ。
しかし、私の明子への愛は決して薄まった訳ではなかった。私はバーやスナックに出かけるわけでもなく、増して仕事場に女を連れ込むことなどなかった。別居生活に陥ってしまったのは、ただただ、仕事に集中したいという思いからだった。しかし、それは極めて愚かな行いだと気づかない程、その頃の私は自己中心的で、家族を疎かにしていたのだ。
駅員に起こされて駅を出ると、かつては何でもなかった駅前の景色が、なぜか妙に懐かしく思えた。私の自宅は駅から歩くと少し遠かったが、タクシー乗り場には、下りの最終に乗り遅れた人もいたのか、列ができていたので歩くことにした。
人気の無い真夜中の道を歩き出してしばらくすると、インドカレー屋が見えてきた。そこは、言わば私たち家族の最後の晩餐が行われた場所だった。明子と両親の四人で夕食を取った次の日に両親は事故に合ったのだ。
私は、次の日に起こる悲劇を知る由もなく、楽しく夕食を取り、「孫はいつ見られるの?」という母の決まり文句を明子と共に煙に巻いていた。二世帯住宅の自宅に、やがて三世代の家族が暮らす未来を誰一人疑っていなかった。しかし、私は今、そんな未来とは遠く離れた場所にいた。
明かりの落ちたインドカレー屋の店内を何気なくのぞき込んでいたら、スマホに着信があった。取り出してみると、知らない番号からのものだったので無視した。一度切れたものの、すぐにまた、同じ番号から着信があった。詐欺か間違い電話だろうと思い、私は無視を決め込んだ。しかし、因縁のインドカレー屋の前で鳴り続く着信音は、嫌でも私に約1年前のできごとを思い出させた。
約1年前の深夜、仕事場で締め切りに追われていた私のスマホに、明子から電話があった。仕事に集中したかった私はそれを無視した。にもかかわらず繰り返す着信音に嫌気が差した私は、とうとう電源を切ってしまった。
翌日、原稿を書き上げた私は、ようやく明子のスマホに電話を掛け、母の死から半日以上経ってから、ようやくその事実を知った。急いで自宅に戻った時には、葬儀の準備は全て明子が済ませていた。
葬儀が全て済み、夜も更けて、一階のダイニングキッチンで二人きりになった時、明子に話があると言われた。
「四十九日に納骨を済ませたら離婚届けを郵送してください」
生命保険の約款を読み上げるような口調でそう言われて、私は言葉を失った。しかし、私には反対する資格などなかった。明子がそれを望むのならそうするしかないと思った。私と同じ、当時26歳の明子には、他の誰かと人生をやり直すチャンスはいくらでも有った。自分が言うのもなんだが、明子はすごく奇麗だったし、今時、バツイチなど珍しくもない。子供がいなかったのは、むしろ好都合だ。再婚相手など掃いて捨てる程いそうな気がした。
「分かった」とだけ私は答えた。別れ話を切り出されるなどとは思ってもいなかったので、その晩は自宅に泊まるつもりだったが、上りの最終電車に乗って、私は仕事場に戻った。
ほぼ無言のまま四十九日に納骨を済ませた後、私は自宅宛てに離婚届を郵送した。一週間経っても、明子からは確認のメールすら無かったので、一応スマホに電話をしてみた。「お掛けになった番号は現在使われておりません」、という空々しい音声が返ってきただけだった。確認のメールよりも、遥かにはっきりした返答だと思った。
昔のことに気を取られていた私が、ふと我に返ると、着信音は消えていた。インドカレー屋の前をから歩き出し、国道を渡ると、今度はラーメン屋が見えてきた。ネギラーメンが旨い店で、なんと朝8時から開いている店だった。
「ねえ、朝8時にラーメン食べる人なんているの?」
結婚後まもなく、店の前で明子がそう言ったことを思いだした。
「長距離トラックの運転手さんたちに人気があってね。よく朝から大きなトラックが停まっているんだ」
私がそう答えると、明子は大きく頷いた。
「そうか、なるほどね」
「今度、一緒に食べに来ようよ」
「うん、そうしよう」
嬉しそうな明子をその店に連れて来たのは、その数日後だった。その頃はまだ、その店はそれほど混んではいなかったので、それからは結構頻繁に食べに行ったものだった。
しかし、その後、状況は変わった。
「こんなに暑いのに、日陰もない店先で、ラーメン一杯食べるために並ぶなんて信じられないわ」
ある夏の日に、明子はそう言ってあきれ返った。ネットでその店が有名になり、行列ができるようになってからは、私たちはその店に全く行かなくなってしまった。
少し前のことなのに、その店で明子と共にラーメンを食べたのが随分と遠い昔のことのような気がした。そして、同時に、その店で再び明子とラーメンを食べることはないのかと思ったら何だか寂しくなった。
歩き続けると、次は右手に24時間営業のスーパーが見えてきた。明子といつも買い物に行っていた店だ。寝る前に缶ビールの一つも飲もうかと思い、店に入ったのが失敗だった。レジに春香の姿があったのだ。春香がその店で働いていることを、私はうっかり忘れていた。とは言え、春香が深夜のシフトに入っていたのは不運としか言いようがなかった。
春香は自宅の隣に住む私の幼馴染で、なおかつ私と明子の高校の同級生でもあった。明子と春香は、高校時代は顔見知り程度だったが、明子が結婚して隣に住むようになってからは、親友のような関係になっていた。私と明子が買い物に来たのを見かけると、春香は勤務中にも関わらず、「相変わらず仲が良いのね」とからかってくるのが常だった。
しかし今、私に気づいた春香の顔は醜く歪んでいた。『勤務中でなければ噛み殺してやるのに』と言いたそうなつきそうな目をしていた。
母が亡くなる前、明子が、春香にどの程度私たち夫婦の内情を話していたかは分からない。しかし、隣に住んでいれば、私が母を明子に任せきりにして、家に寄り着いていないことは明白だった。
母の死を知って私が自宅に戻った時、憔悴しきった様子の明子に春香は寄り添っていた。春香は私に気づくと鬼のような形相で私の元に歩み寄って来た。そして、既に家に集まってきていた親戚や母の知人たちの前で、私に平手打ちをくらわした。
「何やってんのよ、あんた。明子が一体どういう思いで・・・」
言いかけて泣き出してしまった春香は、明子の元に駆け戻り明子を抱きしめた。
その時、私は、明子が母の死に責任を感じ、打ちひしがれていることさえ知らなかった。前の晩、夜中に目を覚ました母は、一人で二階に上がろうとして階段を踏み外した。後頭部を強打したことが母の死に繋がった。母の隣に寝ていたものの、母が起き出したことに気づかなかった自分自身を、明子は責めていた。しかし、私が、そういった事情を聞いたのは明子からではなく、親戚の者からだった。
葬儀が片付くまでの間、そんな明子にずっと寄り添っていたのは春香だった。本来ならそれは自分の役目だった。
レジに立つ春香を見た途端、踵を返して店を出るのはあまりにもあからさまだったので、私は予定通り缶ビールを一つ選んでレジに運んだ。
「ありがとうございます」
極めて事務的にそう言った春香の顔には、営業上の笑顔すら浮かんでいなかった。
私は逃げるように店を出た。後ろを見るのが怖かった。春香が依然として殺気立った目で私の背中を見つめているような気がしたからだ。
それから、駅からまっすぐに歩いてきた道を右に曲がった。そろそろ、私たち親子が、越して来てすぐに行きつけになったレストランの建物が見えてくるはずだと思った。しかし、それは見えてこなかった。「フライパン」があった場所は、ただの空き地になっていた。
「フライパン」はレストランを名乗ってはいたが、洋食屋と呼ぶべき店だった。テーブル席が4つにカウンター席が3つのこぢんまりとした造りだった。メニューにはハンバーグやエビフライから、スパゲティー、ピザ、カレー、生姜焼きまで揃っていた。しかし、チェーン店のファミレスとは違う手作りの料理はどれも旨かった。
日替わりランチも激安で、お昼時はいつも混んでいた。しかし、「フライパン」の良い所は、日常的な外食をするための「安くて旨い洋食屋」に留まらなかったところだ。「フライパン」は少々贅沢なステーキのメニューと、それに合うお手頃価格のワインも用意していた。
だから、町の人々は、何かお祝い事があると「フライパン」に足を運んだ。私と両親も例外ではなかった。私の入学、卒業、その他を、両親は「フライパン」で祝ってくれた。途中からそこに明子も加わった。小説の受賞、婚約や同居の開始、そういった機会に、私たち四人は「フライパン」でステーキを食べた。
そんな「フライパン」が閉店したのは、父が亡くなる少し前だった。もちろん業績が理由ではなかった。マスターのお母様が、介護が必要になり、ママさん共々故郷に帰ることになったからだった。閉店が近づくと別れを惜しむ人たちで店が溢れた。私たち四人が最後の客だった。永遠のラストオーダーになったシーフードグラタンを食べながら明子は泣いていた。
私たち家族の楽しい思い出ばかりが詰まった「フライパン」の建物は、閉店後もそこに残っていたのだが、今はその建物すら姿を消していた。ただの空き地になったその場所は、自分の心象風景そのもののような気がした。
「フライパン」のあった場所を通り過ぎ、少し行った所を左に曲がれば、すぐに自宅だった。そこまで来て、私は今日の自分の行動に疑問を持ち始めた。もしかしたら、自分は初めから自宅に来るつもりだったのではないかと思えてきたのだ。
亡くなった中学時代の担任には、そもそも、仕事を中断してわざわざ東京から通夜に駆け付けなければならない程の恩が有った訳ではなかった。かつての担任の通夜を、半ば無意識の内に、自宅のある町に帰る言い訳にしたに過ぎなかったのではないか。そんな疑問が私の心の中で渦を巻き始めていた。
そう思い始めると、最近書き上げた短編小説の内容も、今回のことと無縁ではないような気がしてきた。その小説は「怪談」で有名な小泉八雲の作品、「和解」をモチーフにしたものだった。
「和解」はこんな話だ。昔々、出世を夢見た男が妻を捨て京の都を去る。数年後、富を得た男は、妻を捨てたことを後悔し、都に戻ったら罪滅ぼしをしようと決心する。京の都に戻った男が、かつて妻と二人で暮らした家を訪ねると、男を待ち続けていた妻が優しく迎えてくれる。
男は、妻と添い寝をして語り合い、やがて眠りに就く。翌朝、廃屋で目覚めた男は愕然とする。男の隣には白骨と化した妻の亡骸が横たわっていたからだ。その後、男は近隣に住む人から、男のことを待ち続けていた妻が、何年も前に亡くなっていたことを聞かされる。
そんな「和解」をモチーフにして小説を書いたのは、明子が、まだ自宅で自分を待っていてくれるのではないかという無意識の願望に根差していたという可能性がちらついてきた。
いよいよ、自宅が近づいてきた時、私は、明子が自宅で自分を待っていてくれるかも知れないという期待、あるいは妄想を抱いていることを否定しきれなくなった。
そうしてついに、私は久しぶりに自宅の前に立った。私の自宅は父のこだわりの塊でもあった。まず、第一に、父は、坪単価が高いことで有名な菱友林業に施工を依頼していた。部屋を狭くしてまでも一階には縁側を設けていた。バスタブも標準より大きなものを入れていた。二階に続く階段の手摺も特注だった。何よりも、新築当時、私はまだ小学校に入ったばかりだったというのに、息子夫婦との同居を想定して、二階にもトイレとダイニングキッチンを設けていたのだ。
しかし、今、目の前の自宅には明かりがまるで点いていなかった。時刻を考えれば当たり前と言えば当たり前だったが、私は自分の妄想がポキンと折れるのを感じた。
玄関の鍵を開けて中に入ると、人の気配の無い無機質な空気感がそこに在った。かつて二組の夫婦と、親子の愛で満ちていた家は、今や空っぽの空間に成り下がっていた。
靴を脱ぎ、一階のダイニングキッチンに入った。奇麗に片付けられたそこには、生活の匂いがまるでなかった。食卓を囲む椅子の一つに腰を降ろし、ビールの栓を開けた。しかし、酒の味がしなかった。半分も飲まずに残りを捨てた。水気の欠片もない排水溝に流れてゆく液体を眺めている内に、下らない妄想に惹かれてここまでやってきた自分がひどく惨めに思えてきた。逃げ出したい気持ちになったが、こんな真夜中、田舎町には他に行く場所もなかった。
かつて家族四人で楽しく食卓を囲んでいたダイニングキッチンに、ただ一人取り残された私は、後悔の念に駆られた。家族生活には、苦しいこともあるのが当然だった。しかし、私はその苦しみから目を背けた。明子と共に、母と向き合おうとはしなかった。そうしていれば、母はともかく、明子は今も、ここにいるはずだった。更に言えば、この場所で別れ話を切り出された時、土下座して床に頭をこすりつけて詫びれば、明子は許してくれたかもしれないのだ。しかし、私はそれをしなかった。考えれば考える程、惨めな気分が増していった。寝てしまうしかないと思った。
二階に上がり、夫婦の寝室を開けた。隅々まで奇麗に片付いた部屋には、かつての生活の名残は欠片もなかった。奇麗好きで整理整頓が得意な明子の性格が、今は恨めしくもありがたくも思えた。
下着だけになってベッドに横になった。一人には有り余るダブルベッドのスペースが悲しかった。ぽっかりと空いた心の空白がそのままそこに在るような気がした。
目を閉じて眠ろうとした次の瞬間に、私はベッドの空いたスペースに重みが掛かるのを感じた。目を開き、隣を見ると、そこに明子が横たわっていた。
何も言わずに、私は明子を求めた。何も聞かずに明子はそれに応じた。私が、かつての自分の行いを詫びたのは、その後だった。
「もういいよ」と、明子は少し笑った。
それから私たちは、楽しかったことだけを選んで、過去のことを語り合った。
現在のことは、共に問わなかった。私は、それを問うてはいけないような気がした。明子も同じように感じていたようだった。
「明子、この家で、もう一度やり直そう」
そう伝えた後、私たちは未来のことを語り合った。話は膨らむ一方で、いつまでも途切れることが無かった。
とは言え、朝が近づいた頃には、さすがに眠くなってきた。しかし、『このまま眠りに落ちて、朝を迎えたら、明子は消えてしまうかもしれない』という思いから、私は眠気に抗った。しかし、駅で感じたのと同じ不可解な程の眠気に耐えきることができず、私は眠りに落ちてしまった。
朝、自宅のベッドで目を覚ました時、明子はそこにいなかった。恐れていたことが起こった訳だが、隣に白骨が横たわっていなかったことには僅かばかりだが安堵を覚えた。
同時に、私は、終電を逃した前の晩の出来事が、夢であったとは思っていなかった。夢だと思うには余りにも生々しい感覚が未だに残っていたし、記憶も鮮明だった。
そんな状況下でも、私は、自分に起きていることに、あれこれと思いを巡らすことは無かった。ただ単純に、明子に会いたいと思っていた。しかし、明子が、まだ生きていたとしても、スマホが通じない今、私には明子に連絡を取る術がなかった。思わず唇をかんだ時、家電の子機が鳴った。
受話器を取るなり、私は半ば叫んでいた。
「明子だろう!」
「うん。和弘さん、私ね、今、夢を見ていたの」
「いや、明子、それは夢じゃない。夢じゃないよ。その証拠に、もう一度言うよ。この家に帰ってきてくれ。もう一度やり直そう」
明子の反応を待つほんの一瞬の間が、永遠のように長く感じられた。
「うん、分かった。ねえ、晩御飯は何が食べたい?」
余りにも日常的な問いが妙に嬉しくて、私はすぐに答えることができなかった。家電の子機の受話器を握りしめたまま、私は思っていた。父の夢とこだわりに満ち、かつては家族の幸福があったこの家が、もしかしたら私たち二人を、昨夜ここに呼び寄せたのかもしれないと。
終わり
あとがき
本作で言及のある「和解」をモチーフにした短編小説とは、筆者の過去作、「ある夜、とある部屋で始まった物語は、意外な展開で朝を迎える」をイメージしたものです。合わせてお読みいただけると幸いです。



