自分なりに全速力で走ったけれど、間に合うはずもなかった。
乙部星那は学生の頃から体育の成績は常に2の、完全なる文系女子だった。
嘔吐くほどの息切れを起こしながら、駅の手前で最終電車を見送った。
「かえれない……」
半泣きでその場にへたり込む。
さっき食べたばかりのオムライスを全て戻してしまいそうになり、必死に耐えた。
折角、楽しい時間を過ごしたのに、一日の締め括りにこの状況とは実に自分らしいと頭の中で自嘲する。
思い返してみれば、今週の星那は普段に増してついていなかった。上司からの八つ当たりも酷いし、同僚から仕事を押し付けられる量も半端ない。人数合わせのためだけに駆り出された合コンだって、本当は全部、全部、断りたかった。でもそんなの出来るはずもなく、愚痴を聞いてくれる人もいなくて、週末の一人の夜、いつもと違うことをしてみたくなって初めての駅で降りたのだった。
目標は叶わなかったものの、新しい出会いがあり完全に浮かれていた。
その結果、金曜日の深夜に最終電車を逃し、不運のトドメを打たれた結果となったのだ。
「とりあえず、ホテル探さなきゃ」
ここからマンションまで歩いて帰れる距離ではない。タクシーもこんな時間になると待機もしていないし、近くにホテルらしい建物も見当たらない。寝る場所を確保しなくてはならない。星那は半べそをかきながらカバンに手を突っ込んだ。けれど、それらしい物に触れられない。
「え……」嫌な予感がして中を覗き込む。
「ない……。さっきのカフェに置いてきちゃったんだ」
暗闇の中で顔が青ざめていく。
夏なのにひんやりとした汗が背中を伝う。
星那は焦った。
人生で今が一番焦っている。
それは昨日、突然連れて行かれた合コンよりも焦っていた。この状況に比べれば、合コンなんて生ぬるいものだった。皆が盛り上げようと必死で喋り、繰り返し乾杯をし、グラスをぶつけ合う音が響く。星那はだんだん頭が痛くなり、脳内では現実逃避をして完全に心ここにあらずだった。空気が読めない奴だと思われただろうか。そんなのは自惚れだ。自分なんて空気みたいな存在だし、抜け出して帰ったところで誰も気付きもしない。テーブルの隅でひっそりと座っている星那に気遣う人など一人もいない。誰にも気付かれないほど存在感が薄いのも、こんな時には役に立つのかなんて呑気に考えていたが、やはり存在感は必要だ。
今、この世界に星那の存在に気付いている人など、誰一人としていないのだから。
存在しない人に助け舟が出されるはずもなく、星那は成す術を失った。
「どうしよう。取りに戻らなくちゃ。でも店も飛び出してきちゃったし、カフェに戻るのも迷惑だよね」
座り込んだまま呟く。
カフェに置いてきたと思い込んでいるだけで、本当は走っている時に落としたのかもしれない。どちらにせよ、スマホを探すためには今すぐ立ち上がって戻らなくてはならない。
「もう、動けないよ……」訴えるように嘆く。
このまま大の字に寝転んで眠ってしまいたいくらい疲れていた。
マンションが遠いのを想像しただけで愕然としてしまう。やっぱりいつもと違うことなんてしなければ良かった……。そんな風に考えて、そうは思いたくないとかぶりを振る。
だってあの人との出会いまで否定したくないと思ったから。
♦︎
星那が大学を卒業して『社会人』になる自分に希望を抱き、今のマンションに入居を決めた理由は近くに緑豊かな公園があるからだった。休日には散歩がてら公園で朝食を……なんて淡い期待を抱いていた。
けれどもいざ働き始めれば、そんな余裕は一切ない。しかも電車通勤で片道四十分もかかる。
これが現実。後悔しても遅い。
唯一の癒しは車窓から見える観覧車だった。それほど大きなものではないが、レトロな色合いがどこか懐かしくて可愛い。でも出勤時は開演時間前で止まっているし、帰宅時にはもちろん閉園後で止まっている。
入社してからこの二年で、観覧車が動いているのを星那は見たことがない。
思い起こしてみれば、動いている観覧車を見たのは子供の頃だけかもしれない。
「動いてるところ、見てみたいな」
流れていく景色をぼんやりと眺めながら、そんなことを呟いた。
チャンスが訪れたのはその日の終業時だった。
奇跡的に残業がなかったのだ。こんな日は滅多にない。しかも同僚は昨日合コンに行ったばかりで、流石に二日連続で飲みに行くこともない。更には週末で、みんなそれぞれの予定を邪魔されたくないと言わんばかりにそそくさと退社していった。
「お疲れ様です」声をかけてもどの人もみな「話しかけるな」と視線で訴え足早に去っていく。
きっと星那は残業だと思っているのだろう。巻き込まれるのを恐れて聞こえないふりをしているようだ。
ポツンと一人残されるまで、そう時間はかからなかった。
呆然と社員の背中を見送りながら、ふと、あの観覧車を思い出した。
「行ってみようかな。あの遊園地」
優柔不断で保守的な星那にとって、知らない駅で降りるのは最早冒険だと言える。
それでも行動に出たのは、ずっと自分を変えたいと思っていたから。もしも今日、動く観覧車を間近で見られたら、何かが動き出しそうな気がしたのかもしれない。
急いで自分のデスクを片付けると、星那も他の人を追って会社を後にした。
外は十九時でもまだ暑い。
今日も深夜コースだと身構えて日傘など持っていなかった。
ジリジリと西陽に灼かれながら駅へと向かう。ブラウスの下で汗ばんで、キャミソールが肌に張り付いている。なのに気分は澄み切っていて体が軽い。新しい自分への期待に胸が膨らみ、口許が緩む。
電車が混んでいるのも新鮮だ。大抵の人にとっては鬱陶しい日常の何もかもが、今の星那のとっては目新しいものに映っていた。
遊園地のある駅で降りる頃には空は薄暗くなっていて、風の温度も下がっていた。
「多分、あっち……だよね」
駅は新しくて綺麗だけれど、少し歩くと閑静な住宅街になり、もう少し進むと商店街に店が立ち並ぶ。そこそこ賑わっていて、商店街を抜けると飲み屋街に繋がっているらしく、サラリーマンたちは吸い込まれるように同じ方向へと向かっていた。しかし星那はサラリーマンとは反対の方角へと足を進める。
誰かに道を聞けばいいのだが、知らない人に話しかけるのはハードルが高い。
電車から見る限り、そう遠くはない印象を受けていた。実際歩いてみるとその考えは短絡的だったと少し反省した。せめて地図アプリでおおよその場所を確認しておくべきだった。
ようやくスマホを取り出し、数十分歩いた末、何とか遊園地に辿り着いた星那は呆然と立ち尽くした。
「臨時休園」
太いチェーンが張られ、そこに無機質な四文字が記されたプレートが吊り下げられていた。
「嘘、せっかく来たのに……」
場所を探すのに必死になって、そういえば遊園地らしい音楽はどこからも聞こえてこなかったのを思い出した。普段運動をしない星那の足はパンパンに浮腫んでいる。お腹も空いてきた。
スマホの画面で時間を確認すれば、二十時近くになっている。
どこかで休憩してから帰りたい。でも知らない街に降りてしまい、どこに何があるのかさえ知らなかった。
とりあえず駅の方へ戻ろうと、とぼとぼと歩き始める。
異常に喉が渇いていた。こんな時に自販機もコンビニも見つけられず、周りを見渡しながら歩いていると、ふと路地の奥にカフェを見つけた。
窓から柔らかいオレンジの灯りが漏れている。あの店なら、くつろげそうだ。
早く座りたい一心でカフェへと歩み寄る。
こじんまりとしたカフェの外には木製の看板が立て掛けられ、メニューの下に営業時間が記されていた。
「十八時から、深夜一時まで。そんなに遅くまでやってるんだ」
居酒屋帰りのサラリーマンも寄るのだろうか。そんな遅い時間への需要を想像できないまま入店した。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた少し低い声の男性店員が微笑み出迎えてくれた。
緩いパーマの髪を片方だけを耳に掛け、見上げるほど高い身長に、爽やかな淡いブルーのリネンシャツが良く似合う。
「あ、はい……」
思わず心臓が跳ねた。男の人を見て、綺麗だと感じたのは初めてだった。
そう広くはない店内を見渡すと、再び男性店員が「よければカウンターにどうぞ」と声をかけてくれた。
真正面は緊張すると思いながらも断れない。
ぺこりとお辞儀をしてカウンター席の真ん中に腰を下ろした。
エアコンがひんやりとした風を運んでくれる。ハンカチで額の汗を拭いながら、やっと座れて足の裏がじんと痺れているのを感じる。
冷たい水を出してくれたそれを、少しずつ口をつけようと思っていたのに一気に飲み干してしまった。
「良い飲みっぷりだね」
朗らかに笑われてしまう。
「すみません。喉が渇いてて。近くの遊園地に寄ってみたんですけど、今日は臨時休園でした」
「あぁ、そういえば遊具の点検が大掛かりになるって聞いたかも。でも、どちらにせよ、こんな時間までは開いてないよ」
「そうなんですか?」
「有名な遊園地じゃないし。利用者も殆どが地元民だけだからね。夕方七時には閉まってるんじゃないかな」
「早いんですね」
その時間には流石に仕事は終わらないと頭の中でガッカリした。暗くなってから、ライトに照らされた遊園地も素敵だろうと思いを馳せていたけれど、夢は叶いそうにないと落胆する。
どうやら男性店員一人で営業しているらしいこのカフェは、ご飯目当てよりも、のんびり過ごしたい人が集まるようだった。そのためか、後からくる客はおひとり様の方が多い。
(それとも、店員さん目当てだったりして)
メニュー表の上からチラリと覗き見る。
男性と話すのは苦手な星那なのに、この人は大丈夫だと不思議に思った。喋り方だろうか、それでも面と向かって顔を見られても不快に感じない。
そこまで考えて、あぁそうかと思い当たった。
星那を品定めしていないからだと気付く。合コンでは点数をつけているという視線を隠しもしない男性ばかりで苦手なのだと、ようやく苦手な理由を分析できた。どの男性も外見で点数をつけて『この女は除外だな』と判断された上、苦笑いの表情で視線を次の人へと移すのだ。
この店員は、そんな目で星那を見ない。恋愛対象じゃないから。
それは少しホッとして、少し寂しくもあった。誰の目から見ても自分には恋愛という意味での魅力は感じないのだろうと突き付けられた気持ちになる。
(こんなカッコいい人が私をそんな目で見るわけないけどね)
自嘲して、ワンプレートのオムライスセットを注文した。
「そういえば、何故一人で遊園地に行こうとしてたの?」
その人は話を続けた。
「え、あ、あの、毎日、あの観覧車を電車の中から見てるんです。でも朝も夜も開園時間じゃなくて、回ってるのを見てみたいって思ってたんです」
「へぇ、なるほど。朝、早いんだね」
「満員電車が苦手なので早くに行ってるだけなんですよ。仕事は嫌だけど、この駅の前を通る瞬間だけは好きだなって思ってました」
「じゃあここに来たのは初めて?」
「はい。それで少し迷って歩き疲れて、偶然見つけたこのカフェで休んでいこうと……」
「それは俺にとってもラッキーだね。お陰でお店を知ってもらえた」
「このまま帰らなくて良かったです。新しいカフェを発見できるなんて私もラッキーでした」
心地良いと感じる。本当に、ここに入って正解だったと思うと自然と顔が綻んだ。
この人はやはりこのカフェのオーナーなのだと教えてくれた。祖父の代で喫茶店だったのを改装してカフェにしたのだそうだ。昼間は個人のギャラリーとして貸し出したり、ワークショップを開催したりもしているのだと言った。
名前を知りたいと思ったけれど、初めて来た客が烏滸がましい。それこそ、この人目当てだと思われたくない。けれど、これだけ会話のラリーが続いているのに名前を呼べないのは何となく寂しい。ふわふわ卵のオムライスに舌鼓を打ちながら、そんなことを考えていた。
オーナーは接客をこなしながらも星那との会話を止めようとはしなかった。見た目に反してお喋りが好きなのか、初めて来た客をリピーターにしようと頑張っているのか。星那にとってはどちらでも嬉しい。こんなに話を振られると、いつもなら逃げ出したい衝動に駆られるのに、いつまでも喋っていたい気持ちになっている。
食べ終われば帰らなくてはならないのに、帰りたくない。もっとここにいたい。
どんな言い訳があれば長居できるのか、いつの間にか頭の中ではそのことばかり考えている。
他の客は頃合いを見て一人ずつ帰っていった。
常連客ばかりなのか、どの人とも気さくに会話を交わしながら見送っていく。とうとう星那以外の客が全員帰ってしまい、いよいよ次は星那が帰る番になってしまった。
「私も、そろそろ帰ります」立ち上がるのと同時に奥から一人の女の子が顔を出した。
「いっくん、お腹すいた」
四歳か、五歳くらいの髪の長い女の子。
(なんだ、結婚してるのか)
勝手にショックを受けてすぐに打ち消した。当たり前だ。こんなに素敵な人が家庭を持っていない方が驚く。年齢も星那よりも上そうだし……なんてお節介な言い訳まで付け加えた。
「お子さんですか?」
ここで訊くのは自然だと信じたい。
「いや、妹の子供なんだ。結菜、自己紹介して」
「しらいしゆいなです」
「こんばんは。私は乙部星那です。しっかりお名前言えて偉いね」
オーナーの子供ではないと判明し、内心安堵した。
結菜は照れ笑いを浮かべながらオーナーの脚を抱きしめる。
オーナーは「星那お姉ちゃんだって」言いながら、結菜の頭を撫でた。
「因みに俺は小鳥遊緒李。だから、いっくんって呼ばれてるんだ」
「小鳥遊さん」
思わぬタイミングで名前を知れて、口許が緩んでしまう。
「緒李でいいよ。小鳥遊って言いにくいでしょ」
「緒李さん……」
「隣に結菜、座らせてもいい?」
「え、はい、どうぞ」
慌ててカバンを除ける。帰ろうとしていたが、タイミングを失った。いや、帰りたくなかったので好都合だった。
結菜は星那を気に入ってくれたようで、幼稚園での出来事や、緒李との思い出エピソードを語って聞かせる。緒李はその間に結菜に簡単なサンドウィッチを作っていく。
「ごめんね、押し付けちゃって。結菜、珍しいじゃん。初対面の人とこんなに喋らないのに」
「そうなんですね」
「人見知りが激しい年頃でね。でもなんとなく分かるな。星那ちゃん、聞き上手だよね」
名前を呼ばれたことに驚いて心臓が飛び跳ねる。
緒李の心地よい少し低い声が耳をくすぐる。
恋をするのに時間なんて関係ない。今はっきりと、星那は緒李に心を奪われた。
「そ、そんな風に言われたのは、初めてです」
「またまた、ご謙遜を」
緒李は美辞麗句を言っているだけだと自分に言い聞かせるけれど、本当にそう思ているのかと勘違いするほど極自然に話す。
(あぁ、ダメだ。どんどん好きになる)
気持ちを自覚した途端、その感情はものすごい勢いで膨らんでいく。
初恋は子供の頃に済ませているが、こんなにも湧き上がる恋情を感じるのは初めてだった。
たった今、名前を知ったばかりの人に持つ感情としては間違えているとは思う。実際には星那の抱く『理想の緒李』とは全く違う人間性を持っているかもしれない。それでも、もしもそうだったとしても、とても自分がこの人を嫌いになるとは思えなかった。
「はい、結菜。一旦お話はおしまい。早く食べないと、ママが迎えに来るぞ」
「えー、嫌だ。まだお姉ちゃんと遊びたい」
「なら食べてしまわないと、どんどん時間がなくなるよ」
緒李は結菜の前に立ち、真似しろと目配せをしながら合掌のポーズをとる。
「いただきます」わざとゆっくり言い、結菜もそれに倣って「いただきます」元気に言った。
両手でサンドウィッチを持ち、かぶり付く。中の卵がふんわりと柔らかそうで、美味しそうに食べる結菜を眺めてしまう。
「美味しい?」
「うん! いっくんの作るご飯がいちばん好き。お姉ちゃんも好き?」
「私は今日初めて食べたけど、好きになったよ」
「それはどうも」
「え、あ、あの、とても……美味しかったです。また食べに来てもいいですか?」
「勿論、いつでも歓迎するよ」
「お姉ちゃん、またくる? 明日?」
結菜が隣から食い付いてくる。緒李は「そんな直ぐには来ない」とでも言うのかと思っていたが、「明日も明後日も来てほしいね」なんて言うものだから、星那は完全に絆されてしまったのだった。
結菜がサンドウィッチを食べ終わる頃、一人の女性が慌てた様子で店に飛び込んで来た。
「ごめん!! 遅くなった」
どうやら結菜の母親で、緒李の妹のようだ。
母親が迎えに来て嬉しいはずなのに、結菜は頬を膨らませる。
「ママ、くるの早い」
「えぇ、いつもより遅くなって、すごーーーーく急いだんだよ。もう、電車に乗り遅れると思った」
掌で顔を扇ぎながらその人は言う。
電車……と頭の中で反芻すると、星那の顔は途端に青ざめた。
「終電っっ!!」
突然大声で叫びながら勢い良く立ち上がる.
「週末だから、もう一本遅いの出てるんじゃない? って言っても時間、やばいね。ごめんね、俺が引き止めたばかりに」
「いえ、楽しかったです。ごちそうさまでした。失礼します」
「待って、星那ちゃ……」
背後から緒李に呼び止められたけれど、振り向かずに走り出す。
マンションに帰ったら、今日はシャワーを浴びながら歓喜のあまり発狂してしまうだろう。但し、帰れたらの話だ。
「間に合って、お願い」
全速力で走っても、思うように前に進まないのは星那の運動神経のせいだ。元々運動が苦手なのに、大人になるほど体を動かさなくなっていて、疲労が襲う。瞬く間に息が上がり、滝のような汗が全身から流れる。それでもなんとか足は止めなかった。
これで乗り遅れたら、動き始めるかもしれない何かは、動かないままのような気がしたから。
(間に合え、間に合え。どうか間に合って)
終電に乗りたい一心で駅に向かう。
しかし現実は星那に厳しかった。
駅に辿り着く手前で、星那の隣を走り抜けたのだ。
「あ……終電……」
終わった……星那は自分の人生を悟った。
遊園地にも振られ、終電にも乗り遅れ、きっと今後もこんな風な生き方しかできないのだろうと、未来への希望も何もかも絶たれた気持ちになる。
その上、スマホを落としたのかカフェに置いて来たのか、どこにも見当たらない。
絶望をこんな形で思い知らされるとは神様はなんて意地悪なんだと、誰かに八つ当たりしなければやってられない。
「もう、やだ……」吐き出された言葉は夜の空気に紛れて消えた。
とにかくスマホがなければ何もできない。しかしどうにも言うことを聞かない体は限界をとっくに超えていて、本当に朝までこの状態で過ごすのではないかと不安を覚え始めた。
「星那ちゃん!! 見つけた!!」
ふと自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。空耳かと思ったが、俯く星那の前に人影が立ちはだかる。
その人も息切れをしながら、星那に向かい合う形でしゃがみ込む。
「星那ちゃんのスマホ、結衣が触ってたでしょ。呼び止めたけど星那ちゃんは走っていっちゃうし、結菜はスマホ離さないしですんごい焦った」
緒李は星那の顔を覗き込んだ。緒李も汗だくだ。額から汗を流し、それなのに星那とは正反対に爽やかな汗だった。
緒李はスマホを手渡すと「店に戻ろう」と言って手を差し出す。
「でも……」
「泊まるところ、ないでしょ。結菜も泊まるって駄々こねてるし、一緒に寝てくれると助かる」
緒李は星那が気を使わないよう、言い訳まで考えてくれていた。
ボロボロの姿を見られたくなかった。髪はボサボサだし、倒れ込むようにへたり込んだからパンプスの片方が脱げている。スカートは腿が見えるほど捲れていた。
恥ずかしい。初対面で恋を自覚して、このザマだ。淡い期待を持たなくても済んだのはむしろ幸いだったか。一時の夢を見せてもらえただけでも神様に感謝しろと言うことか。
自虐的にもなりたくなる。
星那は返事に困りながら目尻に滲んだ涙を拭う。
緒李は差し出した手を引っ込めなかった。
「立ち上がれる?」
咄嗟に飛び出したから、水も何も持ってこなくて申し訳ないと緒李は言う。
「途中に自販機あるから、とりあえずそこまで行こうか。怪我してない?」
「大丈夫です……。初対面なのに、ここまでしてもらうなんて悪いですよ」
「俺が引き止めたから、俺の責任。……っていうか、ごめん。意図的に終電なくなるまでいてくれるように仕向けた」
「なん……で……」
緒李の発言に、星那は困惑の色を隠せなかった。何故、自分を帰らせないようにしたのか見当も付かなかった。
緒李は自分の頭を掻いて、「居心地良いって思う人と出会ったの、初めてだったんだ」恥ずかしそうに打ち明ける。でもまだ星那は緒李の言わんとすることが読み取れない。
緒李は星那の手を取り、「観覧車、見に行こうか」と言い出した。
こんな夜更けに? と思ったが、星那が立ち上がるには充分な理由だった。緒李の手を握り返し、ようやく足に力を入れる。
緒李は星那の足についた小石や砂を払ってくれた。
手を繋いだまま、ゆっくりと歩き出す。
夜空には大きな月が昇っていた。
上を向いたのはいつぶりだろう。気付けば目を伏せ、足許ばかり見ていたと気付く。
「綺麗……」
ポツリと呟いた。該当の少ない道で、月の明かりは心許ないがどこか柔らかく感じた。
「今夜は満月だね」
緒李が言う。
「こんな時間になると、凄く大きくなるんですね」
「あんまり夜空とか見ない?」
「はい。毎日、仕事とマンションの往復だけで、自然に目が行かなくなってました。なんだか今は、とても新鮮な気がします。ずっとそこに存在していたのに」
「星那ちゃんに見つけて欲しかったのかもね。月も、俺も」
「?」
まただ、緒李はさっきから引っかかる言葉を挟んでくる。それが独り言なのか、聞き流すべきなのか、突っ込んで聞くべきなのか、星那には判断がつかない。
深夜になると風が心地いい。
隣に並ぶのはなんとなく憚られ、少し後ろを歩く。緒李の着ているリネンのシャツが風を含んでふわりと揺れた。
緒李を見上げていると、ふと振り返り、星那の髪を耳にかける。
「これを、見に来たんだよね」
いつの間にか、遊園地に辿り着いていた。かなりゆっくり歩いた気がしていたのに、一緒にいるのが楽しかったからか、あっという間に感じた。
目の前には大きな観覧車が見える。そのてっぺんの更に上で、満月が堂々と輝いていた。
真っ暗闇の中、月の光だけに照らされた観覧車の全貌は見えない。
でも一人で来た時よりも星那は違う何かを考えていた。
(一人で見ても何も思わなかったのに、こうして緒李さんが隣にいてくれるだけで違った景色に見える。
遊園地の敷地内には入れないが、ちょうど観覧車を眺める角度に設置されているベンチに腰を下ろす。
緒李は薄暗いそれを見上げて言った。
「一緒に、観覧車乗りに行かない?」
「なんで、私なんですか」
「もっと星那ちゃんと一緒に過ごす口実が欲しいから」
緒李も同じように星那に対して心地よさを感じていたのだと知り、さっきまで萎んでいた気持ちが再び膨らみ始めた。ベンチの背凭れに上肢を預け、緒李は自分の気持ちを確認しながら喋り始める。
「なんでこんなに自然体でいられるんだろうって考えてたんだ。それで、多分だけど、星那ちゃんには下心がないからだって。
こんなことを言うと自惚れてるって思われても仕方ないけど、女の人から言い寄られても信じられなくて。俺のどこが良くて付き合いたいのか聞いてみたこともあったけど、結局は外面だけなんだよね。
前は普通にサラリーマンとして働いててね、周りからの視線は常に俺の品定めをするものばかりだった。仕事にやり甲斐を感じてたし、成績もそれを証明してくれてた。でも違った形で評価されるのは不本意だった。女性にとって俺は『私の価値を上げるもの』でしかない。
祖父から店を継いでほしいって言われたのは、仕事を続けるか悩んでたタイミングだった。妹は料理は苦手だし、俺は子供の頃から祖父の喫茶店が好きでよく入り浸ってたから祖父も俺に言ったんだと思う。店を受け継ぐって決めたのは、あの場所が大切だったのもあるけど、堅苦しさから逃れるためでもあった。
もう誰にも本当の自分なんて知られなくてもいいやって思ってたのに、星那ちゃんに出会ってしまった」
緒李は話を続ける。
「星那ちゃんにとっては俺に異性としての興味とか魅力はないんだなって思うと、喜ばしいはずなのになんでか寂しく思っちゃって。もっと俺を見て欲しくて気付けば気を引こうと必死になってた。自覚なかったけど、寂しかったのかな。だから、帰れなくなったらいいのにって。本当にごめん」
星那は黙って緒李の話に耳を傾けていた。言葉が出なかったのは単純に驚きすぎたからだ。
緒李は一度も星那を見なかったが、握っている手に力が込められた。
「星那ちゃんの時間、俺にくれない?」
今度はしっかりと星那と視線を合わせる。
緒李の持つ感情が恋愛のそれなのかは現時点では断定できないが、いずれ恋になれば嬉しいと思う。
星那は視線を上げて緒李と向き合い、「一緒に、観覧車乗りたいです」と震える声でなんとか返せた。
緒李は目を限界まで瞠り、歓喜のガッツポーズを取る。
それから自販機でお茶を買い、まだベンチに戻って来た。二人とも一気に半分以上を飲み干すと「プハっ」とビールを飲んだ後みたいに息を吐き出し、一緒に笑う。
些細な一つ一つが楽しくて仕方ない。
暗がりではっきりと顔が見られなくて良かったと思った。今の星那はきっと自分でも驚くほど表情筋が緩んでいるだろう。こんな締まりのない顔を、緒李のような爽やかな人には見せられない。
握った手から自分の気持ちが伝わらないかとヒヤヒヤしながら、それでもこの手を離したくなかった。
緒李と星那は観覧車の前で色んな話をした。緒李の年齢は今年で三十四歳になるのだと教えてくれた。星那は二十六歳だと言うと「落ち着いてるね」と返された。そのあと、慌てて「褒めてるから」と付け加える。星那は今日の行動を振り返り自分のどこが落ち着いていたのか不思議に思った。
マンションの近所に大きな公園があると言うと、結菜を連れて遊びに行きたいと言い出した。体力がついてきて、思い切り体を動かせる場所を近場で探していたのだと言う。
「その時は、お弁当作って行くから、星那ちゃんも一緒に遊ぼうね」
また一つ、新しい約束が増えた。
緒李と話し込むほど、新しい約束が増えていく。
映画を観に行こう。カフェ巡りをしよう。ドライブに行こう。海を見に行こう。秋になれば紅葉狩りに出かけよう。冬には何をしようか。そんな先のことまで、沢山沢山話した。全部、断りたくない約束ばかりだ。
そのうち眠くなってきて、二人はようやく緒李の自宅兼カフェに帰ろうと歩き始める。眠いけれど、ずっと起きていたい。始発までのあとほんの数時間、全て緒李の隣で過ごしたい。
結局、動く観覧車は見られなかった。
けれども星那の人生は大きな音を立てて動き始めた。
今日の朝日は、これまでで一番眩しくこの世界を照らしてくれるだろう。



