海原(うなはら)! いまのところは順調だな!」
 さわやかな笑顔で、体育祭実行委員長の長岡(ながおか)先輩がやってきたけれど。
 大会本部用テントの、反応は複雑だった。

 三藤(みふじ)先輩が、僕の体操着の袖を引っ張るので。
 ここは、代表していうしかない……。
「ごめんなさい……。ちょ、ちょっとあの……」
「知ってるぜ! クサイだろ!」
「へっ?」
「だから。こんなパンを食わせたお前に、あいさつにきてやったんだ!」

 ふと、周囲を見ると。
 高嶺(たかね)が同じ一年一組の女子たちに囲まれて、引きつっている。
 あ、玲香(れいか)ちゃんなんて、女子バレー部員たちに抱きつかれている。
 す、すっごいクサそうだ……。


「それでは委員会担当『生徒』考案の、パン食い競争をはじめま〜す!」
 ……そ、そうだった。
 藤峰(ふじみね)先生のせいで、悲劇の競技は。
 僕たちが考案者だと、濡れ衣を着さされているのだ……。

 来賓用テントの中で、立て続けに悲鳴があがる。
 校長とかPTA会長? それとも、近所の偉い人たちとかだろうか?
 誰だよ、余ったパンを配ったのは……。



 テントの周りでは異様な熱気ならぬ、臭気が漂う中。
 グラウンドでは、次の競技がはじまっている。

「アンタ、わたしと代わってよ」
 怖い顔の高嶺が、僕にいう。
「こんなクサイのに、お昼食べる気にならないし!」
 コイツが食欲がなくすほど、などと感動している場合ではない。
 食べ物の恨みって、確かすっごく恐ろしいんだよなぁ……。

「あと、お土産。まだ残ってたから」
 抵抗すると、悲劇が訪れる。
 高嶺から、例のパンを二袋も渡された僕は。
 絶棒的な気分で、玄関のほうに向かう。
 ところが。えっ! も、もしかして!
 目の前に救世主・山川(やまかわ)(しゅん)が、現れた。

「よ、よう! 山川!」
 いつになくハイテンションに呼びかけた僕を見て、山川が驚いている。
「おぉ! それ、パンかよ!」
 いや、山川は僕ではなくてパンを見て驚いたのか。
「いやなぁ。どうしても人手が足りないっていわれてさぁー」
 も、もしかしてコイツは。
「でな、文化祭の手伝いにいかされてたんだよー」
 じゃ、じゃぁやっぱり!
「せっかく、俺。パン食い競争エントリーしたのに!」
 や、やったぁー!
 たぶん神様って、玄関のほうからやってくるんだ!

「なぁ、山川」
 よし、この顔は間違いなくご褒美を待っている顔だ。
「ここにそのパン食い競争の、パンがある」
「おっ、スゲェ! し、しかも……」
 そうだよ、山川君。お前はいいやつだ。
「日頃の友情に感謝して、ふたつとも、お前にあげるよ」
「い、いいのか……」
 泣かなくていいから、クサイから早く受け取って……。

「ゆ、友情って。なんかすっげえ、サステイナブルだよな!」
 意味がわからないけど、放っておこう。
 パンをふたつももらえてご機嫌の、山川の後ろ姿に。
 僕は静かに、合掌した。

 ……ちなみにそのあと、ダブルでクサい山川には感謝された。
高尾(たかお)先生って、やっぱ都会のセンスするよなぁー」
「へ?」
「なんか、初めて食ったけど。大人の刺激って感じで、ウマかった!」
 いったいこいつは、普段どんなものを食べているのだろう?
 僕は、一瞬だけ。
 山川と、一度だけ弁当を一緒に食べてみたいと思った。



 ……異臭が、ほんのり残る放送室では。
 玲香ちゃんが、放心状態のまま座っていた。

「あ、(すばる)君かぁ……。由衣(ゆい)ちゃんと代わらされたの?」
「う、うん」
「そっかぁ。さすがのわたしも、まだ食欲ない……」
 きっと、頑張って換気してくれたんだね。ありがとう玲香ちゃん。

 とはいえ、まだお昼を食べる気にもやっぱりなれず。
「歯磨き、いこっか?」
 ふたりとも、この臭気を少しでも自分の体から遠ざけることで一致した。
 まず、僕のクラスに寄って。
 それから非常階段を登って、三階の二年一組に向かう。
 玲香ちゃんとふたりで、そのまま中央の水飲み場にいくと。
 ふたりで並んで、無心で歯を磨きはじめて。
 そうしたら……。

「……えっ、えっ!」
 誰かの声がして、ふたりで振り向くと。
 二年生の女の子たちが、驚いた顔で僕たちを見ている。
「あぁ、歯磨きしてた〜」
 玲香ちゃんが、なんてことないという感じでいったのだけれど。
「そ、そうなんだ……」
「お、お邪魔しました〜」
 いそいそとふたりが、その場から離れていく。

「なーんか、誤解されちゃった?」
 僕がいたから、一年生の水飲み場と間違えたのか?
「いや、そういうことじゃなくてね……」
 玲香ちゃんは、そのあとの言葉は飲み込んだみたいで。
「ま、別にわたしはいいけどねぇ〜」
 イタズラっぽく僕を見て、ニコリと笑った。


 そのときふと、別の視線を感じて。
 ふたりで首をそちらに向けてみたところ……。
「あ、どしたの?」
「えっと……ちょっとロッカーに荷物取りに……」
 同じく休憩中なのか、そこには春香(はるか)先輩が立っていた。

「……で、ふ、ふたりは?」
「歯磨きだけど?」
「歯磨きに、きていました」
 状況的に、事実でしかないのだけれど。
 どうして、先輩はそんなに驚いているのだろう?




 ……さすがに、ちょっと驚いた。

 それがわたしの、偽らざる感想だ。
 『姉』になると、宣言したし。
 そんな『想い』は、とっくに封印できたと思っていた。

 だからなのかな、この驚きって?
 どうして、ふたりで並んで歯磨きなんてしているの?
 昴は、一階で歯を磨けばいいよね?
 玲香はそのあいだに、ここで磨いておくよね?
 それから、また部室かどこかに戻ればいいよね?

 まぁ、授業のある日ならともかく。
 体育祭の日だから、なにかの流れで一緒に磨きするとか。
 このふたりなら。
 いや、あるいは別の組み合わせでも。
 ……ひょっとしたら、わたしだって。
 『自然』にやっているかもしれない。
 
 でも、なんでだろう……。
 心が少し、ざわついた。

「あ、もういかないと!」
 ふたりから慌てて離れるように、わたしは階段を駆け降りた。
 ロッカーにいくといったのに、逆戻りするなんて。
 なんか変だよね……。
 でもあのまま一緒に、同じ廊下を同じ方向に向かうことが。
 わたしにはできなかった。

 たぶん月子(つきこ)が知っても、由衣ちゃんでも、姫妃(きき)ちゃんでもそう。
 こんなわたしみたいなリアクションは、しないだろう。

 なんか、変だよこれ。
 わたしもう、『忘れたはず』なのに。


 ……この気持ちって、いったいなに?

 いつか、誰かと海原君が。
 いや、『弟』の昴が。
 誰かと、一緒になる未来を。

 わたしは平然と、受け入れられるはずだったのに……。



 開いた窓から、運動場の歓声が聞こえる。
 と、とりあえず。
 グラウンドにでも、いってみよう……。


「あ、あの。春香さん……?」

 えっと。こんなときなのに……。
 五組の男子だよね、確か?


 ……そのあと、なぜだか。


「忙しくて、時間が取れるかわからなくてもいいのなら……」


 わたしは、自分で発してしまった言葉の。
 意味だけは、わかっても。
 その意図に、混乱し続けていた。


 ……この『文化祭デート』は、誰のため?


 ……わたしはいったい、どうしたいの?