今日は九月末で寿退職する小坂さんの送別会だった。
主役である彼女が新婚なこともあり、旦那さんが心配するでしょ、と部長が言って、いつもよりスムーズにお開きとなった。店を出る時間が終電まで一時間以上あるのは珍しい。
店を出てすぐ、小坂さんを囲んでまん丸い塊ができる。淡いブルーでまとめられた小さな花束を持ち、四方八方にぺこぺこと頭を下げ続ける彼女を中心に。
街頭の光を、薬指の指輪がきらりとはね返した。
わたしとちがって、彼女は人づきあいも仕事の運び方もうまい。社歴は小坂さんの方が二年長いが、短大卒の彼女と四大卒のわたしは同じ年齢だ。
明るく気さく、そして要領がいい彼女の周りには和やかな雰囲気が常に漂っていた。送別会の最中も小坂さんの隣はかわるがわる人が入れ替わり、わたしはその波にのれず遠目にウーロン茶をすすっていた。
入社してすぐに、小坂さんの特別感、のようなものはひしひしと伝わってきた。わたしなりに彼女の言動を真似してみても彼女の足元には遠く及ばず、とにかく周りに迷惑をかけないようにと努める日々。
たくさんの人に囲まれ、祝福され、惜しまれ、目尻を光らせながら微笑む彼女は、あまりに眩しい。なるべく誰にも見られないように、賑やかな輪から離れてその場を去った。
金曜日の繁華街はまだまだ落ち着く時間ではなく、カラオケ屋の前ですでに歌い始めているサラリーマンや、テラス席で声を弾ませている女性たちなど、そこかしこから賑やかな声が聞こえてくる。
会社を出たころはまだじめじめとしていた風が、幾分か爽やかな温度になっていた。
なんだかそのまま帰るのが惜しくなり、ふらりとコンビニに立ち寄った。
ひんやりとした冷気に肩をすくめつつ何気なくコミック棚に近づくと、先日テレビで特集されていた小説の文庫本があった。裏表紙のあらすじを読むと興味をそそられて、迷わずレジへ向かった。
店を出てすぐ、もう一度あらすじを読む。新しい本が手に入ると、すぐに読んでしまいたくなる。昔からそうだった。明日はなんの予定もないし、どうせ朝からだらだらネットフリックスを眺めるだけだし……。
思い切って、駅までの道にあるファミレスで読んでしまおうか。
ふっと沸いて出た考えに、想像以上に胸が高鳴った。踵を返して店内に戻り、メイク落としだけ追加で購入した。
駅までにファミレスは二軒あるが、なんとなく店内に酔っ払いが少ないのではと考えて単価の高い方に入った。ふかふかとした絨毯が音を吸収しているのかと思えるほど、店内はしいんと静かだ。窓際の席に腰をおろし、タッチパネルでホットコーヒーを注文する。
コーヒーがくるまでの間に、化粧室でさっとメイクを落とした。ファンデーションで窮屈そうだった肌が、深呼吸を始める。小坂さんへの羨望と嫉妬でどろけていた心も、少しさっぱりした。
ソファ席に戻り化粧を落とした爽快感を味わっていると、ほどなくしてコーヒーが運ばれてきた。家で淹れるインスタントとは明らかに香りがちがう。カップを持って、胸いっぱいに吸い込んだ。いつもなら寝つきが悪くなりそうで夜にコーヒーは飲まないが、今日は夜更かしするのだから関係ない。いや、夜更かし、というより徹夜、の方が近いか。
たまに誰かがささやくような声が聞こえるぐらい。静かで穏やかな空間の中、本を取り出して早速読み始めた。
コーヒーを味わいながら数十ページ読み終えたところで、「三波さん?」と声をかけられた。反射的にびくっと体がはねる。
顔を上げると同時に、どかっと向かいに腰をおろした人の顔を認識する。
「やっぱそうだ、三波さんだ」
「え、なんで」
葛西くんがここにいるの。声にならず、言葉が続かない。
彼の頬はほんのりと紅潮し、たれ目気味な目尻はさらに下がっている。さらに、呼気からかすかに漂うアルコール臭や、店内に響き渡る大きめな声。どこからどう見ても、立派な酔っ払いだ。
「なにしてんすか、こんなところで」
ちょっと、声大きいとわたしが窘めると、やべ、と大げさな動きで口を覆う。四月に入社したばかりの彼は、まだまだ大学生のようだ。
きょろきょろと周りを見回してから、なにしてんすか、と小声で言った。
わざと終電をのがして読書していた、なんて言ったらどう思われるのだろうか。一瞬そんな考えが頭をよぎり、質問に質問を返す。
「葛西くんこそ、なにしてんの」
彼は少し照れたように指で頬を掻き、終電のがしちゃって、とこぼした。
「始発までどっか入ろうと思って歩いてたら、外から三波さんが見えたんで」
「金森さんは?」
彼と仲の良い、先輩の名前を出す。金森さんは、葛西くんの三つ上、そしてわたしの一つ上の先輩だ。
歓迎会でべろべろになるまで飲んで、都心に近い金森さんの家に泊まって以来飲み会の日はよく泊まっているらしい。課長や部長と大声でやりとりしているのを何度か耳にした。
「あー、今日はちょっと」
と、眉根を寄せて、両手で大きくバツ印をつくる。
「なんで?」
「彼女さんが急に来ることになったらしいんです」
「そうだったんだ」
「そうだったんです」
彼女さんなら仕方ないけど、と言い足して、口を尖らせた。会社ではここまでくだけた調子でわたしに話しかけてこないので、やはり酔っているのだろう。ふんわりした口調で、葛西くんは続けた。
「で?」
「で、って?」
「三波さんは、なにしてんすか?」
なに、と口元で訊き返す。読書、ですけど。
どう言うべきか言葉を探していると、あ、と葛西くんが声を上げた。コーヒーの横に置いてある、文庫本に手を伸ばす。
「横井川雅人の」
ひょいと持ち上げて、表紙と裏表紙をそれぞれ眺め見る。
「文庫、出たんだ」
思わず、えっ、と声が出る。口をついて出たわたしの言葉に、葛西くんも、えっ、と返す。
「どうしたんですか?」
「いや、えっと」
そういう種類の本、読むタイプに見えないから。読んでても、自己啓発本ぐらい?
そんな言葉を本人に伝えていいものか、言い淀んでいると、葛西くんがからっとした声で言い切る。
「見えないっすよね、こういうの読むタイプに」
昔からよく言われるんですよー、と軽い調子で続ける。酔っ払いにしては(全国の酔っ払いの方々には失礼かもしれないが)、真剣な眼差しであらすじを読む姿に驚いた。
考えを見透かされたこと、なんとなく前向きでない印象を持ってしまったことに気が引けて、いつもより明るい声を出す。
「読んだら、貸そうか?」
いいんすか、とこちらに向けた顔は、ぱっと明るい表情だった。
「うん。まだ読み始めたばっかりだから、ちょっと待たせるかもだけど」
「大丈夫っす、ゆっくりで」
やったー、と目を細めて喜ぶ姿に、胸がどんと跳ねた。いやいや、なに。柄にもなくどきっとして。
かすかに動揺するわたしに気づくはずもなく、葛西くんは丁寧な手つきでテーブルに本を置き、楽しみにしてます、とわたしの前まですすすっと滑らせた。
「もしかして、これ読むためにここに来た感じですか?」
「あー、まぁそんな感じかな」
「……邪魔しちゃってすみません」
「ううん、全然気にしないで。家だとなんか集中できないから、読んで帰ろうかなーぐらいの軽い気持ちだったし」
苦し紛れに出した言葉に、葛西くんは大きく頷く。
「それ、めっちゃわかります。外の方が読めますよね」
だよね、と相槌を打ち、内心ほっとする。
「まだまだ読む感じです? 始発まで?」
うーん、と唸る。正直言うと深く考えていなかった。
「そうだねぇ、明日はなにも予定ないし。眠くなったら、ここでうとうとして始発待つかな」
なーにが明日は、だ。明日も、でしょ。自分で自分につっこみを入れる。
葛西くんはなにかを考えるように宙に視線をさまよわせてから、あの、と控えめな声で言った。
「うん?」
「もしよかったら、ちょっと歩きませんか? 散歩しません?」
さんぽ、と訊き返す。彼は、そう、散歩、と朗らかに答えた。
「始発まで時間あるんだったら、ちょっとだけ」
だめですか、と首を傾げてこちらに向ける眼差しは、昔実家で飼っていた柴犬のコムギを思い起こさせた。散歩をねだる、まっすぐな瞳。
「うーん、まぁ、ちょっとなら」
「よっし。じゃあ早速」
テーブルの端にあった伝票をぐしゃりと掴み、葛西くんはさっとレジへ向かった。
慌てて荷物をまとめてレジ前で追いつくと同時に、しゃらんと決済音が鳴った。セルフレジでさっとお会計を済ませ、行きましょうかと爽やかな笑顔をこちらに向ける。
「ごめん、払うよ」
「いっすよ、僕が誘ったから出るわけだし」
「でも」
「じゃ、あとでジュースでも奢ってください」
ね、と言い残し、出口へ向かった。葛西くんに続いて店を出ると、先ほどよりもさらに温度を下げた風が吹きつけた。
「ど、こ、いこうかな」
そう楽し気に独りごちて、スマートフォンを操作する。マップアプリを開いているようだ。
なんだか奇妙なことになったな、と考えていると、あっ、と葛西くんが声を上げた。
「荷物、駅前のロッカーに入れちゃいましょうか。持って歩くの邪魔だし」
「あ、あぁ、荷物」
葛西くんの肩には、ずしりと重そうなリュックが張りついている。わたしの肩から下がる鞄は重くはないけれど、確かにない方が身軽ではある。
「よし、じゃ一回駅まで行きましょう。すぐだし」
歩き始めた背中に続く。どういう状況なの、これ。戸惑いながら歩いていると、突然立ち止まった葛西くんのリュックに顔をぶつけた。
「ぶっ」と、変な声が出る。一体なにが入っているんだ。固い。
「あ、すみません」
くるりと葛西くんが振り返る。衝突してじんわり痛む鼻をおさえながら、尋ねた。
「どうしたの」
「靴」
「靴?」
「三波さん、そのままだと歩きにくいかなって」
二人そろって足元を見下ろす。ぺたんこの黒いバレエシューズと、黒い革靴。
「ヒールないから大丈夫だよ。そんな長距離じゃなければ」
「ん-、でもなんかなー」
なぜか葛西くんが納得していない様子で、あごに手を当てて考え込んだ。少しして、そうだ、となにかをひらめいた様子を見せた。
「あそこ行きましょう」
指が示す先には、『激安の殿堂』という文字の踊る看板があった。文字の上には、サンタ帽をかぶったペンギン(と思われるもの)がこちらに向かって両手を広げている。駅に向かって、少し左の方向にある。ここからはそう遠くない。
ずんずんと歩みを進める葛西くんを追いかける。
店の前に着くと、「ここで待っててもらって」と言い残して一人で入店してしまった。戻ってきた彼は、店の雰囲気をそのまま凝縮したような派手な色のビニール袋を提げていた。がさがさ鳴らして何かを取り出す。でかでかとキティちゃんが描かれたピンクのヒョウ柄サンダルと、蛍光グリーンのサンダルだった。
「こんなんしかありませんでした」
てへへと吹き出しが付きそうな笑顔で、はい、とキティちゃんの方をわたしに手渡す。
「え、なに」
「これ、三波さんの。今履いてるのよりは楽でしょ」
無垢なはにかみを浮かべる葛西くんの気遣いを無碍にできず、渋々受け取る。
「レジ袋、余分にもらったんで。ぬいだ靴は袋に入れて、まとめてロッカーに入れちゃいましょう」
あなたの気遣いのベクトル、どうなってるの。細かいところには気がつくのに、二十五になる先輩にこんな派手なサンダルを履かせるの。様々な思いが頭をぐるぐる巡ってはいるが、なんだか明るい気分になっていることに気づく。
「よし、とりあえずバスロータリーのベンチにでも座って履き替えましょうか」
バスももちろん走っていない時間帯で、バスロータリーはがらんとしていた。駅舎に近いベンチに並んで腰かけてサンダルに履き替え、ぺたぺたと音を出しながら二人でロッカーへ向かった。
電灯の下で見るキティちゃんのサンダルは、いたるところにラメが施されていてより一層派手に見えた。葛西くんの蛍光グリーン、わたしのピンクのヒョウ柄。なんて騒がしい組み合わせだろう。自分の意思では起こりえない足元が可笑しくて、自然と口元が緩んだ。
葛西くんは派手なレジ袋(何枚か購入していたらしい)にスマートフォンや鍵を無造作に入れ、ロッカーの扉をぱたりと閉じる。
「とりあえず、そこらへん歩きましょうか」
「うん」
駅舎から出て、薄暗がりの中を歩く。大衆居酒屋やドラッグストアが並ぶ通りをぬけると、雑居ビルやこぢんまりした飲食店が多いエリアに入りさらに静かになる。こんな時間に、こんな場所を歩くのは新鮮だ。あたりを見回しながら歩いていると、葛西くんが「そういえば」と話し出した。
「三波さんと小坂さんと、タメなんですよね」
「うん。そうだよ」
「なんていうか、タイプちがいますよね」
タイプが、ちがう。どういう意味だろうか。根明と根暗? シゴデキとポンコツ? 頭に浮かぶのは、ネガティブな言葉ばかりだ。
「……小坂さん、すごいよね」
「すごいっすね。いろいろ一気に頼まれても動じないし、要領よくさばいていくし。課長とか部長とかの相手もうまいし」
「ね、本当に。わたしなんか、なーんにもできないし」
ついぽろりと弱音が口をついて出た。それと同時に、後悔の念が押し寄せる。後輩の前で、気を遣わせるような発言をしてしまうなんて。
「あの、個人的な意見なんですけど」
前を向いたまま、歩みを止めず葛西くんは続ける。
「三波さんがなんにもできないとか、全然そんなことないです。いつも細かいところに気づいてくれるなっていつも思ってます。外回りから帰ってきたときに振られる仕事も、営業の人がやりやすいように段取りをちゃんとしてくれてるし」
「……そうかな」
そっすよ、ときっぱりした声で葛西くんは言った。
「なんとなく、三波さんって小坂さんに遠慮っていうか、一歩引いている感じがある気がしてたんですけど。それか」
「それって?」
「引け目、感じてたんですね」
言葉を選ぶかのように、慎重な口調で葛西くんは話し続ける。
「小坂さんの要領のよさももちろん尊敬って感じなんですけど、三波さんの細やかさとか丁寧さもまじで尊敬してますよ」
尊敬、と日頃使わない単語が登場し、へっ、と気の抜けた声が出た。
「他の人が気にかけないとこ、よく見て気づいてくれるなって。僕が新人だからっていうのもあると思うんですが……結構雑に扱われること多いけど、三波さんはいつもちゃんと接してくれて」
少し間があって、上から目線みたいですみません、と小声で付け足した。
突然投げかけてもらった賛辞に感情が追い付かず、どうも、とだけ返事をするので精一杯だった。
葛西くんがなにも言葉を発しなくなり、少しの間沈黙が続いた。
数分歩いたのち、視界が開けたと思えば公園だった。背の低い雑居ビルに囲まれた、小さな公園。二人がけのベンチ、申し訳程度の砂場と手洗い用水栓の他は、前後に揺れて遊べる動物が二匹いるだけだ。地面とバネでつながっているその二匹はところどころ塗装がはげているが、おそらくパンダと象と思われた。
「あったあった」
と、葛西くんは公園に足を踏み入れる。あった、ってどういうことだろう。不思議に思いつつも、後に続く。
彼はパンダにまたがり、どうぞこちらへ、と言わんばかりに象に手のひらを向ける。座れということなのだろう。面白いほど葛西くんのペースに巻き込まれているが、慣れてきたのかなんだか心地よい感じがした。
この手の遊具、いつぶりだろうか。少しの緊張と高揚と胸に象にまたがって揺れてみると、ギギギと快適とは言えない音が上がった。
「これ、耐荷重大丈夫かな」
葛西くんが、ぷっと噴き出す。
「耐荷重って。三波さん真面目っすね」
「いやだって、子どもが使うものなのに大人が使って痛めたら良くないし」
あぁ、と相槌を打った葛西くんは「確かに、それはそうですね」とパンダから降りたので、わたしも降りた。少し揺れただけなのに、地面に足をつけて立つと世界が揺れているかのような錯覚を覚えた。ベンチに移動して、並んで腰かける。
葛西くんが手元のビニール袋からなにかを取り出し、はい、と差し出した。自販機に売っているものより小さな、緑茶の缶だった。
「サンダル買ったとき、レジ前にあったんで買っときました」
「わぁ、ありがとう」
缶のお茶なんていつぶりだろうとぼんやり考えながらプルタブに指をかける。予想以上のプルタブの固さに苦戦していると、葛西くんがさっと取り上げて開けてくれた。
一気に緑茶を流し込む。ぬるいけれど、すっきりとした緑茶の香りが鼻をぬけて心地よい。
「はー、おいしい」
「おいしいっすね」
なんとなく、二人で空を仰ぎ見る。輝く満月が空に浮かんでいればと思ったが、薄雲が散り散りに浮かんでいるだけで、月はほとんど見えなかった。
しばらくぼんやりしていると、よし、と声を上げて葛西くんが立ち上がった。再びビニール袋をがさがさと鳴らす。
「え、まだ何かあるの」
と、わたしが尋ねると、葛西くんは「じゃじゃーん」と得意げな顔で何かを取り出した。顔を近づけてじっと見ると、割り箸かと思うほど薄くて細長い袋に入った線香花火だった。
「売れ残りなのか、バラ売りされてたんですよ。つい買っちゃいました」
そういえば今年も花火大会に行かなかったな、とふと今年の夏を振り返る。そもそも相手がいなし、友達は彼氏や夫と出かける子が増えた。花火は好きだが、花火大会に一人でふらっと行くには混みすぎているし、寂しすぎる。
わたしが感傷にひたっている間に、葛西くんは手早く緑茶の空き缶に水を入れて戻ってきた。
「やりますか」
ベンチのすぐ近くに二人でしゃがみこみ、線香花火をそれぞれ手に持つ。ライターで火を点けようと線香花火の先端に真剣な眼差しを向ける彼の横顔を、じっと見つめた。
花火に火が灯り、じんわりと丸く膨らむ。ぴりぴりと小さな火花を散らしながら、緩やかに揺れるオレンジの光はとても綺麗だ。
線香花火ってこんなに綺麗だったっけ。うっとりと見つめているうちに、ほぼ同時にぽとりと玉が落ちた。
「落ちちゃった」
「儚いっすねー」
空き缶に燃え殻を入れ、二本目に火を点ける。柔らかな光を見ているうちに、心が落ち着いて穏やかな気持ちになってくる。
「葛西くん」
「なんすか?」
「ありがとね、さっき」
「さっき、って?」
「……励ましてくれたから。仕事のことで」
いや、別に、と小さく呟いてから、葛西くんは続けた。
「いつも思ってることなんで。励ますっていうか、そんなつもりなかったですけど」
「でも、嬉しかったから。ありがとう」
そこまで言うと、わたしの線香花火はぽとりと火の玉を落とした。まだ燃え続ける光を凝視したまま、葛西くんが言った。
「三波さんって」
「うん?」
「人のことには、よく目がいって気づけると思うんですけど」
「うん」
「自分に向けられたことには結構鈍感ですよね」
「えっ、そうかな」
「そんな気がします」
葛西くんが垂らす線香花火の先端が、暗くなった。次のものを準備しながら、わたしは言った。
「例えば、どういうところが?」
「……今日あそこで僕に誘われて、どう思いました?」
「どう、って。散歩に誘われたなって」
「ただ、後輩に散歩に誘われた、って感じですか」
「うん」
はぁーと長く息を吐き、ですよね、と葛西くんは膝と膝の間に顔をうずめた。
「え、ちょっとどういうこと」
「そういうところですよ」
うまく理解が追い付かないままでいると、葛西くんがわたしの花火に火を点けた。
「どっちが長いか、勝負しますか」
急に話題をかえられて釈然としないままだったが、強引に葛西くんが「スタート!」と始めてしまった。
「勝ったら、なにかあんの」
「三波さんにはないです」
「なんだそれ」
「けど、僕が勝ったら」
「うん」
そこですっと息を吸い、意を決したように彼は言った。
「手、つないでいいですか」
えっ、と反応したところで、その振動で火が落ちてしまった。数秒の差で、葛西くんの手元からも火が落ちる。
「はい、三波さんの負けー」
「これは、葛西くんが、変なこと言うから」
「変なことじゃないでしょ」
じゃあ今のはナシでいいんで、と次のものが手渡される。
「これで最後ですね」
最後、か。途端に寂しさが胸にこみ上げた。もう、終わりか。
「この勝負で、俺が勝ったら」
その先は言わず、葛西くんがそれぞれに火を点けた。胸に押し寄せる気持ちが、寂しさなのか戸惑いなのか、自分でも見当がつかない。
けれど、一つだけ言えることは、この時間が終わってほしくないと思っている自分がいることだった。
二人で、なにも言葉を発することなく灯りを見守る。急に、葛西くんが自分の花火に顔を近づけ、ふっと強く息を吹きかけた。ろうそくの火を消すように。丸く膨らんでいた火は、力なく落ちた。
「だめだ、こういうのは良くないっすね」
消え入るような声で、そう囁いた。わたしの線香花火は、ぷくぷくとこれ以上ないぐらい膨らんでいる。終わりが近いのは明らかだった。
もうすぐ終わってしまう、落ちてしまう。そう思うと、口から言葉が滑り出した。
「もうちょっと、やりたいな」
「え?」
「花火、もうちょっとやりたいなって」
わたしが言い終わるのとほぼ同時に、火が落ちた。それを見届けた葛西くんは立ち上がり、腰を支えながら上体を少し反らし、空を仰ぎ見た。つられて見上げた空には、先ほどは見えなかった月がぼんやりと光っていた。
「もう一回、買いに行きます?」
「……うん、行く」
葛西くんがわたしに向かって手を伸ばす。その手を握ると、じいんと熱い彼の体温が伝わってきた。強い力で引っ張り上げられる。
立ち上がると、ぱっと手が離された。先ほど手のひらに感じた彼の熱を、夜風が奪っていく。
暗がりの中を歩きながら、またあの熱さに触れたい、と思った。
=fin=
主役である彼女が新婚なこともあり、旦那さんが心配するでしょ、と部長が言って、いつもよりスムーズにお開きとなった。店を出る時間が終電まで一時間以上あるのは珍しい。
店を出てすぐ、小坂さんを囲んでまん丸い塊ができる。淡いブルーでまとめられた小さな花束を持ち、四方八方にぺこぺこと頭を下げ続ける彼女を中心に。
街頭の光を、薬指の指輪がきらりとはね返した。
わたしとちがって、彼女は人づきあいも仕事の運び方もうまい。社歴は小坂さんの方が二年長いが、短大卒の彼女と四大卒のわたしは同じ年齢だ。
明るく気さく、そして要領がいい彼女の周りには和やかな雰囲気が常に漂っていた。送別会の最中も小坂さんの隣はかわるがわる人が入れ替わり、わたしはその波にのれず遠目にウーロン茶をすすっていた。
入社してすぐに、小坂さんの特別感、のようなものはひしひしと伝わってきた。わたしなりに彼女の言動を真似してみても彼女の足元には遠く及ばず、とにかく周りに迷惑をかけないようにと努める日々。
たくさんの人に囲まれ、祝福され、惜しまれ、目尻を光らせながら微笑む彼女は、あまりに眩しい。なるべく誰にも見られないように、賑やかな輪から離れてその場を去った。
金曜日の繁華街はまだまだ落ち着く時間ではなく、カラオケ屋の前ですでに歌い始めているサラリーマンや、テラス席で声を弾ませている女性たちなど、そこかしこから賑やかな声が聞こえてくる。
会社を出たころはまだじめじめとしていた風が、幾分か爽やかな温度になっていた。
なんだかそのまま帰るのが惜しくなり、ふらりとコンビニに立ち寄った。
ひんやりとした冷気に肩をすくめつつ何気なくコミック棚に近づくと、先日テレビで特集されていた小説の文庫本があった。裏表紙のあらすじを読むと興味をそそられて、迷わずレジへ向かった。
店を出てすぐ、もう一度あらすじを読む。新しい本が手に入ると、すぐに読んでしまいたくなる。昔からそうだった。明日はなんの予定もないし、どうせ朝からだらだらネットフリックスを眺めるだけだし……。
思い切って、駅までの道にあるファミレスで読んでしまおうか。
ふっと沸いて出た考えに、想像以上に胸が高鳴った。踵を返して店内に戻り、メイク落としだけ追加で購入した。
駅までにファミレスは二軒あるが、なんとなく店内に酔っ払いが少ないのではと考えて単価の高い方に入った。ふかふかとした絨毯が音を吸収しているのかと思えるほど、店内はしいんと静かだ。窓際の席に腰をおろし、タッチパネルでホットコーヒーを注文する。
コーヒーがくるまでの間に、化粧室でさっとメイクを落とした。ファンデーションで窮屈そうだった肌が、深呼吸を始める。小坂さんへの羨望と嫉妬でどろけていた心も、少しさっぱりした。
ソファ席に戻り化粧を落とした爽快感を味わっていると、ほどなくしてコーヒーが運ばれてきた。家で淹れるインスタントとは明らかに香りがちがう。カップを持って、胸いっぱいに吸い込んだ。いつもなら寝つきが悪くなりそうで夜にコーヒーは飲まないが、今日は夜更かしするのだから関係ない。いや、夜更かし、というより徹夜、の方が近いか。
たまに誰かがささやくような声が聞こえるぐらい。静かで穏やかな空間の中、本を取り出して早速読み始めた。
コーヒーを味わいながら数十ページ読み終えたところで、「三波さん?」と声をかけられた。反射的にびくっと体がはねる。
顔を上げると同時に、どかっと向かいに腰をおろした人の顔を認識する。
「やっぱそうだ、三波さんだ」
「え、なんで」
葛西くんがここにいるの。声にならず、言葉が続かない。
彼の頬はほんのりと紅潮し、たれ目気味な目尻はさらに下がっている。さらに、呼気からかすかに漂うアルコール臭や、店内に響き渡る大きめな声。どこからどう見ても、立派な酔っ払いだ。
「なにしてんすか、こんなところで」
ちょっと、声大きいとわたしが窘めると、やべ、と大げさな動きで口を覆う。四月に入社したばかりの彼は、まだまだ大学生のようだ。
きょろきょろと周りを見回してから、なにしてんすか、と小声で言った。
わざと終電をのがして読書していた、なんて言ったらどう思われるのだろうか。一瞬そんな考えが頭をよぎり、質問に質問を返す。
「葛西くんこそ、なにしてんの」
彼は少し照れたように指で頬を掻き、終電のがしちゃって、とこぼした。
「始発までどっか入ろうと思って歩いてたら、外から三波さんが見えたんで」
「金森さんは?」
彼と仲の良い、先輩の名前を出す。金森さんは、葛西くんの三つ上、そしてわたしの一つ上の先輩だ。
歓迎会でべろべろになるまで飲んで、都心に近い金森さんの家に泊まって以来飲み会の日はよく泊まっているらしい。課長や部長と大声でやりとりしているのを何度か耳にした。
「あー、今日はちょっと」
と、眉根を寄せて、両手で大きくバツ印をつくる。
「なんで?」
「彼女さんが急に来ることになったらしいんです」
「そうだったんだ」
「そうだったんです」
彼女さんなら仕方ないけど、と言い足して、口を尖らせた。会社ではここまでくだけた調子でわたしに話しかけてこないので、やはり酔っているのだろう。ふんわりした口調で、葛西くんは続けた。
「で?」
「で、って?」
「三波さんは、なにしてんすか?」
なに、と口元で訊き返す。読書、ですけど。
どう言うべきか言葉を探していると、あ、と葛西くんが声を上げた。コーヒーの横に置いてある、文庫本に手を伸ばす。
「横井川雅人の」
ひょいと持ち上げて、表紙と裏表紙をそれぞれ眺め見る。
「文庫、出たんだ」
思わず、えっ、と声が出る。口をついて出たわたしの言葉に、葛西くんも、えっ、と返す。
「どうしたんですか?」
「いや、えっと」
そういう種類の本、読むタイプに見えないから。読んでても、自己啓発本ぐらい?
そんな言葉を本人に伝えていいものか、言い淀んでいると、葛西くんがからっとした声で言い切る。
「見えないっすよね、こういうの読むタイプに」
昔からよく言われるんですよー、と軽い調子で続ける。酔っ払いにしては(全国の酔っ払いの方々には失礼かもしれないが)、真剣な眼差しであらすじを読む姿に驚いた。
考えを見透かされたこと、なんとなく前向きでない印象を持ってしまったことに気が引けて、いつもより明るい声を出す。
「読んだら、貸そうか?」
いいんすか、とこちらに向けた顔は、ぱっと明るい表情だった。
「うん。まだ読み始めたばっかりだから、ちょっと待たせるかもだけど」
「大丈夫っす、ゆっくりで」
やったー、と目を細めて喜ぶ姿に、胸がどんと跳ねた。いやいや、なに。柄にもなくどきっとして。
かすかに動揺するわたしに気づくはずもなく、葛西くんは丁寧な手つきでテーブルに本を置き、楽しみにしてます、とわたしの前まですすすっと滑らせた。
「もしかして、これ読むためにここに来た感じですか?」
「あー、まぁそんな感じかな」
「……邪魔しちゃってすみません」
「ううん、全然気にしないで。家だとなんか集中できないから、読んで帰ろうかなーぐらいの軽い気持ちだったし」
苦し紛れに出した言葉に、葛西くんは大きく頷く。
「それ、めっちゃわかります。外の方が読めますよね」
だよね、と相槌を打ち、内心ほっとする。
「まだまだ読む感じです? 始発まで?」
うーん、と唸る。正直言うと深く考えていなかった。
「そうだねぇ、明日はなにも予定ないし。眠くなったら、ここでうとうとして始発待つかな」
なーにが明日は、だ。明日も、でしょ。自分で自分につっこみを入れる。
葛西くんはなにかを考えるように宙に視線をさまよわせてから、あの、と控えめな声で言った。
「うん?」
「もしよかったら、ちょっと歩きませんか? 散歩しません?」
さんぽ、と訊き返す。彼は、そう、散歩、と朗らかに答えた。
「始発まで時間あるんだったら、ちょっとだけ」
だめですか、と首を傾げてこちらに向ける眼差しは、昔実家で飼っていた柴犬のコムギを思い起こさせた。散歩をねだる、まっすぐな瞳。
「うーん、まぁ、ちょっとなら」
「よっし。じゃあ早速」
テーブルの端にあった伝票をぐしゃりと掴み、葛西くんはさっとレジへ向かった。
慌てて荷物をまとめてレジ前で追いつくと同時に、しゃらんと決済音が鳴った。セルフレジでさっとお会計を済ませ、行きましょうかと爽やかな笑顔をこちらに向ける。
「ごめん、払うよ」
「いっすよ、僕が誘ったから出るわけだし」
「でも」
「じゃ、あとでジュースでも奢ってください」
ね、と言い残し、出口へ向かった。葛西くんに続いて店を出ると、先ほどよりもさらに温度を下げた風が吹きつけた。
「ど、こ、いこうかな」
そう楽し気に独りごちて、スマートフォンを操作する。マップアプリを開いているようだ。
なんだか奇妙なことになったな、と考えていると、あっ、と葛西くんが声を上げた。
「荷物、駅前のロッカーに入れちゃいましょうか。持って歩くの邪魔だし」
「あ、あぁ、荷物」
葛西くんの肩には、ずしりと重そうなリュックが張りついている。わたしの肩から下がる鞄は重くはないけれど、確かにない方が身軽ではある。
「よし、じゃ一回駅まで行きましょう。すぐだし」
歩き始めた背中に続く。どういう状況なの、これ。戸惑いながら歩いていると、突然立ち止まった葛西くんのリュックに顔をぶつけた。
「ぶっ」と、変な声が出る。一体なにが入っているんだ。固い。
「あ、すみません」
くるりと葛西くんが振り返る。衝突してじんわり痛む鼻をおさえながら、尋ねた。
「どうしたの」
「靴」
「靴?」
「三波さん、そのままだと歩きにくいかなって」
二人そろって足元を見下ろす。ぺたんこの黒いバレエシューズと、黒い革靴。
「ヒールないから大丈夫だよ。そんな長距離じゃなければ」
「ん-、でもなんかなー」
なぜか葛西くんが納得していない様子で、あごに手を当てて考え込んだ。少しして、そうだ、となにかをひらめいた様子を見せた。
「あそこ行きましょう」
指が示す先には、『激安の殿堂』という文字の踊る看板があった。文字の上には、サンタ帽をかぶったペンギン(と思われるもの)がこちらに向かって両手を広げている。駅に向かって、少し左の方向にある。ここからはそう遠くない。
ずんずんと歩みを進める葛西くんを追いかける。
店の前に着くと、「ここで待っててもらって」と言い残して一人で入店してしまった。戻ってきた彼は、店の雰囲気をそのまま凝縮したような派手な色のビニール袋を提げていた。がさがさ鳴らして何かを取り出す。でかでかとキティちゃんが描かれたピンクのヒョウ柄サンダルと、蛍光グリーンのサンダルだった。
「こんなんしかありませんでした」
てへへと吹き出しが付きそうな笑顔で、はい、とキティちゃんの方をわたしに手渡す。
「え、なに」
「これ、三波さんの。今履いてるのよりは楽でしょ」
無垢なはにかみを浮かべる葛西くんの気遣いを無碍にできず、渋々受け取る。
「レジ袋、余分にもらったんで。ぬいだ靴は袋に入れて、まとめてロッカーに入れちゃいましょう」
あなたの気遣いのベクトル、どうなってるの。細かいところには気がつくのに、二十五になる先輩にこんな派手なサンダルを履かせるの。様々な思いが頭をぐるぐる巡ってはいるが、なんだか明るい気分になっていることに気づく。
「よし、とりあえずバスロータリーのベンチにでも座って履き替えましょうか」
バスももちろん走っていない時間帯で、バスロータリーはがらんとしていた。駅舎に近いベンチに並んで腰かけてサンダルに履き替え、ぺたぺたと音を出しながら二人でロッカーへ向かった。
電灯の下で見るキティちゃんのサンダルは、いたるところにラメが施されていてより一層派手に見えた。葛西くんの蛍光グリーン、わたしのピンクのヒョウ柄。なんて騒がしい組み合わせだろう。自分の意思では起こりえない足元が可笑しくて、自然と口元が緩んだ。
葛西くんは派手なレジ袋(何枚か購入していたらしい)にスマートフォンや鍵を無造作に入れ、ロッカーの扉をぱたりと閉じる。
「とりあえず、そこらへん歩きましょうか」
「うん」
駅舎から出て、薄暗がりの中を歩く。大衆居酒屋やドラッグストアが並ぶ通りをぬけると、雑居ビルやこぢんまりした飲食店が多いエリアに入りさらに静かになる。こんな時間に、こんな場所を歩くのは新鮮だ。あたりを見回しながら歩いていると、葛西くんが「そういえば」と話し出した。
「三波さんと小坂さんと、タメなんですよね」
「うん。そうだよ」
「なんていうか、タイプちがいますよね」
タイプが、ちがう。どういう意味だろうか。根明と根暗? シゴデキとポンコツ? 頭に浮かぶのは、ネガティブな言葉ばかりだ。
「……小坂さん、すごいよね」
「すごいっすね。いろいろ一気に頼まれても動じないし、要領よくさばいていくし。課長とか部長とかの相手もうまいし」
「ね、本当に。わたしなんか、なーんにもできないし」
ついぽろりと弱音が口をついて出た。それと同時に、後悔の念が押し寄せる。後輩の前で、気を遣わせるような発言をしてしまうなんて。
「あの、個人的な意見なんですけど」
前を向いたまま、歩みを止めず葛西くんは続ける。
「三波さんがなんにもできないとか、全然そんなことないです。いつも細かいところに気づいてくれるなっていつも思ってます。外回りから帰ってきたときに振られる仕事も、営業の人がやりやすいように段取りをちゃんとしてくれてるし」
「……そうかな」
そっすよ、ときっぱりした声で葛西くんは言った。
「なんとなく、三波さんって小坂さんに遠慮っていうか、一歩引いている感じがある気がしてたんですけど。それか」
「それって?」
「引け目、感じてたんですね」
言葉を選ぶかのように、慎重な口調で葛西くんは話し続ける。
「小坂さんの要領のよさももちろん尊敬って感じなんですけど、三波さんの細やかさとか丁寧さもまじで尊敬してますよ」
尊敬、と日頃使わない単語が登場し、へっ、と気の抜けた声が出た。
「他の人が気にかけないとこ、よく見て気づいてくれるなって。僕が新人だからっていうのもあると思うんですが……結構雑に扱われること多いけど、三波さんはいつもちゃんと接してくれて」
少し間があって、上から目線みたいですみません、と小声で付け足した。
突然投げかけてもらった賛辞に感情が追い付かず、どうも、とだけ返事をするので精一杯だった。
葛西くんがなにも言葉を発しなくなり、少しの間沈黙が続いた。
数分歩いたのち、視界が開けたと思えば公園だった。背の低い雑居ビルに囲まれた、小さな公園。二人がけのベンチ、申し訳程度の砂場と手洗い用水栓の他は、前後に揺れて遊べる動物が二匹いるだけだ。地面とバネでつながっているその二匹はところどころ塗装がはげているが、おそらくパンダと象と思われた。
「あったあった」
と、葛西くんは公園に足を踏み入れる。あった、ってどういうことだろう。不思議に思いつつも、後に続く。
彼はパンダにまたがり、どうぞこちらへ、と言わんばかりに象に手のひらを向ける。座れということなのだろう。面白いほど葛西くんのペースに巻き込まれているが、慣れてきたのかなんだか心地よい感じがした。
この手の遊具、いつぶりだろうか。少しの緊張と高揚と胸に象にまたがって揺れてみると、ギギギと快適とは言えない音が上がった。
「これ、耐荷重大丈夫かな」
葛西くんが、ぷっと噴き出す。
「耐荷重って。三波さん真面目っすね」
「いやだって、子どもが使うものなのに大人が使って痛めたら良くないし」
あぁ、と相槌を打った葛西くんは「確かに、それはそうですね」とパンダから降りたので、わたしも降りた。少し揺れただけなのに、地面に足をつけて立つと世界が揺れているかのような錯覚を覚えた。ベンチに移動して、並んで腰かける。
葛西くんが手元のビニール袋からなにかを取り出し、はい、と差し出した。自販機に売っているものより小さな、緑茶の缶だった。
「サンダル買ったとき、レジ前にあったんで買っときました」
「わぁ、ありがとう」
缶のお茶なんていつぶりだろうとぼんやり考えながらプルタブに指をかける。予想以上のプルタブの固さに苦戦していると、葛西くんがさっと取り上げて開けてくれた。
一気に緑茶を流し込む。ぬるいけれど、すっきりとした緑茶の香りが鼻をぬけて心地よい。
「はー、おいしい」
「おいしいっすね」
なんとなく、二人で空を仰ぎ見る。輝く満月が空に浮かんでいればと思ったが、薄雲が散り散りに浮かんでいるだけで、月はほとんど見えなかった。
しばらくぼんやりしていると、よし、と声を上げて葛西くんが立ち上がった。再びビニール袋をがさがさと鳴らす。
「え、まだ何かあるの」
と、わたしが尋ねると、葛西くんは「じゃじゃーん」と得意げな顔で何かを取り出した。顔を近づけてじっと見ると、割り箸かと思うほど薄くて細長い袋に入った線香花火だった。
「売れ残りなのか、バラ売りされてたんですよ。つい買っちゃいました」
そういえば今年も花火大会に行かなかったな、とふと今年の夏を振り返る。そもそも相手がいなし、友達は彼氏や夫と出かける子が増えた。花火は好きだが、花火大会に一人でふらっと行くには混みすぎているし、寂しすぎる。
わたしが感傷にひたっている間に、葛西くんは手早く緑茶の空き缶に水を入れて戻ってきた。
「やりますか」
ベンチのすぐ近くに二人でしゃがみこみ、線香花火をそれぞれ手に持つ。ライターで火を点けようと線香花火の先端に真剣な眼差しを向ける彼の横顔を、じっと見つめた。
花火に火が灯り、じんわりと丸く膨らむ。ぴりぴりと小さな火花を散らしながら、緩やかに揺れるオレンジの光はとても綺麗だ。
線香花火ってこんなに綺麗だったっけ。うっとりと見つめているうちに、ほぼ同時にぽとりと玉が落ちた。
「落ちちゃった」
「儚いっすねー」
空き缶に燃え殻を入れ、二本目に火を点ける。柔らかな光を見ているうちに、心が落ち着いて穏やかな気持ちになってくる。
「葛西くん」
「なんすか?」
「ありがとね、さっき」
「さっき、って?」
「……励ましてくれたから。仕事のことで」
いや、別に、と小さく呟いてから、葛西くんは続けた。
「いつも思ってることなんで。励ますっていうか、そんなつもりなかったですけど」
「でも、嬉しかったから。ありがとう」
そこまで言うと、わたしの線香花火はぽとりと火の玉を落とした。まだ燃え続ける光を凝視したまま、葛西くんが言った。
「三波さんって」
「うん?」
「人のことには、よく目がいって気づけると思うんですけど」
「うん」
「自分に向けられたことには結構鈍感ですよね」
「えっ、そうかな」
「そんな気がします」
葛西くんが垂らす線香花火の先端が、暗くなった。次のものを準備しながら、わたしは言った。
「例えば、どういうところが?」
「……今日あそこで僕に誘われて、どう思いました?」
「どう、って。散歩に誘われたなって」
「ただ、後輩に散歩に誘われた、って感じですか」
「うん」
はぁーと長く息を吐き、ですよね、と葛西くんは膝と膝の間に顔をうずめた。
「え、ちょっとどういうこと」
「そういうところですよ」
うまく理解が追い付かないままでいると、葛西くんがわたしの花火に火を点けた。
「どっちが長いか、勝負しますか」
急に話題をかえられて釈然としないままだったが、強引に葛西くんが「スタート!」と始めてしまった。
「勝ったら、なにかあんの」
「三波さんにはないです」
「なんだそれ」
「けど、僕が勝ったら」
「うん」
そこですっと息を吸い、意を決したように彼は言った。
「手、つないでいいですか」
えっ、と反応したところで、その振動で火が落ちてしまった。数秒の差で、葛西くんの手元からも火が落ちる。
「はい、三波さんの負けー」
「これは、葛西くんが、変なこと言うから」
「変なことじゃないでしょ」
じゃあ今のはナシでいいんで、と次のものが手渡される。
「これで最後ですね」
最後、か。途端に寂しさが胸にこみ上げた。もう、終わりか。
「この勝負で、俺が勝ったら」
その先は言わず、葛西くんがそれぞれに火を点けた。胸に押し寄せる気持ちが、寂しさなのか戸惑いなのか、自分でも見当がつかない。
けれど、一つだけ言えることは、この時間が終わってほしくないと思っている自分がいることだった。
二人で、なにも言葉を発することなく灯りを見守る。急に、葛西くんが自分の花火に顔を近づけ、ふっと強く息を吹きかけた。ろうそくの火を消すように。丸く膨らんでいた火は、力なく落ちた。
「だめだ、こういうのは良くないっすね」
消え入るような声で、そう囁いた。わたしの線香花火は、ぷくぷくとこれ以上ないぐらい膨らんでいる。終わりが近いのは明らかだった。
もうすぐ終わってしまう、落ちてしまう。そう思うと、口から言葉が滑り出した。
「もうちょっと、やりたいな」
「え?」
「花火、もうちょっとやりたいなって」
わたしが言い終わるのとほぼ同時に、火が落ちた。それを見届けた葛西くんは立ち上がり、腰を支えながら上体を少し反らし、空を仰ぎ見た。つられて見上げた空には、先ほどは見えなかった月がぼんやりと光っていた。
「もう一回、買いに行きます?」
「……うん、行く」
葛西くんがわたしに向かって手を伸ばす。その手を握ると、じいんと熱い彼の体温が伝わってきた。強い力で引っ張り上げられる。
立ち上がると、ぱっと手が離された。先ほど手のひらに感じた彼の熱を、夜風が奪っていく。
暗がりの中を歩きながら、またあの熱さに触れたい、と思った。
=fin=

