──あ……! ちょっと! 待って……!
なんて心の叫びも虚しく、この日最後の電車が目の前を走り抜けていく。
ふわりと風になびいた髪とは裏腹に、私の気持ちはずんと沈んだ。
「はあ〜……」
今日一日分の疲れを込めた深いため息をついて、私は改札口へと踵を返す。
耳に残っているのは、さっきまで続いていた会社の飲み会の喧噪。
終電に乗り遅れたのは、気づかないふりをしていたせいだ──時間も、感情も、ぜんぶ。
⌘
「広瀬さん、一緒に抜け出しませんか」
そう後輩からこっそり耳打ちされたのは、二十二時半を過ぎたころだった。
顔は真っ赤で見るからに出来上がっている彼が、潤んだ目でこちらを見つめてくる。
「いかないよ。変な噂が立ったらお互い困るでしょ」
普段の私なら、もしかしたら酔った勢いでほだされてしまっていたかもしれない。
だけど、そんな気分にはなれなかった。
──だって、ほんの一週間前にフられたばかりだし。
私は二年付き合った恋人と別れたばかりだった。
理由はシンプル。
相手から「他に好きな人ができた」と言われた。
ただ、それだけ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
二十六歳。
そろそろ結婚を考えてもいい年齢。
なのに、なんで今? とも思った。
でも正直、あのまま結婚もせずに三十歳まで引き伸ばされたら──私は一生、彼を恨んだだろう。
それに、お互いのズレみたいなものは前々から感じていた。
だからまあ、強がりでもなんでもなく、別れるのは当然の結末だったに違いない。
そんなことを考えながら飲み続けて、やがてふと気づく。
さっき耳打ちしてきた後輩と、彼と同期の女性の姿が席から消えていた。
──女なら誰でもいいんかい。
これだから男ってヤツは。
私はある種のヤケ酒のようにグビッとウーロンハイを飲み干した。
⌘
重い足取りで地上へと上がると、外は細い霧のような雨が降っていた。
──うわ、最悪……。
傘はない。
金曜日の夜、しかも雨。
タクシー乗り場にはすでに長者の列が出来ていた。
仕方なしに駅前のコンビニに滑り込んで、ペットボトルの水を手に取り会計を済まる。
軒先で雨宿りをしながら、天気アプリを開いた。
──通り雨……すぐ止むか。
さて。
止んでから、どうしよう。
タクシー乗り場に戻るか、始発までどこかで時間を潰すか。
辺りを見回すと、少し離れたところで私と同じようにひとり立ち尽くす男性の姿が視界に入った。
黒いコートに、小さめのキャリーケース。
片手にはコンビニの袋。
そして──どこかで見たことのある横顔。
じっと見つめていると、彼がこちらに気づいて顔を向けた。
「……杏奈?」
少し驚いたような声で名前を呼ばれる。
心臓が一瞬だけ大きく跳ねた。
それは聞き間違いかと思うほど、懐かしい声。
「もしかして、桔平……?」
半信半疑で返したけれど、私が『杏奈』だと確信していたのだろう。
彼は弾んだ声を上げながら、こちらに近づいていた。
「うわ、杏奈じゃん! 久しぶり!」
「桔平も!」
私も声を弾ませた。
彼は大学のときに一番よく笑い合っていた人だ。
ウマが合って、ツボも一緒で、とにかく一緒にいると楽しかった。
大学のキャンパス、安い居酒屋、深夜のカラオケ──どれも懐かしくて、楽しい記憶ばかり。
そんな記憶の奥からふいに顔を覗かせたのは、あのとき言えなかった『好き』という感情。
忘れたふりをしていたはずなのに、名前を呼ばれただけでこんなにも簡単によみがえってしまうなんて。
──純粋、ってことだったのかなあ。
すごくピュアな片想いをしていたのかもしれない。
そう考えると少し可笑しくて、でも同時に、当時の自分がちょっと羨ましくもあった。
「もしかして、杏奈も終電逃した?」
「『も』ってことは、桔平も?」
「そ、構内で迷って乗り過ごした。ってか、東京の駅どこも変わりすぎじゃね?」
苦笑いしながら頭をかく仕草は、大学時代と何も変わっていなかった。
ちょっと大げさに肩をすくめるところも相変わらずだ。
「桔平が大阪に行ってから、だいぶ変わってきてるからね」
大学を卒業してから、桔平は大阪のほうへ就職した。
連絡をとっていたのは、ほんの半年ほど。
自然と疎遠になって、それきりだったけど──こうして再会してみると、思ったよりも変わっていない。
「でも、元気そうでよかったわ」
「おかげさまで。桔平も相変わらずそうだね」
「まあな」
一瞬だけ視線が合って、どちらからともなく小さく笑い合う。
くしゃっとした顔で笑う笑顔も、変わっていなかった。
「桔平は……出張?」
「そう。やっぱ東京は人が多いな。久々だから人酔いしそうだわ」
「大阪だって変わんないと思うけど」
「いや、全然違うわ。密度っていうか……とにかく違う」
軽口を交わすたび、じわじわと大学時代の空気が戻ってくるようだった。
考えるよりも先に言葉が出てくる、あの感じ。
年月が流れても、こういう呼吸は不思議と変わらない。
「それ、中身なに?」
視線で桔平のコンビニ袋を指す。
「缶ビールとつまみ。予約したホテルまでけっこう距離あるからさ。ここでタクシー空くの待ってようと思ってたんだよね」
「ああね」
そんな会話をしている最中、ふと空気の音が変わった。
街のざわめきは少し近く感じて、雨粒の跳ね返る音が消えている。
「あ、止んだね」
私が空を見上げると、桔平も同じように見上げた。
雨上がりの街。
ネオンの光が雨でできた即興の水面に反射して、街全体がキラキラと煌めいているように見えた。
「どっかで飲み直す?」
隣から、ぽつりとした声が落ちた。
「え?」
唐突すぎて、私は思わず聞き返してしまう。
「お前、もうけっこう飲んでるだろ。耳赤いから、すぐわかった」
桔平がいたずらっぽく笑った。
からかわれているとわかっているのに、ちょっぴり嬉しいのが悔しい。
──そんなの、いつから知っていたんだろう。
飲むと耳が赤くなるなんて、誰にも気づかれていないと思っていたのに。
「飲んだけど、呑まれてない」
ちょっとだけ口を尖らせて返すと、桔平は昔みたいに肩をすくめた。
「杏奈は酒強かったからなあ」
それはたしかにそうだった。
記憶をたどれば、大学時代、よく潰れていたのはいつも桔平のほうだった。
「……ま、久々の再会だし。せっかくだから行こうか」
「おう。どこか知ってる店ある?」
「駅前に遅くまでやってるバーがあったはず」
「さすが東京民。じゃ、案内頼むわ」
そう言って、桔平がキャリーケースの取っ手を引き直す。
その音に並ぶように私も歩き出した。
駅前の夜は、終電がなくなったのに騒がしい。
でもその喧騒のなかに、少しだけ懐かしさが混ざっているような気がした。
⌘
駅前の大通りから一本だけ裏手に入った細長い路地。
飲み屋の灯りがぽつぽつと並ぶなかで、黒い木製の扉がひっそりと佇んでいる店があった。
「ここなんだけど、いい?」
「杏奈の紹介ならどこでも大丈夫。呑兵衛が行く店にハズレはないっしょ」
「呑兵衛って、女子に言うセリフじゃないからね」
苦笑しながら扉を押すと、チリンと控えめな鈴の音が鳴った。
こぢんまりとした店内には、カウンターとテーブル席が二つ。
そして奥には、革張りのソファ席がひとつだけ。
照明は落ち着いた暖色で、天井から吊るされた古風なランプがほのかに空間を照らしている。
スピーカーからは、ゆったりとしたジャズが流れていた。
スタッフに案内され、私たちは奥のソファ席へ腰を下ろす。
座った瞬間、程よく沈み込んだソファが体を包んだ。
広すぎず、狭すぎず──絶妙な距離感。
「落ち着くな、ここ」
桔平が肩を落として背もたれに寄りかかる。
キャリーケースを足元に押しやって、やっと一息つけたような表情をしていた。
「何飲む?」
「俺はジントニックかなあ。杏奈は?」
「私はアメリカンレモネード」
「あー、赤ワインのやつ?」
「そう。こういうところじゃないと飲めないからね」
「たしかに。お前、バーじゃよく飲んでたもんな」
桔平が小さく笑う。
案外、桔平も私のことをよく覚えてくれているもんだな、なんてちょっと嬉しくなった。
「じゃ、乾杯」
届いたグラスを手に取り、ふたりで軽く合わせる。
チン──と小さな音が静かな店内に響いた。
「思いがけず再会したけど、よく考えたらすごい確率だよな」
「ほんとにね。何年ぶり? 五年くらい?」
「たぶんそんくらい。卒業してすぐだったよな、最後」
時が経つのは早い。
ありきたりだけど、ついそんなことを思ってしまう。
「杏奈は変わらず東京にいるんだな」
「まあね。地元よりいいかなって」
「大学生のときから東京に馴染んでたもんな、お前」
「馴染んでたっていうか……まあ、楽しかったからさ」
地方の田舎より、なんでもあって、なんでも揃う東京のほうが断然刺激的だった。
でも、それだけじゃなかった。
今思えば、桔平がいたから楽しかったのかもしれない。
「杏奈はよくこの駅使うの?」
「うん。職場の最寄りだからね」
「うわ、こんな大ターミナルに毎日来るとかすげぇな」
「慣れだよ、慣れ。感情を殺せばいいんたよ」
「悲しいけどわかるわ〜、それ」
くだらないことを言い合って、また笑った。
それから、自然と昔話に花が咲いた。
共通の友達、ゼミ旅行、終電を逃した夜のこと──全部懐かしくて、でも今は、手が届かないほど遠い過去。
「そういえば、なんで杏奈は終電逃したの? やっぱり飲み会?」
「そう、会社の飲み会。四ヶ月に一回くらいのペースで飲み会やってるんだけどさ、なんか今日はぼーっとしてたっていうか」
「珍しい。悩みごととか?」
「悩み……っていうほどじゃないけど。先週、二年付き合ってた人と別れてさあ。あとはまあ、いろいろだよね」
言いながら苦笑いをこぼした。
“いろいろ”なんて便利な言葉でまとめたけど、本当はそんなに単純じゃない。
仕事も、生活も、人間関係も。
ひとつひとつはたいしたことないのに、小さな引っかかりがいくつも重なって、気づけばほどけない塊になっている。
それを言葉にする気力がないから、“いろいろ”とだけ言ってしまう。
たぶん、みんなそうやって、何かを飲み込んで生きてるんだろう。
「いろいろ……あるよなあ」
「いろいろあるよ〜」
「なんか久々に会って『昔みたい』って思ったけど……やっぱり、昔とは違うよな」
桔平がそう言ったとき、一瞬だけ沈黙が落ちた。
グラスの中の氷がカランと音を立てる。
違うのは当然なんだと思った。
こうして桔平に会えた“今”はたしかに懐かしいけれど、やっぱり昔とは少し違う。
変わっていないように見えて、ちゃんと時間は流れていて──私たちはいつの間にか、大人になってしまったんだ。
「桔平は? 彼女とかいないの?」
「俺も、半年前に別れた。向こうの浮気」
「……ドンマイ」
「フラれたばっかのお前に言われると沁みるわ」
そう言って、またふたりで笑い合った。
グラス越しに映る彼の姿を見て、ふと思う。
大学時代に、もし桔平と付き合っていたら──。
私たちは、そのまま結婚まで行ったのだろうか。
それとも歳を重ねるごとにすれ違って、別れてしまったのだろうか。
そもそも、付き合えたのだろうか。
なんにせよ、それはもう確かめようのない「もしも」の話だ。
だけど、それがなかったから、今がある。
そう思えば、あのとき友達でいたことは正解だったのかもしれない。
──なんて、都合よく思ってるだけなのかな。
そんなふうに考えていると、桔平がグラスを揺らしながら不意に口を開いた。
「……たとえばさ」
「ん?」
「もし今日、終電に間に合ってたとして……」
桔平の目が、ゆっくりとこちらを向く。
「それでも、俺とこうして飲みに来たと思う?」
一瞬、言葉が出なかった。
店内の音楽だけが、ゆったりと通り過ぎていく。
私はグラスの中の氷を見つめながら、すこしだけ考えるふりをした。
本当はもう──答えなんて決まっているのに。
だけどその言葉をストレートに口にするほどの若さと勇気が、もう自分の中には残ってないのかもしれない。
「……そのときの気分によるかな」
「気分?」
「そ、気分。でもたぶん……今日の私は、飲みに来てたと思う」
桔平は少し驚いた顔をしたあと、ゆるく笑った。
「そっか。じゃあ今日の俺、けっこうツイてたな」
桔平が顔を傾げながらグラスをテーブルに置いた。
時計を見ると、もう午前三時を過ぎている。
「……そろそろ解散だな」
「だね。明日……いや、もう今日か。仕事じゃなくてよかったよ」
「俺は昼の新幹線で帰る予定」
「大阪まで?」
「うん。また現実に引き戻されるわ」
そう言って、桔平は軽く伸びをしてみせる。
私もグラスを空け、立ち上がった。
ふたりで店を出ると、外はすっかり静まり返っていた。
まだ雨上がりの気配を帯びている都会の夜は、どこか優しく感じられる。
もうタクシー乗り場には人気がなくて、すぐに乗車できそうだった。
「今日はありがとう」
桔平がまっすぐに言った。
さっきまでの冗談めいた空気とは少し違う。
彼の声だけが、夜霧に溶けていくみたいだった。
「こちらこそ、ありがとう。楽しかった」
本当に、心からそう思った。
偶然再会して、こんなふうに何時間も話せるなんて──それはきっと、奇跡に近い瞬間。
微笑み合っていると、まばゆいくらいの光が私たちの姿を照らしだした。
タクシーのヘッドライトが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
あと少しで、この夜も終わってしまう。
私はふと思い出したように口を開いた。
「そうだ、連絡先……」
そう言いかけたとき、桔平がひとつ首を振った。
「もし、また会えたら……そのときにしようぜ」
少しだけ風が吹いた。
夜の空気がふたりの間を抜けていく。
ふわりと髪がなびくように、私の心も少しだけ揺れた。
それは、浮かれた高鳴りとは違くて。
少しだけ切なくて、少しだけ納得してしまうような──ああ、たしかにそうだよね、って思える感情だった。
きっといまの私たちには、それがちょうどいい距離なのかもしれない。
「……そうだね」
ふっと微笑みを返したとき、タクシーが到着した。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「杏奈も、気をつけて」
「……元気でね」
「……元気で」
その言葉を最後に、私はタクシーに乗り込んだ。
桔平がガラス越しに片手をひらりと振る。
私も同じように軽く手を振ってすぐ、タクシーが走り出した。
後ろは、振り返らない──。
私は行き先を告げて、身を預けるようにコツンと窓に頭を傾けた。
──「またね」って言えなかったな……。
連絡先も、交換しなかった。
だけど、それでもいいと思えた。
“また”があるかどうかなんて、わからない。
それでも、もし本当にまた偶然再会できたら。
そのときは──運命ってやつを信じてみてもいいのかもしれない。
なんて。
柄にもなく、センチメンタルなことを願ってしまう夜だった。
⌘
金曜日の夜、会社の飲み会帰り。
私は終電に間に合う時間に駅構内を歩いていた。
──あれからもう四ヶ月か……。
終電を逃して、雨に降られて、雨宿りして、そうして彼に出会った夜。
あれは、ただの偶然だった。
だけど、忘れられない再会。
もしかしたら私は、今も心のどこかであのときの続きを探しているのかもしれない。
──まあ、そんなことあるわけないか……。
小さくため息をついて、改札を通り過ぎようとした。
そのとき。
「杏奈」
背後から名前を呼ばれて、思わず足が止まる。
振り返ると──桔平がいた。
──うそ……。
一瞬、頭が真っ白になる。
景色もにじんで、桔平以外なにも認識できなくなっていく。
びっくりして口を開けたままの私に、桔平は軽く片手をあげる。
それから少しだけ眉を下げるようにして、くしゃっとした懐かしい笑顔を見せた。
「よっ」
たったのひと言なのに、胸の奥がじんと熱くなる。
「……また、出張?」
心と頭が追いついていないせいか、口から出た言葉は妙に他人行儀なものだった。
「久しぶり」とか「すごい偶然だね」とか、他にも言うことはあったかもしれない。
でも、目の前に桔平がいるという事実に思考が全部もっていかれていた。
「だと思う?」
その問いかけに、私はそっと視線を下ろす。
──あ……。
彼の足元には、この前あったキャリーケースがなかった。
「まあ……偶然ってことにしといて」
わずかに顔を赤らめて気まずそうに唇を尖らせている桔平の姿に、私は思わず笑ってしまう。
でも胸の奥ではわかっていた。
──きっと、偶然なんかじゃない……。
彼は、わざわざここに来てくれた。
そして私も、どこかでそれを望んでいた。
「……ありがと」
私がそう言うと桔平は頭をかいて、照れくさそうに目線を逸らした。
ふぅと軽く息を吐いたあと、彼はこちらを見つめながら言葉を紡いだ。
「杏奈さ……俺と一緒に、終電、逃してみない?」
冗談みたいに言う声。
でも、その目だけは冗談じゃなかった。
「……わざと?」
「わざと」
私たちは目を合わせたまま少しのあいだ黙った。
けれど、答えはもう決まっていた。
あの夜、バーで「俺とこうして飲みに来たと思う?」と聞かれたとき。
私は少し笑って、少し誤魔化して、ちゃんとは答えなかった。
でも今は違う。
今なら迷わず言える。
ちゃんと、自分の気持ちで選べる。
「……うん、いいよ」
そう答えた瞬間、桔平の目元がわずかにゆるんだ。
大学時代には見たことのない、大人で、やさしい男の人の微笑みだった。
駅構内を抜けて、あのときと同じようなネオンと喧騒の中を駆けていく。
違うのは、それを“自分たちで選んだ”ってことだけ。
「ねえ……今日は連絡先、聞いてもいい?」
桔平は目を細めて笑って、そして、うなずいた。
こうして私たちは、もう一度、終電を逃した。
今度は──自分たちの意志で。
なんて心の叫びも虚しく、この日最後の電車が目の前を走り抜けていく。
ふわりと風になびいた髪とは裏腹に、私の気持ちはずんと沈んだ。
「はあ〜……」
今日一日分の疲れを込めた深いため息をついて、私は改札口へと踵を返す。
耳に残っているのは、さっきまで続いていた会社の飲み会の喧噪。
終電に乗り遅れたのは、気づかないふりをしていたせいだ──時間も、感情も、ぜんぶ。
⌘
「広瀬さん、一緒に抜け出しませんか」
そう後輩からこっそり耳打ちされたのは、二十二時半を過ぎたころだった。
顔は真っ赤で見るからに出来上がっている彼が、潤んだ目でこちらを見つめてくる。
「いかないよ。変な噂が立ったらお互い困るでしょ」
普段の私なら、もしかしたら酔った勢いでほだされてしまっていたかもしれない。
だけど、そんな気分にはなれなかった。
──だって、ほんの一週間前にフられたばかりだし。
私は二年付き合った恋人と別れたばかりだった。
理由はシンプル。
相手から「他に好きな人ができた」と言われた。
ただ、それだけ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
二十六歳。
そろそろ結婚を考えてもいい年齢。
なのに、なんで今? とも思った。
でも正直、あのまま結婚もせずに三十歳まで引き伸ばされたら──私は一生、彼を恨んだだろう。
それに、お互いのズレみたいなものは前々から感じていた。
だからまあ、強がりでもなんでもなく、別れるのは当然の結末だったに違いない。
そんなことを考えながら飲み続けて、やがてふと気づく。
さっき耳打ちしてきた後輩と、彼と同期の女性の姿が席から消えていた。
──女なら誰でもいいんかい。
これだから男ってヤツは。
私はある種のヤケ酒のようにグビッとウーロンハイを飲み干した。
⌘
重い足取りで地上へと上がると、外は細い霧のような雨が降っていた。
──うわ、最悪……。
傘はない。
金曜日の夜、しかも雨。
タクシー乗り場にはすでに長者の列が出来ていた。
仕方なしに駅前のコンビニに滑り込んで、ペットボトルの水を手に取り会計を済まる。
軒先で雨宿りをしながら、天気アプリを開いた。
──通り雨……すぐ止むか。
さて。
止んでから、どうしよう。
タクシー乗り場に戻るか、始発までどこかで時間を潰すか。
辺りを見回すと、少し離れたところで私と同じようにひとり立ち尽くす男性の姿が視界に入った。
黒いコートに、小さめのキャリーケース。
片手にはコンビニの袋。
そして──どこかで見たことのある横顔。
じっと見つめていると、彼がこちらに気づいて顔を向けた。
「……杏奈?」
少し驚いたような声で名前を呼ばれる。
心臓が一瞬だけ大きく跳ねた。
それは聞き間違いかと思うほど、懐かしい声。
「もしかして、桔平……?」
半信半疑で返したけれど、私が『杏奈』だと確信していたのだろう。
彼は弾んだ声を上げながら、こちらに近づいていた。
「うわ、杏奈じゃん! 久しぶり!」
「桔平も!」
私も声を弾ませた。
彼は大学のときに一番よく笑い合っていた人だ。
ウマが合って、ツボも一緒で、とにかく一緒にいると楽しかった。
大学のキャンパス、安い居酒屋、深夜のカラオケ──どれも懐かしくて、楽しい記憶ばかり。
そんな記憶の奥からふいに顔を覗かせたのは、あのとき言えなかった『好き』という感情。
忘れたふりをしていたはずなのに、名前を呼ばれただけでこんなにも簡単によみがえってしまうなんて。
──純粋、ってことだったのかなあ。
すごくピュアな片想いをしていたのかもしれない。
そう考えると少し可笑しくて、でも同時に、当時の自分がちょっと羨ましくもあった。
「もしかして、杏奈も終電逃した?」
「『も』ってことは、桔平も?」
「そ、構内で迷って乗り過ごした。ってか、東京の駅どこも変わりすぎじゃね?」
苦笑いしながら頭をかく仕草は、大学時代と何も変わっていなかった。
ちょっと大げさに肩をすくめるところも相変わらずだ。
「桔平が大阪に行ってから、だいぶ変わってきてるからね」
大学を卒業してから、桔平は大阪のほうへ就職した。
連絡をとっていたのは、ほんの半年ほど。
自然と疎遠になって、それきりだったけど──こうして再会してみると、思ったよりも変わっていない。
「でも、元気そうでよかったわ」
「おかげさまで。桔平も相変わらずそうだね」
「まあな」
一瞬だけ視線が合って、どちらからともなく小さく笑い合う。
くしゃっとした顔で笑う笑顔も、変わっていなかった。
「桔平は……出張?」
「そう。やっぱ東京は人が多いな。久々だから人酔いしそうだわ」
「大阪だって変わんないと思うけど」
「いや、全然違うわ。密度っていうか……とにかく違う」
軽口を交わすたび、じわじわと大学時代の空気が戻ってくるようだった。
考えるよりも先に言葉が出てくる、あの感じ。
年月が流れても、こういう呼吸は不思議と変わらない。
「それ、中身なに?」
視線で桔平のコンビニ袋を指す。
「缶ビールとつまみ。予約したホテルまでけっこう距離あるからさ。ここでタクシー空くの待ってようと思ってたんだよね」
「ああね」
そんな会話をしている最中、ふと空気の音が変わった。
街のざわめきは少し近く感じて、雨粒の跳ね返る音が消えている。
「あ、止んだね」
私が空を見上げると、桔平も同じように見上げた。
雨上がりの街。
ネオンの光が雨でできた即興の水面に反射して、街全体がキラキラと煌めいているように見えた。
「どっかで飲み直す?」
隣から、ぽつりとした声が落ちた。
「え?」
唐突すぎて、私は思わず聞き返してしまう。
「お前、もうけっこう飲んでるだろ。耳赤いから、すぐわかった」
桔平がいたずらっぽく笑った。
からかわれているとわかっているのに、ちょっぴり嬉しいのが悔しい。
──そんなの、いつから知っていたんだろう。
飲むと耳が赤くなるなんて、誰にも気づかれていないと思っていたのに。
「飲んだけど、呑まれてない」
ちょっとだけ口を尖らせて返すと、桔平は昔みたいに肩をすくめた。
「杏奈は酒強かったからなあ」
それはたしかにそうだった。
記憶をたどれば、大学時代、よく潰れていたのはいつも桔平のほうだった。
「……ま、久々の再会だし。せっかくだから行こうか」
「おう。どこか知ってる店ある?」
「駅前に遅くまでやってるバーがあったはず」
「さすが東京民。じゃ、案内頼むわ」
そう言って、桔平がキャリーケースの取っ手を引き直す。
その音に並ぶように私も歩き出した。
駅前の夜は、終電がなくなったのに騒がしい。
でもその喧騒のなかに、少しだけ懐かしさが混ざっているような気がした。
⌘
駅前の大通りから一本だけ裏手に入った細長い路地。
飲み屋の灯りがぽつぽつと並ぶなかで、黒い木製の扉がひっそりと佇んでいる店があった。
「ここなんだけど、いい?」
「杏奈の紹介ならどこでも大丈夫。呑兵衛が行く店にハズレはないっしょ」
「呑兵衛って、女子に言うセリフじゃないからね」
苦笑しながら扉を押すと、チリンと控えめな鈴の音が鳴った。
こぢんまりとした店内には、カウンターとテーブル席が二つ。
そして奥には、革張りのソファ席がひとつだけ。
照明は落ち着いた暖色で、天井から吊るされた古風なランプがほのかに空間を照らしている。
スピーカーからは、ゆったりとしたジャズが流れていた。
スタッフに案内され、私たちは奥のソファ席へ腰を下ろす。
座った瞬間、程よく沈み込んだソファが体を包んだ。
広すぎず、狭すぎず──絶妙な距離感。
「落ち着くな、ここ」
桔平が肩を落として背もたれに寄りかかる。
キャリーケースを足元に押しやって、やっと一息つけたような表情をしていた。
「何飲む?」
「俺はジントニックかなあ。杏奈は?」
「私はアメリカンレモネード」
「あー、赤ワインのやつ?」
「そう。こういうところじゃないと飲めないからね」
「たしかに。お前、バーじゃよく飲んでたもんな」
桔平が小さく笑う。
案外、桔平も私のことをよく覚えてくれているもんだな、なんてちょっと嬉しくなった。
「じゃ、乾杯」
届いたグラスを手に取り、ふたりで軽く合わせる。
チン──と小さな音が静かな店内に響いた。
「思いがけず再会したけど、よく考えたらすごい確率だよな」
「ほんとにね。何年ぶり? 五年くらい?」
「たぶんそんくらい。卒業してすぐだったよな、最後」
時が経つのは早い。
ありきたりだけど、ついそんなことを思ってしまう。
「杏奈は変わらず東京にいるんだな」
「まあね。地元よりいいかなって」
「大学生のときから東京に馴染んでたもんな、お前」
「馴染んでたっていうか……まあ、楽しかったからさ」
地方の田舎より、なんでもあって、なんでも揃う東京のほうが断然刺激的だった。
でも、それだけじゃなかった。
今思えば、桔平がいたから楽しかったのかもしれない。
「杏奈はよくこの駅使うの?」
「うん。職場の最寄りだからね」
「うわ、こんな大ターミナルに毎日来るとかすげぇな」
「慣れだよ、慣れ。感情を殺せばいいんたよ」
「悲しいけどわかるわ〜、それ」
くだらないことを言い合って、また笑った。
それから、自然と昔話に花が咲いた。
共通の友達、ゼミ旅行、終電を逃した夜のこと──全部懐かしくて、でも今は、手が届かないほど遠い過去。
「そういえば、なんで杏奈は終電逃したの? やっぱり飲み会?」
「そう、会社の飲み会。四ヶ月に一回くらいのペースで飲み会やってるんだけどさ、なんか今日はぼーっとしてたっていうか」
「珍しい。悩みごととか?」
「悩み……っていうほどじゃないけど。先週、二年付き合ってた人と別れてさあ。あとはまあ、いろいろだよね」
言いながら苦笑いをこぼした。
“いろいろ”なんて便利な言葉でまとめたけど、本当はそんなに単純じゃない。
仕事も、生活も、人間関係も。
ひとつひとつはたいしたことないのに、小さな引っかかりがいくつも重なって、気づけばほどけない塊になっている。
それを言葉にする気力がないから、“いろいろ”とだけ言ってしまう。
たぶん、みんなそうやって、何かを飲み込んで生きてるんだろう。
「いろいろ……あるよなあ」
「いろいろあるよ〜」
「なんか久々に会って『昔みたい』って思ったけど……やっぱり、昔とは違うよな」
桔平がそう言ったとき、一瞬だけ沈黙が落ちた。
グラスの中の氷がカランと音を立てる。
違うのは当然なんだと思った。
こうして桔平に会えた“今”はたしかに懐かしいけれど、やっぱり昔とは少し違う。
変わっていないように見えて、ちゃんと時間は流れていて──私たちはいつの間にか、大人になってしまったんだ。
「桔平は? 彼女とかいないの?」
「俺も、半年前に別れた。向こうの浮気」
「……ドンマイ」
「フラれたばっかのお前に言われると沁みるわ」
そう言って、またふたりで笑い合った。
グラス越しに映る彼の姿を見て、ふと思う。
大学時代に、もし桔平と付き合っていたら──。
私たちは、そのまま結婚まで行ったのだろうか。
それとも歳を重ねるごとにすれ違って、別れてしまったのだろうか。
そもそも、付き合えたのだろうか。
なんにせよ、それはもう確かめようのない「もしも」の話だ。
だけど、それがなかったから、今がある。
そう思えば、あのとき友達でいたことは正解だったのかもしれない。
──なんて、都合よく思ってるだけなのかな。
そんなふうに考えていると、桔平がグラスを揺らしながら不意に口を開いた。
「……たとえばさ」
「ん?」
「もし今日、終電に間に合ってたとして……」
桔平の目が、ゆっくりとこちらを向く。
「それでも、俺とこうして飲みに来たと思う?」
一瞬、言葉が出なかった。
店内の音楽だけが、ゆったりと通り過ぎていく。
私はグラスの中の氷を見つめながら、すこしだけ考えるふりをした。
本当はもう──答えなんて決まっているのに。
だけどその言葉をストレートに口にするほどの若さと勇気が、もう自分の中には残ってないのかもしれない。
「……そのときの気分によるかな」
「気分?」
「そ、気分。でもたぶん……今日の私は、飲みに来てたと思う」
桔平は少し驚いた顔をしたあと、ゆるく笑った。
「そっか。じゃあ今日の俺、けっこうツイてたな」
桔平が顔を傾げながらグラスをテーブルに置いた。
時計を見ると、もう午前三時を過ぎている。
「……そろそろ解散だな」
「だね。明日……いや、もう今日か。仕事じゃなくてよかったよ」
「俺は昼の新幹線で帰る予定」
「大阪まで?」
「うん。また現実に引き戻されるわ」
そう言って、桔平は軽く伸びをしてみせる。
私もグラスを空け、立ち上がった。
ふたりで店を出ると、外はすっかり静まり返っていた。
まだ雨上がりの気配を帯びている都会の夜は、どこか優しく感じられる。
もうタクシー乗り場には人気がなくて、すぐに乗車できそうだった。
「今日はありがとう」
桔平がまっすぐに言った。
さっきまでの冗談めいた空気とは少し違う。
彼の声だけが、夜霧に溶けていくみたいだった。
「こちらこそ、ありがとう。楽しかった」
本当に、心からそう思った。
偶然再会して、こんなふうに何時間も話せるなんて──それはきっと、奇跡に近い瞬間。
微笑み合っていると、まばゆいくらいの光が私たちの姿を照らしだした。
タクシーのヘッドライトが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
あと少しで、この夜も終わってしまう。
私はふと思い出したように口を開いた。
「そうだ、連絡先……」
そう言いかけたとき、桔平がひとつ首を振った。
「もし、また会えたら……そのときにしようぜ」
少しだけ風が吹いた。
夜の空気がふたりの間を抜けていく。
ふわりと髪がなびくように、私の心も少しだけ揺れた。
それは、浮かれた高鳴りとは違くて。
少しだけ切なくて、少しだけ納得してしまうような──ああ、たしかにそうだよね、って思える感情だった。
きっといまの私たちには、それがちょうどいい距離なのかもしれない。
「……そうだね」
ふっと微笑みを返したとき、タクシーが到着した。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「杏奈も、気をつけて」
「……元気でね」
「……元気で」
その言葉を最後に、私はタクシーに乗り込んだ。
桔平がガラス越しに片手をひらりと振る。
私も同じように軽く手を振ってすぐ、タクシーが走り出した。
後ろは、振り返らない──。
私は行き先を告げて、身を預けるようにコツンと窓に頭を傾けた。
──「またね」って言えなかったな……。
連絡先も、交換しなかった。
だけど、それでもいいと思えた。
“また”があるかどうかなんて、わからない。
それでも、もし本当にまた偶然再会できたら。
そのときは──運命ってやつを信じてみてもいいのかもしれない。
なんて。
柄にもなく、センチメンタルなことを願ってしまう夜だった。
⌘
金曜日の夜、会社の飲み会帰り。
私は終電に間に合う時間に駅構内を歩いていた。
──あれからもう四ヶ月か……。
終電を逃して、雨に降られて、雨宿りして、そうして彼に出会った夜。
あれは、ただの偶然だった。
だけど、忘れられない再会。
もしかしたら私は、今も心のどこかであのときの続きを探しているのかもしれない。
──まあ、そんなことあるわけないか……。
小さくため息をついて、改札を通り過ぎようとした。
そのとき。
「杏奈」
背後から名前を呼ばれて、思わず足が止まる。
振り返ると──桔平がいた。
──うそ……。
一瞬、頭が真っ白になる。
景色もにじんで、桔平以外なにも認識できなくなっていく。
びっくりして口を開けたままの私に、桔平は軽く片手をあげる。
それから少しだけ眉を下げるようにして、くしゃっとした懐かしい笑顔を見せた。
「よっ」
たったのひと言なのに、胸の奥がじんと熱くなる。
「……また、出張?」
心と頭が追いついていないせいか、口から出た言葉は妙に他人行儀なものだった。
「久しぶり」とか「すごい偶然だね」とか、他にも言うことはあったかもしれない。
でも、目の前に桔平がいるという事実に思考が全部もっていかれていた。
「だと思う?」
その問いかけに、私はそっと視線を下ろす。
──あ……。
彼の足元には、この前あったキャリーケースがなかった。
「まあ……偶然ってことにしといて」
わずかに顔を赤らめて気まずそうに唇を尖らせている桔平の姿に、私は思わず笑ってしまう。
でも胸の奥ではわかっていた。
──きっと、偶然なんかじゃない……。
彼は、わざわざここに来てくれた。
そして私も、どこかでそれを望んでいた。
「……ありがと」
私がそう言うと桔平は頭をかいて、照れくさそうに目線を逸らした。
ふぅと軽く息を吐いたあと、彼はこちらを見つめながら言葉を紡いだ。
「杏奈さ……俺と一緒に、終電、逃してみない?」
冗談みたいに言う声。
でも、その目だけは冗談じゃなかった。
「……わざと?」
「わざと」
私たちは目を合わせたまま少しのあいだ黙った。
けれど、答えはもう決まっていた。
あの夜、バーで「俺とこうして飲みに来たと思う?」と聞かれたとき。
私は少し笑って、少し誤魔化して、ちゃんとは答えなかった。
でも今は違う。
今なら迷わず言える。
ちゃんと、自分の気持ちで選べる。
「……うん、いいよ」
そう答えた瞬間、桔平の目元がわずかにゆるんだ。
大学時代には見たことのない、大人で、やさしい男の人の微笑みだった。
駅構内を抜けて、あのときと同じようなネオンと喧騒の中を駆けていく。
違うのは、それを“自分たちで選んだ”ってことだけ。
「ねえ……今日は連絡先、聞いてもいい?」
桔平は目を細めて笑って、そして、うなずいた。
こうして私たちは、もう一度、終電を逃した。
今度は──自分たちの意志で。



