終電を逃すなんて全然特別なことじゃなくて、はっきりいってよくやってしまう。

飲み会の二次会でダラダラ過ごしたとか、残業で遅くなってしまっただとか、まあ理由は色々。
だけどそんなに困ることもない。
雨の日は、出費は痛いけれどタクシーに乗ればいい。
それに晴れているなら、歩いて帰ればいいから。
私は電車を逃して歩くのが結構好きな人間なのです。

たった今、八月の金曜が土曜に変わって真夜中が顔を出したところで「あーあ。間に合わなかった」と独り言。
紺野芽衣子(こんのめいこ)、二十三歳。慣れた仕草で終電を逃しました。

ちなみに本日の間に合わなかった理由は、部署の飲み会で先輩につかまって抜けられなかったから。
本当は見たいテレビ番組なんかもあったけれど、まあ見逃し配信で見られるわけで、若手社員が飲み会を抜けるというのもなかなか難しかった。
こうなったらさっさと諦めて歩き始めるのが賢い。

てくてくと、流れるように歩き始める。

なんなら覚悟してましたよ、という感じで足元はスニーカーだし。
駅前のタクシー乗り場を横目に見ながら通り過ぎて、自宅へつながる長い道路に一歩踏み出す。
真夏の今は、深夜でも頬をなでる風が生ぬるい。
今日は晴れているけれど、わりと都会に住んでいるから夜空の星なんかは期待できない。
だけどどうせ上なんか見ないから、星なんてあったって無くったってあまり変わらない。
ポケットからスマホを取り出す。
メッセージアプリに【起きてる?】って打ち込んで「送信」とつぶやく。
すぐに既読にはなるけれど【起きてる】なんてメッセージは返ってこなくて、眠たそうな目をしたわんこのスタンプだけが送られてきた。
それを見て、少しだけクスリと口角を上げる。
通話ボタンを押せば、コール一回で聞きたかった低い声。
『はい』
「ハロー!」
『いやもう真夜中』
飲み会帰りのテンションに呆れているのは伝わるけれど、先ほどのスタンプのように眠たそうとは感じない男性の声。
「バーケン、何してた?」
電話の向こうは芝山健太郎(しばやまけんたろう)。大学時代の同級生。
『その呼び方、マジでダサいから』
「かっこいいじゃん、バーテンみたいで」
『俺別にバーテンダーのバイトとかしたことないし。どっちかっていったらバーゲンセールだろ』
「お買い得だ」
同級生のみんなが『シバケン』と呼んでいるところを、私はあえて最近『バーケン』と呼んでいる。
『テレビ見てた』
「なんの番組?」
『超常現象&未確認生物スペシャル』
「あ、見たかったやつ」
それは夏の定番スペシャル番組。
超能力とかビッグフットとかイエティとかツチノコとかネッシーとかチュパカブラとか、とにかくそういう感じの番組だ。ちなみに怖がりなので心霊番組はあまり好きではありません。
『めちゃくちゃ良かった。ツチノコの正体ってさ――』
「ちょっと待った! ストップ!」
いきなりテンションを上げてきた彼を慌てて制止する。
「明日、見逃し配信見るんだから」
『じゃあSNSとか開くなよ? ネタバレくらうから』
きっとツチノコの正体がトレンドワードになっているんだ。
世の中って意外とみんな、B級っぽい番組が好きだよね。
『メー子、今日飲み会って言ってたっけ』
「うん、そう。狩野(かのう)先輩がカラオケ行くって聞かなくて」
『あー狩野先輩ね。狩野先輩なら絶対行くよな、カラオケ』
もちろんバーケンは狩野先輩には会ったことがない。けれどこうやって私としょっちゅう話している間に、うちの部署メンバーのキャラを覚えてしまったらしい。

私が終電を逃して歩くのが好きな理由の五十パーセントくらいは、彼とのこの電話があるから。



きっかけは二か月くらい前の間違い電話だった。
間違い電話といってもバーケン以外の人にかけようと思っていたわけではない。彼とメッセージのやり取りをしながら、終電間際に電車の時刻を調べていたら、手が滑ってうっかり通話ボタンを押してしまった……という流れ。
『もしもし?』
「ごめん、間違えて通話ボタン押しちゃった。切――」
『メー子、今外?』
「ん? うん。ちなみにたった今終電を逃したところです」
『え? どうすんの? タクシー?』
その日も駅前にいて、タクシー乗り場は行列だった。
「んー……歩こうかな。一時間くらいで着くし」
自宅の最寄駅まで三駅分。一駅ごとの間隔は徒歩二十分程度だ。
『いや危ないだろ、女子一人で』
「そうかな。一回歩いて帰ったことあるけど、ずっと大通りで人も結構いて大丈夫そうだったよ?」
『いやいやいや』
普段は軽口ばかりの相手がそうやって女子扱いしてくれるというのは結構うれしいものである。スマホにくっつけた耳がくすぐったかったのを覚えている。
私だって一応人並みの防犯意識は持ち合わせているつもり。
大通り沿いをずっと歩き続ける帰り道には、コンビニも何軒もあったし、途中には交番だってある。それなりの安全性は担保できていると思う。
だけど彼が心配してくれるのなら、乗っかってしまおうと思った。
「じゃあさ、このまま電話しててよ」
『え?』
「悪い人に襲われそうになったら「キャー!!」って叫ぶから、バーケンが助けに来て」
『無理だろ』
電話口で思わず「ふふ」と笑ってしまった。
「でもさ、話してたらちょっと安全な気がする」
それから時々、終電を逃した夜は彼と通話しながらてくてく歩く。

声が一番近づく感じがして、好きな人と電話をするのは大好きなのです。



「夕飯、何食べた?」
『なんかラーメン』
「なんかって何? お店の?」
『うん。鵜沢(うざわ)に無理やり連れてかれた。ジロー系のようで(いえ)系?』
「なにそれ」
正直、ジロー系も家系もよくわからない。だけどどうやら不味くはなかったらしいのが声で伝わる。
『メー子は? 飲み会で食えた?』
「まあ、それなりにねー。一軒目の沖縄料理は美味しかった」
飲み会の一次会は初めて行く沖縄料理店だった。
「チャンプルーとね……あ、海ぶどう食べたよ」
『俺あれ苦手。ぬるいじゃん』
「そこがいいんだよー。臨場感があって沖縄っぽくて」
『なんだよ臨場感って。メー子沖縄行ったことあったっけ?』
「えー? 無いよ。私の想像の中の沖縄」
電話口で笑われる。
「今度一緒に行こうよ、沖縄料理。今日ジーマーミ豆腐食べ損ねちゃったから」
『ソーキそばあんの?』
「無いわけないでしょ。っていうかラーメン食べたのに、もう麺のこと考えてるの?」
今度はこちらが呆れて笑ってしまう。
だけど彼と沖縄料理に行くという楽しみができた。口元がニヤける。
「でもあんまり食べられなかったから、ちょっとお腹空いてる」
一次会は料理の量がちょっと少なめだった。
そして二次会のカラオケは、狩野先輩の恋愛相談という名の愚痴をずっと聞かされていて、フライドポテトすらも食べられなかった。
「コンビニで何か買おうかな」
歩いていると、ちょうど一軒目のコンビニの看板が見えてくる。
『こんな夜中に食ったら太るぞ』
「今ウォーキングしてるから大丈夫でしょ。一回電話切ろうかな」
もちろんコンビニ内では通話しない。
「あ、やっぱちょっと待った」
『何?』
「私が何買うかクイズしよう」
『は?』
「グミ買うから何の種類か当てて。味まで当てたら百万円」
言いながらケラケラと笑う。
こんなにくだらないことで笑ってしまうのは酔っ払っている証拠だ。
そこで一旦電話を切った。
コンビニではレジ近くのホットスナックに心ひかれながら、悩みに悩んで小さめの豆腐とひじきのサラダを手に取った。
さっきの『太るぞ』の言葉。気にしないふりをして気にするのが乙女心ってものでしょ。
それからペットボトルの水と、宣言通りグミを買う。いつもよりかなり真剣にチョイスした。
「ありがとうございましたー」と店員さんに言われながら自動ドアをくぐったら、また通話ボタンをピッ。
「もしもしバーケンさん、グミクイズの答えは決まりましたか?」
『二種類で迷ってる』
思いのほか本気で考えてくれるところが彼らしくて、ちょっぴりキュンとする。
『果肉グミのメロンか、あのマシュマロとグミがくっついてるやつのヨーグルト』
たしかにどちらも私がよく食べている種類だ。覚えていてくれてうれしい。
「どっち?」
『じゃあヨーグルト』
「正解は〜〜〜」
頭の中では派手なドラムロールの音が鳴っている。
どう考えても、今この時に世界中で繰り広げられているクイズの中で一番どうでもいいクイズだろう。
「ラーメングミでした! 新発売だって」
『当たるわけねえじゃん』
くだらなさに苦笑いしているんだろうなって想像がつく。
「だってバーケンがラーメンの話するから。不正解は罰ゲームね」
後出しの罰ゲームに、電話の向こうからブーイング。
笑いながらふと、空を見上げた。

「今日って満月なのかな。月がまん丸に見える」
『あーそんな感じかも』
電話の向こうでカーテンを開ける音が聞こえた。
離れた場所で同じ物を見ているんだって感じる瞬間が、結構好き。

「いつもより明るくて安全な感じがする」
『深夜ナメんなよ。変なやつとかついてきたりしてないか?』
バーケンの言葉に念の為キョロキョロ辺りを見回す。
「あ!」
『えっ?』
「猫がいる」
『……なんだよ。ビビらせるなよ』
こういう本気で心配してくれているっぽいところ、またキュンとする。
「なんか魚くわえてたよ、お魚くわえたドラ猫。追いかけようかな」
『絶対嘘だろ』
「嘘じゃないよ。写真が撮れなくて残念」
もちろん嘘である。黒猫が一匹歩いていただけだ。
『じゃあインカメにしろよ、インカメ』
「やだ。ビデオ通話ってブスになるもん」
『まあ歩きながら画面見てるの危ないしな』
「もー! 〝ブスになる〟を否定するところでしょー」

電話の向こうでまた笑っているのがわかって、こちらも笑う。



てくてく、てくてく……と、だいたい半分くらいの地点まで歩いただろうか。
あれからもう一軒コンビニを過ぎて、ちょうどのれんを下ろして営業を終えようとしている銭湯なんかも通り過ぎた。それから目の前でラーメン屋さんの看板も消灯した。
少しずつ、街が眠りにつこうとしている空気を感じる。『おやすみ』って言ってるみたいな。

「ねえ、ツチノコの正体って何だった?」
『見逃し配信見るんじゃねえの?』
「早く知りたくなった。だって帰ったらどうせすぐにSNS開いちゃうもん。だったらバーケンの口からネタバレされた方がいいかなって」
そんな話をしていたら、私の横をサイレンを鳴らしたパトカーが二台通り過ぎていった。赤いパトランプが一瞬まぶしい。
『今のサイレン?』
「うん、パトカーが通り過ぎていった。(すみれ)(おか)方面かな。二台って、何か事件かな。怖いね」
『大丈夫?』
「うん。どこか遠くに行ったみたいだから。で、なんの話してたっけ」
ずっと内容のない話をしているから、こういうイレギュラーなことを挟むと少し前に話していたこともすぐに忘れてしまう。
だけどその取り止めのなさが好きだったりする。
こんな真夜中に、どうでもいい話に付き合ってくれる存在がいることがうれしい。
『沖縄料理もいいけど、北海道もいいよなって話』
「してないって、そんな話。どうせ札幌の味噌ラーメンだとか言うんでしょ」
『あれって地元の人はバターとかコーンとか、あんまり入れないらしいな』
「え? そうなんだ」
少し驚いたところで、ドアが開くような音が聞こえた。
「バーケン、外出たの?」
『うん。ちょっと一服』
「タバコやめたんじゃなかったっけ?」
『やめてもたまには吸いたくなるんだよ。満月の夜とかは』
「えー……」
彼曰く、タバコと缶コーヒーが最高の組み合わせらしい。
タバコは全然好きじゃないからつい不満のにじみ出た声を漏らしてしまう。
最近はもう吸ってないって思っていたのに。

なんだか少しだけテンションが下がってしまった。



「こんなところにファミレスできたんだ。深夜営業してる。やったー」
『そこにファミレスができても終電逃した時しか行けないだろ?』
「それもそっか」
ずっとそんな調子で話し続けて、なんだかんだで家まであと三分の一くらいだろうか。
「今日もよく歩いたなー。やっぱり終電逃すのが一番運動になるね」
『まったく人の気も知らないでのんきなもんだよなー』
彼は最初から最後までずっと心配してくれている。
「バーケンあのさ……」
『ん?』
「いつも付き合ってくれて……それから心配してくれてありがとう」
横断歩道の信号待ちの時間につぶやく。

『「そう思ってるなら、終電前に帰って来てくれませんか?」』

「え? なんか声が変……?」
電話口と、もう一つ、背後の上の方から聞こえたような……と思って、恐る恐る振り返る。
「え! 嘘!? 何で!?」
目の前に、いるはずのない彼が立っている。
「信号渡ったところでメー子が見えたから待ってたのに、気づかないんだもんな」
「えー嘘ー!」
「変質者が背後から来たらどうするんだよ」
さっきの外に出た音って……。
「タバコ吸いに出たんじゃなかったんだ」
「もうとっくにやめたし」
彼はいたずらっぽく笑って、私にデコピンをくらわせた。
「いたっ」
「さっきのパトカー、この先のコンビニで強盗だってさ。SNSに出てた」
どうやらパトカーのサイレンを聞いて、心配で迎えに来てくれたらしい。
「無事で良かった」
「過保護」
「笑いごとじゃないだろ」
今度は軽くゲンコツ。

――『バーケンが助けに来て』
――『無理だろ』

笑いながら、胸はじんわりと温かくなっている。
「ありがとう」って言って、ぎゅって抱きついた。
そしたら彼は優しく頭を撫でてくれる。それから「暑いな。なんかベタベタするし」って不満そうにこぼしたから、また笑う。

私が終電を逃して歩くのが好きな理由。
残りの五十パーセントくらいは、家に帰ったら彼が待っているってこと。

私たちは一緒に暮らし始めて四か月。
当然、毎日顔を合わせている。
だけどこんな日は、顔を見た時のうれしさが電車でスムーズに帰れた時の何倍にもふくらむ気がするの。
「せっかくだからそこのファミレス行かない? かき氷フェアやってるみたいだし」
「だから、太るって。こんな夜中に」
「だけど今すっごくいろいろしゃべりたい気分なんだもん」
今、この夜にあなたと話したい。
「もう散々話したと思うけど? 何? 罰ゲームってこれ? 眠いんですけど」
ぶっきらぼうに言われても、ニヤニヤが収まらない。
「バーケンと一緒に暮らし始めてから楽しいことばっかり」
話しても話しても、まだまだ聞いてほしいことがいっぱい溢れてくる。
「じゃあ結婚する?」
「んー……考えとく」
笑いながら私は小首をかしげて見せる。
「そこはイエスだろー」
舌を出して「えへへ」って笑って、手をつなぐ。
「ねえ見て、ラーメングミ」
「ラーメンっていうかナルトじゃん」
「背脂とんこつ味だって」
「……ちゃんと自分で食べろよ?」

ハロー、真夜中。
まだまだ朝にならないで。

fin.