「もう終電、とっくに終わりましたよ?」
ここは、#映える場所。
なのに、わたしは笑えなかった。
♢
映える写真なんて、世の中にいくらでもある。きらきらの海に、パステルカラーの空。お洒落なカフェのランチ。風に揺れるワンピースと、夕暮れのシルエット。
そのどれもが『いいね』を稼いで、コメント欄には「癒されました」「ここ、どこですか?」って言葉が並ぶ。
そのたびに、私はちゃんと返す。
「糸島です」「おすすめですよ、ぜひ!」って。
でも──。
スマホを置いた瞬間、ふうってため息が漏れるのは、いつものことだった。
会社では口角を上げて笑ってる。プライベートでもそう。カフェでも、映えスポットでも。たぶん、八方美人。
「江口さん、SNS見ました! いつも旅してて素敵ですね」なんて言われると、少し背筋を伸ばして「ありがとうございます」って返す。ほらね、それが日常だし、ちゃんとそうあるべき自分を演じてる。
けれど最近は、その演じてるって感覚すら、麻痺してきた気がしてる。なにかが足りない、とかじゃない。本当は、なにもないんだ、多分。私の中には。
仕事帰りの地下鉄で、ぼんやりとスマホをスクロールしていた。乱立するSNSのアプリが全部、同じに見えてきた。スワイプする度に新しい投稿が更新される。誰かが誰かに見せたくて切り取った瞬間。センスがいいとか、オシャレな生活をしてるとか。自分をよく見せるためにだけ、その瞬間を切り取ってる。それが、私も含めた、いまの当たり前。
新卒で入社して三年。勤め先である広告代理店の仕事は、好きだ。やりがいもある。でも、ふとした拍子に、「いま私、誰のために生きてるんだろ?」って思ってしまう瞬間がある。チームの進行を任されて、誰も見てくれないところで残業ばかりして。プレゼン資料に書いた共感性の高い訴求とか、Z世代に刺さるワード選定とか。それを追いかけるようにSNSを頑張る。すごいねって言われたくて、人よりも少しでも優位に立ちたくて、頑張る。誰のために? それって全部、私じゃないのに。本当は、誰にも「疲れた」なんて言えなかった。吐き出そうとすれば、愚痴なんか湯水のように湧き出るのに。心のごみ箱に押し込んで、上から蓋をするんだ。
その夜のことだった。
いい映えスポットは無いかと探していると、動画配信サイトのおすすめに出てきた、ある一本の動画に惹かれた。
『誰もいない駅と、山の焚き火』──そんなタイトルだったと思う。再生数は少ない。
木造のホームに立つ男性と、山あいの霧。画面越しに焚き火の音がパチパチと響いていた。
「ここは、九州のとある秘境駅です」
落ち着いたフォントのテロップが情景を伝える。ほんの数分のVlogだったけど、不思議と最後まで見てしまった。
紹介されていたのは、大分県と宮崎県の県境にまたがる祖母傾国定公園。その近くにある、小さなキャンプ場。アクセスは不便で、最寄り駅も無人駅。その駅は、映画のロケ地として使われたこともある雰囲気のある駅舎だった。動画内では、焚き火を囲みながら髭を蓄えた男性がギターを弾いている。顔は映っていない。口元と後ろ姿だけ。それから、指の動きと、静かなコードの響き。
──それが、妙に心に残った。
動画を見終わっても、私は再生画面を閉じられなかった。もう一度。二十回くらい見ただろうか。静かな夜の音、誰もいない無人駅、焚き火のぬくもり。
そのどれもが、誰にも見せない時間に包まれているようだった。
「羨ましいな⋯⋯」
真っ暗な部屋で、スマホのライトが眠りかけた目に眩しい。
私は、ついタップしてしまった。
『ルート案内を開始します』
地図アプリが示したのは、私が住んでいる福岡県からは車で約三時間半の距離。よく遠出はするが、この距離は初めて。明日は土曜だし。スケジュールは、たまたま空いている。
「⋯⋯行ってみる?」
思考より先に、心がうなずいた。
何かを見つけたかったのかもしれない。
でもその何かが、自分自身なのか、ただの現実逃避なのかさえ、分からなかったけど⋯⋯。
何かに癒されたい。
心のデトックスを。
現実を切り離すような、どこか遠くの場所で。
だから、行かなきゃって思った。
そんな夜だった。
♢
早朝から車を走らせて三時間。
車の窓を開けた瞬間、夏の終わりの空気が流れ込んできた。
高速を抜け、山沿いの道に入ると、景色がぐんと変わった。田んぼと山、時々ちらつく瓦屋根の家々。信号もコンビニもほとんどなくて、レトロな景色が広がる。見渡すかぎりの映えがある。
ナビが指し示す先には、深い山道が続いている。エンジンも、唸るような音をさせている。
細く、くねった道。反対車線から車が来たらすれ違えるか不安になるような、そんな道だった。
「本当に、ここで合ってるのかな⋯⋯?」
私は小さく呟いて、ウインカーを出す。
狭い分岐路の先に、『祖母傾国定公園』と書かれた案内板を見つけてホッとする。
ハンドルを切ると、タイヤが少しだけ砂利を噛んだ音がした。車の窓越しに見えるのは、どこまでも続く木々と、渓流のきらめき。街の騒音も、クラクションもなくて、聞こえるのは知らない鳥の鳴き声。
「⋯⋯めっちゃ秘境じゃん!」
車を降りると、息を飲んだ。
眼下に広がる濃い緑に包まれた天然杉の森。緑がゆるやかな稜線を描き、その合間を縫うように、ガラスのように澄んだ渓流が、きらきらと太陽の光を反射しながら岩肌の上を走っていく。耳を澄ますと、遥か下から水音が届いてきて、それに交じって、どこか遠くで蝉が鳴いていた。
私は、澄んだ空気を肺にめいっぱい詰め込む。気持ちがいい。腹式呼吸をしながら、体を伸ばしてストレッチをする。運転に疲れた体に酸素が染み渡る。
「んーー! よし⋯⋯そろそろ、撮るか」
手早くカメラをセットし、セルフタイマーで立ち位置を確認する。木漏れ日がいい具合に差し込んでいて、画角の中の自分は、こなれた旅人らしい雰囲気があった。数枚シャッターを切り、角度を変え、もう一度撮る。
SNSに載せるとしたら、#秘境の絶景とか、#森の静けさに癒されて⋯⋯ #旅女子、ってところだろうか。でも、カメラの画面をのぞき込んだとき、ふと指が止まった。
「⋯⋯うーん」
表情が、うまく笑えていない。無理に笑顔を作った人の顔だった。癒されたくて来たはずなのに、結局映えを意識してしまうなんて。何かがうまく噛み合っていない。シャッター音だけが、ぽつんと山奥に響いていた。
スマホを取り出して、電波を確認すると、アンテナは、一本も立っていなかった。
「やばっ⋯⋯」
ちょっとした孤独が、心の奥から滲みだしてくる。誰とも繋がっていない場所。誰も知らない時間。そういうものを欲しかったはずなのに、いざそれが目の前にあると、私の胸は少しだけ不安で、少しだけ寂しかった。
しばらく絶景スポットを巡り、午後四時半を回ったころ、日が少しだけ傾いてきた。
「そろそろ、あの駅に行かなきゃ」
そう、例の無人駅だ。どうせなら夕日に染まる駅舎を撮りたいと最後に取っておいたのだ。
駅までは、車で十五分ほどの距離だったはず。
あの動画でも、「無人駅の静けさが最高」って言っていた場所。
私はつい、車を飛ばして急いだ。
駅舎が見えてきた。あと百メートルほどだ。その時だった。車が突如ガクンと音を立てる。エンジンが急に息を止めた。
アクセルを踏んでも反応がなく、ハンドルの重みだけが、やけに手に残る。前触れもなく車体がふっと静かになり、路肩に寄せるしかなかった。
「⋯⋯エンスト?」
ハザードをつけながら、何度かキーを回すけれど、
カチッ、と乾いた音がするだけでエンジンはかからない。
「うそでしょ!?」
車の外に出て、ボンネットを開けようとしたそのときだった。
「大丈夫?」
背後から声がして、驚いて振り返る。
黒いTシャツに、スニーカー。肩には薪を束ねたロープをかけている。長い髪を結わえた首から、汚れたタオルをさげていた。流行りのソロキャンパーではなさそうだ。地元の人かな? 少しだけ陽に焼けた肌に、童顔で優しい目をした男だった。
「あ、えっと、車が⋯⋯エンジンがかからなくて」
「そうなんだ。バッテリーかな?」
「⋯⋯そうかも」
「ちょっと鍵貸して」
男は運転席に乗り込むと、キーを回すが、キュルキュルと空回りする音だけ。
「あー⋯⋯ダメっぽいね」
「ですよね⋯⋯」
男は車から降りると、頭を搔いた。
「車どうすんの? 泊まるところは?」
「ロードサービスに連絡してみます。日帰りで考えてたんで⋯⋯。でも駅も近いし、電車で帰ります」
「え! もう終電、とっくに終わりましたよ?」
「えっ? 嘘だーー。まだ五時前ですよ!?」
「この駅の終電、朝の六時。一日に一本だけ。始発で終電だから」
私は引きつった笑みで、その場に立ち尽くした。
♢
どうしよう。
車だけは、無事に運ばれて行ったけど、バスもなければ、タクシーもいない駅だ。
半信半疑だった私に、時刻表の書かれた看板が現実を突きつける。
始発で終電。後は、この終点の駅に夕方到着する電車の三つの表記しかない。
「終わった⋯⋯」
宿らしい宿は、二つ隣の駅にしかないらしい。自分でなんとかします! って言ってしまった手前、さっきの男性に「近くの街まで送ってくれませんか?」なんて言うのもおこがましい。
歩く? いや隣駅まで何キロあるの? 私の車がエンストした場所でさえ、目視できない漆黒の闇の中なのに。チラッと見えた掲示板に貼られている、熊の目撃情報のチラシ。無理っ! こんな夜道をひとりで歩くなんて危険すぎる。スマホのライトを頼ろうにも⋯⋯モバイルバッテリーの残量も心許ない。
このまま、朝までここで過ごすしかないのかな?
絶望しかないアイデアを抱えるように、私は背中を丸めた。
あたりは、すっかり夜の色を深めていた。かすかに草の擦れる音と、遠くで鳴くフクロウの声だけが響いている。
心細いな⋯⋯。そう思いながら、駅の小さなベンチに腰を下ろす。気分を紛らわせようと、スマホを開くが、なかなかネットに繋がらない。アルバムには、どこか満たされなかった映え写真のデータだけが並んでいる。今すぐにでも投稿すれば、SNSには、きっと『いいね』が並ぶだろう。
でも──今の私は、そんな気力もなく、空っぽだった。
そのとき、ひとつ足音が近づいてくるのが聞こえた。ふと顔を上げると、さっきの男の人がランタンを片手に立っている。
「まだいたんだ。寒くないですか? この先に、川辺のキャンプ場があるんだけど。俺、ひとりで焚き火やっててさ。もしよかったら⋯⋯」
ぶっきらぼうな言葉の端に、ためらいが滲んでいた。
無理に引き留めるわけでもなく、でも放っておけないような、優しい声で。一瞬、迷う。だけど、助けを求める場所も、帰る術もない今。その優しい光に、思わず心が傾いてしまった。
「⋯⋯行ってもいいですか?」
私からしたら、願ってもない天の声だった。きっと迷子の子犬のような目で彼を見つめていたと思う。
「むこう、電波ほとんどないから。彼氏に連絡するなら今のうちに」
「大丈夫です。いませんから」
「わりぃ」
彼はランタンの灯りを少し高く掲げ、先に立って歩き出した。私も後をついて行く。崩れかけた土の段差に、踏み込んだ足が揺らいだ。
「転ばないようにね。夜の山道って、見た目以上に足場悪いから」
確かに足元は少し不安定だったけれど、不思議と怖くなかった。暗闇の中、彼の歩幅がときどきゆっくりになるたびに、私に気を遣ってくれてるんだと感じた。
「⋯⋯ありがとう。こういうの、慣れてなくて」
「どこから?」
「福岡。ちょっとだけ遠出したくて。ここ映えスポットって聞いたから、つい」
「へーー」
そんな会話を交わしているうちに、空気が少しずつ変わっていく。十五分ほど歩いた。木々の間を抜ける風が柔らかくなり、ほんのりと焚き火の匂いが鼻をかすめた。視界が開けて、川のせせらぎが聞こえてくる。
「着いたよ」
彼が足を止めた先、草地に囲まれた小さな広場があった。火の番をしてくれていた、キャンプ場の管理人らしき人に、彼は軽く挨拶をしている。
OD缶のランタンが淡く光り、タープの端に揺れる影を映している。パチパチと音を立てている焚き火台はロースタイル。ギアの並びに無駄がなくて、彼のキャンプ歴が長いことが伝わってくる。
その横には、ペグダウンされたソロ用の山岳テント。色褪せているけど、丁寧に扱われてきた跡があった。
「⋯⋯キャンプガチ勢だ」
頭に『 #ソロキャンプ』 とすぐに浮かんでしまう。
ほんと嫌な癖だな。
「座って。寒いかもしれないから、これも使って」
そう言って差し出されたブランケットを、私はそっと受け取った。
「⋯⋯ありがとうございます」
暖かいな。焚き火台の近くに用意してもらったアウトドアチェアに腰を下ろすと、温もりがじんわりと、足元から伝ってくる。薪が弾ける音が、胸の奥にまで静かに染みていく。
ふと、空を見上げると満点の星空が広がっていた。
「きれい⋯⋯」
「写真撮らないの? 映えってやつだろ?」
「えっ?」
「俺にはよくわかんないけど」
その言い方が妙にまっすぐで、私は思わず肩の力が抜けた。
「⋯⋯たしかに、そうですよね。普段だったらすぐにカメラを構えるのに。何のために撮ってんだろ?って私も思います。だから今はいいかな」
「どうして?」
「なんとなく、気分じゃないから⋯⋯かな」
火の揺らめきが、彼の顔の輪郭を柔らかく照らす。どこかで見たことがある気がする。まじまじと見ると、整った顔をしている。都会にいたらモテるだろうな⋯⋯。
私の視線に気がついた彼は、少しだけ目を細めて、ふっと鼻で笑った。それから焚き火に薪をくべる。たまに、ちらりと私を気にする。何も言わないけど、その目は、私を探るようでいて、責めるでもなく、ただ静かだった。私から口を開く。
「焚き火、いいですね」
「安心するでしょ? 悩みとか、一緒に燃やしてくれるみたいに」
「はい。さっきまで、どうやったら映えるか⋯⋯そんなことばっかり考えてたのに。きれいな星空にどんなハッシュタグを付けようか? 炎の揺らぎが美しいから、どう写真撮ろうか? とか」
「女の子は写真好きだよなーー」
彼はくすりと笑う。
「好きだけど。今は⋯⋯カメラ越しじゃなくて、ちゃんと見てたいって思った。自分の目で」
そう口にしてから、自分でも驚いた。
こんな素直なこと、誰かに言うなんていつぶりだろう。
「そうか」
短く返した彼の声に、どこかくすぐったい気持ちになって、私は小さく笑った。
「⋯⋯なんか、変なこと言ってますよね、私」
「いや、別に。素直なだけでしょ」
「素直、か」
彼は火ばさみで薪を寄せながら、ぽつりとつぶやいた。
「ちゃんと見たいって、いいじゃん。案外できないよな。人間、すぐ撮りたがるから」
「ちょっと。それ、皮肉ですか?」
私は少し、頬を膨らませてみせる。
「いや? 本物の景色を見てる人の方が、たぶん少ないから。だからその気持ち、いいんじゃない?」
「⋯⋯あなたは、よくこういうとこ来るんですか?」
「んー。まぁね。休みのたびに来てるわけじゃないけど、たまに。焚き火と、音のない静けさが好きでさ」
「静けさ、が?」
「あぁ。音がないと、自分の中の声が聞こえるだろ。うるさすぎるくらいに」
「⋯⋯っ」
その言葉に、胸がちくりとした。
それと同時に、少し彼の顔に悲しい影が落ちた。私はその表情が気になってしまった。似てるのかもしれない。SNSで映える写真ばかり並べて、誰かのいいねで自分を保ってきた私と。音のない場所に来て、気づかされた。私の中には、本当は、言葉にならなかった感情が渦巻いているんだって。ノイズみたいに心の中に響き渡っている。
耳に届くのは、焚き火の音だけ。ぱちりぱちりと夜に溶けていく。
「名前、聞いていい?」
彼は私に尋ねる。
「あ、江口です。江口茉莉。江口でも、茉莉でも。どっちでもいいです」
「じゃあ茉莉さん。焚き火、しばらく付き合ってくれる?」
「⋯⋯はい」
その返事は、たぶん、今日いちばん自然な声だった。胸の奥のどこかが、ふっと軽くなる気がした。誰の目も気にしない夜が、少しずつ、私の中に沁みこんでいくようだった。
♢
山口蓮と名乗った彼は、「簡単なものしかないけど」と、手際よくキャンプ料理を振舞ってくれた。キノコと海老のアヒージョは絶品だった。ビールを勧められたけど、それは断った。蓮さんは残念そうに、ひとりでプルタブを開けた。
深夜零時。普通なら今頃、終電の心配をしてるはずなのに、私はすっかり寛いでいた。
「ねぇ、蓮さんは、なにしてる人なの?」
「今は、この近くの製材所で働いてる。前は、ちょっと違う仕事してたけど⋯⋯いろいろあって、今はここにいる」
「⋯⋯いろいろ?」
「うん、まぁ。長くなるけど。⋯⋯聞きたい?」
「うん、気になる」
炎がゆらゆらと揺れている。じっと見つめながら、彼は、少しだけ間を置いて語り始めた。
「俺さ、東京で働いてたんだ」
「え! ⋯⋯以外かも。何してたの?」
「映像制作の会社。Vlogとか、CMとか、そういうの作ってた」
「さっき、俺は映えはわかんないって言ってたのに?」
「ははっ。嘘じゃないよ。ある日急にダメになったんだ。映えもそうだな⋯⋯何を撮っても」
焚き火の火の粉が、弾けて夜空に溶けた。
その残り火みたいに、彼の声がぽつりと落ちる。
「何を撮っても、全部、空っぽに見えたんだ。綺麗なのに、伝わらない。音も入ってるのに、自分の声だけ、消えていく感じがして⋯⋯」
「⋯⋯声?」
「そう。誰に伝えたいのか。だんだん分かんなくなって。再生数とか評価とか、そればっか気にして、気づいたら俺の中から好きが消えてた。最初に抱いてた気持ち、全部どこかに置いてきたみたいでさ」
沈黙が、しばらくあたりに満ちる。
耐えきれなくて、私も口を開いた。
「私も話していいかな? ⋯⋯あのね、私、ちょっとだけ逃げてたのかもしれない」
「うん」
「頑張ってるんだよ。仕事も、ちゃんと。納期も守ったし、努力もした。周りの人にも合わせて。でも⋯⋯」
言葉が、静寂に響く焚き火の音にかき消された。
「⋯⋯誰にも認められなかったの。頑張るのが当たり前。ミスしてなくても、ちゃんと出勤してても、なんか、私じゃなくてもいい気がして」
彼は何も言わず、じっと炎を見つめている。
「だから、SNSに逃げたの。『いいね』がつくと、それだけで存在証明でしょ? 私、ここにいるよって。頑張ってるでしょ? って必死だったんだと思う」
「うん。気持ち、わかるよ」
「写真も加工しまくって、充実してるアピールして。ハッシュタグにキラキラした言葉並べて⋯⋯全然、そんな気分じゃないのに」
彼は優しく頷く。
「でも、その投稿が素敵だねって言われると、ちょっと救われる気がするの。見栄だって、嘘だって、もうどうでもよくなってた」
「俺も、似たようなこと思ってたよ」
「蓮さんも?」
「俺の動画もさ、誰かに見てほしいって気持ちから始まったのに。でも、気づいたら自分が何を伝えたいのか、わからなくなってた」
彼は静かに、手元のビールを軽く傾ける。
それから、憂いを帯びた目に皺を寄せた。
「最後に作った映像、会社の倉庫に眠ったままなんだ。公開されなかった。完成はしたのに、誰の目にも触れなかった。⋯⋯それが、一番きつかったな」
「やっぱり似てるね、私たち⋯⋯」
「だから俺は辞めた! もう誰かに認められることのために、作りたくないって思った。⋯⋯今は、自分がほんとに好きだって思える瞬間だけ、動画を撮ってるよ」
「よかった。今も撮ってるんだね」
「少しずつ、だけどね」
私は、焚き火に手をかざしながら、小さく吐き出した。
「わたし、もう、疲れちゃったな」
「⋯⋯立ち止まるのも、ちゃんと進んでる証拠だよ」
その言葉に、不思議と泣きそうになった。
私が欲しかった言葉だったから。それでいいんだよって。でも泣かなかった。ただ、笑ってしまった。
「辛くなったら辞めちゃえば? って、軽く言っていいかわかんないけどさ。俺見てよ。なんとかやってる」
彼はきっと、私を励まそうとしたんだと思う。ぎこちない笑顔でそう言った。私の口角も自然と上がる。
「私ね、ある動画を見てここに来たんです。焚き火をしながらギターを弾いてる人がいて。いいなぁ⋯⋯って思って」
「うそ!? それ、俺です。たぶん。俺の動画」
「嘘だ! だって髭は?」
あの動画の男性のトレードマークのはずなのに彼の顔にはない。
「あーー。昨日剃ったばかり」
彼は自分の顎を撫でてみせる。それから、ふたりで顔を見合わせて笑った。
「もっと山男みたいな人かと思ってた!」
「なんだよ、それ。よかったら⋯⋯ギター、弾こうか?」
「聞きたい! ⋯⋯ねぇ、私には届きましたね。蓮さんの声が」
「そうだね」
空っぽの心に、火種が生まれた気がする。まだ頼りないくらい、小さなものだけど。
「なんだろう。蓮さんと話してると、SNSの画面越しじゃ届かない、ちゃんとした会話をしてる気がする。⋯⋯こんな話、誰にも言ったことなかったな」
「俺も」
「なんでだろうね、初対面なのに」
「初対面だからじゃない? 知らない誰かのほうが、話せることってあるし」
「それ、わかる! 相手が蓮さんでよかった」
「⋯⋯それは、ちょっと嬉しいな」
彼が照れくさそうに笑う。
私も、自然と笑っていた。
心からの、笑顔だった。カメラ越しじゃなく、自分の中から自然に生まれたものだった。
ギターを準備する彼の口元は、何度も動画で見たそのままだった。全部を捨てて自由を選んだ蓮さんに憧れたのか、私の心は高揚している。
「好きな曲ある?」
「蓮さんの好きな曲が聞きたい!」
彼は少し悩んで、動画の中で弾いていた曲を奏ではじめる。そのメロディーの中で、私はもっと彼を知りたいって思っていた。ギターの弦と、焚き火の薪が弾けるたびに、私の胸の奥で、何かがゆっくりと解けていくような気がした。
♢
焚き火の炎が、ゆっくりと小さくなる。
気づけば、夜が少しずつ白み始めていた。
たまに会話をしながら、蓮さんは優しくギターを弾いている。私は黙って、それを見つめていた。彼の横顔の距離が、ちょっとだけ心地よい。
「うわ、もう、こんな時間なんだね。オールしちゃったな」
空を見上げた彼が、ぽつりと呟く。
夜空は少しずつ藍色を薄めていて、木々の向こうにかすかな光が滲んでいた。鳥の声も、ひとつふたつ、静かに紛れはじめている。
「眠くない? コーヒーでも入れようか?」
「うん。もらう」
彼は欠伸をしながら、本格的にコーヒーミルで豆を挽き始めた。
「ねぇ、今日は終電、間に合うかな?」
私は苦笑する。
本当は、時間なんてどうでもよくなっていた。ただ、この静かな夜が終わってしまうことだけが、少しだけ寂しかった。もうちょっとだけ一緒にいたい。
「まだだよ。あと、たぶん一時間くらい」
「⋯⋯そっか。一時間」
ふたりの間に、言葉よりも静かなものが流れた。
遠くで水音がする。朝露が葉を叩いた音かな。過敏になっている私は、コーヒーを注ぐ彼の背中に、話しかける。
「蓮さんって、彼女いるの?」
「あーー。仕事辞めた時、愛想つかされて。そのまま、終わり」
「へーー。そっか。」
「なんだよ」
一口飲んだコーヒーが苦かったのか、彼は渋い顔で私を見る。
「ん? ここに来てよかったなって。終電は終わってたけど……ここで、蓮さんに会えてよかった」
「ははっ。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
彼の声は静かで、優しかった。
その声が、真っ直ぐに胸に届いた。
「私さ、頑張れそうな気がする」
自分でも驚くくらい、自然に出た言葉だった。
「茉莉さんなら大丈夫だよ」
私は口元だけ笑って、頷いた。
違う喪失感が胸を締め付ける。
この夜が終わってしまうのが、嫌だ。
この場所で、やっと本当の自分に戻れた気がするのに。
焚き火が静かに燃え尽きていく。
「もうすぐ、時間だね」
火照った頬に風が触れて、少しだけ意識が現実に戻る。
「送るよ、駅まで」
「うん、ありがと」
ふたりで立ち上がり、炭の匂いをまとったまま、歩き始めた。
「なんか、不思議だね」
「なにが?」
「今日が、昨日の続きじゃないみたい」
彼は、少しだけ考えるような顔をして「じゃあ、#新しい一日のはじまり。って投稿しなよ」そう言って、くしゃっと笑った。それから、ブルーアワーに染まる空を指さした。
「綺麗だろ?」
私は手をぎゅっと握る。
これは目に焼き付けておくべき特別な景色だ。
どうしようもなく、好きだと思った瞬間。
新しい一歩を踏み出して、私は変われる! ってきっかけをくれた。それに、気持ちは昨日から、うるさいくらいに正直だ。
駅に着くと、ちょうど電車が到着するタイミングだった。誰もいないホームに、静かに列車が滑り込んでくる。
「終電、間に合っちゃったな⋯⋯。行かなきゃ」
「うん」
言葉が、それ以上続かなかった。
だけど、何かを残しておきたくて、私は手を伸ばしていた。彼の手の甲に、そっと触れる。
「ありがとう。ほんとに」
彼は驚いたように瞬きをして、それから優しく笑った。
「また来いよ。とっておきの景色、案内してやるから」
「楽しみにしてる」
電車のドアが開く音がして、私は一歩だけ後ずさる。まだ別れたくない気持ちが胸を締めつけた。
「また、会えるかな」
彼が頬を掻きながら言う。
頬がわずかに赤くなるのを、朝焼けがそっと隠してくれた。
「⋯⋯それ、私が言おうとしたのに。また会いたいね」
「じゃあ、またな」
「⋯⋯え、それだけ?」
私の口が、少しだけ膨らんだ。
彼は笑って、振り返らずに手を振る。 そんな背中に、私は小さく手を振った。
扉の閉まる直前、最後にもう一度だけ振り返る。
朝焼けの中、列車を見つめる彼の顔が見えた。少し寂しそうな顔に、なぜか涙がこぼれそうになった。
──ほんとうに、来てよかったな。
何も映えなかったこの旅で、たったひとつ、心に残ったこの人に、また会いたいと思った。
電車が走り出す。
山を抜けて、街へと戻るその途中。私はスマホを開いて、SNSの投稿をぜんぶ削除した。それから、車窓から撮った一枚を、そっと投稿する。また戻ってくるから。
映えないけど、すごくきれいだった。
私の #新しい一日のはじまり。
ここは、#映える場所。
なのに、わたしは笑えなかった。
♢
映える写真なんて、世の中にいくらでもある。きらきらの海に、パステルカラーの空。お洒落なカフェのランチ。風に揺れるワンピースと、夕暮れのシルエット。
そのどれもが『いいね』を稼いで、コメント欄には「癒されました」「ここ、どこですか?」って言葉が並ぶ。
そのたびに、私はちゃんと返す。
「糸島です」「おすすめですよ、ぜひ!」って。
でも──。
スマホを置いた瞬間、ふうってため息が漏れるのは、いつものことだった。
会社では口角を上げて笑ってる。プライベートでもそう。カフェでも、映えスポットでも。たぶん、八方美人。
「江口さん、SNS見ました! いつも旅してて素敵ですね」なんて言われると、少し背筋を伸ばして「ありがとうございます」って返す。ほらね、それが日常だし、ちゃんとそうあるべき自分を演じてる。
けれど最近は、その演じてるって感覚すら、麻痺してきた気がしてる。なにかが足りない、とかじゃない。本当は、なにもないんだ、多分。私の中には。
仕事帰りの地下鉄で、ぼんやりとスマホをスクロールしていた。乱立するSNSのアプリが全部、同じに見えてきた。スワイプする度に新しい投稿が更新される。誰かが誰かに見せたくて切り取った瞬間。センスがいいとか、オシャレな生活をしてるとか。自分をよく見せるためにだけ、その瞬間を切り取ってる。それが、私も含めた、いまの当たり前。
新卒で入社して三年。勤め先である広告代理店の仕事は、好きだ。やりがいもある。でも、ふとした拍子に、「いま私、誰のために生きてるんだろ?」って思ってしまう瞬間がある。チームの進行を任されて、誰も見てくれないところで残業ばかりして。プレゼン資料に書いた共感性の高い訴求とか、Z世代に刺さるワード選定とか。それを追いかけるようにSNSを頑張る。すごいねって言われたくて、人よりも少しでも優位に立ちたくて、頑張る。誰のために? それって全部、私じゃないのに。本当は、誰にも「疲れた」なんて言えなかった。吐き出そうとすれば、愚痴なんか湯水のように湧き出るのに。心のごみ箱に押し込んで、上から蓋をするんだ。
その夜のことだった。
いい映えスポットは無いかと探していると、動画配信サイトのおすすめに出てきた、ある一本の動画に惹かれた。
『誰もいない駅と、山の焚き火』──そんなタイトルだったと思う。再生数は少ない。
木造のホームに立つ男性と、山あいの霧。画面越しに焚き火の音がパチパチと響いていた。
「ここは、九州のとある秘境駅です」
落ち着いたフォントのテロップが情景を伝える。ほんの数分のVlogだったけど、不思議と最後まで見てしまった。
紹介されていたのは、大分県と宮崎県の県境にまたがる祖母傾国定公園。その近くにある、小さなキャンプ場。アクセスは不便で、最寄り駅も無人駅。その駅は、映画のロケ地として使われたこともある雰囲気のある駅舎だった。動画内では、焚き火を囲みながら髭を蓄えた男性がギターを弾いている。顔は映っていない。口元と後ろ姿だけ。それから、指の動きと、静かなコードの響き。
──それが、妙に心に残った。
動画を見終わっても、私は再生画面を閉じられなかった。もう一度。二十回くらい見ただろうか。静かな夜の音、誰もいない無人駅、焚き火のぬくもり。
そのどれもが、誰にも見せない時間に包まれているようだった。
「羨ましいな⋯⋯」
真っ暗な部屋で、スマホのライトが眠りかけた目に眩しい。
私は、ついタップしてしまった。
『ルート案内を開始します』
地図アプリが示したのは、私が住んでいる福岡県からは車で約三時間半の距離。よく遠出はするが、この距離は初めて。明日は土曜だし。スケジュールは、たまたま空いている。
「⋯⋯行ってみる?」
思考より先に、心がうなずいた。
何かを見つけたかったのかもしれない。
でもその何かが、自分自身なのか、ただの現実逃避なのかさえ、分からなかったけど⋯⋯。
何かに癒されたい。
心のデトックスを。
現実を切り離すような、どこか遠くの場所で。
だから、行かなきゃって思った。
そんな夜だった。
♢
早朝から車を走らせて三時間。
車の窓を開けた瞬間、夏の終わりの空気が流れ込んできた。
高速を抜け、山沿いの道に入ると、景色がぐんと変わった。田んぼと山、時々ちらつく瓦屋根の家々。信号もコンビニもほとんどなくて、レトロな景色が広がる。見渡すかぎりの映えがある。
ナビが指し示す先には、深い山道が続いている。エンジンも、唸るような音をさせている。
細く、くねった道。反対車線から車が来たらすれ違えるか不安になるような、そんな道だった。
「本当に、ここで合ってるのかな⋯⋯?」
私は小さく呟いて、ウインカーを出す。
狭い分岐路の先に、『祖母傾国定公園』と書かれた案内板を見つけてホッとする。
ハンドルを切ると、タイヤが少しだけ砂利を噛んだ音がした。車の窓越しに見えるのは、どこまでも続く木々と、渓流のきらめき。街の騒音も、クラクションもなくて、聞こえるのは知らない鳥の鳴き声。
「⋯⋯めっちゃ秘境じゃん!」
車を降りると、息を飲んだ。
眼下に広がる濃い緑に包まれた天然杉の森。緑がゆるやかな稜線を描き、その合間を縫うように、ガラスのように澄んだ渓流が、きらきらと太陽の光を反射しながら岩肌の上を走っていく。耳を澄ますと、遥か下から水音が届いてきて、それに交じって、どこか遠くで蝉が鳴いていた。
私は、澄んだ空気を肺にめいっぱい詰め込む。気持ちがいい。腹式呼吸をしながら、体を伸ばしてストレッチをする。運転に疲れた体に酸素が染み渡る。
「んーー! よし⋯⋯そろそろ、撮るか」
手早くカメラをセットし、セルフタイマーで立ち位置を確認する。木漏れ日がいい具合に差し込んでいて、画角の中の自分は、こなれた旅人らしい雰囲気があった。数枚シャッターを切り、角度を変え、もう一度撮る。
SNSに載せるとしたら、#秘境の絶景とか、#森の静けさに癒されて⋯⋯ #旅女子、ってところだろうか。でも、カメラの画面をのぞき込んだとき、ふと指が止まった。
「⋯⋯うーん」
表情が、うまく笑えていない。無理に笑顔を作った人の顔だった。癒されたくて来たはずなのに、結局映えを意識してしまうなんて。何かがうまく噛み合っていない。シャッター音だけが、ぽつんと山奥に響いていた。
スマホを取り出して、電波を確認すると、アンテナは、一本も立っていなかった。
「やばっ⋯⋯」
ちょっとした孤独が、心の奥から滲みだしてくる。誰とも繋がっていない場所。誰も知らない時間。そういうものを欲しかったはずなのに、いざそれが目の前にあると、私の胸は少しだけ不安で、少しだけ寂しかった。
しばらく絶景スポットを巡り、午後四時半を回ったころ、日が少しだけ傾いてきた。
「そろそろ、あの駅に行かなきゃ」
そう、例の無人駅だ。どうせなら夕日に染まる駅舎を撮りたいと最後に取っておいたのだ。
駅までは、車で十五分ほどの距離だったはず。
あの動画でも、「無人駅の静けさが最高」って言っていた場所。
私はつい、車を飛ばして急いだ。
駅舎が見えてきた。あと百メートルほどだ。その時だった。車が突如ガクンと音を立てる。エンジンが急に息を止めた。
アクセルを踏んでも反応がなく、ハンドルの重みだけが、やけに手に残る。前触れもなく車体がふっと静かになり、路肩に寄せるしかなかった。
「⋯⋯エンスト?」
ハザードをつけながら、何度かキーを回すけれど、
カチッ、と乾いた音がするだけでエンジンはかからない。
「うそでしょ!?」
車の外に出て、ボンネットを開けようとしたそのときだった。
「大丈夫?」
背後から声がして、驚いて振り返る。
黒いTシャツに、スニーカー。肩には薪を束ねたロープをかけている。長い髪を結わえた首から、汚れたタオルをさげていた。流行りのソロキャンパーではなさそうだ。地元の人かな? 少しだけ陽に焼けた肌に、童顔で優しい目をした男だった。
「あ、えっと、車が⋯⋯エンジンがかからなくて」
「そうなんだ。バッテリーかな?」
「⋯⋯そうかも」
「ちょっと鍵貸して」
男は運転席に乗り込むと、キーを回すが、キュルキュルと空回りする音だけ。
「あー⋯⋯ダメっぽいね」
「ですよね⋯⋯」
男は車から降りると、頭を搔いた。
「車どうすんの? 泊まるところは?」
「ロードサービスに連絡してみます。日帰りで考えてたんで⋯⋯。でも駅も近いし、電車で帰ります」
「え! もう終電、とっくに終わりましたよ?」
「えっ? 嘘だーー。まだ五時前ですよ!?」
「この駅の終電、朝の六時。一日に一本だけ。始発で終電だから」
私は引きつった笑みで、その場に立ち尽くした。
♢
どうしよう。
車だけは、無事に運ばれて行ったけど、バスもなければ、タクシーもいない駅だ。
半信半疑だった私に、時刻表の書かれた看板が現実を突きつける。
始発で終電。後は、この終点の駅に夕方到着する電車の三つの表記しかない。
「終わった⋯⋯」
宿らしい宿は、二つ隣の駅にしかないらしい。自分でなんとかします! って言ってしまった手前、さっきの男性に「近くの街まで送ってくれませんか?」なんて言うのもおこがましい。
歩く? いや隣駅まで何キロあるの? 私の車がエンストした場所でさえ、目視できない漆黒の闇の中なのに。チラッと見えた掲示板に貼られている、熊の目撃情報のチラシ。無理っ! こんな夜道をひとりで歩くなんて危険すぎる。スマホのライトを頼ろうにも⋯⋯モバイルバッテリーの残量も心許ない。
このまま、朝までここで過ごすしかないのかな?
絶望しかないアイデアを抱えるように、私は背中を丸めた。
あたりは、すっかり夜の色を深めていた。かすかに草の擦れる音と、遠くで鳴くフクロウの声だけが響いている。
心細いな⋯⋯。そう思いながら、駅の小さなベンチに腰を下ろす。気分を紛らわせようと、スマホを開くが、なかなかネットに繋がらない。アルバムには、どこか満たされなかった映え写真のデータだけが並んでいる。今すぐにでも投稿すれば、SNSには、きっと『いいね』が並ぶだろう。
でも──今の私は、そんな気力もなく、空っぽだった。
そのとき、ひとつ足音が近づいてくるのが聞こえた。ふと顔を上げると、さっきの男の人がランタンを片手に立っている。
「まだいたんだ。寒くないですか? この先に、川辺のキャンプ場があるんだけど。俺、ひとりで焚き火やっててさ。もしよかったら⋯⋯」
ぶっきらぼうな言葉の端に、ためらいが滲んでいた。
無理に引き留めるわけでもなく、でも放っておけないような、優しい声で。一瞬、迷う。だけど、助けを求める場所も、帰る術もない今。その優しい光に、思わず心が傾いてしまった。
「⋯⋯行ってもいいですか?」
私からしたら、願ってもない天の声だった。きっと迷子の子犬のような目で彼を見つめていたと思う。
「むこう、電波ほとんどないから。彼氏に連絡するなら今のうちに」
「大丈夫です。いませんから」
「わりぃ」
彼はランタンの灯りを少し高く掲げ、先に立って歩き出した。私も後をついて行く。崩れかけた土の段差に、踏み込んだ足が揺らいだ。
「転ばないようにね。夜の山道って、見た目以上に足場悪いから」
確かに足元は少し不安定だったけれど、不思議と怖くなかった。暗闇の中、彼の歩幅がときどきゆっくりになるたびに、私に気を遣ってくれてるんだと感じた。
「⋯⋯ありがとう。こういうの、慣れてなくて」
「どこから?」
「福岡。ちょっとだけ遠出したくて。ここ映えスポットって聞いたから、つい」
「へーー」
そんな会話を交わしているうちに、空気が少しずつ変わっていく。十五分ほど歩いた。木々の間を抜ける風が柔らかくなり、ほんのりと焚き火の匂いが鼻をかすめた。視界が開けて、川のせせらぎが聞こえてくる。
「着いたよ」
彼が足を止めた先、草地に囲まれた小さな広場があった。火の番をしてくれていた、キャンプ場の管理人らしき人に、彼は軽く挨拶をしている。
OD缶のランタンが淡く光り、タープの端に揺れる影を映している。パチパチと音を立てている焚き火台はロースタイル。ギアの並びに無駄がなくて、彼のキャンプ歴が長いことが伝わってくる。
その横には、ペグダウンされたソロ用の山岳テント。色褪せているけど、丁寧に扱われてきた跡があった。
「⋯⋯キャンプガチ勢だ」
頭に『 #ソロキャンプ』 とすぐに浮かんでしまう。
ほんと嫌な癖だな。
「座って。寒いかもしれないから、これも使って」
そう言って差し出されたブランケットを、私はそっと受け取った。
「⋯⋯ありがとうございます」
暖かいな。焚き火台の近くに用意してもらったアウトドアチェアに腰を下ろすと、温もりがじんわりと、足元から伝ってくる。薪が弾ける音が、胸の奥にまで静かに染みていく。
ふと、空を見上げると満点の星空が広がっていた。
「きれい⋯⋯」
「写真撮らないの? 映えってやつだろ?」
「えっ?」
「俺にはよくわかんないけど」
その言い方が妙にまっすぐで、私は思わず肩の力が抜けた。
「⋯⋯たしかに、そうですよね。普段だったらすぐにカメラを構えるのに。何のために撮ってんだろ?って私も思います。だから今はいいかな」
「どうして?」
「なんとなく、気分じゃないから⋯⋯かな」
火の揺らめきが、彼の顔の輪郭を柔らかく照らす。どこかで見たことがある気がする。まじまじと見ると、整った顔をしている。都会にいたらモテるだろうな⋯⋯。
私の視線に気がついた彼は、少しだけ目を細めて、ふっと鼻で笑った。それから焚き火に薪をくべる。たまに、ちらりと私を気にする。何も言わないけど、その目は、私を探るようでいて、責めるでもなく、ただ静かだった。私から口を開く。
「焚き火、いいですね」
「安心するでしょ? 悩みとか、一緒に燃やしてくれるみたいに」
「はい。さっきまで、どうやったら映えるか⋯⋯そんなことばっかり考えてたのに。きれいな星空にどんなハッシュタグを付けようか? 炎の揺らぎが美しいから、どう写真撮ろうか? とか」
「女の子は写真好きだよなーー」
彼はくすりと笑う。
「好きだけど。今は⋯⋯カメラ越しじゃなくて、ちゃんと見てたいって思った。自分の目で」
そう口にしてから、自分でも驚いた。
こんな素直なこと、誰かに言うなんていつぶりだろう。
「そうか」
短く返した彼の声に、どこかくすぐったい気持ちになって、私は小さく笑った。
「⋯⋯なんか、変なこと言ってますよね、私」
「いや、別に。素直なだけでしょ」
「素直、か」
彼は火ばさみで薪を寄せながら、ぽつりとつぶやいた。
「ちゃんと見たいって、いいじゃん。案外できないよな。人間、すぐ撮りたがるから」
「ちょっと。それ、皮肉ですか?」
私は少し、頬を膨らませてみせる。
「いや? 本物の景色を見てる人の方が、たぶん少ないから。だからその気持ち、いいんじゃない?」
「⋯⋯あなたは、よくこういうとこ来るんですか?」
「んー。まぁね。休みのたびに来てるわけじゃないけど、たまに。焚き火と、音のない静けさが好きでさ」
「静けさ、が?」
「あぁ。音がないと、自分の中の声が聞こえるだろ。うるさすぎるくらいに」
「⋯⋯っ」
その言葉に、胸がちくりとした。
それと同時に、少し彼の顔に悲しい影が落ちた。私はその表情が気になってしまった。似てるのかもしれない。SNSで映える写真ばかり並べて、誰かのいいねで自分を保ってきた私と。音のない場所に来て、気づかされた。私の中には、本当は、言葉にならなかった感情が渦巻いているんだって。ノイズみたいに心の中に響き渡っている。
耳に届くのは、焚き火の音だけ。ぱちりぱちりと夜に溶けていく。
「名前、聞いていい?」
彼は私に尋ねる。
「あ、江口です。江口茉莉。江口でも、茉莉でも。どっちでもいいです」
「じゃあ茉莉さん。焚き火、しばらく付き合ってくれる?」
「⋯⋯はい」
その返事は、たぶん、今日いちばん自然な声だった。胸の奥のどこかが、ふっと軽くなる気がした。誰の目も気にしない夜が、少しずつ、私の中に沁みこんでいくようだった。
♢
山口蓮と名乗った彼は、「簡単なものしかないけど」と、手際よくキャンプ料理を振舞ってくれた。キノコと海老のアヒージョは絶品だった。ビールを勧められたけど、それは断った。蓮さんは残念そうに、ひとりでプルタブを開けた。
深夜零時。普通なら今頃、終電の心配をしてるはずなのに、私はすっかり寛いでいた。
「ねぇ、蓮さんは、なにしてる人なの?」
「今は、この近くの製材所で働いてる。前は、ちょっと違う仕事してたけど⋯⋯いろいろあって、今はここにいる」
「⋯⋯いろいろ?」
「うん、まぁ。長くなるけど。⋯⋯聞きたい?」
「うん、気になる」
炎がゆらゆらと揺れている。じっと見つめながら、彼は、少しだけ間を置いて語り始めた。
「俺さ、東京で働いてたんだ」
「え! ⋯⋯以外かも。何してたの?」
「映像制作の会社。Vlogとか、CMとか、そういうの作ってた」
「さっき、俺は映えはわかんないって言ってたのに?」
「ははっ。嘘じゃないよ。ある日急にダメになったんだ。映えもそうだな⋯⋯何を撮っても」
焚き火の火の粉が、弾けて夜空に溶けた。
その残り火みたいに、彼の声がぽつりと落ちる。
「何を撮っても、全部、空っぽに見えたんだ。綺麗なのに、伝わらない。音も入ってるのに、自分の声だけ、消えていく感じがして⋯⋯」
「⋯⋯声?」
「そう。誰に伝えたいのか。だんだん分かんなくなって。再生数とか評価とか、そればっか気にして、気づいたら俺の中から好きが消えてた。最初に抱いてた気持ち、全部どこかに置いてきたみたいでさ」
沈黙が、しばらくあたりに満ちる。
耐えきれなくて、私も口を開いた。
「私も話していいかな? ⋯⋯あのね、私、ちょっとだけ逃げてたのかもしれない」
「うん」
「頑張ってるんだよ。仕事も、ちゃんと。納期も守ったし、努力もした。周りの人にも合わせて。でも⋯⋯」
言葉が、静寂に響く焚き火の音にかき消された。
「⋯⋯誰にも認められなかったの。頑張るのが当たり前。ミスしてなくても、ちゃんと出勤してても、なんか、私じゃなくてもいい気がして」
彼は何も言わず、じっと炎を見つめている。
「だから、SNSに逃げたの。『いいね』がつくと、それだけで存在証明でしょ? 私、ここにいるよって。頑張ってるでしょ? って必死だったんだと思う」
「うん。気持ち、わかるよ」
「写真も加工しまくって、充実してるアピールして。ハッシュタグにキラキラした言葉並べて⋯⋯全然、そんな気分じゃないのに」
彼は優しく頷く。
「でも、その投稿が素敵だねって言われると、ちょっと救われる気がするの。見栄だって、嘘だって、もうどうでもよくなってた」
「俺も、似たようなこと思ってたよ」
「蓮さんも?」
「俺の動画もさ、誰かに見てほしいって気持ちから始まったのに。でも、気づいたら自分が何を伝えたいのか、わからなくなってた」
彼は静かに、手元のビールを軽く傾ける。
それから、憂いを帯びた目に皺を寄せた。
「最後に作った映像、会社の倉庫に眠ったままなんだ。公開されなかった。完成はしたのに、誰の目にも触れなかった。⋯⋯それが、一番きつかったな」
「やっぱり似てるね、私たち⋯⋯」
「だから俺は辞めた! もう誰かに認められることのために、作りたくないって思った。⋯⋯今は、自分がほんとに好きだって思える瞬間だけ、動画を撮ってるよ」
「よかった。今も撮ってるんだね」
「少しずつ、だけどね」
私は、焚き火に手をかざしながら、小さく吐き出した。
「わたし、もう、疲れちゃったな」
「⋯⋯立ち止まるのも、ちゃんと進んでる証拠だよ」
その言葉に、不思議と泣きそうになった。
私が欲しかった言葉だったから。それでいいんだよって。でも泣かなかった。ただ、笑ってしまった。
「辛くなったら辞めちゃえば? って、軽く言っていいかわかんないけどさ。俺見てよ。なんとかやってる」
彼はきっと、私を励まそうとしたんだと思う。ぎこちない笑顔でそう言った。私の口角も自然と上がる。
「私ね、ある動画を見てここに来たんです。焚き火をしながらギターを弾いてる人がいて。いいなぁ⋯⋯って思って」
「うそ!? それ、俺です。たぶん。俺の動画」
「嘘だ! だって髭は?」
あの動画の男性のトレードマークのはずなのに彼の顔にはない。
「あーー。昨日剃ったばかり」
彼は自分の顎を撫でてみせる。それから、ふたりで顔を見合わせて笑った。
「もっと山男みたいな人かと思ってた!」
「なんだよ、それ。よかったら⋯⋯ギター、弾こうか?」
「聞きたい! ⋯⋯ねぇ、私には届きましたね。蓮さんの声が」
「そうだね」
空っぽの心に、火種が生まれた気がする。まだ頼りないくらい、小さなものだけど。
「なんだろう。蓮さんと話してると、SNSの画面越しじゃ届かない、ちゃんとした会話をしてる気がする。⋯⋯こんな話、誰にも言ったことなかったな」
「俺も」
「なんでだろうね、初対面なのに」
「初対面だからじゃない? 知らない誰かのほうが、話せることってあるし」
「それ、わかる! 相手が蓮さんでよかった」
「⋯⋯それは、ちょっと嬉しいな」
彼が照れくさそうに笑う。
私も、自然と笑っていた。
心からの、笑顔だった。カメラ越しじゃなく、自分の中から自然に生まれたものだった。
ギターを準備する彼の口元は、何度も動画で見たそのままだった。全部を捨てて自由を選んだ蓮さんに憧れたのか、私の心は高揚している。
「好きな曲ある?」
「蓮さんの好きな曲が聞きたい!」
彼は少し悩んで、動画の中で弾いていた曲を奏ではじめる。そのメロディーの中で、私はもっと彼を知りたいって思っていた。ギターの弦と、焚き火の薪が弾けるたびに、私の胸の奥で、何かがゆっくりと解けていくような気がした。
♢
焚き火の炎が、ゆっくりと小さくなる。
気づけば、夜が少しずつ白み始めていた。
たまに会話をしながら、蓮さんは優しくギターを弾いている。私は黙って、それを見つめていた。彼の横顔の距離が、ちょっとだけ心地よい。
「うわ、もう、こんな時間なんだね。オールしちゃったな」
空を見上げた彼が、ぽつりと呟く。
夜空は少しずつ藍色を薄めていて、木々の向こうにかすかな光が滲んでいた。鳥の声も、ひとつふたつ、静かに紛れはじめている。
「眠くない? コーヒーでも入れようか?」
「うん。もらう」
彼は欠伸をしながら、本格的にコーヒーミルで豆を挽き始めた。
「ねぇ、今日は終電、間に合うかな?」
私は苦笑する。
本当は、時間なんてどうでもよくなっていた。ただ、この静かな夜が終わってしまうことだけが、少しだけ寂しかった。もうちょっとだけ一緒にいたい。
「まだだよ。あと、たぶん一時間くらい」
「⋯⋯そっか。一時間」
ふたりの間に、言葉よりも静かなものが流れた。
遠くで水音がする。朝露が葉を叩いた音かな。過敏になっている私は、コーヒーを注ぐ彼の背中に、話しかける。
「蓮さんって、彼女いるの?」
「あーー。仕事辞めた時、愛想つかされて。そのまま、終わり」
「へーー。そっか。」
「なんだよ」
一口飲んだコーヒーが苦かったのか、彼は渋い顔で私を見る。
「ん? ここに来てよかったなって。終電は終わってたけど……ここで、蓮さんに会えてよかった」
「ははっ。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
彼の声は静かで、優しかった。
その声が、真っ直ぐに胸に届いた。
「私さ、頑張れそうな気がする」
自分でも驚くくらい、自然に出た言葉だった。
「茉莉さんなら大丈夫だよ」
私は口元だけ笑って、頷いた。
違う喪失感が胸を締め付ける。
この夜が終わってしまうのが、嫌だ。
この場所で、やっと本当の自分に戻れた気がするのに。
焚き火が静かに燃え尽きていく。
「もうすぐ、時間だね」
火照った頬に風が触れて、少しだけ意識が現実に戻る。
「送るよ、駅まで」
「うん、ありがと」
ふたりで立ち上がり、炭の匂いをまとったまま、歩き始めた。
「なんか、不思議だね」
「なにが?」
「今日が、昨日の続きじゃないみたい」
彼は、少しだけ考えるような顔をして「じゃあ、#新しい一日のはじまり。って投稿しなよ」そう言って、くしゃっと笑った。それから、ブルーアワーに染まる空を指さした。
「綺麗だろ?」
私は手をぎゅっと握る。
これは目に焼き付けておくべき特別な景色だ。
どうしようもなく、好きだと思った瞬間。
新しい一歩を踏み出して、私は変われる! ってきっかけをくれた。それに、気持ちは昨日から、うるさいくらいに正直だ。
駅に着くと、ちょうど電車が到着するタイミングだった。誰もいないホームに、静かに列車が滑り込んでくる。
「終電、間に合っちゃったな⋯⋯。行かなきゃ」
「うん」
言葉が、それ以上続かなかった。
だけど、何かを残しておきたくて、私は手を伸ばしていた。彼の手の甲に、そっと触れる。
「ありがとう。ほんとに」
彼は驚いたように瞬きをして、それから優しく笑った。
「また来いよ。とっておきの景色、案内してやるから」
「楽しみにしてる」
電車のドアが開く音がして、私は一歩だけ後ずさる。まだ別れたくない気持ちが胸を締めつけた。
「また、会えるかな」
彼が頬を掻きながら言う。
頬がわずかに赤くなるのを、朝焼けがそっと隠してくれた。
「⋯⋯それ、私が言おうとしたのに。また会いたいね」
「じゃあ、またな」
「⋯⋯え、それだけ?」
私の口が、少しだけ膨らんだ。
彼は笑って、振り返らずに手を振る。 そんな背中に、私は小さく手を振った。
扉の閉まる直前、最後にもう一度だけ振り返る。
朝焼けの中、列車を見つめる彼の顔が見えた。少し寂しそうな顔に、なぜか涙がこぼれそうになった。
──ほんとうに、来てよかったな。
何も映えなかったこの旅で、たったひとつ、心に残ったこの人に、また会いたいと思った。
電車が走り出す。
山を抜けて、街へと戻るその途中。私はスマホを開いて、SNSの投稿をぜんぶ削除した。それから、車窓から撮った一枚を、そっと投稿する。また戻ってくるから。
映えないけど、すごくきれいだった。
私の #新しい一日のはじまり。



