「卒業生、退場。卒業生、在校生、職員、起立!」

教頭の軍隊のような号令が、マイク越しに体育館に響き渡る。

今日は三年間通った高校の卒業式。三月とはいえ、暖房の効かない体育館はまだ寒い。

貰った卒業証書を丸めて、ここにはいない彼のことを想う。

ひとりずつ名前が呼ばれる中、彼の名前が呼ばれることはなかった。確かに同じクラスで机を並べていたはずだったのに。

今頃、彼は何をしているのだろう。

今日が卒業式だと知っているだろうか。

(知るわけないか⋯⋯)

自問自答して笑ってしまう。

彼がそんなことを知っているはずがない。

在学中、一度だって学校の行事に参加したことがないのだ。体育祭も、芸術鑑賞も、修学旅行さえ来なかった。

ぞろぞろと整列して体育館を後にしながら、何人もの生徒が鼻をすすっている。女子も男子も関係なく、目を真っ赤にして泣いているのを見て、なんとなく「いいな」と思う。

それだけ思い入れがあった学生生活だったんだろう。

自分だってそれなりに楽しかったけど、彼らのように涙はでない。

(それも、これも、全部あいつのせいだ)

彼にとってはきっと、この学校で過ごした時間なんてなんの意味もなかったに違いない。

だから⋯⋯。

ツンと鼻の奥が痛くなる。

今更泣いてなんかやるもんか。必死に唇を噛み締め、何度も瞬きをしてごまかした。

そう。今更だ。

彼はここを去った。

俺のすべてを奪って――――。


◆◇◆ ◆◇◆

一条(いちじょう)! 一条はどうした!」

まただ⋯⋯。

先生の怒鳴り声に、俺は小さくため息をついた。

仕方なく手を上げて発言する。

「⋯⋯保健室にはいませんでした」
花宮(はなみや)、探してこい」
「……はい」

――なんで俺が。

そう思うのに言えないのは、いちいち口答えして目立ったりしたくないからだ。

俺の立ち位置は、スクールカーストで言えば中の中。特別目立つわけでもないけれど、いじめられていたり友達がいなかったりするわけでもない。

多少、他人に興味を持てないきらいはあるけれど、ただ平穏に高校生活を送りたいだけの、なんの変哲もない男子高校生。

本当はクラス委員なんて面倒くさいことはやりたくなかったけど、くじ引きで当たってしまったんだからしょうがない。

一方、一条はクラスどころか、学校では知らない人はいないんじゃないかってくらい素行が悪いって有名だった。しょっちゅう授業をサボるし、体育祭や修学旅行に顔を見せた試しがない。

ただでさえ、うちの学校はこの辺りでは有数の進学校。有名大学への進学率はかなり高い。

そんな学校に、一条はなぜ入ってきたのか。

噂では父親がめちゃくちゃ有名な政治家だって言われてる。

そして嫌味なことに、授業に出ていないくせに成績はトップクラス。テストの点だけはいいのだ。

いや、テストの点だけじゃない。

見た目もめちゃくちゃいい。普通にしていれば、学校中の女子からモテそうなくらいの見た目をしてるのに、もったいないことこの上ない。

そんなどうでもいいことを考えながら、俺は先生に言われるまま教室を出て、階段を上り屋上に向かった。

本来、屋上は鍵がかかっていて、生徒は立ち入り禁止の場所。その鍵が壊れていることに最近気が付いた。保健室で寝ていないとすれば⋯⋯。


「ここ禁煙だと思う。校舎内だし」

夏の日差しが降り注ぐ中、小さな日陰の出来たコンクリートの上に座り込み、タバコをふかす一条がいた。

「また委員長かよ」
「俺だって好きで呼びにきてんじゃないです」
「じゃあ放っておいてくんね?」

金色に近い茶髪にピアス。令和の時代に、まだこんなチンピラみたいなのがいるのかと、教師が頭を抱えて嘆いていたのを聞いたことがある。

当然、染髪もピアスも校則違反だ。何度注意されても一条は直すことはしない。これは親への反抗だ、とよくわからないことを言っていた。

「だいたい、二十歳未満の喫煙は法律で禁止されてます」
「あははっ、遅っ! 禁煙より先にそっち言うべきじゃね?」

一条は短くなった煙草を足元に落とすと、踏み潰して火を消した。

「…⋯捨てなさいよ」
「っせぇな、わかってるよ」

彼は不機嫌そうないつもの声でそう言うと、そばにあったビニール袋の中身を取り出し、その中に吸殻を入れた。

「委員長、そこ暑くね?」

一条がいる日陰と違って、屋上の入り口はどの校舎の陰にもならず、燦々と太陽が降り注ぐ。

「暑いです。だから」
「こっち」

教室に戻ろう、と言いかけたところに、来い来いと手招きをされた。

「…⋯なんですか」
「別に取って食いはしねぇよ。お前真っ白じゃん、焼けたら痛くなるぞ」

彼が腰を上げる気がなさそうなのと、確かに数分でも暑くて汗をかきそうだったで、俺は一条のいる日陰に移動した。

この学校は二年から三年になるのにクラス替えがない。

不幸なことに二年の最初にくじで学級委員を引き当ててしまった俺は、二年間この職を辞すことは出来ないのだ。

初めて一条を連れて来いと先生に言われた時は、話しかけるのも怖かった。

他校生と喧嘩して病院送りにしたことがあるとか、中学の時に少年院に入ったことがあるとか、とにかくいろんな噂が絶えなかった。

けれど、一年以上も〝一条係〟をさせられていれば、嫌でも慣れる。

話せば別に普通のやつだし、いつも呼びに来る俺に鬱陶しそうな顔をするものの、理不尽に怒鳴ったり殴ったりされたこともない。

というか、鬱陶しいと思うのなら普通に授業に出てくれればいいのに。

俺だって、好きで一条を呼びに来ているわけじゃない。

「ほら」

一条はビニール袋から出したアイスのパッケージを開けて、パキっと音をさせて折ると、半分こちらに寄越した。

「⋯⋯」
「夏といえばソーダアイスだろ」

受け取らずに見つめると、彼は眉間に皺を寄せて、さらにアイスを持った手を伸ばしてきた。

「早く取れよ! 溶けんだろ!」

イラついた声に、つい手を伸ばして受け取る。

まだ出したばかりだと言うのに、暑さで表面が溶け始めて、上から垂れてきそうだった。

つぅっと角を流れた水色の筋を舐め取る。久しぶりに食べたアイスは、なぜかいつもよりも甘く感じた。

「これで共犯だな」

その言葉で、ここは学校で、今は授業中だということを思い出した。

「⋯⋯最悪」

ぼそっと言うと、一条はさも面白そうに笑った。

「じゃあアイス返す?」
「……食べる」
「あはははっ! 委員長の初サボリに乾杯」

一条がひと口かじったアイスを、俺の舐めかけのアイスにこつんと合わせる。

それだけのことなのに、なぜか心臓がぎゅっとなった。

そのまま特に話すこともなくアイスを食べる。

「ハズレかよ」

先に食べ終わった一条は【ザンネン】と書かれた棒をビニールに捨てると、日陰を出てフェンスの方へ歩いていった。

制服のズボンをパンツが見えそうなほど腰まで下げて履き、お尻のポケットに入れている財布は今にも落ちそうに見える。

少し溶けかけのアイスを持ったまま、一条の隣に並んでみる。

学校の屋上から見えるのは、なんの変哲もない景色。ただビルや家が立ち並び、車が走って人が行き交う、ごく普通の風景。

一条がポケットから煙草の箱を出し、一本銜えて火をつける。

その仕草があまりに様になっていて、注意するのも忘れて見入ってしまった。

「それ、おいしいの?」
「アイスよりはマズイ」
「じゃあなんで吸うの?」
「垂れるぞ」

質問と答えがあってなくてきょとんとした俺の手を取り、棒を伝って垂れてきたアイスを俺の指ごと舐められた。

「――⋯⋯っ?! な、舐め⋯⋯っ?!」
「口の端にもついてる」

慌ててバチンと口元を押さえると、堪えきれないように眉尻を下げて笑われた。

「ははははっ! 嘘だし! そこも舐められると思った?」
「最っ低!」
「面白ぇな、委員長」

無視して最後の一口をシャリっと齧る。

棒には『ザンネン』と書かれていて、アイスにまでバカにされた気分だった。


◆◇◆

その次の日からも、俺は何度も授業の途中で一条を探しに屋上へ行き、今日に至っては出欠をとる前にここに来てしまった。

立派なサボリというやつだ。

自分がどうしてこんなことしてるのかはわからない。

わからないけど⋯⋯。

なぜかもっと一条と話したい。一条を知りたい。そう思ってる自分がいた。

噂で言われてた、喧嘩三昧だったりとか、少年院に入っていたとか、そんな事実は一切なかった。

厳格な父親に抗っている、ただの反抗期のガキそのものだ。

そんな一条が、俺は嫌いじゃなかった。

「委員長さぁ、気に入っちゃったの?」
「はっ⋯⋯?!」
「そのアイス」

慌てた俺を見透かしたようにニヤニヤ笑って、今日も半分こして食べたソーダアイスの棒を目の前でプラプラと振って見せる。

距離が縮まると、今まで食べてた甘いアイスの香りじゃなく、最近嗅ぎ慣れてしまった一条のタバコの匂いに包まれた。

「気に入ってないです。全然アタリ出ないし」
「毎回半分奪っといてよく言うぜ」
「そっちがおっきいの買ってくるからはんぶんずっこしてんでしょ」
「はんぶんずっこ、だって。かーわいいね、委員長」

からかうような言い種に睨み付けても、気にも留めないで可笑しそうに俺を見る。

「委員長は大学行くの?」

唐突な質問に戸惑いつつも、当然そのつもりだから頷いた。

「一条もでしょ?」
「行けると思う?」

思うも何も⋯⋯。

「うちの学校で成績トップクラスなら、どこだって行けるじゃん」

謙遜だとしたら嫌味だ。

テストの後に貼り出される順位表には、一条の文字が毎回早い段階で載っている。

「俺さぁ、日本から出たいんだよね」
「留学したいってこと?」

確かに一条の語学力をもってすれば、なんとかなるのかもしれない。

でも一条は首を横に振った。

「勉強がしたいわけじゃねぇもん」
「なにしに行くの?」
「あはははっ、わかんねぇ!」
「⋯⋯はぁ?」

今日は特に日差しが強い。

朝の天気予報では最高気温が35度近くなると言っていた。屋上の日陰にはいるものの、アイスを食べ終わるとさすがに暑い。

「あっちぃ! 授業なんか出てられっか!」
「何言ってんの、次は出るよ」
「委員長はそうしろよ」
「ちょ⋯⋯っ、一条は?」
「俺帰るわ」
「そっ⋯⋯」

今はまだ午前中で、登校してまだ2つしか授業を受けていない。

「……」
「ははっ! 何だよ、その顔」

だって⋯⋯。

「来る? 俺の家」


◆◇◆

なんで⋯⋯。

何度考えても今の状況が整理出来ない。

どうしてこうなったのか。

今、俺は一条の家の、一条の部屋のベッドの上で、一条に抱かれている。

今まで誰にも触れられたことのない場所を晒し、意外にも細くて長い指に身体を拓かれ、自分でも信じられないほどの快感に身を委ねている。

外は日が一番高い、同級生はきっと弁当でも食ってるくらいの時間。

カーテンを締めても真っ暗にならない部屋。クーラーをつけてるはずなのに少し汗ばむお互いの身体を抱き合って、一度目はバラバラに、二度目は同時に果てた。


火照る身体と頭を冷やしたくて、努めて冷静になろうと部屋を見渡した。

最初にこの部屋に入った時にも思ったけど、物凄い本の量だ。

壁二面は本棚でその中びっしりと埋められ、それでも居場所のない本達が机の上に積み上げられていた。

「子供の頃から勉強は苦手じゃなかった。でも何のためにしてるのかが曖昧で嫌だった」

一条は俺の目線の先を読んでそう言った。

なんのために学校へ行って勉強しているのか。

大学に行って、就職するため。

何の疑問も持たずにここまで来た。

「身体、辛くねぇ?」

無言で頷いて見せた。

俺に触れる一条の指は、嗅ぎ慣れたタバコの匂い。

「親父が政治に関わってる国にいたんじゃ、いつまでたっても親父に勝てない」
「⋯⋯どうしたら勝ったことになんの」
「さぁ。それを見つけに行きたいんだ」

――――離れたくない。

反射的にそう思った。

このまま見送ってしまえば、何もなかったように卒業してしまえば、もう二度と一条と会うことはないだろうと、変なところで確信が持てた。

「ヤり逃げ?」

どんなに冷静になろうと努力したって、結局頭は冷えなかった。

だからこんな女の子みたいなことしか言えない。

情けなくて、じわりと目頭が熱くなる。

「委員長、あのさ」
「一条さ、俺の名前知ってる?」
「ヤってる時に呼んだの、聞いてなかった?」

それどころじゃなかった。

緊張して、気持ちよくて、頭が真っ白になって⋯⋯。

「蒼、」
「アイス」
「⋯⋯は?」
「あのアイス食べたい」

唐突な俺の言葉に、一条が目を瞬かせる。

「アイスって、さっき学校で食ったばっか――」
「いいから。腰痛くて動けない」
「⋯⋯わかったよ」

意外にも、彼は俺のわがままを聞いてくれるらしい。

「アタリの買ってきて下さいね」
「んなのわかんねーだろ」
「ハズれたら、俺の言うことひとつ聞いてください」

むちゃくちゃなこと言ってるってわかってるのに、口が勝手に動いて止まらない。

でもこんな方法に頼りでもしないと、どうやって引き止めたらいいのかわからない。

今更気付いた。

俺は一条のことを何も知らないのに、こんなにも――⋯⋯。

「当たったら覚えとけよ。三つは俺の言うこと聞いて貰うからな」
「⋯⋯当たったら、でしょ」
「俺のくじ運なめんなよ」
「今まで何敗してると思ってんですか」
「るせぇ! ⋯⋯これ羽織ってまだ横になってろよ」

手近にあったシャツをこっちに投げて寄越すと、さっさとTシャツとデニムを履いて、財布とスマホだけ持って部屋を出ていった。

「⋯⋯っふふ、ほんとに買いにいった」

学校の誰が想像出来るだろう。本当の一条は優しい人間だということを。

確かに授業をさぼったり決して素行がいいとは言えないけど、彼なりに考えて、もがいている最中なんだ。

偉大な父の背中に逆らって、どうしたら超えられるのかを模索している。

誰がそれを止めることが出来るんだろう。

「すごい本ばっかり」

俺はベッドから身体を起こして、くしゃくしゃになった制服に袖を通した。

身支度を整えてカバンを持つ。

もたもたしてると一条が帰ってきてしまう。

それでもすぐにこの部屋を出られないのは、自分の気持ちに気付いてしまったから。

離れたくない。

まだ一緒にいたい。

ハズレの棒を一条の目の前に突き付けて、そう言えばいい。

それが無理なら、学校サボるなとか、一緒に登校することとか、近くにいられるような命令にすればいい。

でもそれは、一条の歩みを邪魔するだけ。

「相手の将来を思って身を引くなんて、映画みたいじゃん」

わざと言葉に出して自分に言い聞かせる。

一条のため。

ここを旅立つ彼が何かを掴めるように。

こんな短い期間しか一緒にいないのに、こんなにも相手を想える。

自分がこんなにも他人に情を示せる人間だったなんて初めて知った。

きっとこの先、こんな感情になることはない。

一生分の恋だ。

高校生のガキが言うことなんて、大人は鼻で笑うだろう。

でも俺にとっては、たぶんきっと。これが最後の恋。

机の上に置かれたタバコの箱を持って、俺は一条の部屋を出た。


◆◇◆ ◆◇◆

卒業式典を終えて、生徒は自由に写真を撮ったり、お世話になった先生に挨拶をして回ってる。

俺は担任の先生にだけ簡単に挨拶を済ませて、いまだに鍵が壊れたままの屋上に向かった。

一条とここで過ごしていた頃は夏休み前の暑い季節。少しでも日陰によってふたりで座ってアイスを食べた。

半年しか経っていないのに、随分前のことのような気がする。

一条とは、あの日以来会っていない。

制服から微かにしていたタバコのにおいも消えて、すぐに夏休みに入った。

そして九月になると、一条は退学したとホームルームで淡々と告げられた。

喧嘩しただの警察に捕まっただの、いつものように根も葉もない噂が立ったけど、ついに日本を出たんだとわかった。

彼は遠い地で、何を見つけたんだろうか。


長く屋上にいたせいでさすがに身体が冷えてしまった。

教室にカバンを取りに戻ると、ほとんどの生徒がもう帰宅したのか誰もいない。

黒板には『卒業おめでとう!』のカラフルな文字がそのまま残されている。

机の横に掛けていたカバンを取ろうと手を伸ばして、覚えのない落書きがされているのに気が付いた。

「黒板消し⋯⋯?」

意味がわからず首を傾げつつも、教室の前へ足を進めてみる。

ふたつ並んだ黒板消しを手に取ると、下にはチョークではなく⋯⋯。

「……っ、これ、って!」

いつも半分こして食べていたソーダアイスの棒。

消えかけてはいるが、小さな茶色い文字で【アタリ】と書いてある。

「タバコ返せよ」

聞き覚えのある声。

不機嫌そうな、こちらを鬱陶しく感じているのを隠さないその声に、思わず息を詰めて目を閉じた。

「持ってったろ」

いつもポケットに入れていた。

一度生徒指導の先生に見つかって大変だったが、祖父の形見だと苦しい言い訳をして返してもらった。

「……」
「こっち向けって」

俺はゆっくりと振り返って俯いたまま、目の前の机にポケットから出したタバコの箱を置いた。

「⋯⋯それでふたつ目。あとひとつですから」
「あはははっ! 委員長それズルくね?」

変わらない笑い方。

変わらない呼び方。

見た目は変わっていないのか、まだ視線を上げられないからわからない。

海外に行ってもチャラいままの外見だったんだろうか。そっちの方が外国の女性にもウケがよかったりするんだろうか。

そんな余計なことを考えていないと、力を入れている目から変な水分が落ちてしまいそうだった。

「別にいいよ。聞いてほしいの、最初からひとつだし」
「⋯⋯もう委員長じゃない」
「蒼衣」
「⋯⋯っ」
「なぁ、俺と――」


Fin.