「それでは、傷心中の(しま)に乾杯ー!」



 サーヤの音頭と共にジョッキを掲げて、勢いよくビールを喉に流し込んだ。

「おい、サーヤ早速イジってんだろ」

 黙って私がテーブルに乗せられた大量のおつまみを並べていると、嶌はビールを片手に深いため息をついた。
 彼が大袈裟に落ち込んだ表情を見せるものだから、サーヤの隣に座る流川(るかわ)がそっと嶌の前に枝豆を置く。

「まあまあ、これで元気出せ。嶌」

「いやだから、流川もおれの失恋を枝豆で癒そうなんて、さすがになめてんじゃん」

「いやいや、嶌を慰めようの会なんだから、今日はあんたが主役だよ」

「サーヤはさっきからにやにやしすぎなんだよ」

 3人が楽しそうに小突きあっているのを見ていたら、高校時代にタイムスリップしたかのような気分になる。

「なあ、西(にし)もコイツら酷いと思わねえ?」

 手を伸ばして、嶌は私が狙っていた焼き鳥を攫っていく。
 もぐもぐと口を動かし、彼は助けを求めるように隣に座っている私を見つめてきた。
 彼の人懐っこい丸い目は、子犬みたいなかわいさがあって無下にしづらいことは高校生のときに学んでいる。

「嶌、今夜だけは何時間でも付き合うよ」

「“今夜だけ”って、西もひでえよ……」

 金曜の夜の居酒屋は混んでいて、小さな嶌の声は前に座っているサーヤと流川には聞こえていない。

「てことで、飲むぞー! ほら、嶌! グビッといっちゃえ!」

「サーヤはその飲みサーの先輩みたいなノリを切実にやめてくれ」

 流川がサーヤをなだめ、嶌が楽しそうに笑う。
 その横顔を見つめていると、彼が時折辛そうに下を向くのに気づいてしまい、勝手にこちらが苦しくなった。

「あれ、西、元気ない?」

 それはあんただよ、嶌。
 そう抗議する気力もなくて、首を横に振るだけにした。

 
 破天荒で明るいサーヤ、お兄ちゃんみたいな流川、愛されキャラの嶌、そして私。
 高校時代からの仲良し4人組で、卒業してからはみんなバラバラの大学に通っているけれど、2ヶ月に1回は会合を開いている。
 ちなみに、4人のライングループの名前は『テッペン』だ。この鬼ダサいグループ名を付けたのは、言わずもがな嶌である。
 先生にもクラスメイトにも、『あんたたち本当仲良いね』と呆れられるほどずっと4人で行動していて、部活が終わったあとに集合して、お互いの顔が見えなくなるほど夜遅くまで公園でだらだら話す時間が大好きだった。

 私は昔から感情を表情に出すことが苦手で、そのおかげで友達作りも上手くできないタイプだったけれど、この3人に出会ってから世界がぐるりと一変した。

 4人が仲良くなったきっかけは、高2の春にあった校外学習の班が同じだったことだった。全員違った性格なのになぜか意気投合して、どうでもいいことでお腹を抱えて笑える友達になったのはそれから長くはかからなかった。

 流川が足を怪我したときは肩を貸してみんなで松葉杖の代わりになったし、サーヤが愛犬を亡くして泣いたときはみんなで朝まで電話を繋げたし、嶌が文化祭実行委員をうまく出来ずに落ち込んでいたときにはみんなで改善策を出し合ったし、私が熱を出したときはみんながポカリやらゼリーやらを大量に届けに来てくれた。

 あの頃みたいな青々している高校時代は過ぎ去ってしまい、形は少しずつ変わっていっているけれど、いまは4人で飲むこの時間は大切になっている。

「ところでアズちゃんはなんで嶌のことを振ったの?」

 サーヤがど直球に突っ込めば、嶌はわざとらしく胸を抑えて傷付いたアピールをする。
 そんな嶌をお構いなく、サーヤはグイグイと突っ込んでいく。

「だってさあ、高校時代からこの男女グループにも難色示さない寛大な心の持ち主のアズちゃんだよ。それに5年も付き合って、どうしていま別れたくなったんだろ」

「うん。俺らはアズちゃんと会ったことも喋ったこともないけど、聞いてる限り嶌のこと相当好きだったと思うんだけど」

 流川もサーヤに便乗するように言うものだから、嶌は頭を抱えてしまった。

 アズちゃんとは、嶌と高2のときから約5年間付き合っていた女の子だ。ふたりは同じ中学校に通っていたらしく、嶌の中学時代からの片想いが実り、高校生になってから付き合ったとのことだった。
 嶌と中学校が違う私たちは、アズちゃんに会ったことはない。だけど嶌がよく彼女とのエピソードは話してくれたから、赤の他人というほど遠い存在ではなかった。

 嶌から聞かされるアズちゃんは、愛嬌があって寛容で天使みたいな女の子だった。
 それに、お互いがお互いを愛し合っている様子だった。

 そんなアズちゃんに振られたと聞きつけて、私たちは嶌を励ますために今夜集まっている。


「……なんか、アズに別れたい理由を聞いたら、“灯樹(とうき)くんは優しすぎるんだよ”って言われた」


 そういえば嶌の下の名前は灯樹だったな、と関係ないことを思う。


「え、どういうこと? 優しすぎるからあんたは振られたの?」

 サーヤが困惑したように長い髪をかきあげる。嶌は答えるのも苦しそうに、力なく項垂れた。

「わかんねえ……んだけど、それしか言ってくれなかった」

「はあ? 優しいって良いことでしょ? 嶌、それは食い下がったほうが良いって。さすがに友人としてあたしが納得できない」

「サーヤはそう言うけどさ……。わかんねえけど、アズはたぶん、おれに飽きたんだわ」

「でも、そんな理由であんたたちの5年は消えていいわけ? 嶌はまだ好きなんじゃないの?」

「アズが別れたいって言って聞かなかったんだよ。あんな頑固なアズ初めてだったから、もう無理だと思って別れたんだって」

「だけど……だけど、それじゃあ嶌の気持ちはどうなるの?」


 サーヤの悲しげな問いに、嶌は困ったように首を横に振った。流川と私は、黙ってビールを煽る。

 サーヤの言うとおりだ。
 アズちゃんは、嶌の優しさをめいいっぱいに与えられていたのに、それを抱えきれなくなって別れを切り出したのだろうけれど、そんなのどう考えても嶌が可哀想だと思ってしまう。

 嶌の特別をもらっておいて、それがつまらなく感じるなんて、アズちゃんは身勝手でわがままだ。

 私はアズちゃんのことをよく知らないけれど、あんまり好きになれないなとすら感じてしまう。

 煮え切らない想いとともにビールを飲み干す。店員さんに追加を頼むと、サーヤが心配そうに私を止めた。


「ちょ、西、飲みすぎ。さっきからペース早いよ?」

「うーん。なんか今日は飲みたい気分でさ」

「西も嶌も、どうしちゃったのよ……」


 お酒が強いほうである私と嶌がどんどん飲むから、弱いサーヤと流川もつられて早いペースで飲んでいく。

 少し酔い始めて顔が赤くなっている流川が、嶌に視線を向けた。


「俺らの中でずっと恋人いたの嶌だけだったからさ、全員フリーなの新鮮だな」

「流川はモテるくせに、博愛主義気取ってるもんなあ」

「恋愛のいざこざは好きじゃねえんだよ」


 流川も、嶌も、近くで見ていて良い男だと思う。
 私とサーヤは、彼らの人間性が大好きなのだ。悪ノリをしないところや、デリカシーがあるところ。親しき仲にも礼儀があるから、一緒にいて心地よかった。


「そういえば、西も最近恋愛してない感じ?」


 流川が話を振ってきて、こくりとうなずく。


「ぜんぜん。大学も、彼女いる人たちばかりだから」

「なるほどな。西の未来の恋人、どんな人か気になるわ」

「どうだろうねえ」

 
 私が恋人を作らない理由は、たったひとつだ。
 だけどそれは絶対にこの場では言えない。ちなみに流川のように博愛主義だからじゃない。高校生のときからいっさい恋人ができなかったことは、もっとちがう理由が関係している。

 いつも恋愛の話になると濁していた。サーヤはころころ彼氏が変わっていたから、そんなサーヤか嶌の恋愛話をすることが多かったため、私が自分の話をしなくてもたいして問題なかったのだ。


「でも、もし皆んなが恋人できたら、こんなふうに集まれなくなったりして」


 冗談のように言ったつもりだったけれど、流川が私の言葉に反応するように大きなため息をついた。


「それな。だから俺は、恋人なんていらねえんだよな」

 流川とは、こういうところは気が合うと思う。この4人が何よりも大切で、それ以外には少し無頓着で、自分の恋愛を後回しにしてしまうところ。

 流川やサーヤ、そして嶌がいなかったら、私の高校時代はあんなにも青くなかったと、数年経って振り返っても強く思う。

 あの青さや若さがなくても、今もまだこの4人で会えている時間が何に変えてもいちばん大事なのだ。


「まっ、おれも晴れてフリーになったんだから、西と流川はフリーの先輩としてよろしくな」

 嶌は、そう言いながら隣に座る私の肩を組んでくる。

 それは彼女がいなくなったからこその距離感で、そんなことを勝手に痛感してしまって、キュンとしているくせに胸が痛くて滅茶苦茶な感情になる。

 だからわざと、拗ねたように可愛くないことを言う。


「嶌、わたしだって、できなくて彼氏がいないんじゃないからね」

「え、そだったん? てっきり、西は泣く泣くフリーを楽しんでいるんかと」

「うん、嶌。あとで外で話をしようか」

「すみませんでした西さん」


 テンポの良い会話もいつもなら楽しいのに、いまは胸の奥が複雑だ。
 
 ────嶌は、フリー。嶌は、アズちゃんと別れた。

 故に、嶌は落ち込んでいる。寂しくて苦しい想いを抱えて、ここにいる。

 彼がアズちゃんのことを思い出さなくてもいいような時間を作るのが、今夜の私の目標だった。


「やっぱおれ、おまえらといる時間すげえ好きだわ」


 痛々しく微笑む嶌を、私たちは揶揄う。


「うわ、嶌がクサいこと言った!」

「サーヤ、まじでおれの誠意をゲラゲラ笑うな。頼むから」

「ごめんって。うそうそ、あたしらも4人で過ごす時間が好きだから、こうやってずっと集まってんだよね」

 サーヤの言葉にうなずく。
 ずっとこの時間が続けば良いのに、夜というのは案外早く終わりを迎える。


 


.
.



「バイバーイ! 嶌、あんたは良い男なんだから強く生きるんだよ!」

「西も嶌も、次の回まで元気でな〜」



 しっかり酔っ払った下戸のサーヤと流川が手を振りながら帰っていくのを見届けながら、嶌の横顔を見つめた。

 深夜23時半。居酒屋の外から漏れる明かりに照らされた嶌は、無駄にカッコよく見えてしまう。
 見つめていたのがバレたのか、バチッと音が鳴りそうなほどしっかり目が合う。ドキッとしたのを隠すように、目を逸らしてから彼に言った。


「サーヤ、めっちゃ酔ってたけどちゃんと帰れるのかな」

「いやそれな。にしても、西は相変わらず酒豪だよな。顔色も表情もほぼ変わんねえ。あ、素面のときもだけど」

「……ごめんなさいね、無表情女で」

「ふは、そこまで言ってねえよ」


 でもね、あんたといるときは少しだけ表情を明るくしてるんだよ。
 そんなこと、私を見ていなかったあんたは、ずっとずっと気付いてくれなかったけれど。

「私たちも、帰ろうか」

 嶌と私は、帰る方向が同じだった。それはもちろん高校のときもだった。サーヤと流川は私たちと逆方向だったから、4人で集まった後、最後の嶌とのふたりの時間が穏やかで好きだった。

 アズちゃんには申し訳なかったけれど、嶌を独り占めできるのはこの時間しかなかったのだ。その背徳感に満たされている自分のことを大嫌いになりながら、嶌の彼女になれているアズちゃんのことは羨ましくて仕方がなかった。


「そーだなあ。帰るかーー」


 妙に間延びした声を出した彼は、前面に“まだ帰りたくない”と言っている。だけど直接そう言わないのは、私を困らせないためだとわかっている。

 こういう子どもっぽいところと誰にだって優しいところが、高校時代ずっと大好きだった。

 そして私はいまも、嶌が好きだ。

 だから失恋したばかりで痛々しい嶌を、下心だってちょっとはあるけれど、好きな人には元気になってほしいから、本気で慰めたいと思う。

 人恋しいときに私を呼べば良い。都合の良い友達に成り下がっても、嶌が苦しいときに一緒にいたい。


「ねえ、嶌」

「なんだい、西」

「まだ飲み足りないと思わない?」

「奇遇だ、めっちゃめちゃめちゃ思ってた」


 嶌はときどき大型犬みたいに見える。今だって、嬉しそうにありもしない尻尾をぶんぶん振っている。

 笑いを堪えながら、少し口角を緩める。


「じゃあ、もう一軒行っちゃいますか」

「えっ、これはまさか西さんの奢りでは……」

「ん?」

「うそです。ありがとう、西、俺の奢りでいますぐ行こう」

「しょーがないなあ」


 もし嶌がアズちゃんのことを過去にできて、失恋の傷も癒えたら、ちゃんと私の気持ちを言おう。

 あんたのこと、何年も前から好きだよって。

 その日のために、今夜は嶌の寂しさを埋めようと思う。


「ちなみに西さん、これ、もう一軒行くと終電なくなって朝まで飲み続けるルートですが、そちらのほうはよろしいですか」

「いいよ。私、酒豪だから」

「かっこよ! 一生着いていきます!」

「冗談言ってないで、さっさと行くよ」


 はい! と嬉しそうに追いかけてくる嶌を見て、勝手に口角が緩んでしまうのは許してほしい。


.
.



 結局、空いている良い居酒屋が見つからず、歩き回った末に近くの公園に寄ることになった。
 その公園は高校時代に4人で夜遅くまで集まっていた場所で、懐かしい想いが湧き出てくる。

 先ほどコンビニで買った缶酎ハイを片手に、横並びでブランコに座った。

「西がいま、彼氏いなくてよかった」

 嶌が私の隣で、そう呟く。街灯の明るさを頼りに嶌を見ると、彼は自分の缶に結露した水滴がゆっくりと落ちるのを見つめていた。

「なんで?」

「だって西に彼氏いたら、ふたりでこうして飲めなかったから」

「……それは、私のセリフじゃない?」

 私はあんたのことが好きで、ずっと彼氏ができなかったんだよ。だけど、嶌にはずっと、アズちゃんがいた。
 なのに、いまさらそんなことを言うなんて、深い意味はないにしても狡いと思う。

「なんか西ってさ、おれが元気ないときいつも隣にいるよなあって、今日しみじみ思ったんだわ」

 だって、私は友情ともうひとつの感情を、嶌に抱いていたから。嶌がアズちゃんと喧嘩したときには、その話を聞きながら自分の心に蓋をしていたから。

「気づくの、遅いよ」

「そうかもな。西って無表情極めてるくせに人の感情の機微に敏感で、さっきも俺が帰りたくないのわかってこうやって一緒にいてくれてるんだろうし」

 嶌だって、鈍感なふりしてぜんぶわかってるくせに。
 きっと、私があんたのことを好きなことも。

「……嶌はさ、優しいところが良いんだよ」

 嶌の良いところを、たったひとつの失恋で直さないでほしい。

「おう、急だな。ありがとう?」

「うん。嶌は優しくて気遣いの塊で、でもちょっとバカだけど、そういうところを良いって言ってくれる人がこの世界にはひとりは絶対いるよ」

「まじか。そのひとりを探す旅に出ようかな、おれ」

「一緒にその旅、着いていってもいいよ」

「やっぱ西、おまえがいちばん優しいわ」

 酎ハイをぐびぐびと勢いよく飲み、嶌は私の髪をくしゃっと撫でた。
 そういうことを嶌からされるのは初めてで、心臓が勝手に暴れ出す。こんなに私ピュアだったのか、とどうでもいいことを考えていないと、顔の火照りが収まりそうになかった。

「ねえ、嶌」

「どうした、西」

「旅に出て、どうしても人生のパートナーがもう見つからないってなったらさ」

「うん」

「そのときは、仕方なく私がそのひとりになってあげるよ」


 告白めいたことをしているけれど、甘い雰囲気なんて苦手だから、わざと深い意味はないようなふりをした。


「まじか。そんときはおれのことよろしく頼んだ」

「うん」

「たしかに西って、結婚向きだな」

「それは知らないけど」

「そんな未来も、わりとありだな」

「でしょ。思いつきだけど」

「その閃きに乾杯」


 ほとんど飲み干したお互いの缶を当てて小さく鳴らす。
 
『そんな未来も、わりとありだな』

 嶌の言葉に、無意識に涙が目尻に滲む。私はかなり、この男のことが好きらしい。

 私の涙など知る由もない彼は、右手に持っている缶を少し掲げてから無邪気に笑った。

「ちなみに西さん。おれもうこれ飲み干したんだけど、まだ飲み足りねえと思わん?」

「奇遇だね。私もまだまだ酔えない」

「よっし、じゃあまた居酒屋めぐりすっかあ」

「缶ビール片手に公園で朝まで語り明かしても良いけど」

「うん、やっぱ西って、そういうとこ良いよな」

 好きな男となら、なにしても楽しいんだよ。
 好きな男が楽しそうにしてたら、もっともっと楽しくなるんだよ。

 だから今夜だけじゃなくてこれからも、嶌が寂しいときは、私が終電なんていくらでも逃すから。

 こうやって他愛もない話をしながら隣にいさせてほしい。

「真夜中の公園って、大人になった感じするよなあ」

「わかる。高校生のときなんて、この時間は寝てたし」

「それがいまや、日付変わっても構わず、酒片手に語ってんだもんなあ。おれら老けたなあ」

「ごめんけど、私は老けてないよ」

「いやおれもだよ」


 どうでもいいことで笑って、朝を迎える。
 いつかそれが、友達としてじゃなくて恋人としてだったら、外じゃなくて家の中だったらいいなと願う。

 それが叶うか叶わないかはわからないけれど、今夜は嶌の傷心に付き合うことにしよう。

「なあ、西」

「うん?」

「ありがとう」

「全然いいよ」



 日が昇るまで公園で語り明かして眠さと酔いでぼろぼろになっても、彼は私を始発で家まで送ってくれるのだろうと思う。
 そんな想像ができるのは幸せで、いまのこの距離感も悪くない。

 
 嶌の屈託のない笑顔を見ながら、ふたり無言で、空になった缶を夜空に掲げて乾杯したのだった。