「はぁ……終わった」
時計を見た瞬間、全身の力が抜けた。現在、23時55分。最寄りの自宅方面の駅に着いたのは、終電発車までわずか五分前。取引先との飲み会で、完全に時間を読み違えてしまった。胃のあたりが重く、すでに疲労が蓄積しているのを感じる。
慌てて改札を駆け抜け、ホームに滑り込む。しかし、目の前で無情にも、発車を告げるベルが鳴り響き、電車のドアがゆっくりと閉まっていくのが見えた。
「……嘘でしょ」
ホームに取り残された私は呆然と、遠ざかる電車の赤いテールランプを見送った。風が髪を巻き上げ、耳元でひゅうと鳴る音が、私の焦燥感を煽る。
どうしよう、終電を逃してしまった……。
私は、綿貫杏、二十五歳。ウェブデザイン会社に勤める、しがないOLだ。
明日は、朝一番でプレゼンがあるのに……まさか、こんな時間まで飲み会に付き合わされるなんて。
こうなったら、タクシーに乗るしかない……そう思ったけれど、深夜料金を考えれば軽く一万円は超えるだろう。とてもじゃないが、自腹でそんな大金を払う余裕はない。
どうしたものかと、ひとまずスマホを取り出そうとポケットを探った、そのとき。
「あれ……ない……?」
通勤バッグのサイドポケットに入っているはずの、会社支給のタブレットがない。
私は慌ててバッグの中を何度も確認する。底までひっくり返してみるが、タブレットはどこにも見当たらない。
「まさか……」
嫌な予感がした。飲み会の場所は、渋谷にある取引先の近くの居酒屋だ。もしかしたら、そこに忘れてきたのかもしれない。
「終わった。完全に終わった……」
私は、がっくりと肩を落とす。胃の腑が掴まれたようにきゅうと縮み上がり、心臓が耳元でドクドクと鳴り響いた。
明日のプレゼンは、私の担当だ。タブレットには、今日の飲み会で得た最終情報と、プレゼン資料の最終版が入っている。これがないと、明日のプレゼンは間違いなく失敗する。
全身から、サッと血の気が引いていく。
私は急いで居酒屋に電話をかけるが、「本日の営業は終了いたしました」という自動音声が流れるだけだった。
最終オーダーの時間を告げられたのは覚えているが、まさか、数分前まで賑わっていたはずのお店がもう固く扉を閉ざし、人影もないなんて。
絶望に、私は顔を覆った。唇を噛みしめ、悔しさに震える。
「うそでしょ……タブレット! よりによって、どうして今頃気づくのよ!? 私のバカ……!」
駅前広場の片隅で、私はひとり途方に暮れる。
周囲はすでに人の気配もまばらになり、ひんやりとした夜風が私の肌を容赦なく刺した。吐く息が、わずかに白んで見える。
タクシーは高すぎるし、こんな時間に帰る手段はもうない。家まで歩くなんてとても無理だ。
ネットカフェで一夜を明かす? いや、明日のプレゼンは、タブレットがないと話にならない。
どうしよう、どうしよう。頭の中を焦燥感だけが渦巻く。
このままでは、明日のプレゼンは確実に失敗だ。もし失敗なんてしたら、あの鬼上司に何を言われるか……ああ、考えただけで恐ろしい。
だけど、ここで思考を止めるわけにはいかなかった。このまま諦めたら、それこそ明日は地獄だ。何かないか、何か手がかりはないか……そうだ!
先ほど電話のアナウンスで営業終了と告げられたが、ほんの数分前まではお店に人がいた。もしかしたら、裏口にまだ誰かいるかもしれない。清掃スタッフか、片付けをしている従業員が。
そのわずかな可能性に、私は全てを懸けるしかなかった。暗闇の中で、その可能性だけが小さな光のように私の心に宿る。
……よし。こうなったら、居酒屋まで戻ってみよう。そう決意し、辺りをぐるっと見回すと。
「あっ」
広場の奥に、整然と並べられた赤い自転車の列が目に入った。
――シェアサイクル。最近、都会のあちこちで見かけるけれど、今まで一度も利用したことはなかった。
いつもは電車か、バス。急ぐときはタクシー。それが私の当たり前だったから。
「自転車……? この格好で? いやいや、無理でしょ……」
思わず、独りごちた。
ヒールのあるパンプスに、膝丈のタイトスカート。ウェブデザイナーとして、それなりにきちんとした格好だ。こんな服装で、深夜の街を自転車で走るなんて、想像するだけで滑稽だ。
「はあ……」
周囲に誰もいないことを確認し、私は深くため息をつく。
けれど、他に方法はない。自宅に帰るためではなく、あのタブレットを取りに、再び居酒屋へ向かうための手段だ。そして、その手段こそが、わずかながら私に残された希望だった。
まるで何かに吸い寄せられるように、私は赤い自転車に近づいていく。
スマホにアプリをダウンロードし、慣れない手つきでレンタル手続きを進めた。QRコードを読み込む指先が、かすかに震える。
手続きを進めるうち、私はパンプスを脱ぎ捨てた。そして、通勤バッグに思いきり手を突っ込む。
今日の仕事終わりは元々、ジムに行く予定だった。そのため、大きめのトートバッグに、ヨガウェアとタオル、そしてデスクの引き出しにいつも忍ばせている、スポーツ用のスニーカーを入れていたのだ。
企画が行き詰まり、気分転換に体を動かしたくて、久しぶりにジムの予約を入れていたのに……。
結局、急遽飲み会に参加することになったから、ジムには行けなかったわけなのだけど……まさか、こんな形で役立つなんて。
私は、埃っぽいスニーカーに履き替える。
普段の私なら、こんなことは絶対にしない。けれど、この状況では「やらなければ」という衝動が勝る。
靴紐をきつく結び、顔を上げた。少しだけ、覚悟が決まった気がした。
私は自転車のサドルに跨り、ペダルに足を乗せる。
自転車に乗るなんて久しぶりすぎて、何だかぎこちない。本当に、これで大丈夫だろうかと、不安が募る。
冷たい夜風が肌を刺し、ジャケットの隙間からすっと冷気が入り込む。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったオフィス街が、目の前に広がっている。ビル群の明かりが、まるで遠い星のように見えた。
「よし、行くしかない……!」
小さくつぶやき、私はペダルを漕ぎ出した。
オフィス街を、赤い小さな光がふらふらと進んでいく。足元のスニーカーは心もとないが、私はスマホの地図アプリを頼りに、居酒屋のある方面を目指す。
普段は車窓から眺めるだけの景色が、風と共に体に流れ込んでくる。
昼間は気づかないような、ひっそりとした路地の匂い、古い建物の重厚感。どこかの飲食店から漏れる微かな出汁の匂いや、街灯に照らされた古いレンガ造りの壁のざらつき。
全てが新鮮で、同時に、こんな夜中に一人でいることが少しだけ怖かった。
早く着かないと、お店の裏口の明かりも消えてしまうかもしれない。
焦燥感に駆られ、私は無我夢中でペダルを漕ぎ続けた。
オフィス街を抜け、私は見慣れない住宅街へと入っていく。
スマホの地図アプリが示すルートは、細い路地や、街灯がまばらな並木道。昼間なら決して通らないような道だ。
汗がじわりと背中に滲み、慣れない自転車のペダルを踏む足は、少しずつ痛みを訴え始める。
こんな夜中に一人で、道に迷ったらどうしよう。そんな不安がじわじわと心を蝕んでいく。
ペダルを漕ぐ足が重くなってきた、そのとき……。
前方、街灯の切れ間にある、少し寂しい並木道で、誰かが立ち往生しているのが見えた。
黒い影が、自転車らしきものに覆いかぶさるようにして動かない。
「え……?」
心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
まさか、こんな夜中に事件とか? もしそうなら、絶対に関わらないほうがいい……本能がそう告げた。
しかし、その影が私にはどうにも困っているように見えてしまった。
立ち往生しているのが自分と同じ自転車に乗った人だと思うと、放っておけなかった。
私は自転車の速度を緩め、恐る恐るその人に近づく。
「あの……どうされました? 何かお困りですか?」
私の声に反応し、黒い影がゆっくりと顔を上げた。
「ん? ああ、すみません。ちょっとタイヤがパンクしちゃって。直すのに手間取ってるだけなんで、どうぞお構いなく」
そこにいたのは、私と同じくらいの年頃の男性。少し長めの前髪が、夜風に揺れて目にかかっている。その隙間から覗く瞳は、夜の闇の中でも、どこか穏やかな光を宿していた。
全体的に色素が薄いのか、肌も髪も、どこか柔らかい印象を受ける。背筋はピンと伸びていて、着ているカジュアルなウェアも、彼の引き締まった体によく似合っていた。
彼の足元には、細身のタイヤのロードバイクが横たわっている。
「こんな夜中に、まさか自転車に乗ることになるなんて……」
名前も知らない彼が、苦笑しながら呟いた。
もしかして、この人も私と同じなのだろうか。何かの拍子に、こんな真夜中に自転車に乗る羽目になってしまったのだろうか。そう思うと、少しだけ彼のことが気になった。
「あの、もしかして……パンク、大変なんですか?」
私が話しかけると、彼は少し驚いた表情を見せた。
「あ、はい、ちょっと。今、修理してるんですけど、思いのほか手こずっちゃって」
彼は、ロードバイクのタイヤを指差した。そして、ふと思い出したように、私に向き直る。
「遅くなりましたけど、僕は杉野悠斗です。カフェで働いていて、仕事の帰りにちょっと遠回りしてたらパンクしちゃって。そちらこそ、こんな時間に自転車なんて、珍しいですね。何かあったんですか?」
彼の声は、夜の静寂に溶け込むように落ち着いていて、不安で張り詰めていた私の心を、不思議な力で解きほぐしていく。まるで、凍りついた湖に、春の陽が差し込むように、私の心の奥底に染み渡っていくのを感じた。
「私は、綿貫 杏と言います」
私は端的に名乗った。夜風が頬を撫で、少しひんやりとする。改めて自分の状況を説明するのは、どこか気恥ずかしかったが、正直に話すことにした。
「実は、終電を逃してしまって……会社のタブレットを、居酒屋に忘れてしまったんです」
悠斗さんは、真剣な表情で私の話に耳を傾けてくれた。彼の視線は、私の不安をそっと包み込んでくれるようだった。
「明日の朝、大事なプレゼンがあって、それがないと困るので。今、居酒屋まで取りに戻っている途中で……。もしかしたら、閉店後でもお店の裏口になら、誰かいるかもしれないと思って……」
私の切羽詰まった声に、彼は静かに頷いた。
「なるほど、それは大変でしたね。居酒屋って、渋谷ですか? この新宿駅からだと、結構距離ありますよ」
彼の言葉に、私ははっと我に返った。
言われてみれば、確かに。新宿から渋谷まで自転車で行くなんて、普通なら考えられない。
終電も逃して、タクシー代も払えない状況で、私の頭は完全にフリーズしていた。
「でも……明日、朝一番でプレゼンがあって。その資料が、全部タブレットに入ってるんです。だから、それがないと本当に困るんです!」
私の必死な訴えに、悠斗さんは少し考えるように黙り込んだ。その間、私を見つめる彼の瞳は、真剣さの中に、微かな戸惑いを含んでいるように見えた。
「分かりました。……それじゃあ、良ければ僕がそこまでご一緒しますよ」
「え!?」
悠斗さんの思いがけない言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「で、でも、悠斗さんも大変なことになってるのに……」
パンクしたタイヤを見ながら、悠斗さんは優しい眼差しで私の目を見た。その瞳は、夜空の星のように静かに輝いている。
「大丈夫ですよ。朝までは、時間もありますし。こんな夜道を、女性一人だと心細いでしょう?」
彼の言葉に、心の奥底で張り詰めていた何かが、ふっと緩むのを感じた。張り詰めていた肩の力が、ほんの少し緩む。まるで、凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け出すような感覚だった。
今日初めて会ったばかりの、見ず知らずの相手だから。警戒しないといけないと、頭では分かっている。
けど、彼ならきっと大丈夫だ。そんな不思議な安心感が、私を包む。
ほんの少し熟考したあと、私は小さく頷いた。
「ありがとうございます。それじゃあ、お言葉に甘えて、よろしくお願いします」
ペコッと頭を下げると、彼の口元に微かな笑みが浮かんだ。その笑顔は、月明かりのように優しく、静かに私の心に灯る。
それから少しして、悠斗さんがパンクしたロードバイクの修理を終え、二人で再びペダルを漕ぎ出した。
修理中の彼の流れるような手つきは、日頃から自転車に親しんでいることを物語っていた。
私のシェアサイクルは、彼のロードバイクの隣で、どこか頼りなく見えるだろう。
けれど、私のペースに合わせて走ってくれる悠斗さんの優しさに、私の心は少しずつ軽くなっていった。
深夜の街を走る自転車の音だけが、耳に響く。車はほとんど通らず、辺りは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。時折、遠くから野良猫の鳴き声が聞こえるだけだ。
「杏さんは普段、自転車には乗られるんですか?」
黙々と自転車をこぎ続けるなか、先に口を開いたのは悠斗さんだった。
彼の声は、夜の静寂に心地よく響き、張り詰めていた私の心をゆっくりと解きほぐしていく。
「いえ、全く。大人になってからは、今日が初めてです。普段は電車かバスなので……まさか、こんな夜中に自転車に乗るなんて、夢にも思いませんでした」
「はは、そうでしょうね」
私のぎこちないペダルの動きを見ても、彼はただ優しく笑うだけだった。その笑い声は、風に運ばれていく木の葉のように軽やかで、私の心に温かい安心感をくれる。
「でも、夜の街も自転車で走ると、また違って見えませんか?」
「確かに……」
ひんやりとした風が、肌を撫でる。
昼間は気にも留めなかった街路樹の葉が、冬の訪れを前に、乾いた音を立ててサラサラと揺れる。幹線道路から一本入った裏道は予想以上に道幅が広く、小さな個人商店がひっそりと軒を連ねる。
シャッターの閉まった店の前を通り過ぎるたびに、それぞれに異なる、ひっそりとした佇まいを感じた。それは、私が今まで知らなかった、この街の隠された表情だった。
自転車のスピードを出しているわけではないのに、風を切る感覚がとても心地よい。
「なんだか、発見が多いですね。風が気持ちいいし、昼間は気づかない路地の奥とか、意外と道が広いことに気づいたり……」
私がそう言うと、悠斗さんは小さく頷いた。
「ええ。僕も、自転車に乗るようになって、気づいたんです」
悠斗さんは、少し遠くの方を見つめるように目を細める。その横顔には、どこか穏やかな諦めのような、あるいは確固たる信念のようなものが浮かんでいるように見えた。
「普段、時間に追われていると見落としがちだけど、こうしてゆっくり進んでみると、新しい発見がたくさんある。急ぐだけじゃなくて、たまには立ち止まって周りを見る時間も、すごく大切だなって」
彼の言葉は、私の心の奥にじんわりと染み渡った。
効率ばかりを追い求める毎日に疲弊していた私にとって、それはとても新鮮で、心惹かれる考え方だった。
それから悠斗さんは、表参道のカフェでバリスタとして働いていること。そして自転車が趣味で、休日は遠くまでロードバイクを走らせることもあると話してくれた。
彼の話す声は、コーヒーを淹れるように丁寧で、自転車への愛情が滲み出る。まるで、一杯のコーヒーを味わうように、ゆっくりと景色を楽しみながら走る彼の姿が目に浮かぶようだった。
「杏さんは、どんなお仕事をされているんですか?」
今度は、彼が尋ねてくる。
「私は、ウェブデザイナーです。毎日パソコンとにらめっこで……デザインを考えて、コードを書いて、修正して。ずっとディスプレイを見ているので、最近は目が霞むことが多いです」
自嘲気味にそう答えた。仕事が楽しくないわけじゃない。やりがいも感じる。だけど、どこかで、私は自分自身を見失っているような気がしていた。
会社では常に効率と納期に追われ、創造性よりも正確性が求められる日々。心が摩耗していくのを感じていた。
「最近は特に、新しい企画案で煮詰まっていて……。アイデアが全く出てこなくて、納期が迫るたびに胃が痛くて」
そこまで言って、私は一度言葉を切った。
普段、決して誰にも話さないような弱音。
それを、こんな見ず知らずの人にどうして私は話しているのだろう。少しだけ、後悔のような感情がよぎる。
しかし、目の前の彼なら、きっと受け止めてくれる。そんな温かい期待が、私を包み込んだ。
悠斗さんは静かに私の話に耳を傾け、時折、頷いていた。その沈黙は、私を急かすものではなく、ただ私の言葉を受け止めてくれている。そんな安らぐような沈黙だった。
「私、自分がこの仕事に向いてるのかなって、時々、不安になるんです」
吐き出すように本音を漏らすと、悠斗さんは静かに頷いた。
「それ、なんか分かる気がします」
彼の声に、少し驚いて顔を上げた。
「でも、杏さんは……もっとクリエイティブなことが、したいんじゃないですか? さっきもお店のロゴ、じっと見てましたよね?」
「え……!?」
悠斗さんは、私がたった今通り過ぎた小さなパン屋のロゴを、一瞬立ち止まって眺めていたことを見抜いていたのだ。背中がじんわりと熱くなる。
シンプルなフォントと、パンのイラストが絶妙に調和したデザインは、普段クライアントの要望ばかり考えている私には、新鮮で心を奪われるものだった。
自分でも意識していなかった、心の奥底に隠していた、微かな「好き」という気持ち。それを、彼は私よりも早く気づいていたのだ。
「昔は、もっと自由に絵を描いたり、色を組み合わせたりするのが好きで……。休みの日はスケッチブックを片手に街を歩き回ったり、パソコンに向かっては色々なフォントを組み合わせて遊んだりするのが好きで。高校生の頃、美大に行きたいと本気で考えてた時期もあったんです」
私の言葉を聞きながら、悠斗さんは静かに頷いている。
「でも、結局、自分の才能に自信が持てなくて……現実的に、安定した道を選んだ方がいいのかな、と思ってしまって。だから、デザイン系の専門学校に進んだんです」
私は、ペダルを漕ぐ足を止めて、顔を伏せた。過去の選択への後悔が、微かに胸を締めつける。
「だけど、やっぱり仕事となると、クライアントの要望が第一なので、なかなか自由にできなくて」
自分でも信じられないほど、すらすらと言葉が出てくる。普段、職場の同僚にも、友人にも話せないような本音だった。
目の前の彼は、私の言葉をただ静かに受け止めてくれた。
ペダルを漕ぎ続けるうち、体は徐々に温まり、薄らと汗ばんできた。水分も摂りたいし、そろそろ休憩を挟みたい。そんなことを考えていると、悠斗さんが私のほうを見た。
「この辺りに、たしかコンビニがあったはずなんですけど、少し休憩しませんか? 何か温かい飲み物でも飲みません?」
彼の提案は、まさに私が求めていたものだった。
「はい! そうしましょう」
気がつけば、私たちはコンビニの前にたどり着いていた。少し休憩を取ろうということになり、私たちは自転車を降りた。
コンビニの自動ドアをくぐると、肌を刺すような夜の冷気から一転、暖房の効いた店内の温かさにホッと息をついた。
煌々と輝く蛍光灯の光が店内を明るく照らし、深夜にも関わらず数組のお客さんが思い思いに商品を選んでいる。
私は温かい飲み物でも買おうかと迷いながら飲み物の棚を見ていた。すると、悠斗さんが迷いなくレジへ向かい、店員さんに「ホットコーヒー、一つお願いします」と声をかけた。
彼は小さなスナック菓子も手に取り支払いを済ませ、受け取ったコーヒーカップを私に差し出しながら「杏さんもどうですか?」と微笑んだ。
悠斗さんの差し出してくれたカップを見て、私も「はい、お願いします!」と笑顔で答え、自分の分のホットコーヒーをレジで注文する。
支払いと同時に受け取ったカップは、まだ何も注がれていないのに、これから温かいコーヒーを飲むという期待で、すでに指先からじんわりと温もりを感じるようだった。
二人でレジ横のコーヒーマシンへと向かい、ボタンを押す。温かいコーヒーがカップに注がれるのを待つ間、まるでカフェにいるような香ばしい香りが辺りに漂った。
出来上がったコーヒーを手に、私たちはコンビニをあとにする。
「そこの公園で、休憩しませんか?」
悠斗さんが指差したのは、コンビニのすぐ裏手にある小さな公園だった。遊具の影が夜の闇に長く伸びている。ブランコが風に揺れ、微かにきしむ音が聞こえるだけだ。
悠斗さんとベンチに並んで腰を下ろすと、冷たい夜風が吹きつけ、汗ばんだ肌に心地よい。
都会の真ん中にいることを忘れさせるような、澄み切った静寂がそこにはあった。
すると、悠斗さんが手に持っていたコーヒーの蓋をおもむろに開け始めた。彼はカップから立ち上る香りを嗅ぎ、ゆっくりと一口含む。
まるで、淹れたての高級なコーヒーを味わうかのような、丁寧な所作だった。彼の指先が、コーヒーカップの縁をゆっくりと撫でる。
悠斗さん、さすがプロだなあ。
「これ、意外と美味いんですよね。深夜に飲むコーヒーって、なんか特別で」
悠斗さんが、ふわりと微笑んだ。
私も購入したコーヒーを一口含むと、ほろ苦さと共に微かな甘みが舌に広がり、疲れた体にじんわりと染み渡る。
「本当だ……すごく美味しい」
飲み慣れた、いつものコンビニコーヒーのはずなのに。深夜というこの特別な時間が、その味を格別なものにしていた。
「それにしても、こんなふうにゆっくりとコーヒーを味わったのは、いつぶりだろう」
ふと空を見上げると、都心の夜空にもかろうじて星が瞬いていた。秋から冬にかけては空気が澄むせいか、都会の光の中でも、いつもより多くの星がはっきりと見えた。
ビル群の光に遮られ、普段は意識することもなかった無数の輝きが今、確かにそこにあった。
「杏さん。星、好きなんですか?」
悠斗さんが、私の視線を追うように空を見上げながら尋ねた。
「はい。昔から好きなんですけど、東京に来てからは、なかなかゆっくり見る機会がなくて」
「僕も、子供の頃から星が好きで……」
悠斗さんの声は、静かな夜の空気のように、そっと心を包み込むようだった。そして、彼はふと、自分の夢について語り始める。
「僕、いつか自分のカフェを開くのが夢なんですよ。もっとゆっくりと、お客さんと話せるような場所で。美味しいコーヒーを淹れて、星の話もできるような。都会の喧騒から少し離れて、ふと立ち止まりたい人が来られるような……そんな、人々の心に寄り添うカフェにしたいんです」
悠斗さんの言葉は、私の心を強く揺さぶった。
すごいな……自分の夢に、こんなにも真っ直ぐな人がいるなんて。
私の周りには、安定した収入やキャリアアップを追い求める人ばかりで、こんなふうに、純粋な「好き」を語る人は、正直いなかった。
悠斗さんの瞳は、情熱を秘めた光を宿し、キラキラと輝いている。彼の真剣な眼差しに、私の心臓がトクンと小さく跳ねた。
「……僕も昔、美大を目指していた時期があったんです。でも、結局、自分の絵に自信が持てなくて、諦めてしまった。だから、杏さんの気持ち、少し分かる気がします」
悠斗さんの言葉に、私はハッと息をのんだ。
彼もまた、私と同じように、かつて夢を追っていた過去があったのだ。それが今、彼をバリスタとして、そしていつか自分のカフェを開くという夢へと駆り立てている。
この人は、自分の夢に真っ直ぐだ。私とは違う。けれど、だからこそ、心が洗われる思いだった。
悠斗さんと一緒にいると、これまで自分を縛っていたものが少しずつ溶けていく、不思議な感覚に包まれる。
都会の真ん中で、こうして時間を気にせず立ち止まるなんて、一体いつぶりだろう。
温かいコーヒーの湯気が、澄んだ夜空へゆっくりと昇っていく。
私は、悠斗さんの飾らない優しさと、彼が持つ「今を大切にする」生き方に、強く惹かれていることに気づき始めていた。
そして、この夜の出会いは、私の人生を変えるかもしれない。
忘れかけていた「好き」という感情が、再起動したかのように息を吹き返し、停滞していた心がゆっくりと動き出すのを感じていた。
休憩を終えた私たちは、公園を出て再び自転車を漕ぎ出す。空は、わずかに白み始めていた。夜の闇がゆっくりと後退し、街の輪郭が曖昧ながらも姿を現し始める。
自転車を漕ぎ続けていると、目的の居酒屋がようやく視界に入ってきた。看板の灯りは消えているものの、裏口の扉から明かりが漏れているのが見えた。
「良かった……! お店の電気、まだついてます!」
私が思わず声を上げると、悠斗さんも「本当だ。間に合いましたね」とホッとした表情を浮かべた。
自転車を降り、二人で居酒屋の裏口へと向かう。ちょうど若い男性店員が、ドアを開けて出てきたところだった。
「すみません。あの、昨夜ここにタブレットを忘れてしまって……」
私が慌てて事情を説明すると、店員さんは「ああ、もしかしてこれですか?」と、カウンターに置いてあった私のタブレットを差し出してくれた。
「はい、これです。助かりました! 本当にありがとうございます」
店員さんからタブレットを受け取ると、ずっしりとした重みが、昨夜からの不安と疲労を改めて実感させた。
そして、その重み以上に、言いようのない安堵と、悠斗さんへの感謝が、胸の奥から熱くこみ上げてくる。
長らく張り詰めていた心臓の鼓動が、ようやく静かに落ち着いていった。
「悠斗さんがいてくれなかったら、今頃どうなっていたことか……本当に、ありがとうございます」
心からの感謝を伝え、私は悠斗さんに向かって頭を下げる。
「いえいえ、僕は何も。タブレット、無事に見つかって良かったですね」
悠斗さんは、少し照れたように微笑む。彼の優しい笑顔が、夜明けの光に照らされてひときわ眩しく映った。
居酒屋を後にして、私たちは再び自転車を漕ぎ出した。薄明かりに包まれた街は、昼間の喧騒とはまるで違う顔を見せていた。
清掃車の音、新聞配達のバイク、そしてまばらに増え始めた人影。眠りから覚めゆく街の鼓動が、私たちの体をゆっくりと包み込む。
隣を走る悠斗さんをちらりと見ると、彼の顔もまた、朝の柔らかな光に照らされている。
もうすぐ、この自転車旅も終わるんだ――。
この特別な夜の終わりが、刻一刻と近づいている。たった一夜の出来事なのに、まるで数日間の旅を終えるかのような、深く満たされた気持ちと、そして言いようのない名残惜しさが胸に募る。
昨夜の絶望が嘘のように、今は心が温かい。
彼との出会いが、こんなにも自分を解き放ってくれた。このまま、時間が止まってくれたらいいのに……。
空が、薄い水色から淡いオレンジへと緩やかに色を変えていく。そのグラデーションが、どこか切なくて、同時に新しい始まりを予感させるようだった。
スーツ姿のビジネスマンが小走りに駅へ向かい、朝の通勤ラッシュが始まりつつある。街が日常を取り戻していくのを感じながら、私たちの自転車は駅へと近づいていった。
そして、ついに新宿駅のシェアサイクルポートに到着し、私は借りていた自転車を返却する。短い一夜の冒険が終わる瞬間だった。
自転車を返却し、どこか心の片隅にぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じる。
もっとこの時間が続けばいいのに……と、柄にもなくそんなことを思ってしまう。けれど、これでもう本当に終わりなのだ。
帰らなくちゃ……自分の家に。
「悠斗さん、昨夜は本当にありがとうございました」
何とかお礼を言うも、彼の顔を見られずに私は俯いてしまう。
「それでは、私はこれで……」
軽く会釈し、名残惜しさを振り切るように私が駅の改札へと歩き出そうとした、そのとき。
「杏さん!」
彼が、大きな声で私の名前を呼んだ。
振り返ると、朝日に透ける柔らかな髪を揺らし、穏やかな笑顔を向ける悠斗さんがそこにいた。
「あの……良かったらまた、杏さんと一緒に自転車に乗れたら嬉しいです。今度は、もっとゆっくり、どこか遠くまで」
悠斗さん……。
彼の言葉は、私の心に、この特別な夜の続きがあることを教えてくれた。
私も……また会いたい。また、悠斗さんとたくさん話がしたい。
心の奥底で、熱い衝動が湧き上がってくる。
「杏さん」
その願いが通じたかのように、悠斗さんが私の元へと駆けてくる。そして、こちらにすっと手を差し出した。
彼の手には、白いシンプルな名刺。そこには「杉野悠斗」という名前と、手書きで「バリスタ」と添えられている。
「これ、僕が働いているカフェの名刺です。良かったら今度、僕の淹れたコーヒーを飲みに来てください」
悠斗さんの言葉に、私の心にパッと光が差した。まるで、新しい世界への扉が開かれたような感覚だった。
「はい、ぜひ! 悠斗さんのコーヒー、飲んでみたいです」
名刺を受け取り、私は満面の笑みで答えた。悠斗さんも目を細め、優しく微笑んでくれる。
「それじゃあ、近いうちにお店にお邪魔しますね」
もう一度、今度はしっかりと悠斗さんの顔を見つめ、「今日は本当にありがとうございました」と心から伝える。
彼も頷き、私は名残惜しさを感じながらも、これからの再会を胸に、駅の改札へと入っていった。
少ししてホームに始発の電車がやって来たため、私はすぐに乗り込む。疲れと眠気はあったけれど、心は不思議と軽やかだった。
家から会社は、電車で三十分ほどの距離だ。このまま会社へ直行することもできたけれど、やはり一度身なりをきちんと整えてから出社したかった。それに、ほんの少しだけでも横になりたかったから。
電車に揺られながら、私はのんびりと車窓を眺める。
終電を逃し、さらには大事なタブレットまで紛失してしまって。あの瞬間はどん底に突き落とされた気分だった。けれど、まさかこんなにも素敵な出会いが待っていたなんて。
私は、悠斗さんからもらった名刺を見つめる。
この一夜の自転車旅は、私に「立ち止まること」の大切さと、心の奥底で忘れかけていた「好き」という感情を思い出させてくれた。
彼との出会いをきっかけに、停滞していた私の中に、新しい光が灯り始めていた。
これから始まる私の一日が、そして人生が、この夜を機に、少しずつ、でも確かに変わっていく。そんな予感に満ちた、爽やかな朝が訪れた。
きっと、私はあの夜を忘れることはないだろう。
だってこれは、私自身の新しい物語の幕開けだから。
【完】



