「……先輩っ、なに、やってるんですか」
そう言いながら思わず先輩の腕を掴んでしまった。普段の僕なら絶対にしない。そんならしくない行動をしてしまった理由はきっと2つ。
ひとつは先輩が腰まで水に浸かったままフラフラと、それでも意志をもって真っすぐ海の中を歩いていたから。
もうひとつは、きっと僕はこの日に限ってとんでもなく酔っ払っていたからだ。
どれくらい、酔っていたのか。それをわかりやすく表現する方法すら、スラスラと頭に出てこない程度には、脳みその中をアルコールに侵食されていた。
だから僕は飲み会が終わった時間も、どうやってここまで来たのかを正確に憶えていなかったりする。
それくらいには久しぶりに酔っていた。きっと冷静になった明日の朝に、初めて後悔するんだと思う。ああ、馬鹿なことしたなぁってガンガンと内側からハンマーで殴られているかのような頭痛に悩まされながら。
たしかジンとウォッカをカカオベースのお酒で割ったカクテルをしこたま飲んだ、ところまでは微かに憶えている。
たしか、だけどその前にもハイボールと日本酒を何杯も飲んでいた。そんな馬鹿になった頭で、酔える酒とか調べたのがいけなかった。冷静になればそんな最悪と最悪をかけ合わせて酔わないはずがないことなどわかりきっているのだが、あの時の僕にはそんな判断すら出来ないほどに酔いたい気分だった。なぜ、か。そんなの最悪な甘さで最低な現実をすこしでも薄めたかったからだ。
だから、たしか一緒に飲んでいたサークルの同期に
「おい、まだ飲むのかよ。それ、レディーキラーって呼ばれてるんだってよ。だからさ、ほどほどにしておけよ」
「え、なになに。その異名みたいなやつ」
「なんだっけ。たしか何杯もいけるくらい飲みやすいのに、馬鹿みたいに酔う酒だよ。だからかわいい子をお持ち帰りしたい時に飲ませるやつ」
「うわぁ、じゃあ可愛くないお前に飲まれてもな」
「酔われても、お前じゃ面白くねぇし」
「……馬鹿、おまえ。もうやめとけって。変に強い、キャパわかってないやつが無茶するのが一番怖いから、もう飲むなって」
「まあまあ、そう言わずに。今日くらい飲ませてやりなよ。こいつの傷心具合なんて、俺らには想像しか出来ないんだからさ」
なんて笑われても、飲み続けた。ただただ酔いたかった。馬鹿みたいに酔って、忘れてしまいたかった。
もともとアルコールにが強い身体をしていたから、少し強いお酒を飲んだからと言って不調がでるようなこともなかった。そのせいで調子に乗ったのだけれど。
だから今の僕がしっかりとわかっていることは、たしか大学からほど近い居酒屋で飲んだ後に、酔いつぶれたまま道にぶっ倒れたこと、その後頭痛に襲われながらもたどり着いた駅の改札前にはすでにシャッターが降りていたこと。そしてその閉ざされたシャッターは僕が終電を逃してしまったことを意味すること、それだけだった。
はずなのに、なぜかその駅の前で
「偶然ね、あなたも終電を逃したの?」
学内一有名であり憧れの的であるひとつ上の先輩、飛鳥真知子さんが立っていたのだ。立っていただけでなく、サークルが同じくらいしか接点がないはずなのに、あろうことか話しかけてきたのだ。真知子さんと言えば、僕の入ってるサークルはおろか学内に知らないひとがいないくらい美人と有名で。たしか、いつかのミスコンで、コンテスト用に作ったSNSのフォロワーが数万人規模まで膨れ上がった結果、他の出場者に大差をつけてグランプリを獲得した伝説を持つひとだ。
思えばこれがそんな先輩との、最初のまともな会話だった。
「あ、まあ」
頭痛に響かないように小さくそう返した僕の手を、真知子さんは掴んでにこりと微笑んで言った。まだ状況を理解できていない僕にはお構いなしに、先輩は喋り続ける。
「それじゃあ、一緒に海を見に行きましょ」
どうせ、朝まで暇でしょ。そう付け加えられた言葉に「その通りです」と頷く。なぜ、終電後の駅前に先輩がひとり佇んでいたのか。なぜ彼女が麦わら帽子に白いワンピースなんて、お洒落にしてもあまりにも季節を先取りしすぎているように見える洋服でそこにいたのか、この時の僕にはわからなかった。
なにが起こっているのかわからないまま、ただただ彼女に手を引かれるがままに歩く。誰ともすれ違わなかった。車通りが少ないのをいいことにか、先輩はどうどうと車道に引かれたセンターラインの上で僕を先導した。
大学の最寄駅から30分ほど歩いたところにある海岸に、それから程なくして着いた。歩いている間、先輩も僕もひとことも喋らなかった。もともと仲が良いわけでもないし、きっと僕が酔っていなければ、終電を逃さなければ出会わなかったはずだもんな。そりゃそうか、とぼんやりと目の前に広がる海を眺めた。
夜の海は、星空をそのままうつした鏡みたいだった。穏やかな風に吹かれて揺れる水面は、動くたびに空に浮かぶ数多の星をうつして細やかな輝きを放っていた。
星たちに紛れてまるい月も深く暗い群青色の中に、ぽっかりと浮かんでいる。いつもはひとつしか見えないはずの月が今日だけは2つ綺麗に見えた。星と同じように、海面にうつってゆらゆらと揺蕩っているから、と気が付くまでは自分自身の酔いがまだまったく冷めていないのか。先輩と海に来たのも酔いが見せた幻なのではないか、と割と本気で自分自身を疑ってしまった。
「桐堂透くん、問題です。さて、この世で一番死に近い場所はどこでしょう」
けれど真知子さんがこちらを振り返って、そう問いかけてきて我に返った。やっぱり先輩と一緒に海に来ているのはどうやら夢でも、酔いが見せた幻でもないらしい。
「え、ええっと……お墓とか、ですかね」
「それはもう、死んでる場所だね」
だからといってうまい返しが出来るくらいの通常運転に戻っているわけでもなく、表情ひとつ変えない先輩に首を何度も横に振られてしまった。よく考えれば、初めての会話らしい会話をしたばかりの後輩に突然、そんなことを聞いてくる先輩の方がおかしいのかもしれないけど。今の僕には、他人をおかしいと言える資格などなかった。
「わからない? きみだってこれまで生きてきて、一度くらいはそういうこと考えたことあるんじゃない?」
そう言った真知子さんがこちらに向かって小首を傾げてくる。それまで彼女が背中に流していた艶がある癖のない真っ直ぐな髪が、さらりと音をたてて肩から落ちてくる。揺れる。先輩の髪も、先輩の奥で水面にうつった星も月も。揺れる。けれど不思議なことに吹いている風が柔らかいからか、小さくたちつづけるさざ波の音は先輩の発する声よりも静かであまり気にならなかった。
「まあ、どちらでいいわ。でも一緒に考えてほしいの。終電を逃してしまった同士でしょ、わたしたち」
そんな程よい静寂の中で、真知子さんもまた静かに続ける。それから「座ろっか。とりあえず」と言ったきり、繋がれたままになっていた手が離れる。想像以上によく喋る先輩に呆気にとられたまま動けない僕を置いて、真知子さんは躊躇いもなく砂浜に腰を下ろした。
「せっかくの白いスカートなのに、いいんですか?」
「いいの。汚れても、わたしは綺麗でしょ」
冗談か本気かわからない温度感の声でそう言われる。けれどこちらを見上げ「ほら」と手招きをする真知子さんは、慣れないなりのお茶目さを見せているのか。眉尻を下げて、ふにゃりと言葉が似合いそうなほど力なく笑っていた。痛々しい。でも彼女なりの精一杯の冗談っぽさを感じ、真知子さんの言うとおり隣に腰を下ろした。
それから、「そういえば」と文頭につけて僕は口を開く。
「先輩って、意外と喋るんですね」
「……きみ、失礼って言われない? わたしにどんなイメージを持ってるか知らないけど、随分ときみは素直な物言いをするみたいね」
「……すみません」
「別に謝ってほしいわけではないのよ、透くん」
反射的に謝ってしまった僕を、真知子さんはケラケラと笑った。顔を横に向けずとも、視界の端に真知子さんが見える不思議さに思わず流しそうになるところだったことを口に出す。
「そういえば、僕の名前……」
「あ……サークルの新入生歓迎会で聞いてたから」
でも、あれもう3年前っすよ」
真知子さんの言葉に首を傾げる。わざわざ指をおって、わかりきった年を数えてみせたところで、一段とトーンを下げた声で先輩は言った。
「そうね……わたし、忘れられないのよ」
「え。忘れられない、とは」
「言葉の通り。わたしは忘れられないの。だから3年前、一度聞いただけのきみの名前も憶えてる。記憶をずっと捨てられずに持ち続けている、とでも言えばわかるかしら」
「そう、なんですね」
忘れられない、か。と先輩が口に出した言葉を噛みくだいてみる。自分の中になんとか落とし込んでみようと思ったが、酔ったせいで馬鹿になった頭と己の想像力のなさでは真知子さんの言わんとしたことを100%理解することは出来なかった。
だってさ、もし僕に人の気持ちを慮る想像力があるならばきっと、先輩が言う"忘れられない"を羨ましいなんて微塵も思うはずがない。だから僕には想像力がない。
「だからたまに、逃げたくなるのよ。なににも縛られずに、自由にもなりたくなる。この世のすべてから」
真知子さんは淡々とそう続けた。麦わら帽子の下、俯いた顔の中でつんと上を向いた鼻先だけが赤く染まっていて寒そうに見えた。ただのそこらへんにいる後輩の僕には、先輩になんて言葉をかけていいかわからなくて。ただ黙って先輩を見ていることしか出来なかった。暗くて深い色しかない夜の海で、真知子さんだけが白くて淡いのが、異質で不思議でどこかおかしかった。
「ねえ、透くん。きみの考えを聞かせてほしいの。きみはこの世界で一番死に近い場所はどこだと思う?」
月明かりに照らされてぼんやりとひかる真知子さんは、まっすぐと僕を見据えてさっきと同じ質問を投げかけてきた。僕自身あまり常日頃から死について考えないからか、やはりすぐにはその質問の答えは思いつかなかった。
「はじめてこの質問をした日のきみは"駅のホーム"って答えたのよ」
「……っえ?」
しかし先輩の口からこぼれ落ちた言葉は、僕の想像も自身の中にあったはずの僕という存在自体も揺るがすほどに衝撃的な内容だった。なんだそれ、そんなの僕は知らない。言った記憶などない。だって僕はこれまで死について考えることなどほぼなかったし、なにより真知子さんとちゃんと話すのは今日が初めてのはず、だ。
そこまで考えたところで、脳みそを直接殴られるような強い頭痛に襲われる。酔のせいで、回りきってない脳みそを無理に回したせいだろうか。わからない。
ただ、どくん、と心臓が鼓動を打つ音が、普段の何十倍も大きく聞こえた。耳の近くに心臓が移動してきたみたいに。
「次にあなたにこの質問をした時は"学校の屋上"。その次は"深夜のひとり暮らしのワンルーム"」
鼓膜が真知子さんの声を聞きたくない、とでも言うかのように、先輩の声がくぐもって聞こえる。まるで海の中や水の中に潜った時みたいに、まわりの全ての音がどこか遠くから、薄い壁を隔てた向こう側から聞こえてくるようだった。
「最後に飲み会の前。きみは学部生用のラウンジで、サークルの同期くんたちと一緒に成績発表を見ていた。その時きみだけが、進級できるだけの単位が取れなかった。つまり留年することが決まったのよね」
「……は、僕が……り、留年だって……?」
留年、なんて、憶えてない。なんだそれ。今年も1年間講義もしっかり聞いていたし、試験だって出席した。まあ内容はそこまでちゃんと憶えてないけど、きっと僕以外の学生だって文系の大学生ならそんなものだろう。
そもそも今日初めて喋ったような相手に、なんでそんな失礼なことを言われなくちゃいけないんだ。先輩は僕の一体なにを知っているんだ。なんて、心の中ではいくらでも反論できるのに、不思議とそれを口に出して言葉にすることは出来なかった。
わからないなりに、知らないなりに、僕よりも僕の心の奥底の方が事実を理解しているのかもしれない。
「その時にきみは"絶望だ、もう駄目だ”、”僕だけ留年するとか死ぬ”、”無理だ、死にたっ”って言ってたよね。ねえ、わたしも誰もきみを責めてはいないから教えて」
そこで一旦、言葉を区切ると真知子さんはふいに僕の真横で立ち上がった。視界にふわりと淡い白色のワンピースの裾が広がる。真知子さんがその場でサンダルと靴下を脱ぎ捨てた。僕がかつての文豪なら白魚のような足とでも表現していたであろう、染みも傷もなく綺麗な白さをほこる先輩の足が顔を出す。それから一歩、また一歩と海に向かって、先輩はなにも言わないまま歩き出した。
「先輩⋯⋯一体」
何を、と口に出す前に、真知子さんが先にこちらを振り返った。そして
「きみは一体”なにを”憶えていて、”なにを”忘れてしまっているの?」
そう言った先輩はひどく寂し気に、瞳を揺らしながら僕を見つめてきた。海の向こう側の水面を辿ってきた風が、先輩の長い髪を、ワンピースの裾を揺らしていく。折れてしまいそうなほど華奢な白い腕で、真知子さんは被っていた麦わら帽子のつばをおさえた。まだ夏には程遠いどちらかといえば冬に近い春に吹く風は、身体の芯を無情に冷やしていった。
「……なにを、おぼえていて。なにを、忘れているのか」
そんなの、とまで言ったところで、ぽつりぽつりと漏れていった言葉の欠片たちが消えていく。
「わたしたち、本当は初めましてじゃないよ」
何も言えなくなってしまった僕に追い打ちをかけるかのように、真知子さんは言った。先輩の後ろで、月が揺らめく。もとの形を崩すように大きく揺れて、やがて歪んでいく。
「きみにね、わたしは死に近い場所の質問をしていたでしょ。でもね。あれを最初に聞いてきたのは、今のきみには信じられないかもしれないけど。透くん、きみからなんだよ」
どれだけ風が吹いても、不思議と波の音は気にならない。人っ子ひとり、僕たち以外には誰もいない海岸だからか。それとも今の僕には波の音など気にしてる余裕がなくなり始めているからか。
「先輩は……なんて、」
「なんて言ったと思う?」
「……っえ、それは」
「冗談。ごめんね」
僕は知らない。僕は聞いていない。これまで一度たりとも。僕は嘘をついていない。だけれど今目の前にいる先輩が嘘をついているようにも見えない。
人には人の分だけ、それぞれ見える真実があるらしい。きっとこれもそういう類のうちのひとつなのだろう。今の、ほんのりと酔いが冷めてきた僕には、そう思うことが一番納得がいった。事実、あんなになにかを忘れたくて同期たちと酒を煽ったのに、今の僕はなぜ酒を飲むに至ったのか経緯の部分を思い出せないのだ。おかしな話だろう。忘れたくて酔って、ほんとうになにかを忘れてしまって酔ったことだけ憶えているなんて。とんだ皮肉だ。
「わたしはね、この世界で一番死に近い場所は"深夜の海"だと思う」
風も波もない一瞬の静寂に、真知子さんはぽつりと零した。
「だからちょうど絶望してて、ちょうどわたしが死にたかった日に、ちょうど終電を逃したきみを世界で一番死に近い場所に誘ったの」
一歩、また一歩。一歩、一歩、そのまた一歩。先輩は少しだけ眉根を寄せて辛そうな顔をして、海に背を向けたまま下がっていく。先輩の白い踵に、白波があたる。寄せては引いていく波につられるように、真知子さんは海へ海へと下がっていく。
「ごめんね。こんな、一番嫌なところを見せて」
波の音が途端、うるさく感じる。先輩の声もろとも、真知子さん自身を飲み込んでしまう、ような気がした。
「待って、ください……」
頭ではまだ何がなんだかわかりきっていないまま、僕の身体は走り出していた。靴も靴下も脱がずに、砂浜に深く足を取られても、どれだけ走りづらくても先輩に向かって走り出した。
「透くん、自由ってなんだと思う?」
「そんなの、今は考えられません」
「そうよね、あんなに酔ってたらね。わたしはね、大人になりなさいって言われなくて、大人になんてなりたくないって思わなくてすむ。なんて言うんだろう。大人になれればなればいい、なりたい時になったと言えればいいんだって思えることかな」
僕が走れば走るほど、真知子さんもまたこちらを見たまま海へと入っていく。先輩の白いワンピースの裾が濡れて、淡かった白が水の中で濃い白へと変わっていく。
「透くん、わたしは絶望してるんだ」
「……なにに、ですか」
「まだね決まってないの、就職先。もう3月になったんだよ。1年半書類も書いては送ったし、何度も何度も面接に行った。でも返ってくるのはお祈りだけ」
走る足を止めずに先輩を見れば、腰まで水に浸っていた。真知子さんの艷やかな長く黒い髪の毛先が濡れていくのが見えた。月を背負って、身体の半分をぐしょぐしょにした先輩は、泣いていないはずなのに。僕の心は切なく締め付けられた。こんな感覚なんて知らないはずなのに、なぜか懐かしく感じた。
「世界からいらないって、わたしのいる場所はもうここにはないんだって思った。忘れられたらよかった。祈られたことすべて、嫌な記憶ぜんぶぜんぶ忘れられたらよかったのに」
「……忘れられたら、辛くないですか?」
僕の発した言葉に、真知子さんは一瞬大きく目を見開いた。そしてすぐに僕から背を向けて、水を掻き分けてより深くへ歩いていこうとした。
「……先輩っ、なに、やってるんですか」
だからそう言いながら、思わず先輩の腕を掴んでしまった。僕と目を合わせないように、俯いたままこちらを振り返った真知子さんの腕をすこし強く引いて、向き合う形にした。それでも視線を合わせないまま、先輩は口を開く。
「だって今のは思ってても、きみの前では絶対に言っちゃいけなかった」
「……違うんです。先輩も僕と同じなんだなと思って」
そんな僕の言葉でやっと真知子さんは僕の目を見た。
月明かりの下、腰から下を冷たい水の中に浸したまま、先輩と向き合う。ぼんやりと淡く照らされた先輩は、いつもより随分と子どもっぽく見えた。先輩って言っても結局、ひとつしか年が変わらないただの人なんだ。なんて思う。
「ないものねだりなんですかね。こんなこと先輩に言うべきじゃないけど、僕もさっき"忘れられない"って聞いた時、なぜかわからないけど羨ましいって思ったんです」
「……忘れられないのを?」
「そうです。薄々、わかってた気がします。なにかを落としたままになっているような、無くしたことに気が付かないまま生きているような感覚がありました」
たぶん僕の場合は、あったことを忘れてしまうというよりも、かたくかたく記憶に蓋がされて思い出せないというのが感覚として近いのだと思う。だからあった事を知らないし、特定の記憶が抜け落ちてしまっているのだろう。
この記憶もいつかはわからないけど、未来にならないと憶えていられるのか、憶えていられないのかはわからない。けれど今の僕にはとある希望があった。
「だから、大丈夫です。先輩……いや、真知子さん。ないものねだりはお互いさまだし、絶望してるのは先輩だけじゃないですよ」
それは場合によっては真知子さんを苦しめることになる。とわかっていたから、かんたんには口に出せなかった。
「……ふふ、なにそれ。憶えてたんだ」
「いつだったか、誰にかは憶えてないけど。たしかに僕は誰かにその言葉を言われました。絶望してると口に出せる時は、まだ助けてほしい時だって聞きました」
「そうだね。ちょうど1年前、駅のホームから見を投げ出そうとしていたきみに、たしかにそう言ったわ。透くんの記憶が無くなり始めた初期の頃だったから、きみはひどく混乱していたよね」
だからまさか、と静かに真知子さんは言葉を続ける。その表情は柔らかく、顔には穏やかな微笑みを浮かべていた。
「同じ言葉で救われるなんて思ってもみなかった」
「僕だって、そうですよ。なんの因果ですか」
くすり、と先に笑ったのがどちらかわからないほど、僕たちは同じタイミングで笑った。僕たちの控えめな笑い声にあわせて、水面がゆらりゆらりと揺れる。空から落ちてきた無数の星も、本物よりも歪んだ月も、同じようにゆらりゆらりと揺れていた。
「あの時のわたしってたしか。高尚な生きる目標も、意味も、夢もなくたって生きていていいって。今ある問題がなにも解決してなくたって、生きててもいい。今日は死ぬのにはもったいないくらい天気がいいから、死ぬのは一旦保留にしない? って声かけたんだよね」
懐かしい、と真知子さんがまた肩を揺らしてくすくすと笑う。大人みたいな容姿の奥にまだ少女が隠れているような、未完成であるが故の美しさを感じた。
もうすこしだけでもいいから、その美しさをこの世界に縛っておきたいと思ってしまった。だから
「じゃあ今日は月が綺麗だから、死ぬのは一旦辞めてみませんか?」
なんて、あの時の僕に真知子さんが言ってくれたという言葉を、少しだけ変えて先輩に問いかける。
そうだね。と先輩は静かに答える。それからゆっくりと大きく息を吸って吐いた。胸と肩が大きく上下する。真知子さんがこの世界で生きている揺れを、水越しに感じた。
「そうね。今日の月は不思議なくらい綺麗だものね」
そう言った彼女の笑顔は、今にもその背後にある海の波に溶けて消えてしまいそうなのに、はっとするほど美しく今にも崩れかかってしまいそうなほど儚く見えた。
「わたし今日の月だけは忘れたくない。初めてかもしれないわ。なにかを見て、忘れたくないって思ったのは」
けれどそう言った先輩の瞳には、もう強い光が宿っていた。その言葉に僕も力強く頷いた。
「先輩」
だからこそ、僕自身も決心がついた。
「僕のことで先輩が憶えていること、よかったらこの後ぜんぶ教えてもらえませんか」
どうせ、朝日が昇るまで家に帰れる電車は来ないし。こんなにびしょびしょになっていたら、タクシーにだって乗ることは出来ない。まあ、そもそも僕にタクシーを呼べるほどの財力はないのだが。
「わかったわ。それならきっと、きみのお役に立てる。わたしほどの適任は他にいないわよ」
真知子さんがにこりと笑う。初めて見た先輩の笑顔。細まった瞳が綺麗な三日月を描くのを見ながら、また先輩のことを美しいと思う。
二人で足りないところを補い合って、なんて綺麗事を真知子さんは決して言わなかった。そんなところから先輩は外から見える部分だけでなく、中身まで美しいんだな。なんて、思ってしまった。
そしてその美しさを出来るなら、しっかり僕の頭の中で憶えておけたらいいのにとも思った。
「終電を逃したのは、偶然じゃなくてわざとだった。きみも酔いつぶれててくれないかな、なんて。最悪でしょ。でもこれで最期だ、って思ったからできたの。してみたかったけど、これまで出来なかったこと」
それから二人で浜辺へ戻る途中に真知子さんはそう言った。少しだけ罪悪感でもあるのか、隣にいるのに先輩はまた目を合わせてくれない。
「じゃあ、きっと僕らが終電を逃したのは必然だったんですね」
と返せば、「そうかもね。うん。そうだったらいいな」と言った真知子さんが遠慮がちに、こちらを上目遣いで見ながら子どもみたいに無邪気に笑った。
「透くん。服が乾くまで何時間かかるかな」
「まだ寒いんで、3時間はくだらないんじゃないですか」
「じゃあ、それまでゆっくりこれまでのこと話せるね」
浜辺に2人。足を投げ出して座ったまま、海を眺めながらゆるりゆるりと言葉を交わし合う。きっと大丈夫、僕たちの今日は大丈夫。そう思える不思議な夜だった。
先輩が「どこから話そうかしら」と悩んでいるのを横目に、海を眺めると大きな月が海に反射してきらきらと輝いていた。それを僕も初めて忘れたくないと思った。



