『関東は深夜にかけて大雪の予報です。都心でも――』

いくら今が一月だからといって、本当にこの快晴の日に大雪なんて降るのだろうか。
駅から会社への道を歩きながら気持ちの良い青空を見上げて、天気予報を疑う。息は雪雲みたいに白いけれど。
だけどたしかに、スマホのメッセージアプリにも【大雪に注意しましょう】という市からのお知らせが届いている。

「今日雪だって」
会社に着くなり、この場にいる全員が知っているであろう情報で隣の席の同期女子、真依(まい)ちゃんの顔を歪ませる。
「さすが、雪の降らない県の出身者。普通は火曜の雪予報なんて超萎えるけど」
はしゃいでいることを悟られてしまった。
真依ちゃんの言うとおり、私こと須田美波(すだみなみ)の出身地は雪が降らない。といっても、同じ県内にも降るところだってある。
「雪だるま作るのもいいよね」
「子どもじゃないんだから。普通に暖房の効いた部屋でぬくぬく過ごすけど」
「こういう時こそ童心に返るべきでしょ」
背中側にあるロッカーにコートと荷物をしまって席に着く。
「あ、葉山(はやま)くんおはよう」
真依ちゃんの口にした名前にギクリとする。
「おはようございます。これ昨日の伝票お願いします」
「ねえ、葉山くんは雪だるまとか作る?」
彼女は葉山くんが持ってきた伝票を受け取りながら聞いた。
「しないっすね」
「だよねー。二十三歳男子もしないよねー? あ、ここの書き方間違ってるよ」
言いながら、真依ちゃんがこちらをチラリと見る。
「ま、まあ別に私もしないけど。大人だし」
私がパソコンに向かったままそう言うと、葉山くんも経費の処理を終えて自分の部署に帰っていった。
「なんか変じゃない?」
真依ちゃんに質問されてしまう。
「いつもの美波だったら『葉山くんなら一緒に作ってくれると思ったのに』とか言いそうなのに」
「はは。そうかな」
さすが真依ちゃん、私のことをよくわかってる。
言ったでしょうね、先週金曜までの調子に乗った私なら。
だけど今の私は乾いた笑いを浮かべることしかできない。
「葉山くんも美波に何か言いたそうな雰囲気だったような?」
「気のせいでしょ」
たしかに葉山くんと私は仲が良かった――先週までは。

――『須田さんとは、もう飲むのやめます』

先週金曜、彼に言われた言葉を思い出してため息をこぼす。
……あんなこと、言わなければ良かった。
自分の口にしてしまった言葉を後悔して、またため息。



葉山(こう)くんは昨年四月に入社してきた、一つ下の男の子。
私は業務部で彼はEC事業部だから、入社当初は業務内容以外の話はしなかった。というか、他部署の人は彼以外でもだいたいそんな感じだ。
だけど夏前にエレベーターの中で……。
『それ、taTeHa(タテハ)のステッカーですか?』
首から下げた社員証ケースに入れていたステッカーに、葉山くんが反応した。
私の好きなデジタル系の音楽クリエイターのグッズで、ネット上では人気だけれど、リアルでは知っている人にあまり会ったことがなかった。
『知ってるんですか?』
『自分も好きなんで』
そう言って微笑まれたら、親しくなるまでは早い。
会社のエレベーターで遭遇するたびtaTeHaの話になった。新曲だとか誰かとのコラボだとかが発表されるたび、真っ先に言う相手になった。
『見た? 新しいMV』
エレベーターじゃなくても呼び止める。
『須田さんうれしそうですね』
そんな風に笑ってくれるのがうれしくて、もっと新曲が出たらいいのに、そしたらもっと話しかけられるのに……なんて思い始めた頃。
『今日仕事の後空いてたら飲みに行きません?』
そう言ってくれたのはむこうだった。
『いいね』
推しの話をたくさんしたかったし、彼が他にどんなものが好きなのかじっくり聞いてみたかった。

〝この人のことをもっと知りたい〟
〝私の話ももっと聞いてほしい〟

その二つがどういう感情の兆しかなんて、たとえ私が中学生だったとしてもすぐにわかったと思う。



昼になって雨が降り始める。
あんなに青かった空はもう、一面雲のグレーで朝の面影なんて微塵もない。
天気予報ってすごいんだ、なんて改めて感心する。
「なんか気温もぐんぐん下がってるって感じですね」
窓から外を眺めていた真依ちゃんが部署のみんなに向かって言った。
みんなから同意の声が返ってくる。
暖房はついているけれど、どこからか流れ込んでくる冷たい空気が足元を冷やす。
「みなさん今日はあまり残業せずに帰って下さいね」
部長が言った。
大雪は深夜と言われているから、少なくとも定時までは仕事ということだ。
「早く上がれたら飲みに行けたのにね」
真依ちゃんがボソリと漏らす。
「でも雪でしょ?」
「大丈夫だってちょっとくらい。葉山くんなら付き合ってくれそうじゃない? 美波が誘えば」
不意に名前を出されて、一瞬フリーズしてしまった。
「……行かないでしょ。しっかりしてるもん葉山くん」
ごめんね真依ちゃん。もう絶対に行ってくれないんだよ、私が誘ったら。
足元と同じくらい心も冷えた気がした。

定時の十八時半を迎えて、一人、また一人と退社していく。
人が減れば減るほど、部屋の中も冷えていくみたい。
「美波も早く帰りなよ?」
「うん。もう終わる」
カイロを置き土産にしてくれた真依ちゃんを見送ったところで、部署で最後の一人になった。
「あ、しまった」
こんなタイミングで見積書を一件出し忘れていたことに気づく。
早く上がるどころか結局残業になってしまった。自分の要領の悪さにさすがに呆れる。
だけどまだ二十時だし大丈夫だろう……と、たかを括っていたのが間違いだった。
「須田さん?」
その声に、心臓が朝以上に嫌な脈を打つ。
フロアの入り口には、コートにマフラー姿の葉山くん。
「まだ残ってたんですか」
「……え、えっと……」
何動揺してるの。これは業務連絡だ。
「……うん。でも、もう上がる」
パソコンの方を見ながら答える。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「電車、今日はもう運休になるみたいですけど。須田さんの路線も入ってたと思います」
「え? 嘘」
慌ててスマホを確認すると、鉄道会社からの緊急メッセージが届いていた。予想以上の降雪量で、最終電車を早めたという案内だった。
「最終が二十時十分って……もう間に合わないやつ」
仕事に集中していて完全に見落としていた。
「はぁ」とため息をつく私の様子を、葉山くんが見ていた。
「あ、ごめん。タクシーで帰るから大丈夫。おつかれさま」
暗に先の帰宅を促す。
「もうタクシーも捕まらないと思いますよ。俺もキャンセル待ちでギリ捕まえられた感じなんで」
「え……」
当たり前だ。私が通知を見落としている間に、他の人たちは帰る方法を考えていたのだから。
「あ、でも大丈夫だから。葉山くんも早く帰りなよ」
「どうするんですか?」
「駅まで走れば間に合うかも」
「この雪の中をですか? コケますよ」
それはなんとなく自分でも想像がつく。
かといって、このあたりにはホテルも無いし。どうしよう……もしかして会社に泊まり?
「良かったら一緒に乗っていきます?」
彼からの提案。
「須田さんの家の方から回って貰うようにしましょう」
先週までなら何も考えずに乗っかっていたはず。
「でも……」
「途中まで割り勘にできたら俺もありがたいです」
こういうところ。
葉山くんらしいな、って感じ。
いまだに反応してしまう鼓動が悔しくって、心の中で唇を尖らせる。

会社の前まで来てくれたタクシーに二人で乗り込む。
運転手さんに行き先を告げる葉山くんを見ていたら、なんとなくホッとした。
彼がいなかったら今頃会社で膝掛けにしているブランケットにくるまれていたはずだ。
「声かけてくれてありがとう」
「いえ」
葉山くんは冷静だ。ムカつくくらい冷静。

――『そういうんじゃないと思います』

彼の言葉を思い出して私の胸がシクシクと痛んでいるというのに。
腹が立つから、開き直ってこちらも普通にしていようと決めた。
「……須田さん、あの――」
「朝と同じ場所とは思えないね」
タクシーが駅前に差し掛かったところでつぶやいた。
端の方が白く曇った窓から外を見る。
街を行き交う人はみんな雪を乗せた傘をさしているし、タクシー乗り場は長蛇の列。手に小鳥を乗せていたはずの少女の銅像だって、まるで小さな雪だるまを乗せているみたいだ。
たったの半日でこんなに様変わりしてしまうんだ。
先週までと今週の私たちに重ねて、また勝手に落ち込む。



一度飲みに行ったら予想以上に盛り上がって、私たちは二人でよく飲みに行くようになった。
むこうが誘ってくれることもあれば、こちらから誘うこともあった。もちろん時には真依ちゃんや他の同僚たちを誘うこともあったけれど、彼はいつも断らずに付き合ってくれた。
『葉山くんはいつも付き合ってくれるから誘いやすくて助かる』
ウーロンハイ片手によくそんなことを言っていた。
『先輩の頼みは断れないです。楽しいし』
ビールを飲みながらいつも優しく笑ってそう返してくれた葉山くん。
だから調子に乗ってしまったんだ。
『葉山くん次何飲む?』
『ペース早くないですか?』
『楽しいからね』
彼の本音が『楽しい』じゃなくて『断れない』の方だったことにも気づかないで。



都会の雪は、雪に対してぜい弱な交通を麻痺させる。だから全然歓迎なんてされない。
今まさに身をもってそれを感じているというのに。
「私、雪って結構好きなんだ」
「雪だるま作るんでしたっけ」
「……あんなの冗談に決まってるでしょ」
「須田さんなら作りそうだけど」
さっきの『コケますよ』然り、わかっている風なことを言われたらまた腹が立つんだ。ちょっぴりうれしいと思ってしまう自分に。
「地元は雪なんて数年に一度降るかどうかで、降っても積もらないから」
大学進学で上京したら、毎年のように雪の降る日があって驚いている。それでもまだ飽きることはない。
「雨のときはポツポツ、ザーザーって音が鳴ってるでしょ?」
この街も、先ほどまではそんな景色だった。
「それが気づいたら音が止んで、白い雪だけが舞ってるの。何回見ても幻想的だなって思うよ」
その境目はわからない。いつの間にか、雨が雪に変わってしんしんと降り積もる。
「しんしんと……って、雪が降る時くらいしか使わない言葉だね」

雪って本当に、音もなく降り積もる。
気づいたら後戻りできないくらい、深々(しんしん)と。

それからしばらくは話題が見つけられなくて、タクシーの中に沈黙が訪れた。
雪道なだけあって、どの車も運転は普段よりノロノロと慎重だ。
早く家に着かないかな。
重苦しい空気に負けてそう思い始めた矢先。
「あーお客さん、すいません」
口を開いたのは運転手さんだった。
(すみれ)(おか)方面、事故で通行止めになっちゃってるみたいです」
「え」
それってつまり……。
「申し訳ないんですけど行けそうにないですね。どうします?」
終わった。
この辺りにビジネスホテルはあるだろうか。
それがダメならカラオケかネットカフェか。
検索しようとスマホを取り出して、急いでロックを解除する。
「じゃあこのまま北吉(きたよし)方面に向かってください」
思わず隣の人物の顔を見てしまった。
「俺ん()、北吉なんで」
それは知っているけど。
え? は?
「いや、この辺のカラオケかネカフェに行くよ」
「女性一人でですか?」
「だ、だって……」
葉山くんの家に行くなんて。
「別に何もしないです」
「…………」
……まあ、そうだろうけど。
「もう方向変えちゃったし」
時刻はとっくに二十一時を回っている。
足元はパンプス形のレインシューズ。
タクシーを降りて大雪の中、知らない街の夜をさまようというのは確かに現実的ではないのかもしれない。
大人しく従うことにして、それからは過ぎて行く景色を無言で眺め続けた。
知らない街だからなのか、見慣れない雪景色だからなのか、大きな看板の文字すら頭が認識しないまま通り過ぎる。
――『別に何もしないです』
何かあって欲しいわけじゃない。
〝やっぱり〟って思うだけ。

「そこのコンビニ寄ってもらえますか?」
葉山くんの住む北吉方面にやって来たタクシーは、コンビニの前で停車した。
「俺の家、化粧品とか何も無いんで」
「さすが。気がきく」
本心だけど、ムカつくからちょっと嫌味も含ませる。
前に『彼女とかしばらくいないです』と言っていたのが嘘じゃなかったんだって証明された。
それでもダメだったんだ。私は。
歯ブラシと、一泊分のスキンケアセットと、それからお弁当なんかを買う。
雪のせいか棚はガランとして隙間だらけ。なんだか少しだけ悲しい気持ちになる。
「須田さんて、これ好きでしたっけ?」
カゴを持ってくれている彼が、私の好きなチョコレート菓子を手にした。
「……うん」
「taTeHaとコラボしてますよ。楽曲ダウンロードできるって」
「ふーん……そうなんだ」
先週までの会社の仲良しな先輩と後輩のままだったら、バカみたいにドキドキしながら、それでも楽しかったんだろうな。
想像して小さくため息をつく。
こんな気持ちで葉山くんと一晩過ごすわけ?
またため息をついて、お酒コーナーに向かった。
こんな日に飲まずにいられるはずがない。
冷蔵庫の扉を開けて、お気に入りのウーロンハイの缶に手をかけた。
「え……」
少し上から腕が伸びてきて、その缶を押し戻してしまった。
思わず振り向いて見上げる。
「須田さんは酒ダメです」
「え、なんで?」
眉間にシワを寄せて抗議しようとしたところでまた思い出す。
――『須田さんとは、もう飲むのやめます』
家飲みもダメってこと?
葉山くんは烏龍茶と炭酸飲料をカゴに入れた。

それからまたタクシーに乗り込む。
タクシーは大通りを抜けて、住宅街の路地に入って行く。
葉山くんの家まであとどれくらいなのだろう。
コンビニを出てからずっとモヤモヤしている。
――『須田さんとは、もう飲むのやめます』
あれがそんなに頑なな決意だったのなら、私のことなんて放っておけばいいのに。
声なんてかけなければ、タクシーになんて乗せなければ、家になんて呼ばなければいいのに。
飲みにだって来たくないなら、もっと早く断ってくれたらよかったのに。
親切心に腹が立つ。

だけど、そういう優しいところが好きだったんだ。



先週金曜日。
いつもみたいに二人で飲みに行った。
『おでんの盛り合わせにする? それとも一個ずつ注文する?』
おでんが名物の居酒屋だった。
カウンター席の前におでん鍋があるお店で、注文はおでんの具がリストになった紙に注文数を書くスタイル。
私たちはテーブル席に座っていた。
『一個ずつが良くないですか? 好きなものを好きなだけ食べた方が』
『だよねー』
同意見でうれしいな、なんて思いながら紙と鉛筆を手に取る。
『私、こんにゃく』
『俺いらない。大根』
『じゃあ、こんにゃく1、大根1……』
『大根食わないんですか?』
『んー……後で食べるかもしれないけど、スタメンではないんだな』
私たちのおでんの具の好みは全然合わなかった。
『ええ!? たまごはマストでしょ』
『なんか黄身がパサパサしてません? おでんのたまご』
おでんを食べるのにたまごを食べない人がいるなんて、軽いカルチャーショックだった。
『全然趣味合わないね。仲悪いみたい』
見事に1が並んだ注文票を見て思わず苦笑い。
『趣味が合わない方が平和だと思いますけど』
『どういうこと?』
『お互いの好きな物、取り合わなくて済むじゃないですか。そっちの方が相性がいいと思います』
『……そういう考え方もあるか。それはそうとおでんのトマトはおすすめだから食べてみてよ』
〝相性がいい〟なんて言われたら、調子にだって乗りますよ。
だからついついハイペースで飲んでしまったんだ。
『ペース早くないですか?』
『楽しいからね。ふふ』
トマトのおでんに感動してる顔が可愛いなぁ、なんて思ったの。
結局たまごも注文して『やっぱナシっすね』ってつぶやくのもいいなぁ、なんて思ってしまったの。
いいな、葉山くん。
頭の中はそれだけだった。

『私、葉山くんのこと好き』

気づいたら告白してた。
調子に乗っていたんだから、まあまあな確率で上手くいくんじゃないかって思っていたわけで。
だけど返ってきた言葉は……。
『そういうんじゃないと思います』
私たちの関係ってそういうんじゃなかったらしい。
『須田さんとは、もう飲むのやめます』
極めつけにそう言われてしまえば、嫌でも振られたことを自覚する。
後のことはよく覚えていないけれど、その日は呆然としたまま終電に揺られて家に帰った。



タクシーはアパートの前で停車した。
「私払うよ」
「いや、いいっすよ」
やっぱりしっかりしてるよね。優しいよね。
「コンビニの分も出してもらったもん、出す」
だけどその優しさが、時にひとを傷つけるんだよ。
タクシーを降りて、彼のアパートの階段を上がる。
前を行く葉山くんの背中を、目が自然と追いかけてしまう。

タクシーの運転手さんに『運転手さんも気をつけてくださいね』ってナチュラルに言えちゃうところ、いいよね。

仕事だっていつもテキパキこなしてるし。

だけど伝票の書き方は何回教えても間違えちゃうこともあるし、ちょっと抜けてるところもあるんだよね。

あ、ほら今だって髪がちょっと寝癖みたいなハネ方してるし。

さっきtaTeHaのチョコを見てたとき、表情が子どもっぽくなってたのも好きだな。

好き。

まだ全然好き。

「ここです」
葉山くんは自分の部屋のドアの鍵を開けた。
「須田さん? 早く入っ――」
「帰る」
「え?」
「やっぱり自分の家に帰る。私」
「何言ってんですか? 電車だってタクシーだって無理なんですよ?」
そんなことはわかってる。
「歩いて帰るよ。ダメならネカフェ探すし」
「いや、無理ですよ。どうしたんですか」
「だって、無理だよこんな気持ちで」
私の気持ちはまだ全然整理がついていない。
「葉山くんにとっては『そういうんじゃない』かもしれないけど……私は」
「…………」
「ごめんね、無理矢理飲みに付き合わせて」
「須田さん」
少しずつ少しずつ音もなく、気づいたら雪みたいに降り積もっていたんだ。
「ごめんね……好きになっちゃって」
頬に温かいものが伝ったかと思ったら、すぐに冷たくなる。
葉山くんは小さくため息をついた。
「やっぱり覚えてないんすね」
「え……?」
「入ってください」
彼が私の腕を引っ張った。

「とりあえず雪拭きます?」
葉山くんの部屋に入った感慨にふける暇もなく、コートを掛けるためのハンガーを渡され、タオルも渡された。
「飲み物コーヒーでいいですか?」
「う、うん」
「砂糖とミルクは?」
「ブラックで大丈夫」
髪を軽く拭いて、それから部屋の真ん中にあるローテーブルの前に座った。
葉山くんの家は単身者らしい1Kで、当然のように綺麗に片付けられていた。
テーブルの上に無造作に置かれたタブレットには、前にあげたtaTeHaのステッカーが貼られている。彼の生活空間に自分があげたものを発見すると、なんだかくすぐったい気持ちになる。
そういえばテレビは無いって言ってたっけ。
って、呑気に観察している場合ではない。
手持ち無沙汰で、先ほど買ったチョコを開けて口にして、パッケージをまじまじと眺めた。コラボの内容に目を通して、普段は読まない原材料の表記に目を滑らせる。
一人で状況に戸惑っていると、目の前にコトリと白いマグカップが置かれる。
それからテーブルの角を挟むみたいに葉山くんが座った。
どうぞ、と手でコーヒーをすすめる動作をされる。
葉山くんの方は形も違うブルーのカップで、男の子の一人暮らしって感じ。
……なんて、また観察してるけど。
「で、本題なんですけど」
いきなり切り込まれて、思わず目が泳ぐ。
「金曜の夜のこと、どこまで覚えてるんですか?」
「ど、どこまでって……」
あまり思い出したいものでもないけれど。
「私が……告白しちゃって、それで…… 葉山くんが『そういうんじゃないと思います』って言って、それから…… 『須田さんとは、もう飲むのやめます』って」
葉山くんは黙って聞いている。
「だから要するに、異性として見てたのは私の方だけで、葉山くんからしたら私たちってそういうんじゃなくてただの同僚で……私が勘違いしちゃったから、もう飲みに行ってくれないんでしょ?」
言っていて、なんだか虚しくなってくる。
この空気で一晩? はっきり言ってきつい……。
そんなことを思いながらコーヒーを口にする。
「全然違います」
「え? 何が?」
「須田さんが告ってきたこと以外」
そこが合っているなら全部合ってるでしょ。
わけがわからなくて顔をしかめる。
そんな私を見て、葉山くんはため息。
「あの夜、須田さんはかなり酔ってて――」
彼は金曜のことを話し始めた。



元々あの日は酒のペースが早かったから心配ではありました。
目がとろんとしてる気がして、大丈夫かなって思ってたんですけど。
『私、葉山くんのこと好き』
そしたら須田さん、急にそんなことを言い出したんです。
『え……?』
『だから、好き! 葉山くん』
酔っ払いの冗談なのか何なのかわからなくて。
『それって、マジで告ってます?』
須田さんは深々と頷いたけど、目が据わってた。
『すーっごくマジ』
からかわれてるのか真剣なのかが全然わからなくて腹が立って。
『マジの告白って、そういうんじゃないと思います』
自分でも冷たいなってわかる口調でした。
そしたら須田さんの表情が変わった気がして、もしかしてはっきりわかってるのかなって思ったけど……。
『餅巾着食べ忘れた』
って言い出して。ますますわからなくなって。
そのまままた普通の飲みに戻ったから、気にしないようにしてたんですけど。
『もう終電なんじゃないですか?』
それから駅まで一緒に行く間は落ち込んだみたいに無言だったから、ひょっとして本気だったのかなって思いました。
だから改札で……。
『今日のことがはっきりするまで須田さんとは、もう飲むのやめます。もう一回、シラフの時に話しましょう』
そう言って別れました。



「なのに月曜に会社で会っても目も合わせないし。なんか勘違いされてるのかなって思って」
「…………」
「須田さん?」
葉山くんの話を聞いて、記憶の片隅にぼんやりと『シラフの時に話しましょう』というセリフがよみがえる。
それから目に映した餅巾着のお皿も。
酔っ払いの私は、断片だけをつなぎ合わせて記憶していたようだ。
「……てことは、私の勘違い……」
葉山くんはコクリと頷いた。
「な、何が?」
なんだか頭が追いつかなくて、おかしな質問をしてしまう。
「『異性として見てたのは私の方だけで、葉山くんからしたら私たちってそういうんじゃなくてただの同僚』ってとこじゃないですか?」
追いつけていない私に、葉山くんは私の言ったことをなぞってみせて、それからいたずらっぽい笑みを向けてくる。
心臓のリズムだけが早くて落ち着かなくて、現実だって言ってくる。
「それって、つまり――」
思わずカップを手にしてコーヒーをゴクリとひと口。
「たとえば須田さんと話したいなって思って、わざと伝票の書き方間違えたりしてるって話」
「嘘……っ」
思わず目を見開いた私の反応に、今度は彼は可笑しそうに笑った。
「好きじゃなかったら、そんなに飲みにも行かないです」
それからゆっくり、視線が近づく。
「何もしないんじゃなかった?」
なんだか悔しくて、可愛げのないことを言ってみる。
「雪の日って嘘ついていいらしいです」
彼はニヤリと笑う。
「葉山くんて、結構嘘つき」
思わず眉を寄せる。

だけどそのキスは、積もったばかりの雪みたいに優しい。

fin.