あ、新曲だ。
慌てて動画を撮ろうとしたら、画面に『ストレージ容量がいっぱいです』と表示されてスマホのビデオ機能が起動しなかった。
一曲分の動画のギガ数はけっこう重い。
この撮影のためには動画や写真をかなり消さなきゃいけない。
「これ新曲ちゃうん?」
「いきなりヤバない!?」
私の周りにいる、同じように彼らを囲むファンの女の子たちの声が上擦った。
しょうがない。私はいつでも撮れるようにと構えていたスマホを下げて、改めて彼らに集中した。
南海なんば駅前。大阪万博に合わせて作られた、JR含むいくつもの沿線が通る難波駅と高島屋と丸井との間に新しく作られたなんば広場は夜でも明るい。
すっかり空は暗くなったのに、設置されたLEDが私たちの時間を照らしている。
植えられたその年から桜を咲かせた木は、今はもうその花を落として青く茂っている。
その木の下に、彼らは一時間ほど前から場所をとっていて、私を含む二十人くらいの女の子が囲んでいる。間と後ろに、男の人の姿もちらほら。
男の人の喉から出ているとは思えないのびやかな高音の歌声と、体の芯に響く低音のベース。跳ね回るようなカホンの音を支える、体の奥に響くようなベースの低音。
──ガラスバード。
大阪で活動する、三人組のインディーズバンド。
呟き系SNS公式アカウントのフォロワー数は三百人。ショート動画系アカウントのフォロワー数が多くて、数千人らしい。そっちはやってないから知らないけど。
突然SNSで告知された今日の路上ライブ。
バイトがない日でよかった。大学終わり、時間を合わせて難波に来ることができた。いつもより遅い時間に突然のことだったけど、ここ最近ずっと追いかけていた彼らの新曲を聴くことができた。
──少しいつもと違う雰囲気の新しい曲。
なんば広場に設置されたテーブルセットに座る人たちが彼らを指差す。
そう、そうなの。私の推しはかっこいいの。
駅のトイレで縁取り直したまつ毛を上げて、カラコンが乾くのも構わず瞬きを惜しむ。
動画を撮れないのなら覚えておくしかない。どうせ動画サイトにアップしてくれるとは思うけど、生で、初めて披露されたこの曲を。
忘れたくない。
この瞬間を。
人気があるのは金髪のボーカル、光さん。その次に人気があるのは、カホンの上に座って叩いているファンサのえぐい尋さん。
低い位置で黒いベースを弾いている将吾さんが私の最推しだ。ベースと同じ暗い髪の前髪は目元まで伸びていて見えづらいが、その目が猫みたいな形をしていることを知っている。
SNSに掲載される他のメンバーからの他撮りで、前髪を上げて笑っていることが多いからだ。
ファンに対しては、一番クール。
作詞作曲を担当しているバンドの大事な存在なのだ。
あんまり笑ったりしなくて、写真でしか見られない笑顔はライブとのギャップがあってとってもメロい。
天王寺駅の歩道橋で彼らのライブをたまたま見つけたのが半年前。演奏終わりに、俯きがちにも満足げに微笑んだ彼の顔を見たその瞬間から沼に落ちた。
素敵な曲でした、と。勇気を持って話しかけたのはその一回。
それから私は、大学と家のある神戸から、この大阪ミナミまで彼らの活動を見に通っている。
──夜を彩る演奏が終わった。
ボーカルの光さんがマイクを持ったまま私たちを見て微笑んだ。
視線を浴びて、女の子たちが俄かに揺れる。
私の最推し、将吾さんが弾き終わったベースを見るように視線を下ろしたまま、一瞬微笑んだのが見えた。
「流れそのまま、突然新曲を披露しちゃってごめんね。最後まで聞いてくれてありがとうー!」
周りの人の拍手に合わせて、私も手を叩く。
そう、メロディーラインを聞いて驚いたのは突然の新曲だったからだけではない。
それがいつものお別れの歌、ライブの最後にやる曲の後に突然始まったからだ。
「この曲は今日ぜひ披露したくて……あ、日付超えちゃった」
光さんが手首のスマートウォッチを確認した仕草を見て、私も慌ててスマホで時間を確認した。
「こんな時間まで付き合ってくれてありがとう!」
光さんの上げられた拳に、周りのお客さんが歓声と拍手で答える。
私も拍手したい。けど、ちょっと待って。
時間は0時2分。──終電、過ぎてる。
いつも23時30分過ぎに最後の曲が始まって、それから片付ける彼らに少しばかりの挨拶をして47分の終電に飛び乗り神戸に帰る。
慌ただしいそれが、規則的なスケジュールだったのに。
「じゃあまたSNSで告知するんで、初めての人はフォローしといてくださーい!」
金髪のボーカルが最後に手を振って、横の二人が片付けを始めるためにしゃがんだ。
周りにいた女の子たちは終電なんか関係ないらしい。片付けを始めた三人に駆け寄って行く。
むしろ、終電を気にしている子はもうとっくに帰っていたのかもしれない。
しまったなあ、と諦めをつけるためにスマホをもう一度見る。時間は戻っているわけじゃないし見間違いもない。うん、もう神戸の最寄りまでの電車はない。
彼らの周りにはもうたくさんの女の子たちがいた。それでも立ち去る前に見えた隙間から会釈をすると、他の女の子と話していても気が付いた光さんが手を振ってくれた。
将吾さんは後ろを向いていて目は合わなかった。地面に置いて開いた楽器ケースの前で、黒くて長いコードを巻いている。
光さんが「ばいばーい」と言ったのに合わせて、一度その手が止まった気がしたけれど、すぐに再び巻き始めた。
黒髪の背中。
ひとめ、ひとめだけでも。
目があったのなら。
願っても声はかけられなかった。
多分声をかければ「ああそう」「ありがと」とか短くは返してくれる。そうやって話しかけてきたファンの子に接する姿を知っている。
そんな毎回悩んでることを今日は悩んでいる余裕はない。今夜どうするかだ。
はあ、とため息をその場に残して踵を返した。音楽の余韻に甘えたい気持ちよりも、明日の一時間目は必修だった、という事実の方が今は重い。
どうやって過ごそう。寝過ごさないようにしないと。
そりゃあ終電を乗り過ごしたことくらいある。けど大体誰かと一緒にいたし、そういう日は休みの前日とかだったのだ。
とりあえず、カラコンの乾きよりも喉の渇きの方が優先。駅の改札前にあるコンビニに向かう。
いつも買っている紙パックに手を伸ばしかけて、これからの時間の不透明さにペットボトルを選ぶことにした。
五百ミリのペットボトルの思ったより高いその値段に、その場で電子マネーをチャージして支払いをする。
聞かれもしなかったビニール袋の有無。買えなかった。買い損ねた袋をくださいと言う余裕はなく、ピッとされたそのまま掴んで、店を出るところだった。
「あっ」
コンビニの自動ドアの開く速度は、一秒四十センチ程度らしい。そのたった一秒で開いた数センチから、私の前に影が落ちた。
「いた」
開いた自動ドアの間に立ち止まった私に、閉じかけたセンサーは反応し、戸惑うように再び開いた。
立ち止まる私の向こうから、入店を知らせる音楽が響く。
「……が、ガラスバードの将吾さん?」
「うん」
名前を呼ぶと、すぐに頷かれた。
「そう」
こんな近くに。
いきなりのことに言葉なんて何も用意していなかった。思わぬ近さに、喉の奥に緊張を飲み込む。
「電車待ち?」
「あ、いえ」
話しかけてくれるんだ。舞い上がりそうになるのを抑えるように答えた。
「終電、逃しちゃって」
とりあえず飲み物を。
そう言って手に持っているペットボトルを掲げると、彼はそうなんだと言うように頷いた。
「っていうか、私のこと」
「わかるよ。いつも観にきてくれるやん」
すぐに答えられて、ケトルのように一瞬で嬉しくなってしまう。
ただ見ているだけのファンなんて他にもいるのに。顔を覚えられているなんて思わなかった。
あ、どうしよう嬉しい。これは会話を続けていいのだろうか。戸惑いがちに聞いた。
「将吾さんは?」
「あー俺は、まあ……」
そこで歯切れ悪く止まって、肩にかけているベースを担ぎ直す。別に買い物以外に用事も無い場所だ。愚問だったな、と気が付いて「すみません」と回答時間を打ち切った。
コンビニに入ろうとする人たちが入り口で立ち止まる私たちのことを邪魔そうに見てきたのを感じて、店の前に数歩動いた。
将吾さんは店に入るかと思いきや、私と隣り合って店の前に立った。
「今からどうするん?」
「あー……考え中です。明日は朝から必修もあるんで。始発までカラオケでも行こうかなあ」
聞かれると思わなかった。適当に思いついたまま答える。
ライブは来て良かった。新曲聞けて良かったし、何より、こうして話せる機会を得られるとは思わなかった。
だからそう、気を遣わせないように答えたつもりだった。
「それ、自分一人じゃ危ないやろ」
次の言葉まで、え、と聞き返す間もなかった。
「俺と行こ。そこのカラオケ」
「え」
驚きに口元を押さえてしまったせいで、間抜けにも私の手からペットボトルがするりと落ちる。
将吾さんは、私より早くそれを拾い上げた。
すみません、と言って手を伸ばしたけれど、底がへこんだペットボトルは返されなかった。
「行こや」
「え? え?」
歩き出した背中は、さっき確かにライブ終わりに見ていた背中だ。彼が三歩目を踏み出す前に、慌てて私も踏み出した。
ペットボトル一本は、夜の人質にするには安すぎる。
けれど、さっき紙パック飲み物を買わなかった私を褒めたい気持ちになった。
私も友だちと来たことのある南海なんば駅前のカラオケチェーンに入ると、将吾さんは迷わずフリータイムと言った。
薄暗い照明の部屋の中でデンモクのライトに照らされる、綺麗な輪郭。
「ドリンク」
その声が自分だけに向けられていることが信じられない。
「何飲む?」
向けられたドリンクメニューのページを一瞥する。
ソフトドリンクはドリンクバーに取りに行かないといけなくなることを考えると、アルコールメニュー一択だ。
「レモンサワーで」
「俺もそれにしよ」
将吾さんの操作に合わせて、電子音が室内に響く。
部屋の空間の真ん中に置かれたテレビが、最近新曲をリリースしたばかりのアイドルのインタビューが流れている。
「歌う?」
何気なく見ていると、そう声をかけられた。
「あっ、いえ」
恥ずかしくて歌えるわけない。
「遠慮します」
「じゃ、とりあえずなんか流しとくわ」
将吾さんはデンモクを操作しながら「ふだん何聴くん?」と私に聞いた。その返事を間違えるわけはない。
「ガラスバードです」
「恥ずいな」
そう言う喉の奥から「くくっ」と笑い声が漏れて「ありがとう」と低い声でお礼を言われる。
その表情が私が好きだったSNSで見たオフショットのまんまで、一瞬体が硬直した。
あんまりミーハーだって思われないようにしないと、と慌てて口の端を締めた。
「じゃーライフ縛りで適当に流すわ。歌いたくなったら消そな」
歌いたくなることあるの? なら聴きたいんですが。
将吾さんはガラスバードの作詞作曲を担当しているが、歌はボーカルの光さんが歌うのみで、将吾さんがライブで歌ってくれたことはない。
聴けるのなら聴きたかった。
けどそれを今言うのは違う気がした。
「ライフ縛りってなんですか?」
ここはとりあえず、そういうノリが正解。
導き出した質問に、デンモクを操作しながら将吾さんが答える。
「曲名LIFEのやつをガンガン入れるだけ」
「ええ、なんでですかそれ」
「曲名がライフのやつって名曲しかないねん。キマグレンやろ、嵐。フジファブリック。あとAAAとか」
そうなですね、と漏れた笑いは将吾さんの知らなかったお茶目な一面に微笑ましくなったからだ。
「将吾さんって意外と喋ってくれるんですね」
「俺どんなイメージやったん」
そこは正直に答える。初対面と、ずっと見てた感想。
「無口でクール系かなって」
「あいつらが喋りすぎなだけやねん」
そっかあ。そうなんですね。
そう相槌を打ちながら、まあ確かに光さんってザ・関西人のイメージそのものでいつも喋ってるもんなあ、と思い出す。
「自分いくつなん」
意外と私のことを気にかけてくれる。二十一です、と答えると「大学生な。就活大変ちゃう」とすぐに返ってきた。
「まあ、ぼちぼちですかね」
自分のことを聞かれるのが恥ずかしくて、つい反射的に「将吾さんは?」と聞いてしまう。
聞いてしまった後に、しまった、と思う。
知ってたのに。
「俺二十五。もうええ歳や」
そうだ、少し年上。
出会ったその日からSNSを遡って情報を集めて知ってたのに、本人に聞いちゃうなんて。
いやむしろ下手に知ってるアピールするより、この方が良かったのも? なんてこともなげな表情に思う。
沈黙に気まずさを感じていると、磨りガラスの向こうからノックの音が聞こえて扉が開いた。
「失礼いたしまーす。レモンサワー二つお持ちしましたー」
グラスを持って現れた店員に将吾さんは「ども」と言ってグラスの一つを私に差し出す。
「乾杯しよっか」
猫のような目。私を見た。
その目に真っ直ぐ、私だけが映った。
それは念願だったから、叶えられたこの瞬間に、はいと上手く返事できたかはわからない。
グラスがぶつかる音が鈍く響いた。
最近出たバンドの曲のこととか、なんば広場に冬でもないのにイルミネーションが点灯して違和感があることとか、新しくできた0番のりばの話とか。
無口だと思ってたのに話題の提供がうまくて、穏やかなペースでグラスが一杯空になった。
店員さんが次のドリンクを運んできた頃、ふ、と将吾さんが顔を上げた。
画面の映像が切り替わり、キーボードの優しいメロディーが流れた。
さっきからカタカナとアルファベットのLIFEが入り乱れていたが、この曲はカタカナの方らしい。
「あ、ケツメイシ」
表示される歌詞テロップの色が流れて染まるのを見て、優しい始まりのその曲が意外とアップテンポな曲であることを知る。
「これ好きなんよ」
「歌いますか?」
私が差し出したマイクと一縷の期待を「ありがと」と言って将吾さんが握った。
「歌おかな」
二人きりの空間で、ずっと観ていただけの人が歌ってくれるなんて。
歌い出しは途中からだったけれど、流れるメロディーに将吾さんの声が溶ける。
将吾さんの声はヒップホップ調のその曲が似合う少しハスキーな声で、息継ぎするときに耳に手を当てるのが癖だと初めて知った。
最後に煌めくような音の余韻を残して、その曲が終わった。画面が切り替わって、私は控えめに拍手をする。
「すごい」
将吾さんは俯きがちに「恥ずいな」と言った。
「なんで歌わないんですか」
「光の声の方が合うから」
なるほど。まあ確かに、光さんは主人公ボイスでのびやかなガラスバードの曲が似合う。けど、
「けど私、将吾さんの歌声すごい好き」
そう言わずにいられなかった。
言ってすぐ、何言ってんだろうと恥ずかしくなった。前の文脈は関係なく「好き」という単語を彼に浴びせたことが恥ずかしい。
「かっこよかった。聴けて嬉しいです。カバーじゃなくて将吾さんの曲を聴きたいなって思っちゃいました。ほんと、かっこよくて」
「…………ありがと」
一息で言い終えて自分のキモさに後悔する。悲しいオタクの性。
引かれてないかな、とりあえずこれ以上は抑えないと。
喉でまだ熱を持っている興奮を、レモンサワーで流し込んだ。
「……なあ」
そう呼びかけられたその次に、自分の名前を呼ばれた。
そういえば名乗ってなかった、と今更気付くと同時に、なんで知ってるの、と疑問がよぎる。
「俺んちくる?」
はじめに将吾さんがデンモクで入れまくっていたライフはもう尽きてしまっていたらしい。
液晶は再びアイドルのCMを流していた。
「え?」
将吾さんの猫のような双眸に、目を丸くした私が映っている。
「俺んち、来てよ」
断った方がいい。好きだからこそ応じたいけど、女の矜持のためにも断るべきだ。
なのに言葉は喉で詰まるばかりで、そんな私に将吾さんが言った。
「今日、いつもの最後の曲の後に突然一曲やったの、きみに終電逃してもらうためなんやけど」
そうかけられた追い討ちに、理性のライフは尽きてしまった。
楽器ケースを背負いながらカラオケで会計を済ませる背中を見て、本当に私は今からこの人の家に行くんだ、と実感して心臓が跳ねた。
下着は揃ってたはず。期待してたわけじゃないけど。
自分のためにしていたオシャレだ。朝の自分に感謝をしつつ、将吾さんと目の前にいたタクシーに乗った。
まだ空は暗い。雲の隙間から煌々と輝く月が顔を出す。
「大国町のファミマまで。近くてすみません」
御堂筋を走ったタクシーはすぐに止まった。降ろされたすぐ横のマンションが将吾さんの住んでいるところらしい。
大学生一人じゃ住めないような外観のなんとかレジデンスは、吹き抜けのエントランスの高いところに、豪華なシャンデリアが輝いていた。
「うわ、高そう」
降り注ぐ人工の明かりに目を細めると、将吾さんが言った。
「そんなことないで? 仕事してたら払える額やで。そんな広ないし」
清潔なエレベーターの中にある大きな鏡が、楽器ケースを背負った背中と私を映している。
頭上のエレベーター内モニターにバレない程度に、目元のメイクを確認した。
この鏡に映っている間に振り向かれたら──多分キスをしてしまう。そんな気がした。
そんなお酒の高揚感と上昇の浮遊感。小さな箱の中で将吾さんは振り向くことはなかった。十三階建てのマンションのエレベーターは十二階で止まる。
「こっち」
エレベーターを降りて並ぶ同じ色のドアの一つを示して、その扉を開けた。
余計な靴の出ていない整頓された玄関。入ってすぐのリビングも綺麗にされており、清潔感のあるイメージ通りだ、となんとなく思った反面、しっかり者なんだ、と少し寂しくもなる。
将吾さんは楽器ケースを隅に置くと、小さめの冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「水でいい? 今カップとかもないしこのままやけど」
「あ、そんな」
受け取りながら、将吾さんが開閉した冷蔵庫の中にタッパーやお皿などが入っていないことを確認して安堵する。
女の気配は、なしといえばなし。
蓋を緩めて部屋の中を見る。ベッドなど見当たらないので、奥の扉の先が寝室だろうか。
リビングで存在感があるのは横長の大きなデスクだった。三台並んだ液晶モニターとアームのついたマイク。
デスクの両端にはスピーカーが置かれていて、キーボードの隣には鍵盤のようなものも置かれている。ここで私が好きな音楽が作られているんだ、と静かに感動をする。
「あ」
突然将吾さんが口を丸くして、その手元に握られたペットボトルとやらかしたと言わんばかりの表情を見て、私も気付いた。
駅のコンビニで買ったペットボトル。
「……ごめんさっきんとこ忘れた」
やっぱりそのことですね。いいですよ、とすぐに話題を流した。
「……それより」
二百円ちょっとのペットボトルは、もう夜の人質としての役目を終えたのだ。
「ギターもそこにありますが、将吾さん、ギターも弾けるんですか」
「まあ普通にな」
「へえ」
聴きたい。喉まで出かかったその言葉を、図々しいかなと思って飲み込んだ。
あまり物がない部屋は少し寂しい印象がある。
雑談のきっかけは部屋の中にあまりない。ミニマリストなのかな、性格かな、と思って私から話題を出した。
「将吾さんってMBTIなんですか?」
「それ最近なんかよう聞くなあ。知らんけど」
「えっ、ちょっと診断してみてくださいよ」
どこでやるん? と将吾さんが自分のスマホを取り出した。
ロック画面が開かれて、差し出されたスマホを覗き込もうとして、触れた肩に思わず表情を窺った。
「さっきの話」
そんな真剣な顔で声のトーンで、慌てて開けた二センチ横から私を見ないで。
「きみが終電乗り遅れてくれてよかったわ。あの新曲はきみに立ち止まっててもらうための賭けやったん」
だから合図もなしに始めた、と将吾さんは言った。
「光と尋に頼んでん。今日はいつもより一曲分長くライブして──あの子と話すチャンス作りたいって」
ゲリラライブは計画的な反抗だった。
そんなことを言われて嬉しくないわけがない。
欲望に身を任せたくなってしまう。
「……そんなの、言ってもらえてたら、よかったのに」
「ほんとやな。俺もそう思うよ。……コスい手使った」
──最後まで聴いてくれることに賭けた。
そう見つめられて目が離せなくなってしまう。
ひどい男だ。
他にやりようはあったんじゃないか、こんな罠に嵌めてくるだなんて。
「こんなど平日に」
「せやな、けど」
将吾さんが私の頬に手を伸ばした。
ずっと見ていた、弦を弾く弾く指先。
「今しかなかってん」
頬に触れた手のひらの大きさと指先の硬さに、私はその温度に身を任せてしまった。
リビングの奥の寝室のベッドはシングルサイズだった。狭いと思うことなく重なって、将吾さんが私に入ろうとして手に取った物に、ああやっぱり、と少し悲しい気持ちになった。
開封済みの箱から取り出した、未使用の正方形の袋を破りながら「この部屋に呼ぶのは、君が最後や」と言った。
「そうしてください」
それならいい。それが本当で、ずっとならいい。
そうして私は女としての悲願を達成した。
上半身を起こした将吾さんが、スマホを見ながら呟いた。
「あ、俺ESFPらしい」
見せられたMBTI診断画面には、エンターテイナーESFP-Aと文字が並んでいた。
デフォルメのキャラクターがダンスしている画像が表示されている。
「自分はなんだったん?」
将吾さんの足に自分の足を絡ませながら「ISFP」と答える。
「それ俺のと相性いいん?」
「えー、普通じゃなかったっけ……」
残念なことに。私と彼の相性は最高でもなければ最低でもない。
「じゃあ俺変えるわ」
「そんな変えるもんじゃないですって」
そんな変わるものでもないだろう。
画面をスクロールしている彼の胸元に顔を擦りつける。上下する胸元に耳をくっつけてその体の歴史を想像していると、やがて彼はスマホを伏せて、再び私を鳴かせることに興じた。
暗い部屋の中に掛け時計はなくて、その指先にもう体内時計は狂わされてしまっている。
始発に乗りたくない。
共に過ごしたこの夜を、終わりにしたくない。
ずっとこの部屋の中にいたい。
恐怖心を押し込むように、何度も彼の欲望を受け入れた。
「飲みもんほしいよな」
「うん」
将吾さんはシーツの止まった波間から下着を見付けると、ベッド下に落とされていたズボンを素早く纏った。
理性の名残りだった服を一枚手に取って素肌の上にそのまま着る。
「ん」
私だってさっきの飲みかけのペットボトルがあるのに、将吾さんは自分の飲みかけを渡してきた。
キャップの開けられたままのペットボトルを受け取って、同じように流し込む。
「あ」
将吾さんが大きく目を開けた。
「ちょっと思いついた」
そう言って、ペットボトルの蓋を私に渡して部屋の隅のアコースティックギターに手を伸ばした。
「え、歌ってくれるんですか?」
将吾さんは俯きがちに笑って、「そんな大層な感じじゃないけど」と言い、あぐらをかいてアコースティックギターを構えた。
薄暗い部屋の中。裸の上半身でギターを爪弾く、
「んー、あ、こうかな」「こっちかな」としばらく音を立てながら呟いたそれから「よし」と言った。
「聴いてくれる?」
「もちろん」と頷いて、矢継ぎ早に「はい」と是の返事を足す。
「喜んで」
度重なる私の心からの歓迎に、将吾さんは声を立てずに笑うと、深く息を吸った。
それはアルペジオから始まる優しい曲だった。
静けささえも感じるメロディーラインの上に、激情を感じさせる歌詞が乗って、これはラブソングなのだとわかった。
ところどころ歌詞が決まっていないのかハミング混じりになって、甘さの混じる低音にたまらなく胸が締め付けられた。
終わらないでほしい。
リズムに合わせて小さく揺れる体。指の動きに合わせて血管の浮く手の甲。──ずっと見ていたい。
髪の隙間から見える目と、時々伏せられて長さのわかる睫毛。鎖骨のライン。彼を構成する弦のような線。
この曲がたまらなく愛しい。忘れられない。忘れたくない。
なのに、スマホを取り出してビデオで撮ろうとは思わなかった。
「ありがと」
響く余韻を右手で止めて、将吾さんが言った。
終わってしまったことが惜しい。
「ラブソング、なんですね」
ガラスバードにラブソングは少ない。
どちらかと言ったら青春の後悔を歌うような曲が多い。
こんな真っ直ぐなラブソングはなかった。
私の言葉に、将吾さんが「うん」と頷いた。
「今作った。……この夜をイメージして」
終電を逃して、カラオケに行って、初めて重なったこの夜を
「きみのこと考えて歌った」
私との一夜を。
こんな風に形にされると思わなかった。
朝がくればなかったことになってしまうような関係になるかと思って、夜明けがたまらなく怖かったのに。
「…………嬉しい」
「それはよかった、です」
「なんで敬語」
「恥ずいからやって」
私だけじゃなかったんだ。この夜の喜びも、夜明けへの怯えも。
薄暗い部屋の中で二人で笑い合って、空間が休符ばかりとなった。それからカーテンの隙間から光が漏れていることに気が付いた。
スマホで時間を確認する。
午前四時三十分。そろそろ始発も近い。
──この曲を聞いたから、始発に乗るのが怖くない。
「ちょっと明るくなってきた感じしますね」
「開けていいですか」と聞くと「ええで」とすぐに言われた。
勢いよく開くと「うおっ、眩しっ」と将吾さんが目を覆ったので面白かったけれど、そんな眩しくないのでそのまま朝日を浴びる。
寝起きの太陽のまだ柔らかい光が、街を照らしていた。
「あ、通天閣」
窓の外から見えた景色に、口元が綻ぶ。
「この部屋、いいですね」
きっと私はまた、この部屋に来られる。
そう思った。
将吾さんはギターを開いて立ち上がると、カーテンを持つ私を後ろから抱きしめた。
後ろから肩に顔を埋められると、その髪が頬に当たってくすぐったかった。
世界一幸せな夜明けを迎えたと思った。
こんな朝を迎えられるなんて、つい数時間前は思わなかった。
「眩しいって。閉めて──夜が惜しい」
言われて「はいはい」とカーテンを閉める。
再び薄暗くなった部屋の中で、温もりだけが確かだ。
それでもカーテンの隙間から漏れる足元の光に希望を見出していると、私を抱きしめたまま将吾さんが言った。
「解散すんねん、俺ら」
「え」
そう言っていっそう力が込められた腕は、私が振り向くことを許さなかった。
「音楽事務所の人に声かけられてな。俺と光、再来週には東京行くねん」
尋さんは。
名前の挙がらなかったメンバーの名前を、震える声で言った。
「尋は彼女もあるし、こっち残るって。せやから解散。ガラスバードは、あれで終わりやってん。だからあいつらは俺の我儘を聴いてくれた」
ねえ待って、それなら私は?
溢れ出る混乱は、背後からの「それで」の一言に蓋をされた。
「それで……だから最後に、どうしても一緒に過ごしたかった」
「将吾さん」
顔を見たい。
ずっと好きだったその顔を。私に別れを告げるその顔を。
今どんな顔をしてるか見たくてたまらないのに、腕の力を緩めてくれない。
「最後のチャンスってわからなきゃ踏み出せなかった。ズルくてごめん」
時刻表の外に来てやっと手に入った愛だと思った。なのに結局、始発の時間には終わってしまった。
「路上ライブ来たきみが初めて話しかけてきたの俺やったやん。めちゃくちゃ嬉しかった」
「そっか」
「そん時から、好きやった」
「……そんなの」
私も。
返した声は震えていた気がする。ちゃんと届いたかわからない。
遠距離恋愛とか、離れててもとか、そんなこと言うほど幼気でもなかった。
涙を堪えて相槌を打つのが精一杯だ。
「俺の曲を好きって言ってくれて嬉しかった。いつも邪魔んならんよう気にしながら見てんの可愛いて思ってた」
「そっか」
「罠ハマってくれてありがとう」
「どういたしまして」
別れの手順を踏んでるみたいだ、と思って泣きそうになるのを必死で堪えた。
きっと顔を見ていたらうまく返事ができなかった。
「なあお願いなんやけど」
「なんですか」
「ちょっとズルくて嫌なお願いなんやけどいい?」
「今更じゃないですか」
「せやった」
子供っぽく笑うけど、この男はとんでもない策士だった。
それでも罠にハマることで得られる褒美がこんな甘い果実なら、喜んであなたの罠にハマるし、ずっと囚われてたっていい。
「流行のアーティストに気持ちを重ねないでほしい。俺の曲以外口ずさまんとって」
「──わかりました」
きっとそれは、音楽を作る男を愛してしまった女の業なんだろう。そう思うと容易く受け入れられた。
「ほんまに?」
「はい」
「ほんまにいいん?」
「はい。……え、なんでですか?」
「ミセス聴いて感動するなって言ってるんやけど」
「そんなの」
何言ってるんですか、と私は笑った。
「今後私の人生で、あの曲以上に感動する曲なんてない」
あなたが作ってくれたこの曲以上に、好きになる音楽なんてきっとない。
「ただその代わり、お願いがあるんですけど」
「うん。何でも言って」
「もう一回歌ってほしい」
未来を願えなくても、どうか数分を。
「そしたらそれを保存して──……一生大切にするから」
「わかった」
その途端。後ろから私を腕の力が弱まって、放されたかと思うとすぐに顎を上げられてキスをされた。
「一生やで」
塞がれてしまった唇は、これ以上未来の言葉を何一つ紡げなかった。
「めっちゃいい部屋やな」
就職に合わせて借りた新しい部屋で、招いた友人が呟いた。
「エントランス綺麗やったし、駅チカやし。1LDKのこの間取りもええなあ」
そう言って、まだ体に馴染まないマットレスが置かれただけのリビング奥の部屋を覗き込んだ。
「景色も気に入ってん」
私がそう言うと、友人は確かめるわ、と言ってカーテンを開けた。
「おお、通天閣」と言ってそれから「珍しくはないけどな」と再びカーテンを閉めた。
その一連の流れに「それはそう」と笑う。
それから何の気無しにテレビを点ける。
音楽番組のインタビュータイムだったようだった。
「おー最近やたら聴くなあ、このバンドのこの曲」
今から生放送ライブやって。
友人の言葉に、表示された曲名のテロップを見る。
流れたメロディーに、夜明けに聴いたあの歌を思い出す。
「……いい曲やな」
fin.

