「最悪の記念日……」
駅のホームで最終電車の扉が閉まるのも構わず、ベンチに座ったまま何度も涙を拭う。
私のくすんで灰色になった心の中とは対照的に、電車の窓から漏れる暖色の光が暗い夜を優しく照らしながら、すぐに遠く小さくなっていく。
(行っちゃった)
腕時計に視線を落とせば私がこの駅にたどり着き、ベンチに座ってからまもなく二時間が経過しようとしていた。
「……最終には乗るつもりだったのに……」
私がひとり暮らしをする自宅アパートはこの駅から三つ先にある。電車だと十五分ほどだが、徒歩だと軽く二時間はかかるだろう。
だから最終電車には乗らなきゃ行けなかったのにどうしても涙がとまらず、さらには到着した電車の中に乗っている見知らぬ人達の視線が気になり、こうして最終電車を逃すことになった。
(こんなこと……本当にあるんだ)
(記念日に浮気とか……)
まだ現実味は湧かないが、二時間程前、駅近くのホテル前で目撃したのは、間違いなく恋人の高森圭太だった。
(確か隣にいたあの子……経理の榎本さんだったよね)
私はあるお菓子メーカーの企画営業部で働いている。入社五年目で同じ部署であり、同期の圭太と交際して一年が経つ。
社内恋愛ということで、周りに変に気を使われたくなくてお互い交際については社内では秘密にしていた。
──『未果ごめん。急遽、得意先と飲み会入った』
彼から私にそうLINEが入ったのは終業時間間際のことだ。
「なにが飲み会よ……嘘つき」
今日は圭太と交際一年の記念日にちょっとお高めのイタリアンでディナーをする予定だった。
けれど外勤に出て直帰予定の圭太から、そうLINEが入った私は自社製品のお菓子で小腹を満たしつつ、残業をして二十二時頃に会社を退社した。
そして駅まで向かう途中、信号待ちをしていたところ、大通りを挟んだ向かい側のホテルに圭太と榎本さんが手をつないで入っていくのを目撃してしまったのだ。
それだけでも随分なショックだったが、圭太の誕生日に私がプレゼントしたネクタイを着けて別の女性と楽しげにしている姿を目の当たりにして、すごく悲しく憎らしかった。
(朝、出社したときは圭太のネクタイが嬉しかったのに)
(てゆうか、会社の近くで浮気するとか信じらんない)
「最低……っ」
私は唇をぎゅっと結ぶとハンカチを根元に強く押し当てた。
(でも、すごく好きだった)
過去形にしたが現在進行形で私は圭太が好きだ。
この気持ちはすぐには消えてはなくならない。
でもこれ以上、圭太のことで惨めに泣くのは嫌だった。
「……はぁあ……泣くのやめやめ。今夜どうしようか考えるのよ」
自分を奮い立たせるようにそう言葉にしたものの、自宅に帰るしかないのは分かっている。しかしながら本音を言えばこんな夜は到底、一人暮らしの家に帰る気分ではない。
「一人カラオケ……とか寂しすぎて無理だし、ヤケ酒って私、お酒飲めないし。この辺り漫喫もないよね……」
こんなとき地元だったらなと思う。実家も友人の家もあるからだ。でも残念ながら田舎から上京してきた私には、いきなり連絡して急に泊めてくれるような親しい友人はいない。
「帰るしか、ないよね……」
私はぼそりとつぶやくと、ホームの階段を降り、とぼとぼと改札をあとにした。
(タクシー拾うか……)
そう思ったが、すぐにその考えを脳裏からかき消した。
終電が終わったことと、金曜の夜ということもあり、タクシー乗り場に十人ほど人が待っていたからだ。
(給料日前だし、圭太のせいでお金使うのも癪か……)
(運動不足だったし……歩こう。何かしてた方が気も紛れるし)
そう結論づけた私がタクシー乗り場をあとにし、駅前のコンビニ前を通り過ぎた時だった。
「──望月先輩?」
(え?)
聞きおぼえのある声に私が振り返れば、Tシャツにスウェットというラフな格好の若い男の子が手にコンビニの袋を持って立っている。
「し、塩谷くん」
「お疲れ様です」
塩谷智郷君は昨年、入社してきた新入社員で今年二年目の同じ部署の私の後輩だ。
名前の通りの塩顔でセンター分けの前髪にラウンド眼鏡がトレードマークで、またコミュニケーションの高さから社内の皆んなに可愛がられている。
「えっと、一瞬誰かと思った……スーツ姿しか見たことなかったから」
「あぁ、そうですよね。てゆうか、こんなところでどうしたんですか?」
(どうしよう……残業帰りに浮気目撃して泣いて終電逃したとかとか言えないし……)
「ちょっと、用事があって……いまから家帰るとこ」
「え? 望月先輩の家ってここから三駅って言ってませんでした? もう終電ないですよ」
「あ、うん……運動不足だし歩いて帰ろうかなーって……」
「本気で言ってます? こんな夜中に一人とか危ないですよ」
塩谷君は明らかに怪訝な顔をしている。
「なんかありました? てかありましたよね、その顔」
「あー……悪いけどだいぶ今メンタル弱ってんの。とりあえず歩いて帰るから、見なかったことにして、それじゃあ……」
言い逃げしてスピードを上げて歩き出した私を、すぐに塩谷君が追ってくる。
「ちょっと待ってください」
「ついてこないで」
「そんなことできるわけないですよね」
足の長い塩谷君があっという間に私の隣に並ぶ。
「明らか様子おかしい先輩をこのまま徒歩で帰らせてなんかあったら、俺、普通に責任感じます」
「いいよ、責任感じなくても。私も大人だし、ちゃんと気をつけて帰るから」
私の突き放すような言い方に塩谷君が、小さくため息を吐くと眼鏡をクイッと押した。
彼が困ったときにする癖だ。
「あのー、おせっかいですけど……高森さんとなんかありました」
「えっ……、なんで知ってんの?!」
思わず足を止めた私を見ながら、塩谷君が気まずそうな顔をする。
「俺、この近くのアパートに住んでんすけど、随分前にお二人が親しげに歩いてるの見たことあったんで。あ、勿論、誰にも言ってないすけど」
「……そう、だったんだ」
私はふいにこみ上げてきそうになる涙を必死で堪える。
「でも今日でお別れだから」
少しだけ声が震えた。
自分でお別れという言葉を使いながら、さっき見た圭太と榎本さんの姿がフラッシュバックして子供みたいに声をあげて泣きたくなる。
でもそんなことしたくない。
大人として何よりも部署の先輩として、塩谷君の前ではみっともない姿は見せたくない。
俯いた私に背の高い塩谷君の低い声が降ってくる。
「──始発まで猫、見に来ます?」
「え?」
「えっと……望月先輩、猫好きでしたよね。俺、保護猫引き取って暮らしてるんです」
「そう、なんだ」
(それ、どういう意味……ってひとつしか思い浮かばないけど)
正直言って、塩谷君のことを異性として意識したことは一度もない。
私にとって塩谷君は仕事に対しては真面目で、性格は人懐っこく周りに気を遣える可愛い後輩だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「とりあえずの避難所でうち来ますって、聞いてんすけど?」
「えっと、うん。申し出はすっごくありがたいんだけど……さすがに後輩とはいえ、家に深夜に二人きりってちょっといかがなものかと……」
「なんすかそれ。俺が襲うとか思ってます?」
「いやっ、そういうわけじゃないけど……」
「無理矢理そういうことする趣味ないですし、そんなことして職失うとうちの可愛い猫、養えなくなるんで、大いに! 安心してください」
『大いに』のところを強調した塩谷君の言葉に少しだけショックな自分がいた。
(大いにって、ようは女としてみてないってことね、当たり前か)
別に塩谷君に女として見られたい訳ではないし、そもそも私と塩谷くんは五つも年が離れている。
ただ浮気していた圭太のことがあり、自分はそんなに女性として魅力がないのかと、何気ない一言でも落ち込みそうになる。
「……俺、なんか間違えました?」
「合ってるわよ。考えたら塩谷君って私より五個も下だしね、ないわよね色々と」
その言葉に塩谷君が柔らかい黒髪をくしゃっと握った。
「あー、そっちですか。同じ社会人でしょ。俺、恋愛に年とか関係ないですけど」
(いま、なんて言った?)
思わず視線を上に上げれば、塩谷くんの切長の目と目が合って、彼が悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「もっかい言いますね。俺、年上とか年下とか関係ないですよ。だから先輩も恋愛対象ですね」
「はぁあ……」
平然とそんなことを言ってのける塩谷君に今度は私がため息を吐き出していた。
塩谷君は私とペアで仕事をしていることもあり、こうやって私を揶揄うような発言をすることが前からあるのだ。
「そうやって人を揶揄うような事言うの、やめなさいっていつも言ってるわよね」
私がわざと睨んで見せれば、塩谷君がふっと笑った。
「怒らせちゃいました?」
「大人なので全然っ、お気になさらず」
「あはは。やっといつもの先輩っぽくなってきましたね。その調子です」
(あ……)
くったくのない笑顔を見せる塩谷君に、この会話のやり取りも彼なりの気遣いなのだと遅れて気づく。
(……ほんと気が利く後輩よね)
塩谷君の優しさが私のくすんで重く沈んだ心を少し軽くする。
「てことで行き先、避難所でいいですか?」
少し遠慮がちに、そして私の気持ちを最大限に考慮しながら尋ねてくれる塩谷君に私は頷いた。
このまま二時間、暗い顔して時折涙しながら家路に向かうよりも、今夜は気兼ねがない誰かと一緒に居たい。
「じゃあ、お言葉に甘えて猫ちゃん見せて貰おうかな」
「はい。そこの道曲がった先がもうアパートなんで。うちの子、めっちゃ可愛いですよ」
そう言って切長の目を細める塩谷君に私もようやく笑みを返した。
※※
塩谷君が自宅の扉を開け玄関に入るとすぐに出迎えてくれたのは、可愛らしい三毛猫だった。
「にゃーん」
「うわっ、すっごく可愛いっ」
私の姿を見つけた猫は塩谷君の足をすり抜け愛らしい瞳で私を見上げた。私はすぐにしゃがみ込む。
「怖いかな、触っても大丈夫?」
「大丈夫ですよ、人懐っこいんで」
私がそっと喉元を掻いてやれば猫は三日月の形に目を細める。
「来てよかったー、すごく癒される」
「でしょ? うちの子、世界で一番可愛くて癒しの存在なんです」
塩谷くんが膝をついて猫を抱き上げると、ゴロゴロと喉を鳴らして甘え始める。
「女の子?」
「正解です、保護猫なんで推定ですけど三歳くらいらしいです」
「へぇ、名前なんて言うの?」
「あ、名前ですか……」
変なことでも聞いただろうか。塩谷君が眼鏡を鼻に押し当てながら僅かに首を捻った。
「何? 言いにくいの?」
「えっと別に。その……モチです」
「ん? モチ?」
「俺が好きなのが、要はその……《《餅好き》》、なんですよね」
(ん? 望月……あ、餅好きか)
私は一瞬、餅好きを自分の名前に変換したあとで塩谷君の好物が餅だと気づく。
「へぇ、知らなかった。猫ちゃんにつけるぐらい大好きなんだね」
何気なく笑ってそう返した私を見て、塩谷君がプイッと視線を逸らす。
「どしたのよ?」
「いや、なんもないです」
そう言うと塩谷君はモチを降ろすと、玄関から見えているリビングのソファーを指差した。
「その辺座っててください。飲み物入れてきます」
「手伝うよ」
「大丈夫ですよ、望月先輩は何にします? コーヒーか紅茶があります」
「塩谷君と同じミルクティーでいいよ。私も好きだから」
「了解です」
私がミルクティーでと返事をしたのは、いつも社内で塩谷君が飲んでいるのは決まってミルクティーだからだ。
「実は俺、ミルクティー飲もうとしたら牛乳切らしてて、それでコンビニ行ったんですよ」
「なるほど。で、私を見かけたんだ」
「そういうことですね」
塩谷君はコンビニ袋から食パンと牛乳を取り出しながら、ポットでお湯を沸かし始める。
私はソファーに腰掛けると部屋の中をぐるりと見渡す。1DKの部屋は綺麗に片付けられていて、ブラウンの家具で統一されている。
「仕事もきっちりだけど、掃除もちゃんとしてるのね」
「てことは、先輩ん家は散らり放題ってことですか?」
「失礼ね。多少は散らかってるけど、塩谷君が思ってるより綺麗だからね」
「そういうことにしときましょうか」
「ええ、どうぞ」
塩谷君がケラケラ笑うのを見ながら、私はソファーの横の寝床で丸くなっているモチの額をそっと撫でる。
モチは人懐っこく、初めて会ったにも関わらず髭を手に擦り付けるようにして甘えてくる。
「……ほんといい子ね」
手のひらに伝わる小さな温もりがなんだかすごくホッとする。
「あ、塩谷君。保護猫ちゃんって言ってたよね?」
「そうです。友達が保護活動してて休みの日に譲渡会の手伝い行ったんですけど、その日は子猫が多くて……モチだけ里親さんが見つからなくて気づいたら連れ帰ってました」
塩谷君が私に撫でられて、気持ちよさそうにしているモチを優しく見つめる。
「塩谷君らしいね」
「俺らしいですか?」
「うん。前に、迷い猫を見つけて首輪から持ち主に連絡して引き渡ししてたら、遅刻したことあったじゃない?」
「あー、ありましたね。遅刻とか社会人失格ですよね。でもどうしても放っておけなくて」
「優しいよね」
塩谷君は本当に純粋に優しくていい子だなと思う。
「優しさと優柔不断って紙一重っていいません?」
「うーん、それは塩谷君には当てはまらないかな。少なくとも私の中ではね。上手く言えないけど混ざり物がない綺麗な優しさだと思うよ」
偽善でも同情でもなく、綺麗な優しさというのは、持って生まれた素質のようなものじゃないだろうか。
(ん?)
見れば、塩谷君が俯いていて頬がほんのり赤いようにみえる。
「塩谷君? 照れたの?」
「いえ、違います……ポットの湯気じゃないすか」
「そういうことにしておこうか」
「お願いします」
「あはは」
私が思わず笑ったのを見ながら、塩谷君が拗ねたように少し口を尖らせている。
(可愛いな。まだ二十四歳だもんね)
そして私が再びモチに視線を移せば、モチは幸せそうな顔で眠ってしまっている。
「うちも猫ちゃんオッケーの部屋にしとけば良かったな……寂しくないし」
最後の一言は余計だったかもしれない。
少しだけ間があってから台所にいる塩谷君から返事が返ってくる。
「……いつでも会いに来ていいですよ」
「うん。ありがと……」
私は小声でそう言うと、モチを起こさないように手のひらをそっと離した。
「お待たせしました」
塩谷君がソファーの前のガラステーブルにマグカップを二つ、ことんと置く。
マグカップの中からミルクティーのいい香りが鼻を掠めた。
「ミルクたっぷりです」
「頂きます」
私はすぐにミルクティーを一口飲む。
「美味しい……」
ほんのり感じる苦味とミルクの甘い味が口内に広がって、冷え切っていた胃があたたかくなる。
「こんな時間ですしノンカフェインにしときました」
その言葉に壁掛け時計を見れば、時計の針はちょうど深夜1時を指している。
「……ありがとう、ほんと気が利くよね。塩谷君って」
「そんなことないですよ。うち、小さい時に母親が病気で亡くなって、父親が再婚したんですよ。だからなんていうか……変に空気読みすぎなだけなんですよ」
塩谷君はそう言うとソファーには座らず、ガラステーブルを挟んだ向かいの床に胡座をかいた。
「……ソファー座ったら? えと、私の家じゃないのに何だけど……」
「いや、大丈夫ですよ」
「うん……」
それ以上、私は上手く言葉が出てこず、両手の中のミルクティーを見つめた。
塩谷君がコミュニケーション能力が高く、若いのにやけに気が利くのはそういう生い立ちがあるからなのかも知れないと思った。
「……あの、すいません。なんかつい話しましたけど……別に不幸とかじゃないですし、どちらかといえば幸せな環境で大事に育てられたと思うんで」
「うん……それはわかる」
「え?」
「塩谷君が入社してから、この一年半、私が一番塩谷君のことそばで見てたから。塩谷君って得意先に対して目先の利益よりも、相手に寄り添った提案を心掛けてるでしょう。ひたむきで誠実で、きっとご両親に愛されて育ったんだろうなって……」
「…………」
「あ、ごめん。なんか知ったふうに言っちゃって」
「いえ……あの、すごく嬉しいです。先輩にそう言って貰って」
塩谷君は照れくさそうにしながらマグカップに息を吹きかける。そして何度かそれを繰り返してから、そっとミルクティーを口に含む。
「前から思ってたけど、塩谷くんって猫舌だよね」
「あー、こればっかは治んないですね。望月先輩は淹れたてでもガツガツ飲んでていつも凄いなって」
「ちょっと。なんか馬鹿にしてない?」
「いえ、至って真面目ですけど」
「そうかな?」
私がじろりと睨むと場を和ませるように塩谷君はククッと笑って見せる。
そして僅かな静寂のあと、塩谷君が真剣な表情をすると静かに口を開いた。
「良かったら聞きますよ」
「え?」
「高森さんとのことです。始発までですけど」
「あー……うん。でも聞いてもつまんない話だし」
「つまらない事じゃないですよね。少なくとも先輩が泣くほど悲しかったことでしょう」
(やっぱりバレてたんだ。泣いてたこと……)
「勿論、無理にとは言いませんけど……俺、誰にも言いませんので」
「うん……じゃあ……」
私はひと呼吸置くと下唇を湿らせた。本当は誰かに聞いてほしい。
「実は……今日、付き合って一年の記念日だったから食事の約束してたの。でも飲み会入ったって言われて……残業して駅に向かってたら榎本さんと圭太がホテル入ってった……」
塩谷君は真面目な顔をしたまま、私の話の続きを待っている。
「なんか……榎本さんって私より三つ下で若いし、背が小さくて可愛らしいくて……圭太は本当は私とは正反対の女の子らしい子が好みだったんだなって。ずっと……私だけが圭太のこと好きで……」
(やば……泣きそう)
塩谷君がさっとティッシュケースを私に差し出す。
「ごめ……みっともないね」
そう言ってティッシュで涙を拭う私を見ながら塩谷君が首を振った。
「俺は先輩のことみっともないなんて思わないし、女の子らしくないと思ったこともないですよ」
「いいよ……変になぐさめなくても……」
「本当にそう思ってます。望月先輩は仕事に対してはすごくストイックですし、妥協しない。厳しくて真面目でサバサバしてる一方でキャラクターものが大好きとかギャップすごいし、インスタ映えするランチとかケーキとかも興味津々で、そう言うとこ可愛らしいなっていつも思ってて……」
そこまで言った塩谷君が、急に口元を手のひらで押さえた。
「あー、俺、何言ってんだろ」
「ううん。ありがとう……」
私はティッシュで鼻を啜りながら、圭太とのこの一年を振り返る。
そう言えば圭太は私のことを塩谷君以上に知っていてくれただろうか。
私が可愛いキャラクターものを密かに集めていること、おしゃれで映えるお店が好きなこともきっと圭太は知らない。
よく考えたら一度も私が好きなキャラクターについての話はしたことないし、聞かれたこともない。二人の時の何気ない会話も圭太の話を聞いていることが多かった。食事だってお酒が好きな圭太に付き合って居酒屋でご飯を食べることが多かった。もしかしたら圭太に嫌われたくなくて、無意識に合わせていたのかもしれない。
「……圭太より、塩谷君の方が私のことよく知ってるのかもね」
「それはどうかわかんないですけど……まぁ、先輩の言葉を借りたら、俺もこの一年半、ずっと先輩の隣で一緒に仕事してたんで」
「ほんとだね」
この一年、私は圭太と付き合っていて特に不満もなく、幸せだと感じていた。圭太のことがもっと知りたくて隣で見ていたくて、いつも追いかけていた。例え、圭太が同じ気持ちじゃなかったんだとしても。
(……どこが好きだったんだろう)
私はミルクティーの中をじっと見つめる。ゆらゆらと表面が波打つミルクティーは私の今の心の中とよく似てる。
「一年も付き合ってたのに……どこが好きなのかわからないのに、でもすごく好きだった……」
「…………」
どこがどう好きなのかと問われればテストの模範解答みたいには答えられない。
「俺は人を好きになるのに理由なんてないと思いますよ」
「……そうかもね」
「だから……先輩が好きな理由が思い浮かばなくても好きだと思うのってわかります」
塩谷君も同じような恋をしたことがあるのだろうか。いつもよりも低く少し掠れた声でそう話すと、ミルクティーに口付ける。
「……私、月曜からどんな顔して会えばいいのかな……」
(あと榎本さんとのこと、何て切り出そう)
まだ圭太は何も知らない。
このまま見なかったことにして関係を続けることもできるが、そこまで未練がましくこの恋にしがみつきたくはない。でも別れたとして今まで通りに圭太に接することができるだろうか。
圭太と榎本さんを見るたびに、何となく惨めで沈んだ気持ちにならないだろうか。この恋に終わりを告げたいのに、心のどこかで拒もうとするダメな自分もいる。
「……別に先輩がそんな顔しなくても良くないですか。今回の件は高森さんが圧倒的に悪い訳ですし」
「そうだけど。同じ部署だし、毎日会うの正直しんどいし……もう仕事、辞めちゃおうかな」
私は今年二十九歳になる。地元に帰って実家の八百屋を手伝いつつ人生を見つめ直してもいいかもしれない。
「それ、本気で言ってます?」
「結構本気かも。なんか、色々疲れたから」
「幻滅ですね」
「え……?」
マグカップから視線をあげれば、目の前の塩谷君は見たことがないほど怒りを含んだ表情をしている。
「俺は望月先輩のことすごく尊敬しています。仕事への向き合い方も一人の人間としても。それなのに浮気されたからって目の前の仕事投げ出そうとするとは思わなかったです」
塩谷君は早口でそう言うと、マグカップをもつ手に力を込めた。
「新入社員で入ってきた俺に言いましたよね。この会社で沢山の人を笑顔にするお菓子を生み出すのが夢だって。私の仕事は沢山の人を笑顔にできる仕事なんだって」
私は記憶を辿る。確かにそう塩谷君に話したことがあった。
「簡単に手放していいんですか」
(塩谷君……)
「先輩にとって仕事ってそんなものですか」
(私にとって仕事は……)
さっき塩谷君には言わなかったが、私の母も病気で亡くなっている。
病室にお見舞いに行くたびに母が私にオモチャ付きのビスケットをくれたのをよく覚えている。オモチャとビスケットに喜ぶ私を見ながら、母はいつも嬉しそうに笑っていた。私と母の数少ない大切な思い出だ。
だから就職先はそのオモチャ付きビスケットを販売していた今の会社、一択だった。
(ほんと……何やってんだろ私)
私は塩谷君の目を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとう、叱ってくれて」
「先輩?」
「前言撤回。私、仕事辞めない。私にはたくさんの人を笑顔にするっていう夢があるもんね」
塩谷君は私の言葉に安堵の表情を浮かべると、眼鏡を鼻に押し当てた。
「……良かった。なんか俺、つい偉そうに言っちゃってすみませんでした」
ぺこりと頭を下げた塩谷君に、私は慌てて手のひらを振る。
「全然っ。むしろやる気出た。仕事も……圭太のことも」
圭太とはきっちりお別れをして、これからは仕事により邁進しよう。恋が終わったからと言って夢を諦めようとするなんて、一瞬でもそんな考えを持った私は大馬鹿者だ。
「よし! また明日から頑張る」
私がぐっと拳を握れば、塩谷君が笑顔で相槌を打つ。
「望月先輩が少し元気になって良かったです。高森さんのこと、また何かあったら相談乗りますから」
「ありがとね。あっ、そう言えば、前から聞きたかったんだけど、どうして私だけ先輩呼びなの?」
塩谷君は社内で私だけ『先輩』呼びで、他の社員には年上、年下関係なく『さん』付けで呼ぶのだ。
「塩谷君?」
私の何気ない質問に彼の目が泳ぐ。
「それ言わなきゃダメですか?」
「言えない理由でもあるの?」
塩谷君が頬を掻いてから、観念したようにボソリとつぶやく。
「あの俺……不良って呼ばれる時代があって」
「え……っ?! 不良って、その……少年漫画とかに出てくるやつ?」
「……です。ただ、その、警察のお世話になるようなことはしてなくて、何度か家出したりとか田舎だったんで海で仲間と一晩過ごしたりとか……その程度ですけど……」
私は頭の中に塩谷君の不良時代を思い浮かべて見るが、どちらかと言えばインテリっぽく見える今の塩谷君からはとても想像できない。
「……すっごく意外なんだけど。でも、そのことと先輩呼びって?」
「えっとですね。俺、当時、副総長やってて」
「な……っ」
「あー、やっぱそうなりますよね。この話はこのあたりで」
私はしまったと思い、両手を合わせる。
「お願い教えて。気になるじゃない」
「ええっと、じゃあ……」
塩谷君がコホンと咳払いしてから、おずおずと口を開く。
「そのときの総長がめっちゃ情に厚くてカッコよくて……先輩呼びしてたんです。それ以来、尊敬してる人で年上だとつい先輩って読んじゃう癖がありまして」
「嘘でしょ?!」
塩谷君の衝撃的な言葉に私はあんぐりと口を開けた。
「……ちょっと待って、まさか私のこと総長みたいに思ってるの?!」
「いやいや、総長とは思ってないですけど……見た目全然違うし、総長は喧嘩強かったんで」
「ええっと……全然、情報量追いつかないんだけど、もしかして塩谷君も喧嘩も強かったりするの?」
「あー……まぁ空手もやってたんでそれなりですけど。てか、俺の黒歴史について深掘りするの勘弁してください」
塩谷君が恥ずかしそうに大きな身体を丸めている姿が可愛らしくて、私は口元を緩めた。
「なんか……終電を逃して良かったかも。モチにも会えたし、塩谷君の知らない一面知れたし」
「今夜聞いたことは内緒にしてもらえると」
「それはお互いにね」
「あ、確かに」
私たちは顔を見合わせて笑う。
そして空になったふたつのマグカップを持つと塩谷君が立ち上がった。
「もう一杯いれますね」
私が頷くと塩谷君はお湯を沸かしながら、台所に置いていたコンビニの袋を私に差し出す。
「お菓子食べません?」
「えっ? 今から? 私がダイエット中って知ってるくせに」
私が恨めしげに塩谷君を見ると、彼は人差し指を頬の横に立てた。
「なんか夜中に誰かと一緒だと、ま、いっかってなりません?」
「確かに。それはなるわね」
「でしょ? はい、どうぞ」
私は塩谷君からコンビニの袋を受け取る。そして彼が再び台所に向かうのを見ながら、コンビニの袋の中を覗き込むと、思わず歓喜の声をあげた。
「ちょっと! うちの新商品のスターツチップス梅味とノベマンチョコウエハースじゃないっ」
「そうです。我が社の人気商品のひとつである、ノベマンチョコウエハースの新作は先輩の好きなキャラクターとのコラボシール入りですね」
「きゃあ、激アツ! まだ買ってなかったの〜」
「だと思いました」
塩谷君が両手にマグカップを持ってやってくると、熱々のミルクティーを私に差し出す。
「じゃあ深夜の試食会始めますか」
「そうね、今夜はミルクティーで無礼講よ」
「あははっ。じゃあ乾杯」
「かんぱーい」
私たちはミルクティーで乾杯をすると、お菓子の袋を開けた。
※※
「……ん……っ」
カーテンから差し込む光を感じて私は目を開ける。
(あれ……ここ)
見慣れない天井にすぐに起き上がれば、塩谷君のスーツのジャケットが床に滑り落ちる。
「え……これ。いつの間にか、寝てた?」
私はソファーから立ち上がるとジャケットを拾い上げる。見れば塩谷君はガラステーブルの向こう側で丸くなって眠っている。
トレードマークの眼鏡はガラステーブルの端に置いてあり、眼鏡を外した寝顔は年齢より幼く見える。
(起こさないように……)
私はジャケットを塩谷君の身体にそっと掛ける。その時、ガラステーブルにメモが置いてあるのに気づいた。
──『先輩が座ったまま寝てしまったので、ソファーに寝かせましたが、誓って何もしてません』
私は律儀で生真面目なメモに思わず笑う。
(副総長してたとか、やっぱり想像できないな)
私は同じく寝床でまだすやすや寝息を立てて眠っているモチに気付かれないように、鞄からスマホを取り出した。期待はしていなかったが、圭太からの連絡は入っていない。
私はすぐに圭太へのメッセージを作成する。
──『別れよ。榎本さんとどうぞお幸せに。二度と私に話しかけないで』
送信してすぐにブロックすれば、心がすっと軽くなる。
(これでよしと)
朝まで泣いてると思っていた私はどこにもいないことに、自分でほっとする。
(塩谷君とモチのお陰だね)
そして私が鞄にスマホを仕舞うと同時に、塩谷君が目を擦りながらムクっと起き上がった。目と目が合えば、今更ながら気恥ずかしい気持ちが湧いてくる。
「あ……おはよう御座います」
「えっと、おはよう」
「……なんか、変な感じですね」
「そう、ね……。それに気づけば朝というか、もうお昼近いし」
始発で帰るつもりがすっかり長居してしまった。塩谷君が眼鏡をかけると立ち上がる。
「とりあえずミルクティーでも飲みます?」
「あ、私いれるよ」
「え、なんでですか」
「お礼したいなって。あとなんか冷蔵庫にある? ご飯作るけど」
「いいんですか!」
子供みたいな笑顔を見せた塩谷君に思わず笑う。
「あ、すいません。俺、料理苦手でコンビニ弁当ばっかなんで」
「私も簡単なのしか作れないけど。お昼には早いし、そこにある食パンでフレンチトーストにしよっか」
「俺、めっちゃ好きです」
「知ってる、甘党だよね。いつもミルクティーだし、たまのコーヒーにも必ずミルクいれてるしね」
塩谷君が眼鏡を押さえて耳まで赤くすると、口元を手で覆う。
「……ハズいすね」
「どうして? 可愛いと思うけど?」
「あー、それ男は言われて嬉しくないんですけど」
「あはは」
思わず声を上げて笑った私を見ながら、塩谷君が苦笑いをしている。
(不思議……ちゃんと笑えてる)
モチがうんと伸びをすると、可愛らしい声でひと鳴きしてから私たちのいる台所にやってきてご飯をせがむ。
「お、ちょっと待ってな」
塩谷君がモチにご飯を用意するのを横目に私はお湯を沸かす。
「あ。先輩、マグカップそこの使ってください」
「わかった」
私は食器棚からマグカップを取り出すと、紅茶のティーバッグを入れる。
そしてモチが美味しそうにご飯を食べ始めると、塩谷君が冷蔵庫から牛乳を取り出した。
ポットがお湯を沸かす音を聞きながら、私は沈黙を埋めるように、隣に立っている塩谷君に訊ねる。
「ねぇ。ミルクティー好きなの、理由あるの?」
「あー……それ聞きます? 似てるからですよ。苦味と甘味の加減って言うか……」
「ん? なんの話?」
私はお湯を注ぐとティーバッグを揺らし、取り出す。阿吽の呼吸で塩谷君がそのティーバッグを受け取り三角コーナーにポイッと捨てる。
「ええっと……また次、先輩が終電逃したら話します」
「また逃せってこと?」
「それはお任せしますよ。ちなみに避難所はいつでもご利用できますので」
「ふぅん」
そっけなく返しつつも、こんなに楽しくて癒しの時間が過ごせるのなら、また終電を逃すのも悪くないかもしれない、なんて思う私がいる。
私の恋は終電と共に終わりを告げた。
暫くは恋なんて懲り懲りだが、でもいつかまた恋をするのならミルクティーのような恋がいい。
塩谷君がマグカップに牛乳を注ぎ入れると、にこりと微笑んだ。
「はい、ミルクティーどうぞ」
「いただきまーす」
ちょっぴりクセになるような苦味があって、でも全てを包み込んでくれるような優しくて甘い恋。
まるで塩谷くんが入れてくれた、ミルクたっぷりのミルクティーみたいな恋をしたい。
2025.7.7 遊野煌
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