いつか置き去りにしていた春の運命



追い風となる出来事から翌日。
毎朝、目覚まし時計のけたたましい音で、わたしの一日は始まる。

「うーん。懐かしい夢を見たような気がする……」

重たいまぶたを何とか開けて、ベッドの近くに置いている目覚まし時計を止めた。
昨日、戻った記憶をたどり出すと、立ち戻ってしまう光景がある。

隣の病室の男の子。

夢の中の淡く微笑む彼を思い描けば描くほど、強い懐かしさを覚える。

「霧也くん……」

吐き出すようにつぶやけば、火照る身体が休まった。
家の外は朝の光で満ちている。
わたしはカーテンを開けて、そのまぶしさを部屋に取り込んだ。
澄んだ空気をゆっくりと胸に吸い込む。
今日から、待ちに待った新生活がついに始まろうとしていた。

矢坂くんは、わたしを外の世界に引っ張ってくれた。

これから、矢坂くんの弟子として、死神の仕事を手伝うことになる。
ようやく実感が湧いてきた。
置き去りになっていた気持ちが追いついてくる。
新しい季節が巡ってくるように、これから彼とともに大切な日常を生きていく。

死神見習いになれたなんて、まだ、夢みたいだ……。

死神の仕事は、高校の部活動の一環としているようだ。
事前に仕事内容を聞いたけれど、死神の仕事も結構、大変みたい。
朝の支度を終えてリビングに行くと、ダイニングテーブルには朝食が並べられていた。

「おはよう、晴花」
「お母さん、おはよう」

奥の台所から出てきたお母さんが顔を出す。

「朝ごはん、できているわよ」
「……うん。ありがとう」

席に座って、お母さんと一緒に食卓を囲む。
お父さんは今日も、朝早くからの仕事でもういない。
何でも有名なお菓子のコンテストで優勝したお父さんは、洋菓子職人――パティシエとして洋菓子店で働いている。
わたしは小さい頃からずっと、お父さんが腕を振るったスイーツを堪能していた。
きっと、わたしのお菓子好きは、お父さんの影響だと思う。
だけど、最近はいつも仕事に追われて、お父さんとはなかなか顔を合わせることはない。

……少し寂しい。

だけど、その分、お母さんが小さな頃からめいいっぱい、わたしのそばにいてくれた。
朝食を終えた後、スマホで時間を確認する。
電車が来るまではまだ、少しだけ余裕があるみたいだ。
スマホで、ニュースや新作のお菓子情報を眺めながら時間をつぶすことにした。
話題のアニメやドラマ。春のキャンペーン。春の新作のスイーツ。激推しコンビニスイーツ。
興味があるトピックに目を滑らせていく。
夢中になって見ていると、家を出ないといけない時間が近づいていた。

「行ってきます!」

わたしは急いで学校に向かう。
外に出た瞬間、目に映る景色が昨日までと違うことに気づいた。

昨日、矢坂くんのことを思い出したからだろうか――。

春爛漫に似た感覚に胸が高鳴る。
矢坂くんのことを思い出す前と今では、違う世界にいるように感じられた。

「矢坂くんに早く会いたいな」

その名を口にするだけで、愛おしさがこみ上げる。
同時に、恋しいという思いが広がった。
わたしの恋は片思いまっしぐら。
駅に向かう人の流れに沿って、通学路を進む。
電車通学の道のりは、そこまで長くない。
電車に揺られながら、スマホをいじっていると、学校の最寄り駅に着いた。
そこから五分くらい歩くと、学校が見えてくる。
ロッカーで靴を履き替えて、足早に高等部の教室に向かう。

「桃原、おはよう」

一年二組の教室に入ると、隣の席の矢坂くんが声をかけてきた。

「おはよう、矢坂くん」

わたしは思わず、声を弾ませる。
昨日までと違って、矢坂くんの声には親しみが込められているような気がした。
それだけで、今まで凪いでいた心の水面が波立ったのを感じた。

「桃原、詳しいことは放課後に話すな」

矢坂くんは意味深な笑みで、口元に人差し指を当てる。
昨日、話したことは二人だけの秘密だからな。
そんなふうに言われている気がしたから、思わず顔がかあっーと熱くなる。

二人だけの秘密……。

先程の言葉に含められた特別な意味。
矢坂くんの中に、わたしの色があることを、今は少しだけ願ってしまう。
きっと……これからも悩んだり苦しんだりすることがあっても、終わりと始まりを繰り返し、新しい何かを探していくのだろう。

できれば、これからもずっと、矢坂くんの一番近くにいたいと切に思った――。



授業が終わり、放課後になると、とたんに空気がゆるむ。
わたしはこの後、矢坂くんと一緒に死神の仕事をすることになる。
ただ、わたしはその日、日直だった。
教卓には、手つかずの学級日誌が待ちぼうけになっている。
わたしは学級日誌を持って席につく。
いつも備考欄に何を書こうか、悩むんだけど。
わたしは考える前に、そこに一文字目を書いていた。

『今日から、わたしの新生活が始まります。矢坂くんが、わたしの夢を叶えてくれたから』

そこまで書いて、わたしはすぐにぜんぶ消した。

「桃原。日直の仕事、俺も手伝うよ」

背後から矢坂くんが声をかけてきたからだ。

「ありがとう。後は、日誌と教室の戸締まりだけだから」
「分かった」

恥ずかしさをごまかすように、わたしは急いで備考欄に別のことを書き込む。
学級日誌を持ったわたしが教室の外に出たことを確認すると、矢坂くんが教室を施錠する。
そして階段を下り、二人で職員室に学級日誌と鍵を返した。
そのまま、廊下を突き当たりまで歩けば、目的地まであと少しだ。
どこからか、吹奏楽部が演奏するトランペットの音が聞こえてくる。
繊細で高らかなメロディだ。
この学校には様々な部活がある。
だけど、わたしたちの部の特徴は、少し変わっていた。

「ここだ」

先導していた矢坂くんがそう言って、わたしの方を振り返った。
わたしたちが訪れたのは、校舎の外れにある部室。
そこには、矢坂くんが部長を務める『お菓子写真部』がある。
死神の仕事は、公にすると差し障りがあるからという理由で部活動の一環としている。
部員は、先程、入部届けを出したわたしと、部長の矢坂くんの二人だけ。
それでも何とか、部として成り立っているようだ。

実は、矢坂くんは普通の死神とは違う。
『死神パティシエ』っていう、すごい存在だ。

死神パティシエというのは、いわゆる死神とパティシエを合わせたみたいな存在。
死神の役目は生死の審査、そして残された時間を一緒に過ごし、悔いなく逝けるようにすること。
だけど、死神パティシエはそれだけじゃない。
怪我人や病人が出た時に頼られるのもまた、死神パティシエの役割。