いつか置き去りにしていた春の運命

霧也くんはあの日、わたしを救うために重い代償を支払ってくれた。
だけど、そのせいで、霧也くんの人格は完全に消滅してしまった。
あの日、霧也くんが大事にしてきたことすべてが、泡沫の夢として消えてしまった。
それは何も、霧也くんだけではない。
矢坂くんも、矢坂先輩たちも、大切な霧也くんを失ってしまった。

わたしの命を救ったせいで……。
だから、矢坂先輩は、わたしを恨んでいたんだ。

両手が震えて止まらない。
血の気が引いて、呼吸すら、ままならない。
もう、あの頃の霧也くんの夢の中に、思い出に浸り続けるには手遅れだった。
悲しくて仕方がない。
もう、霧也くんと一緒にいられないことを受け止めたくない。
いずれ、記憶の完全な消去とともに、あの時の気持ちが風化して、そのままいつか、彼のことを忘れてしまうんじゃないかと思うと怖い。

頭が真っ白になっていく。
意識が遠のきそうになるのを必死でこらえる。
それでも、目の前が真っ暗になりそうになって――。

「桃原!」

誰かが、わたしの手を強く握った。

「……っ」

わたしははっとして、横に視線を向ける。
矢坂くんが心配そうにわたしを見ていた。
そっか、とようやく状況が頭に入ってくる。
矢坂先輩から、矢坂くんと霧也くんの関係を聞いたわたしは激しく動揺し、取り乱したんだ。

「大丈夫だ。最期の後も、俺たちは桃原のそばにいるからな」

矢坂くんが優しく包み込むように、わたしに目を向ける。
それは泣きたくなるほど、美しい瞳だった。
死んでも死にきれないくらい、温かなぬくもりだった。

「桃原は、俺と霧也に出会うために生まれてきたんだ。俺たちと一緒に、死神の仕事をするために」

その言葉にしがみつくと、わたしはぎゅっと握り返す手に力をこめる。
矢坂くんと同じくらいの強さで。
きっと、同じくらいの強い気持ちで。
その手で、大好きな人たちの存在を確かめた。

「だって、いっぱい話したから。僕の分まで、晴花に幸せになってもらおうって、二人でいっぱい話した」
「……うん。ありがとう……」

真っ先に伝えるべき言葉を、ようやく口にすることができた。

「矢坂くん……まるで霧也くんみたい」

その際に矢坂くんがふわりと浮かべた笑みは、まるで春が具現化したような、温かくて柔らかな春の木漏れ日のようで。
矢坂くんの中に、霧也くんがいるみたいに感じた。

――目を閉じる。

瞼の裏に見える霧也くんの笑顔と、力強くわたしの手を握ってくれた優しさを忘れられるはずがない。
そんなに簡単に忘れられるはずないことくらい、分かっているのに。

それでも、矢坂くんに強く惹かれる。

あの日の事実がなくなったわけじゃない。
間違っているんじゃないかと考えてしまう。
それでも譲れない『今のわたし』がここにいる。

「わたし、矢坂くんのことが好き。誰よりも大好き。矢坂くんのぜんぶが大好き」

顔を上げたわたしは首を振って、心にこびりついたものを振り払う。
時間を巻き戻しても、過去は変わらない。
だったら、それを受け入れるしかない。
それを抱きしめて、『今の彼』を大事にしたい。

矢坂くんと霧也くんのおかげで、わたしは未来に希望を感じることができている。
あの春の日、あなたたちがわたしを見つけてくれた時から、瞬く間に世界は色づいた。
あなたたちが背中を押してくれるだけで、絶望しかけた気持ちが、どこかに吹き飛んで行ってしまう。
わたしはわたしらしく、どこまでも矢坂くんが大好きだ。

「浩二、霧也……」

そんなわたしたちを、矢坂先輩は不服そうに見つめている。
その様子を見守っていたカイリさんは改めて、非情な宣告をした。

「お主の事情は分かっている。『ヴァルト・メゾン・ショコラ』の対価で、弟を救いたいのだな。矢坂霧也が消滅してから、だいぶ時間が経っているが、『ヴァルト・メゾン・ショコラ』の対価による奇跡で救うことはできるだろう。だが、『ヴァルト・メゾン・ショコラ』の対価で、救うことができる者は一人だけだ」
「結局、俺をこの場に呼んで、言いたいことはそれかよ!」

カイリさんの変わらぬ宣言に、矢坂先輩は怒りの矛先を変える。

「それに浩二と霧也は、おまえの息子だろう! 他人行事な言い方をするな!」
「……確かに、すべての元凶はわしにある。『ヴァルト・メゾン・ショコラ』の対価で救う者は、お主らに委ねよう」

矢坂先輩の表情が沈みきる前に、カイリさんは掬い上げるようにつけ加えた。

「ただし、救えるのは一人だけ。ヘルスイーツは、プラシーボ効果を最大限に活かしたお菓子だ。お主らが抱いた願いの中で、もっとも強い願いを叶えてくれるだろう」

驚くわたしたちを見据えて、カイリさんが告げたのは急転直下が過ぎるものだった。

「もっとも、強い願い……」

カイリさんの言葉は、あまりに予想外で衝撃的なもので。
置いていかれそうになる中、どうにか理解が追いつく。

「お主らよ、『ヴァルト・メゾン・ショコラ』を食べながら願うがよい。お主らが一番、叶えたいことを」

カイリさんに促されて、わたしはおそるおそるテーブルへと足を進める。
公園の広場には、キッチンカーとテーブルが設置されていた。

「あ……」

テーブルの上に視線を向けると、そこには手作りとは思えない出来映えの美しいショコラがそびえ立っていた。
世界に一つしかない希少なカカオを使ったショコラ。
その合間に黒のキャンドルホルダーに可愛らしい猫の置物が飾られていて、目でも楽しませてくれる。