いつか置き去りにしていた春の運命

「とにかく、これを食べたら、坂井くんを救うことができるのですね?」
「はい!」

声を出して確認する岩見沢先輩に、わたしはこくこくとうなずいた。

「……あっ、おいしい」

おそるおそるオムレットを一口食べた岩見沢先輩は、すぐに二口目と頬張る。
月光をたっぷりしみこんだ生地が食べられるのを待っているように光をこぼしていた。
優しい甘さが、絶妙な味わいをもたらしたと言わんばかりに、岩見沢先輩は一口一口と味わうように食べていく。

「これは……やみつきになりそうな味ですね」

食べ終わった岩見沢先輩は噛みしめるように、柔らかな笑みをこぼした。

「分かりました。約束どおり、お菓子写真部の『ヘルスイーツ写真展』の開催、全面的に協力しましょう」
「わあっ! ありがとうございます!」

岩見沢先輩の宣言に、わたしの顔がぱあっと明るくなる。

「ただし、本当に坂井くんが目を覚ましたのか、確認してからになります」
「ああ、分かった」

念を押すように言う岩見沢先輩に、矢坂くんはうなずいた。



さらに翌日の土曜日、わたしたちは病院の近くにあるバス停の前にいた。
あの後、昏睡状態だった坂井先輩が目を覚ましたという噂が学校中を駆け巡った。
それでも、実際に会わないとはっきりとしたことは分からない。
そう提案してきた岩見沢先輩たちと、病院の近くにあるバス停の前で待ち合わせすることにしたのだ。

「双葉さん……」

視界に入るのは町一番、大きな病院。
坂井先輩が入院している病院は、双葉さんが入院していた病院と同じだった。
双葉さんは、矢坂くんからこれまでの事情を聞いている。
カイリさんが長年、求めているヘルスイーツの最高峰、『ヴァルト・メゾン・ショコラ』は一つしか作ることはできない。
あの日、わたしたちに突きつけられたのは、あまりにも非情な現実だった。
でも、双葉さんはその話を聞いた上で、一つの決断を下していた。

『私、なにがなんでも生きたいって思った。だけど、大切な桃原さんのお父さんを失ってまで生きたいと思わない。それなら、このまま成仏した方がマシ……』

わたしはその言葉を矢坂くんから聞いた時、悲しみに押し潰されそうになった。

お父さん、双葉さん、良夜くん。

みんな、かけがえのない大切な存在だ。
それなのに、誰かが助かり、誰かが死ぬ運命にある。
あんまりだと思った。
恐らく、今もあの病室で、双葉さんはただ、静かに現世との別れを待っている。
再会の約束をしたはずなのに、結局、その約束は守れなくて。
でも、これではダメだとわかっているのに、それ以上の方法が思いつかなかった。
ただ、無力感だけが降り積もる。
思考は渦になり、答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。

――そんな時だった。
その不可解な現象に気づいたのは。

異変の発端は、スマホに表示されている日時をふと見た瞬間。

「あれ? おかしいな。岩見沢先輩が乗ったバス、もう着いてもおかしくない時間なのに……」

わたしは時刻表を確認して、不思議そうに首をかしげた。

「確かにそうだな」

藤谷くんもバスが来るはずの方向を見やり、不安を吐露する。

「…………」

矢坂くんだけは顔を伏せたまま、何も言わなかった。
ただ、心苦しそうに肩を震わせている。
その反応が、すべてを物語っていた。

「……っ」

わたしははっとして、バスが来るはずの方向へと一目散に駆け出した。
胸に生まれた予感は事実。
その予感どおり、その先で待ち構えていたのは、悪夢のような光景だった。
バス停付近で、トラックが横転している。

衝突事故。
バス停に列を成している人たちのところに、トラックが突っ込んだのだろうか。

周囲の人達がざわつき、多くの人達が現場へと引き寄せられていた。

一刻を争う状況。
千紗ちゃんの死を漠然と思い出させる光景。

今すぐ、岩見沢先輩に会わないといけないような気がする。
言いようのない胸騒ぎに押されるように、わたしは血相を変えて飛び出していく。
焦りと不安が無茶苦茶に絡まり合い、わたしは弾かれたように、騒然とする人の波をかき分け――そして、目にした。

「あ……」

見覚えのある明るい栗色の髪の女の子が、倒れているのが目に入る。
そこにあるのは目を背けたいほどの光景で、しかし、紛れもない現実だった。

「岩見沢先輩!」

わたしは想いをこらえきれなくなって、血まみれの岩見沢先輩に駆け寄る。

「あ……桃原さん。約束、守れなくて、ごめんなさい。でも、写真部のみんなには伝えているから、力にはなれる、と思います……」

わたしの存在に気づいた岩見沢先輩が、ぽつりぽつりと心情をつぶやく。

「……桃原さん。あたしは、坂井くんのこと、諦めたくないのですよ」

溢れる感情のままに、涙がぽろぽろとこぼれて落ちていく。
それと同時に、ぽつぽつと空から雨が降り出してくる。

「坂井くんの隣にいたい。初めて出会った時からずっと……あたしは、坂井くんのことが好きですよ……」

嫌だ、死なないで。
それ以上の言葉が見つからなかった。

「坂井くん。どうか、もう少し……もう少しでいいから、あたしのこと、もう一度、見てくれませんか……?」

あの人が好きだった。
こうなることは分かっていたのに、どうして恋をしてしまったんだろう。
そう言いたげに、岩見沢先輩は虚空に手を伸ばしていた。
誰もいない虚空を。