いつか置き去りにしていた春の運命

「晴花、落ち着いて聞いてね。お父さんはね、もうすぐ死んでしまうかもしれないの」

わたしの表情が雲ったことに気づいたのだろう。
お母さんはすぐさま、明るい表情で言った。

「でも、安心して。お父さんはね、今、カイリさんが長年、求めているヘルスイーツの最高峰、『ヴァルト・メゾン・ショコラ』を作ろうとしているの」
「ヴァルト・メゾン・ショコラ……」

お母さんはじっと、わたしたちを見つめていた。
わたしたちが恐れのような、戸惑いのような、何とも言えない表情を浮かべていることに気づいたのだろう。
事実を噛みしめるように、お母さんの瞳が潤み、涙が一筋、頬を伝った。

「そのヘルスイーツを交換条件として提示すれば、カイリさんがそれを対価として、死の運命からお父さんを救ってくれると約束してくれた。でも、必要な材料がなかなか揃わないの。『世界に一つしかない、特別なカカオ』を使わないといけなくて、製作に難航しているのよ」
「世界に一つだけしかない、特別なカカオ……」

その事実は、今までのどの言葉よりも、わたしの心に突き刺さった。

わたしたちもまた、双葉さんを救うために、ヴァルト・メゾン・ショコラ作りに励んでいたから。
もしかしたら、藤谷くんの弟、良夜くんも、その方法で救えるかもしれない。
そう思っていたけれど。

世界に一つだけしかない、特別なカカオ。
ヴァルト・メゾン・ショコラを作るには、その材料が必要不可欠。

つまり、それは救えるのは、『たった一人』だけということだ。
お父さん、双葉さん、良夜くん、その中で一人のみ。
みんな、大切な存在だ。
それなのに、誰かが助かり、誰かが死ぬ運命にある。
決められた死の運命を受け入れ、従うしかないなんて。
そんな選択肢なんてなかった。
自分の無力さに、絶望しそうだ。

怖い。
誰か助けてほしい。
みんなを救う方法を教えてほしい。
これからどうなるのか、不安しかない。
結局、何もかもが振りだしに戻ったような状態だった。

そんな時だった。
矢坂くんの声が聞こえてきたのは。

「……桃原、ごめん。情報不足だった。まさか、ヴァルト・メゾン・ショコラを作るのに、世界に一つだけしかない、特別なカカオが必要だったなんて……」

矢坂くんの声は、どこか思い詰めた響きがあった。

「それでも上位の死神なら、決まりごとやルールの縛りは少ない。一度、カイリに会ってみる価値はある」

繰り返される生死の中、失われる命と助けを求める声。
それらと向き合い続け、矢坂くんは自らの望みを口にする。
それはわたしにとって、未来への希望の光だった。
わたしたちの表情が、硬く強ばったことに気づいたのだろう。
お母さんは涙を拭い、少し困ったようにはにかんでみせた。

「ごめんね、晴花。お父さん、死神のカイリさんから、そのお菓子の詳しい作り方などを聞いているんだけど、なかなか難しいみたいなのよ」

お母さんの笑顔に、わたしはきゅっと唇を噛みしめる。
これは、お父さんとお母さんにしてみれば、降って湧いたような幸運だ。
だけど、わたしたちにとっては、非情な現実そのもので。
考えを巡らせれば、心の中に嵐が吹き荒れるみたいだった。
このままじゃいけないという確信はあるのに、具体的に何をすればいいのか、全く分からない。
それでも、わたしは何かをしたかった。

「ねえ、お母さん!」
「なあに?」

お母さんが首をかしげると、わたしは飛びつくような勢いで言い募った。

「わたしたちも、ヘルスイーツの最高峰、『ヴァルト・メゾン・ショコラ』について知りたいの。カイリさんに会えないかな?」
「難しいと思うわよ。カイリさんは、普通の人間には見えないから」

お母さんの懸念に、矢坂くんは補足するように言い足した。

「俺たちには知り合いに、死神パティシエがいます。その点は問題ないと思います」
「……分かった。お父さんに相談してみるわね。6月から8月までは閑散期だから、お休みも取りやすいと思うし」

お母さんは穏やかに微笑んで、壁にかけられたカレンダーを見やる。
梅雨が始まる6月頃から夏場にかけては、暑い時期のせいでケーキなどの需要が低くなる。
そのため、洋菓子店への客足も少なくなり、売り上げはなかなか上がらない。
その時期のことを、洋菓子業界では『閑散期』と言っている。
この時期は、パティシエにとって、比較的ゆっくりとした時間となり、長期休暇を取ったり、知識や技術を磨く人もいるらしい。
お父さんのお店も、今は閑散期。
でも、刻一刻と死が迫っている状態。
だから、カイリさんにヘルスイーツの最高峰、『ヴァルト・メゾン・ショコラ』のことを聞いたり、死神の仕事を手伝っているのだろう。

「お母さん、ありがとう」
「ありがとうございます」

わたしがそうつぶやくと、矢坂くんは深く頭を下げる。
しばらくの間、ティータイムを過ごした後。
矢坂くんが家に帰る頃はもう、日が沈む間近だった。

「矢坂くん、今日は遅くまでごめんね。ありがとう」
「あまり、役に立てなくてごめんな」

わたしの感謝に、矢坂くんは申し訳なさそうに言う。

「ううん。矢坂くんがいてくれたから、お母さんにお父さんのことを尋ねることができたの……」

それを伝えるだけで精一杯だった。
すぐに、まぶたは限界を迎える。

「でも、たった一人しか救えないなんて……。わたし、お父さんも、双葉さんも、良夜くんも、みんな、救いたい……」

涙が溢れ出して止まらない。
目の前に立っている矢坂くんの姿が滲んで消えてしまう。