いつか置き去りにしていた春の運命

*

「今日はもう遅い。桃原、家まで送るな」

お父さんたちを見失った後、矢坂くんが傘を差し出してそう切り出した。
見れば、藤谷くんも、わたしを見て心配そうにしている。

「……うん。ありがとう」

涙を拭うと、わたしは消え入りそうな声で答えた。
漠然とした不安が襲いかかる。
家に帰れば、お母さんからお父さんのことを聞くことができる。
頭ではそう分かっていても、簡単には割り切れなかった。
わたしは思わず、泣きそうになってしまったけれど。

「桃原、大丈夫だ。そばにいるからな」

矢坂くんは優しく包み込むように微笑んでくれた。
まるで、非情な事実の後に差し込んだ希望の光のように、心がぽかぽかと温かくなる。

……そうだ。
この感じ、覚えている。
よく、病室でこんなことがあった。
わたしが寂しくて泣きそうになった時に、矢坂くんはいつも来てくれた。
矢坂くんは、今も昔も変わらない。
その優しさには深い感謝しかなくて、火照るように胸と目頭が熱くなった。

「矢坂くん、お願い!」

言葉に力がこもる。

「今日、お母さんに、お父さんのことを聞こうと思っているの。お願い、お母さんと話す時、そばにいて」

話を聞くということは、わたしの家に行くことになる。
部活帰りの遅い時間に行くことに、矢坂くんは少し躊躇っていたみたいだけど。

「……分かった」

そう言って、矢坂くんはしっかりとうなずいてくれた。
だから、わたしも嬉しくなって、やっと矢坂くんたちの前で笑えたんだ。

「桃原、行こう」

その言葉が優しく、わたしの背中を押す。
わたしは矢坂くんの傘に入れてもらって、そのまま家に向かって歩き始めた。

*

「ただいま」
「晴花、おかえりなさい」

ドアを開けると、お母さんが出迎えてくれた。

「あら? 傘は?」
「風で飛ばされちゃって……。ここまで、矢坂くんに入れてもらってきたの」

わたしの返答に、くるりと視線を巡らせて、隣に立つ矢坂くんを捉える。
すると、お母さんの表情がきらきらとほころんだ。

「もしかして、晴花の彼氏?」
「ふええ……!?」

お母さんの思わぬ不意打ちに、わたしはたじたじになる。
わたしがテンパっていると、矢坂くんはぺこりと頭を下げた。

「初めまして。桃原さんと同じクラスで、彼女が所属しているお菓子写真部の部長の矢坂浩二です」

矢坂くんの挨拶に、お母さんはあらあら、と嬉しそうに笑みを深める。

「そうなのね。いつも、晴花がお世話になっています。雨、すごかったでしょう。良かったら、上がっていって」
「ありがとうございます」

お母さんに案内されるまま、矢坂くんは玄関で靴をぬいで、リビングに向かう。
わたしたちが席につくと、お母さんがトレイにお茶とお菓子を乗せて、ダイニングテーブルに並べる。

何だか、緊張する。
ふと考えてみれば、この状況って、大好きな人を自分の家に招いたってことになるんだよね。

出した答えを確かめるように、わたしはリビングの窓から外を見る。
空には、先程まで降り続いた雨を忘れてしまったかのような夕焼け空が広がっていた。
でも、夕焼け空は見えているのに、心は空にない。
先程まで不安が膨らんで絶望していたのに、いつの間にか心は矢坂くんでいっぱいで。
ずっと頭がふわふわして、表情も情緒も管理できない。

不思議な気分だ。
どんなにつらい現実に直面しても、矢坂くんはいつも、わたしの心を救ってくれる。

そう実感していると、矢坂くんはちらりとわたしを見た。
こくりとうなずくと、わたしはお母さんへと向き直った。

「お母さん、聞きたいことがあるの」
「どうしたの? 改まって」

真剣なわたしの様子を見て、席についたお母さんは不思議そうに首をかしげる。

「今日、お父さんを見たの。死神らしい男性と一緒にいた。それに……以前も同じような光景を見たの」
「死神……」

わたしの言葉が何を指しているか、お母さんは言われて察したのだろう。
だけど、矢坂くんをちらりと見て、その先を口にすることを躊躇う。

「矢坂くんは、その、死神のこと、知っているから大丈夫だよ」

その視線に気づいたわたしは、しどろもどろになりながらも答える。
うまく伝えられなかったけれど、その言葉を聞いて、お母さんはほっと胸を撫で下ろしたようだった。

「……そう。カイリさんに出会ったのね」
「お母さん、カイリさんを知っているの?」

わたしは思わず、身を乗り出す。
その反応も想定どおりだったというように、お母さんの表情は変わらない。

「ええ。お父さんが、パティシエを志した理由。それはカイリさんの弟子、死神見習いになったからなの」
「死神見習いに……?」

お母さんが語る事実が、ゆっくりとわたしの中で弾けていった。

「お父さんの作るお菓子は、普通の洋菓子だけじゃない。『ヘルスイーツ』と言って、みんなを幸せにするお菓子を作っているのよ」
「ヘルスイーツ……」

その事実は、すんなりと胸にすとんと落ちてくる。
わたしが思っていた以上に、お父さんはたくさんのものを背負っていた。
たくさんの人たちを、お菓子で幸せにしていたんだ。

『晴花。お菓子は、みんなを幸せにするんだ』

パティシエのお父さんが作ったお菓子は、みんなを幸せにした。
だから、わたしも、そんなすごいお父さんのようになりたい。
ずっと、そう思っていた。
ずっと、そう願っていた。
でも今、わたしはお父さんと同じ道を……死神見習いとして、ヘルスイーツ作りと死神の仕事に関わっている。
そう思うと、今まで悩んでいたことが否定でも肯定でもなく、受け入れることができた。